DOLL・1


――――貴方をこの腕に、沈めたい。

「……やっと…見つけた………」
冷たいコンクリートの床にしゃがみ込んで、京一はその細い手を取った。透明な程白いその腕は、哀しい程に華奢だった。
「……帰ろうぜ…壬生………」
京一はそう言うと座り込んだまま動かない壬生を抱きしめる。自分の腕の中にすっぽりと収まってしまう彼の肢体は、ひどく冷たくて。
「……俺と、帰ろう………」
「……帰れない………」
抱きしめる京一の背中に腕を廻して、彼は微笑う。その表情はどこか、幻のようだった。
「―――壬生?………」
「ごめんなさい、蓬莱寺。僕は帰れない」
壬生はそう言うと、京一の身体から手を離す。そして京一の髪に指を絡めると、彼の唇に口付けた。それはすぐに触れて離れたけれども。京一にはその壬生の冷たい唇の感触が、忘れられなかった。
「―――さよなら、蓬莱寺」
「何でだ、壬生?やっとお前を迎えに来れたのに」
「ありがとう、貴方の行為は嬉しかった。でも僕は駄目なんです」
「何故だよっ?!」
「駄目なんです、僕は。ここから出られない」
そう言ってまた、彼は微笑う。それは心底幸福そうな笑顔で。そして、京一が今まで知らなかった壬生の顔だった。知らない顔だった。
「ごめんなさい、蓬莱寺。もう帰った方がいい」
「どうしてだ壬生?そんな事をしたら、もうお前は二度と帰れねー」
「いいんです。これでいいんです。お願いだから…もう………」
「……壬生?………」
「……帰って…ください……」
京一には壬生の言葉を拒否する事が、出来なかった。出来る筈が、無かった。その瞳を見てしまったら。吸い込まれそうな程漆黒の夜の瞳を。
「…分かった、壬生。今日は帰る。でも俺は諦めねーからな……」
「――――」
「必ずお前をここから連れ出してみせる」
そう言い残して京一はこの場を去る。来た時と同じように、冷たいコンクリートの上を歩きながら……。

冷たい部屋、だった。室内の明かりは鉄格子の窓から覗く、細い太陽の光だけだった。そんな部屋に壬生は閉じ込められた。何も知らない壬生を、不当な力は奪うように連れ去り、そして何もないこの部屋へと閉じ込めた。
―――でもそれは。自分に今までにない幸福を、与えたのだった。

夢よりも、希望よりも、目の前にある現実が欲しい。

「……壬生は、戻って来ないよ…きっと……」
戻ってきた京一を迎えたのは、彼にしては珍しい程に冷静な龍麻だった。いつもならこんな時、真先に食いついて来る筈の彼が。
「何でだよ?ひーちゃんがそんな事を言うんだ?!」
京一には龍麻の言葉が信じられなかった。何よりも壬生の開放を待ち望んでいたのは、他でも無い龍麻なのに。けれども彼は至って冷静で。
「分かるよ、俺には。壬生は帰って来ないよ」
「―――何で?………」
京一の真っ直ぐな瞳を見つめながら、龍麻は切ない笑顔を向けて。
「だって、あそこには『あいつ』がいる」
「……ひーちゃん?…………」
「知らなかったのか?何故壬生が連れ去られたか?」
「……一体それってどういう事?………」
「…あそこには『あいつ』が居る。あの、玩具箱の中には……」

キイーと重たい音がして、扉が開かれる。その音を聞いても『彼』は全く反応を返さなかった。足音が近づいて来ても、その瞳が動く事は無かった。
「―――如月さん………」
その時になってやっと、彼は反応を返した。けれども何よりも綺麗な漆黒の瞳は、何も映してはいなくて。只無機質な光を讃えているだけだった。
「今日、蓬莱寺が来ました。僕を迎えに」
壬生は腕を延ばすと、如月の柔らかい髪に指を絡める。それは最高の感触を壬生に与えるのだ。
「でも僕は帰りません。やっと、貴方に逢えたのだから…やっと、見つけたのだから……」
耐えきれずに壬生の瞳から透明な雫が一筋、頬を伝う。しかし如月はただ無機質な瞳を自分に向けるだけだった。何も言わず、何も語らないその瞳は、けれども壬生だけのものだった。如月の全ては、壬生のものでなくてはならないのだから。
「……如月さん……好きです………」
拒まない唇に壬生は口付ける。その感触は自分が良く知っているものだったけれど。けれども互いを分け合えない口づけは哀しくて。
「……好きです、如月さん………」
壬生は自らの細い腕で、如月の身体を抱きしめる。以前、彼が自分にしてくれたように。けれども細すぎる壬生の腕では、如月の全てを包み込む事は出来なくて。
――――如月の全てを、包み込めなくて。
「……好きです………」
それが、壬生には、切なかった。

―――如月が、自分たちの前に現れたのは、戦いの真っ直中だった。理不尽の戦いの中で、まるで彼は幻のように現れた。
強い意思を讃えたどんな宝石よりも綺麗な漆黒の瞳と、太陽の光を全て吸い取ったような強い視線と。そしてこの世のものとは思えない絶世の美貌と。全てが、完璧だった。完璧な人物だった。そして、強かった。ぎりぎりの所まで追い詰められていた自分たちを、救ってくれたのは他でもない彼だった。けれども、消えてしまった。
何の前触れもなしに、突然に。如月は、消えてしまった。
―――そして戦いは終わり、全てが開放へと向かった時。突然、壬生が連れ去られたのだ。戦いの中でも唯一何も失われなかった国家権力と言うものに。
けれども、その本当の理由を知る者は、本当に極少数の人間だけだった。

「…如月は、バイオノイドなんだよ……」
「―――え?………」
「戦いの為に造られた、精巧な……」
「何でひーちゃんがそんな事を知ってんだよ?」
京一の言葉に龍麻はぎゅっと唇を噛み締める。そうしてから、切なそうに彼を見つめて。
「……俺の…父が…研究所の人間だった…そして壬生の『館長』とそこは繋がっている……」
「―――ひーちゃん…………」
「あの監獄は、本当はバイオノイド達の収容所なんだ」
「だったら何で、壬生は俺らに教えてくれなかったんだ?そうだと分かれば俺だって無理には……」
「―――これは、トップシークレットなんだ。京一」
「……まさか、壬生は…………」
「そうだよ、お前を庇ったんだ。やつらは人を殺す事なんて、なんとも思っていないんだから……」
「―――」
「…だから…京一…もう、壬生とは係わらない方がいい……」
「―――ひーちゃん…………」
「それに、壬生は幸せなんだから」
自分は知っている。如月を見つめる時の、壬生の瞳の意味を。その瞳を見つめ返す如月の笑顔の意味を。だから。
「…ああ…そーだよな……。壬生は如月の元に居るんだから………」
如月の前でだけ壬生は本当に微笑う。如月の前でだけ、壬生は。それを一番知っているのは、他でも無い自分自身。だって自分が一番壬生を見つめていたから。
「……そうだな、ひーちゃん………」
龍麻の腕が京一の身体を包み込む。京一は答えるように龍麻の背中へと腕を廻した。そう、今は自分にはこうして抱きしめてくれる人がいる。だからもう、壬生を見つめる必要も無いから。
「………好きだぜ……ひーちゃん………」
自分の腕で壬生を抱きしめる事は出来なかったけれど、自分を抱きしめてくれる人がいるのだから。
「―――ああ、分かっている京一………」
今、確かに自分の心はこの人にあるのだから。

壬生が連れ去られたのは、如月の居場所を突き止めた直後だった。
…そう…その時自分は知ったのだ。如月の正体を。彼が戦闘の為だけに造られたバイオノイドだと言う事に。当然そんな壬生を『彼ら』が許す筈が無かった。
けれども、それは逆に壬生に幸福をもたらしたのだ。閉じ込められた監獄はバイオノイド達の収容所で、そこにはあんなにも捜していた如月がいたのだから。そして、壬生は抹殺させられなかった。
彼の優秀な能力は――暗殺者としての腕は…『彼ら』にとって必要なものだったから。だから壬生は研究所の人間達の要求を全て飲んだ。それがどんなに非人道的であっても、どんなに許されない事があっても。壬生は全て受け入れたのだ。その代わり。壬生はたった一つだけ条件を出したのだ。この収容所の権利を、と。
そして、壬生は。この場所を楽園に変えた。自分と如月だけの、楽園に。
―――もう、ここには誰も侵入する事は出来ない。

「…如月さん……」
答えないと分かっていても、壬生はその名を呼ぶ。そして以前と何一つ変わりなく、自分は彼に語り掛ける。
「……好きです…如月さん……」
その口が自分の名を語らなくても。その瞳が自分を見つめなくても。でも如月はここに居るから。もう、自分からは消えないのだから。
「…僕…ずっと待っていますから…貴方が思い出すまで…ずっと……」
壬生の手が如月のシャープな顔の輪郭を辿る。いとおしそうに、何度も何度も。
「……それまで…僕が…抱きしめるから………」
ベッドの上に人形のように座り込んでいる如月を、壬生は抱きしめる。この細すぎる腕では全てを包み込めないと知っていても、壬生は如月を抱きしめる。
『彼ら』は戦いが終わって不必要になったバイオノイド達から全てを奪った。人間と同等に感情のある彼らを洗脳し、全ての感情を奪った。そして次に必要とする時まで、ここで人形のように保管しておくのだ。この、監獄に見せ掛けた収容所に。
でもそれは壬生にとって都合のいい事だった。ここにいる限り、如月の身分は保証されるのだから。
「……如月さん……」
彼の感情が戻る日は、再び戦争が始まった時でしか有り得ない。それでも、壬生は信じている。いつしか、如月が自分の名を呼んでくれる事を。自分を見つめてくれる事を。
だって彼は確かに自分を愛してくれたのだから。洗脳でも命令でも無く、確かに如月の『意思』で壬生を愛してくれたのだから。
「……ずっと、傍にいます…だから…如月さん……」
壬生が力の限り如月を抱きしめる。背中に廻した手が強く、彼のシャツを握り締めて。
「……僕の名前を…呼んでください………」
あの頃のように、低く少し掠れた声で『紅葉』と。全てを包み込んでくれる優しい声で。
「……紅葉って………」
―――今の自分にとって、それだけが望みだった。それだけが………。

いつのまにか鉄格子の窓から月の光が差し込んでいた。それを壬生が瞳に映し出す前に、彼の限界まで疲労した身体は、突然に崩れ落ちた。
―――しかし、それは寸での所で受け止められる。大きくて広い如月の腕が、反射的に彼を受け止めたのだ。そしてそのまま意識の無い壬生をそっと、抱きしめる。
「――――」
そして。そして如月の鏡のような瞳に一瞬、本当に一瞬だけ優しい色彩が宿る。それは決して自我を失くした者が持つ色彩では、無かった。

――――でもそれを見たのは、窓から覗く蒼い月だけ、だった。

End

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