ぼくを、ころしてください。
このせかいから、ぼくを。
ぼくをけして、ください。
―――まっしろに、なりたい………
僕を見つめる君の瞳は、決して壊れてはいなかった。正気だった。狂気の中に在るただひとつの正気。そして僕も。君の瞳に映る僕もやっぱり狂ってはいなかった。
「貴方が好きです」
君は手を伸ばして、僕の指にそれを絡めた。ひんやりと冷たい指先。凍えて冷たいその指先に、僕はそっと舌を這わした。ひとつひとつ指を口に含んで舐める。
「でも認めたくなかった…それだけは認めたくなかった……」
「僕が君の母親を殺したから?」
「…いいえ違います…違うんです……」
ぽたりとひとつ、君の瞳から涙が零れ落ちた。それはとても。とても、綺麗で。綺麗だったから今。今この瞬間にその涙ごと奪い去りたいと思った。叶わない望み、なのだけれども。
「―――貴方を好きだと気付けば…僕はもう戻れなくなる……」
「戻る?何処に戻るというんだい?君には初めから居場所なんてなかったのだろう?」
皆の輪から一人外れ、何時も人と違う場所にいた君。けれどもそこですら君には居心地の悪い場所だっただろう。この自分の唯一の居住空間にすら、居場所が無い君に。
「…何処にもない場所に僕はいることで…現実から目を反らしていました」
「…紅葉?……」
「僕は『ここ』にはいないんだと思うことで、全ての事から逃げてました。全ての事を他人事にして僕は、僕は傷つく事から全てを護っていたんです。でも」
「でも?」
「貴方は『他人事』に出来ない」
君の手が僕の頬に触れる。その手を奪い取って強引に僕は、唇を塞いだ。君は…拒まなかった……。
剥がれ落ちてゆくのが分かる。
ひとつ、ひとつ、剥がれてゆく。
僕の殻が、剥がれてゆく。
剥がれて、壊れて。そして。
そして剥き出しにされるちっぽけな魂。
貴方が、好きです。多分初めて出逢った時から。ずっと、ずっと好きでした。閉じ込められた記憶の中で、それでも僕は貴方の面影をずっと追っていたのです。
「僕は剥き出しにされる…僕は護るものが何もない…」
僕は母親に依存していました。何もなかったから、何も持ってはいなかったから。母親に必要とされると思うことで、僕は自分自身の存在意義を作っていたのです。
そう、僕は何時も。何時も誰かに必要とされると思い込む事で、自分自身の生きる理由にしていたのです。
―――でも。でも、本当はそこには何も生み出しはしないのに……
「…でも貴方は決して僕を護るとは云わない…それを貴方は云って欲しくはない……」
初めて自分自身に存在意義を見付けた瞬間。それは貴方と一緒にいたいと、思った事でした。でもそれは幼い記憶に閉じ込められ、唯一見付けた筈の意味すらも奪われました。
「云わないよ、紅葉。そんな事で僕は君を手に入れたくはない」
そして再びその事に気付いた時は、僕は『依存』する以外に生き方を見出す事が出来なくなっていました。貴方を好きだと云う事実が僕を支配すれば、それだけにきっと捕らわれるでしょう。貴方に護られたならば、僕は。僕は自我すら捨てて貴方の腕の中へと逃げ込むでしょう。それが。それが、本当に…本当に『愛』と呼べるものなのでしょうか?
「…如月さん……」
「ぼろぼろで何もない君。護る術すらない君。今ここで君を抱きしめ、そして僕だけのものにしたら。したら君は何も残らない」
―――ああ…貴方はやっぱりそう云う…そう云うと思っていました…そう云って欲しかった……
「確かに文字通り、君を僕だけのものに出来るだろう…でも…僕が欲しいのは……」
「そんな君じゃない」
壊れた君を、腕に抱いて。
そうして得られるものは何なのか?
ただの自己満足以外に、一体。
一体何が残ると云うのだろうか?
それは、愛なんかじゃない。想いなんかじゃない。
ただの。ただの自己愛。
「空っぽの君はいらない。今の君は、欲しくない」
―――貴方が、好きです……
「全てを思い出して、そして君自身を見つめ直して」
―――そう云う、貴方が好きなんです……
「何かを得られたら…その時は……」
―――そんな貴方だから僕は…
「迷わず君を奪うよ」
貴方と向き合うのが、怖かった。
貴方にどうしようもなく、惹かれた。
多分僕は、僕はこころで叫んでいた。
―――変わりたい、んだと。
生まれ変わりたいんだと。けれども。
けれどもここではない所へゆくのが怖かった。
違うモノになるのが怖かった。
剥き出しにされて、真実と向き合って、そして。
…そして自分が何もないと気付くのが…怖かった……
…今の僕は…何も持ってはいなかった……
君に告げた言葉は、そのまま僕に反射する。そのまま僕自身へと向けた言葉だ。僕は何も持ってはいない。僕自身何も無いんだ。君に告げながら、それは。それは僕自身にも告げている言葉。
「僕は初めて逢った時から、君に執着していた。君が欲しかった。子供の僕の心には君だけで埋まっていた」
血、真っ赤な血。どろどろの血の海。君の母親を刺した。何度も、何度も、刺した。ただ君のことだけを考えながら、その身体を何度も何度も。息が途切れて冷たくなっても。血がからからに乾ききっても、僕は無表情で君の母親を刺していた。
「これが飛水流の後継者たる血の因縁なのか…それとももっと別のものなのか分からない…。でも僕は本当にそれ以外の事を全て忘れてしまったんだ」
―――君が欲しい、と。その笑顔を自分だけのものにしたいと。その想いだけが支配して、そして。それだけに僕はなった。
「だからその想いを消された時僕は…僕は何も無くなった」
その想いを消された瞬間、僕はただの入れ物になった。執着したもの全てが奪われて、そして。そして心はただ砂漠のように乾ききって。
「それでも君と僕が違ったのは…君が全ての物を拒絶することで、生きる術を見付けたことに対して僕は…。僕は全ての物を諦めたんだ」
乾ききって干からびて。そして。そして、無になる。何も感じなくなる。ただそこに広がる全てのものに諦めきって、ただ流れてゆくのを見ているだけ。
「諦める事で、他人事だと思う事で生きてきた。自分の周りのものは全てただ消費される為だけに存在していると。ただ消費する為だけに在るのだと。そして僕はその消費される事事体にすら興味がなくなっていた。ただ通り過ぎる時間を風景のように見ているだけだった」
心が凍るとか、閉ざされるとか、それとも違うものだった。それ事体がなかった。起因も原因も、何も空っぽになっていた。
「君が居場所がないと気付いたのは…僕は居場所すら必要ないものだと思ったからだ」
「―――如月さん……」
君の目が僕を見つめる。ああ、綺麗だね。君は綺麗過ぎて哀しい。その純粋さと無垢さは何処から来るものだろうか?君が空っぽだから?君が何者にも染まらなかったから?
―――だからそんなに綺麗で、こんなに哀しいのか?
「如月さん、貴方は…貴方は……」
そして瞳から零れ落ちる涙は…だから何よりも美しいのか?
探していたものは、君。
君だけを探し続けていた。
あの時の執着のまま。
記憶を消されたまま。
消えた中で探し続ける君の面影。
そして。そしてその面影は止まったまま。
止まったまま、なんだ。
「…僕と云う名の幻想を探していたんですね……」
そして僕も。僕も多分。
多分貴方と云う名の理想を。
理想を何処かで探していた。
僕の全てを埋めてくれる。
僕の全てを満たしてくれる。
そんな『貴方』を、探していた。
――――淋しい子供が欲しがるもの…それは愛情………
向き合って、そして。
そして見出したものは。
そこに見付けたものは。
互いの幻。互いの幻想。
欲しくて手に入れたい、都合のいい。
都合のいい、幻。
けれども僕等は生身の人間で、理想でも幻想でもなく。
そこに、存在する人間で。そして。そして僕等は。
僕等は何も持ってはいないただの空っぽの存在だった。
「僕を、殺してください」
「―――紅葉……」
「今までの僕を殺してください」
「…紅葉……」
「そして貴方も…殺してください……」
まっしろに、なる。
ほんとうにまっしろに、なる。
そうして、ぼくをころして。
あなたをころして。
ぜんぶ、ころして。もういっかい。
もういっかい、むきあってうまれかられるなら。
「ああ、紅葉…そうだね……」
さようならと、僕は云いました。
貴方はそんな僕に微笑いました。
優しく、優しく、微笑いました。
―――そして、云いました。
さようなら、と。
もしかしたら僕等はこれから二度と逢えないかもしれない。
もしかしたらすぐにまた逢えるかもしれない。
それは。それは誰にも分からない。けれども。けれども。
もしも僕等が本当に『幻影』でない互いの存在を愛したならば。
本当に愛していたならば、必ず。必ず、もう一度。
もう一度、ふたり互いを探し出すだろうから。
ふたり、ゆびをからめて。
もういちどだけ、きすをして。
そして。そしてたがいのきおくを。
――――すべて、けした。
さようならと云う言葉だけが、ただゆっくりと胸に染み込んだ。
End