―――夢のままで生きられた時間にさよならを、告げた日。
初めて自分の中に、激しい感情がある事を、知った。
―――ただ一緒にいられるだけで、良かったのに……。
「ここの部屋を使ってくれ」
如月が紅葉に案内した部屋は、一人で使うには余りにも広すぎるスペースを持っていた。紅葉はどうしていいのか分からずに戸惑った瞳で、如月を見上げる。
「この家は部屋の数だけは余っているから遠慮なく使ってくれ」
「……でも、こんな広い部屋………」
「気にする事は無いよ。どの部屋も同じような物だから。ちなみに僕の部屋は、その角の突き当たりにあるから。分からない事があれば何でも聞きに来てくれ」
そう言って優しく如月は紅葉の髪を撫でてやった。その手の感触が余りにも心地好くて。紅葉はひどく、胸が高鳴った。いつも、こうだ。何故だか彼に触れられるといつもこうなってしまう。自分が一生懸命抑えようとしても。いつも、胸が痛いのだ。
「……如月さん………」
「何?紅葉」
そう言って見返してくる優しい漆黒の瞳が欲しいと思ったのは、いつだっただろうか?その瞳を独りいじめしたいと、思ったのも。
「……何でも無いです………」
「変だよ、紅葉」
くすりと如月は笑うとそっと紅葉を抱きしめた。それははすぐに離れたけれども。
「疲れただろう?今日はもう休むといいよ。明日になったら、屋敷を案内してあげるから」
―――紅葉の胸の鼓動は、消える事が無かったのだ。
小さな家の中だけが、僕の世界の全てだった。
この小さな箱の中と血の繋がらない兄だけが、僕の世界の全てだったのだ。
何も知らずに何も教えられず、そして何も気付かずに。
僕はずっと小さな世界に眠っていた。
けれどもそんな僕に貴方は、手を差し延べてくれた。
この世界だけが全てだった僕に。
冷たくて厳しくて、そして哀しい『大人』の世界を教えてくれた。
「あの方が、先代の妾の子なのですね」
「―――雛乃、来ていたのか?」
室内の大きなソファーに腰掛けコーヒーを口にしていた如月に、清楚な笑みを浮かべながら雛乃は尋ねる。
「…お邪魔…でしたでしょうか?」
そんな雛乃に如月の向かい側のソファーを勧める。小さく頷くと雛乃はそこに腰掛けた。その目の前の綺麗過ぎる容姿を見つめながら。
「いや、構わないよ」
「…如月様は…優しいですね……」
如月の指先が手元のコーヒーカップを玩ぶ。そのすらりと長くて繊細な指ですら、目を奪われてしまう。
「気のせいだよ雛乃。僕は優しくなんてない」
その容姿においても財力においても頭脳においても、全てが完璧な人物。それに一体誰が我が儘言えると言うのだろう?喉を鳴らして自ら擦り寄ると言うのに。
「…随分と気にかけておいでですね…。何だか如月様じゃないみたいでした……」
「何の事だ?」
「―――すみません…ただあんな如月様の顔を見たのは雛乃は初めてで……」
いつもポーカーフェースで口元しか笑わない如月。どんなにその素顔を暴きたくても、決して見せてはくれないのに。
「あの方にはあんなに優しく、笑われるのですね」
「―――君にそんな事を言われるとは思わなかったよ」
「…私も女ですから…如月様…」
「知っているよ、雛乃」
「―――嘘ばかり…如月様はそんな風に雛乃を見ていないくせに…。そう…如月様は昔から他人には興味が無かったですものね」
どんなに女が欲望の瞳で見つめても、それを全てかわしてしまう。いつもどんな人間にも一定の距離を置き、絶対に踏み込ませない。本音を絶対に見せはしない。
「でもあの方をどうされるのですか?引き取ったはいいけれど、如月様の立場が大変なのでは?」
例え母親の腹は違えど二人は『兄弟』になるのだ。兄弟となれば相続問題にも係わってくる。
一応父親の遺言でこの家の財産と会社は如月が引き継いだのだが、彼を良く思っていない親戚連中が紅葉を利用しないとは限らないのだ。
知識も世間も何も知らない紅葉は彼らにとっては、恰好の人材に他ならない。幾らでも騙す事などたやすいのだから。
「僕の立場がどうなろうとも、構わない。紅葉に何事も起こらなければ」
「……本当に、大事にしていらっしゃるのね………」
雛乃の心に何とも言えぬ感情が沸き起こる。これは多分、嫉妬だろう。この何よりも綺麗で誰もがうらやむ彼に、ここまで言わせた事に。
「それに紅葉は本当に何も知らない。だから教えてあげなければならない」
学校にも行かせてもらえず、家から一歩も出た事の無い紅葉。血の繋がらない兄である龍麻に護られ、ずっと閉じ込められていた紅葉。だから如月は教えなくてならない。他人と付き合う事を。知識を身につける事を。そして、世間を知る事を。
「紅葉は『子供』だから。何にも知らない…今やっと生まれたばかりの……」
「でも如月様はあの方の『父親』にはなれません」
雛乃は透明な自らの爪を軽く、噛んで。
「父親ならばそんな瞳、しないですから」
「おはよう、紅葉」
未だ朦朧とする意識を持て余しながらも、紅葉は必死で瞼を開く。これが夢じゃないと、確認する為に。
「……おはようございます……如月さん……」
一生懸命開いた瞳の先に、何よりも綺麗な顔を見つけて紅葉はひどく安心する。これは夢じゃ、無いんだと。
「どうだった?昨日は良く眠れたかい?」
大きな如月の手が、そっと紅葉の髪を撫でる。その暖かさがひどく、心地好い。父親の手を知らない彼にとって、それを与えてくれるのは如月だけなのだ。如月だけが、自分に与えてくれる。
「…はい…良く、眠れました………」
どこか寝ぼけ眼の幼さの残る表情に、つい如月は優しい微笑を浮かべてしまう。本当に紅葉は子供なのだ。何にも知らない無垢なままの。
「そうか」
それだけを言うと如月は紅葉の手を取って、そっと彼をベッドから起こしてやる。紅葉は素直に彼に従った。
「着替えは一応用意したけれど、後でちゃんと買いに行こう。着替えたら食事だよ」
「はい」
紅葉は如月に素直に頷くと早速着替えを開始する。紅葉にとって何もかも初めての生活は、彼を戸惑わせると同時に一つ一つが楽しみでもあるのだ。それに何よりもここには、如月がいる。如月が、いてくれる。
それだけで、紅葉は何よりも、嬉しいのだ。
こうして食事を取る姿すら、一枚の絵のようだった。
生まれながらにして凡人とは違うのだろう、どんな些細な仕種でもこんなにも目を魅き付けずにはいられないのだから。
「―――どうした?紅葉」
じっと自分を見つめる視線に気付いて、如月は柔らかく尋ねた。その口元にはうっすらと笑みを浮かべながら。
「……な、なんでも無いです…ただ、綺麗だなーって……」
「僕がかい?」
「はい、如月さんって綺麗です」
本来ならば綺麗などい言う形容詞は男に使うものでは無いのだが、何も知らない紅葉だからそれは仕方無いだろう。
それに、確かに目の前の人物は『綺麗』と言う形容詞が実に相応しかったのだから。
「紅葉に褒められて、嬉しいよ」
「本当に、嬉しいですか?」
少しだけ不安気に、上目遣いに自分を見つめる紅葉。こんな仕種はひどく子供のようで。そして、可愛くて。
「ああ、嬉しいよ」
「良かったです」
如月の言葉に安心したのか紅葉はにっこりと笑うと、再び食事に集中する。龍麻以外の人間と食事をするのは初めてだったが、別にこれといった不安を自分は感じなかった。多分、相手が如月だからだろう。不安よりも何よりも先に来るこの、安心感は。
「紅葉」
不意に如月の手が延びてきて、紅葉の頬に触れる。その瞬間、ぴくりと紅葉の身体が震える。
「……な、何ですか?………」
「クリームが付いているよ」
そう言って紅葉の頬に付いているクリームを指で取ってやると、如月はそのまま自らの指を口に含んだ。その仕種に紅葉の心臓の鼓動が一気に、高鳴る。
それは耳障りな程に大きくなって、ひどく自分を混乱させた。ここに来てから何かが少しづつ違う。
如月と一緒にいれて嬉しいと、如月の傍にいれて嬉しいと。それだけで良かった筈なのに。それなのに。別の心が自分に言っている。
如月をもっと知りたいと。如月がもっと欲しいと。如月を独りいじめにしたいと。知っている、これは自分の勝手な我が儘だ。それでも、止められないのだ。
この綺麗な漆黒の髪も瞳も全部、自分だけのものにしたい。自分だけを見つめてほしい。自分だけの事を考えてほしい。自分だけを好きになって、ほしい。
―――こんな感情を自分は、今まで知らなかった。
「こんなに朝早くから…何処へ出かけるんだ?」
使用人に車を門の前まで運ばせてから紅葉を連れて玄関へと向かう如月に、雪乃はくすくすと楽しそうに笑いながら声を掛けて来た。
「街まで出掛けるんだけど」
「ふーん、でもそれならベンツは止めた方がいいぜ。目立つから」
「分かっているよ。だから今日はフェラーリだ」
フェラーリでも随分目立つと思うけどな…やっぱコイツどっかずれてるぜ…内心雪乃はそんな事を考えながら、視線を如月の隣へと移動する。それに気付いて如月は紅葉へと視線を移動させると、彼に雪乃を紹介した。
「紅葉、紹介するよ。僕の従姉妹に当たる織部 雪乃だ。彼女は双子でね、もう一人雛乃と言う従姉妹もいるんだ」
「よろしくなっ、紅葉」
にこっと笑って雪乃は紅葉に手を差し出す。紅葉は戸惑いながらもその手を軽く握り返した。柔らかい、手だった。
「でも如月、大丈夫なのか仕事?今忙しい時期なんだろう?雛乃が心配していたぜっ」
雪乃の手が広い如月の肩に掛かる。細い指先がひどく、紅葉の瞳に焼きついた。
「構わないよ。僕が居なくても優秀な秘書達が何とかしてくれるだろうからね。それよりも僕にはしなければならない事があるから」
「相変わらず上手いなぁ。やっぱりお前って人の上に立つ人間だよなぁ」
お世辞でも何でも無く如月には、生まれながらその才能を身につけていた。この年で父親の会社を継ぎ手腕を発揮する彼は、嫌と言う程に世間に認められているのだから。
「でもあんまり、入れこむんじゃねーよ。お前がいるといないとでは仕事の捗り具合が違うって奴ら言ってるぜ」
「随分持ち上げてくれるね」
「本当の事だよ。まあ、親父達は喜ぶかもしれないけれど」
そう言って雪乃の肩に置かれていた手が、如月の長めの前髪へと移動する。それをくいっと持ち上げると、前髪に隠されていた漆黒の瞳が暴き出される。如月の綺麗な瞳が。
「でも、女どもが淋しがるぜ」
「分かったよ、心得ておくよ」
雪乃の言葉に如月は大人の顔で、笑った。それは紅葉が知らない顔だった。自分には見せた事の無い上辺だけの社交的な笑み………。けれども。
「……如月…さん……」
不意に紅葉が如月のワイシャツをぎゅっと握り締める。それに気付いた如月が彼を優しく見返してやる。その顔はさっきとは違う、如月の本当の顔だった。
「どうした?紅葉」
「……なんでも、ない…です……」
しかし紅葉はぷいっと如月から視線を逸らすとそのまま黙り込んでしまった。そんな彼に仕方無さそうに…そしてそれ以上に甘い顔で。
「済まないね、雪乃。僕達は出掛けるから、後は頼んだよ」
「俺に言うなよ。雛乃に言えよ…しゃーねぇなぁ」
そっと紅葉の肩に手を掛けると一言雪乃に告げて、その場を去って行った。
―――これは、何だろう。
あの雪乃って女の人が如月さんの肩に手を掛けた時。その前髪に指を触れた時。
漆黒の瞳を暴かれた時。心の中でどうしようも無い感情が浮かんで来た。
自分でも止める事の出来ない激しい感情。
……一体、これは何?………
「どうした?紅葉。気分でも悪いのかい?」
あれから車に乗ってもずっと沈黙を続けている紅葉に、如月は心配そうに尋ねる。そう、如月は彼の為にならば、幾らでもこんな表情が出来るのだ。氷のポーカーフェースと言われている彼が。紅葉の為にならば、惜しみなくの表情を。
「……何でも無いです…ただ………」
「―――ただ?」
器用にハンドルを捌きながら、如月はゆっくりと紅葉の顔を覗き込む。そんな彼の表情は俯いてちゃんと確認する事は出来なかったけれども。
「……ちょっと…痛い…だけ…です……」
「痛いって、何処が痛いのかい?」
如月の質問に…紅葉は、答えられなかった。痛いのは身体でも頭でも無く、心だから。心が痛いから。
「……如月…さん……」
「何だい?」
「…あの、雪乃って女の人………」
「雪乃がどうかしたのかい?」
「……好きですか?………」
「ああ、好きだよ」
又、胸が…心が痛む。分かっているのだ原因は。全て、彼のせいだと。けれども分かっていても自分にはどうする事も出来ないのだ。
だって、これは我が儘でしか無いから。如月さんが自分だけを見つめてくれて、自分だけを考えてくれて、自分だけを好きでいてくれたらなんて。
―――そんなの自分勝手な我が儘だから。
「でも、愛してはいない」
「―――え………」
不意に車が停止する。いつのまにか窓の外には、雑木林が広がっていた。
「…こんな事君に言っても理解出来んかも知れないけど…でも…言わせてくれ………」
「……如月さん?………」
如月の腕が紅葉をシートベルトごと、抱き締めた。そして。
「僕は君を、愛している」
紅葉の耳元にひどく優しく、そして深い声で囁いたのだ。
「何も分かっていない君にこんな事を言うのは、卑怯かも知れない。でも、この想いを閉じ込られる程、僕の気持ちは半端ではないから…」
「……きさらぎ、さん…………」
「愛している、紅葉。君だけをずっと、ずっと愛していた」
あの家に閉じ込められていた時から。初めて言葉を交わした時から。ずっと。
ずっと、僕にとって君は特別だった。
同情でも責任感でも罪滅ぼしでも無く、ただ純粋に僕は君を護りたかった。
この腕で君を抱き締めて、そっと髪を撫でてやりたかった。
子供のまま大きくなってしまった君を、連れ出したのはその為だったのだから。
「―――紅葉、愛している………」
父親の遺言を実行する為に、あの家に初めて出向いた日。
無垢な夜の瞳が、自分を見つめた時。初めてその声で名前を呼ばれた時。
どんなに、気持ちがざわめいた事だろうか?
そして、騙し切れなかった嫉妬。君の世界に唯一存在した龍麻を。
十六年間ずっと君をあの家の中へと閉じ込めてした彼を。どれ程僕は嫉妬した事だろう。
無論、こんな想いを君が知る筈が無い。彼は今まで何も知らないで育ったのだから。
龍麻によって子供の心を護られて、ずっと無邪気なままで。
「…済まない…驚かせてしまったようだね……」
腕の中で無言のままの紅葉をどう思ったのか、如月はそう言うとその腕を離そうとする。
しかしそれは寸での所で遮られてしまった。紅葉の細い腕が必死で如月に、しがみ付いてきたので。
「……やだ…如月さん………」
「―――紅葉?」
「……離しちゃ…やです……」
そう言うと紅葉は益々腕に力を込めて、如月に抱きつく。そんな彼に殊更優しく如月は抱き締めて、やった。
「……如月…さん……」
「何?紅葉」
「…僕、如月さんが好きです…何よりも大好きです……。でも………」
「―――でも、どうしたの?」
「…その『好き』が……違うんです………」
紅葉の手がぎゅっと如月のシャツを握り締める。その手が微かに震えているのを、如月は決して見逃さなかった。
「最初は一緒に居られればよかったのに…いつのまにか如月さんが欲しくなって…如月さんを独りいじめにしたくなって…そして……」
「―――そして?………」
「…貴方を見ていると…苦しくなる………」
思い詰めたような瞳が如月を見上げる。それは何かを必死に堪えているようで。如月は堪らなくなってそんな紅葉の髪を何度も撫でてやった。
「……苦しくて…苦しくて……どうしていいのか分からなくなって…僕…こんなの初めてだから……だから………」
堪える事が出来なくなった夜の瞳から、透明な雫が伝う。如月はそっとその涙を指で拭ってやる。そして。
「―――僕など、幾らでも君にあげる」
「……如月、さん?………」
「君の欲しいだけ幾らでもあげる。だから、そんな顔しないで」
「……本当ですか?………」
「うん、幾らでもあげる。僕は君を愛していると言っただろう?」
「……愛して、いる?………」
「そう、愛している。誰よりも何よりも。僕にって君がどんなものよりも大切なのだから」
如月の言葉が静かに紅葉の胸に、降ってくる。そしてそれはゆっくりと降り積もって、紅葉の胸の痛みを消してゆく。痛みを、消してくれる。
「……僕も、如月さんが大事です…だって僕…もう………」
そしてそれはいつのまにか甘い痺れへと変化して。熱い想いへと擦り代えられてゆく。
「…貴方無しじゃ…生きて……いけない………」
もしもこの想いが貴方の言う『愛している』と言う言葉ならば。それは何て苦しくて、何て熱いものなのだろう。何て切なくて、何て優しい……。
「―――僕もだよ、紅葉」
そう言うと如月はそっと紅葉の頬に手を掛けると、そのまま口付けた。それはすぐに触れて離れたけれども。言葉よりも雄弁に如月の想いを伝えていた。
「……きさらぎ、さん?………」
「口づけの時は目を閉じるものだよ」
驚愕のまま自分を見つめる紅葉に彼は笑い掛けると、再び無防備な紅葉の唇を塞ぐ。その時になって初めて紅葉は、咄嗟に目を閉じた。
――――それは初めての、キス、だった。
初めて教えて貰った想いは、何よりも苦しくて、そして何よりも甘いものだった。
でも未だ紅葉は、その想いの名を知らない。
―――この恋の意味を未だ、知らない………。
End