deceit ACT / 1


――――全てを奪う愛なんて、いくらでも君にあげる……


―――優しくして、あげたかった。綺麗な想いだけを、あげたかった。
脅える事しか出来ない君に、安らげる場所を与えてあげたかった。
傷付く事しか知らない君に、信じる事を教えてあげたかった。
優しい想いだけを、あげたかった。


――――甘えさせて、あげたかった。


もう、遅いかもしれないけれども。それでも、伝えたかった。


――――ずっと傍にいる、と。それだけを、伝えたかった。


―――もう、遅いかもしれないけれども。





――――硝子細工の月だけが、君を抱いた。


「……転入生ですか………」
御門はその形良い眉を微かに歪めて、渡された資料に目を通す。その瞬間、その表情が微妙に変化する。しかしそれは本当に一瞬の事で、彼の表情はすぐに何時もの無表情なそれへと戻ったが。
「…はい……この時期に編入など、少々おかしいと村雨が言うので…早速に御門様に知らせようと思いまして………」
忠実な自分の『人形』の言葉に御門は、くすりと口許だけ笑みを浮かべる。自分が彼女の支配者だと、示す為に。そして、その下に鋭い刃物を含ませながら。
「そうだな。確かにこの時期に編入は考えられないね。それに万が一有り得るとしても、この学校に入るにはよっぽどの事が無いと」
御門は当たり障りの無い一般論を述べる。しかしそれは事実だった。都内でも有数に数えられる進学校であるこの学校に入るには、それ相応のレベルを必要とするからだ。更に今は六月の初旬である。こんな中途半端な時期に転校など、常識からは考えられない。
「前の学校で問題を起こしたとならば、話は別だけれども……この経歴を見ただけでは、考えられないね。綺麗すぎる」
御門は手元にある資料に再び視線を向ける。紙上に掛かれているその『人物』の経歴や素行は余りにも完璧過ぎた。まるで作られたと思えるくらいに。
「しかしこの資料は『裏』から手に入れた物です」
「そうだろうね、君が渡すぐらいだから」
表面だけのものならば、金や権力の有る者ならいくらでも細工が出来る。しかし御門の手元にある資料は、そんな金や権力を以てしても誤魔化す事など出来ない『裏』から入手したものだった。故にここに書かれている物は、ほぼ事実と言っても差し支えない。
「―――これは…調べてみる必要がありそうだね……」
御門はくすりと口元に笑みを浮かべると、彼にしては珍しい程楽しそうな表情を、した。


―――夢を見ない夜は、辛過ぎるから。


風が吹き抜けて、髪を靡かせる。その漆黒の髪は、柔らかく太陽を反射してきらきらと輝く。
「―――」
ゆっくりと視線を上げた先には、空と呼ぶには穢れ過ぎてしまった空間が広がっていた。その空間から視線を元へと戻すと、再び彼の前を風が通り過ぎる。その風を浴びながら、彼はゆっくりと歩き出す。そのごく当たり前の動作ですら、ひどく彼は人の目を引く。
――――大気が、ざわめく。まるで予感を告げるかのように。
その普通の人間には分からないであろう変化を感じとりながら、彼は一瞬口元に笑みを浮かべた。しかしそれはすぐに元の無表情な顔へと戻ってしまったが。けれどももしも幸運にもその笑みを見た者がいたならば、一生忘れる事は出来ないだろう。それ程、彼の笑みは印象的だった。いや、存在そのものが特別だった。
その漆黒の髪も、強い意思を讃えた瞳も、整いすぎた綺麗な顔も。全てが、特別でそして格別だった。多分『綺麗』と言う形容詞は彼の為に存在するのだろう。
「―――風が、強いな………」
乱れた細い髪を掻き上げながら、彼は呟いた。けれども、風は止まなくて………。


「おっす、ひーちゃんっ!」
「あ、おはよう京一」
一際大きな声で自分の名を呼ぶ相手に、龍麻は人懐っこい笑みを浮かべながら答える。そしてそのまま二人は教室へ向かう為に歩き出した。
「そうだ、ひーちゃん。知ってるか?」
「何を?」
階段を昇り二階へと辿り着く寸前、不意に京一は思い出したように龍麻に尋ねた。しかし何の事だかさっぱり分からない自分は、自然と疑問符を彼へと返した。
「何かうちのクラスに、転入生が来るんだってよ」
「えっ?こんな時期に?」
「そう変だろ。俺も最初は冗談かと思ったんだけど……教えてくれたのが御門だったから、なまじ嘘じゃねーなーっと思って………」
「そうだよね、御門はなんてったって生徒会長だし……その辺の事は詳しそうだもんね…」
「でも変だよなー今、六月だぜー。何でこんな時期に来んだよ?」
「そうだよなー」
京一の言葉に尤もだと言うように、龍麻も頷く。何故か釈然としないものが胸を過ぎる。
「…やっぱ、何か問題でも起こしたんだろーか?しかしそんな奴がうちの学校に入れるとは思えねーし………」
「でも京一が入ってるのも不思議だよ」
「うるせーっ!!俺は御門に強引に入れられたんだっ!!ちくしょー俺をなんだと思ってんだっ!」
「よかったね、いい幼なじみを持って」
「…本気で言ってる?ひーちゃん……」
「―――何、やっているの?」
龍麻が思いっきり楽しそうに頷こうとした時だった。二人の背後から突然声がしたのは。
「あ、壬生おはよう」
「何だお前、珍しいな。真面目に学校来るなんて」
良く知っている声に先に反応したのは、龍麻だった。続いて京一が軽い皮肉を込めながら言う。無理も無い。この目の前の人物が学校に、それも朝から来るなんて滅多に無い事だったから。
「―――やっと夢が見られたから」
「はぁ?」
呟かれた壬生の言葉の意味が分からなくて、京一は素っ頓狂な声を上げて尋ねる。しかし彼は軽く口元に笑みを浮かべただけで、巧みに話をすり替えてしまった。
「何でも無いですよ。それよりも君達何を言っていたんですか?」
「あ、そうそう壬生聞いてくれよ。俺たちのクラスに転校生が来るんだって」
「そんな事こいつに言っても無駄だぜ、ひーちゃん。こいつクラスメートの顔すら、ろくさま覚えてねーんだから。誰が来たって分からねーぜ」
「大丈夫ですよ」
「え?」
不思議そうに尋ねる龍麻に、壬生は微かに微笑って。
「僕には、絶対に分かりますから」
「あ、壬生っ!」
それだけを言うと、彼は二人を後にして歩き出す。その足は教室とは全く逆の方角へと向かっていた。
「……あいつ、何しに来たんだ?………」
完全に壬生の姿が消え去ったのを確認して、京一は呆れたように呟いた。彼の気まぐれは今に始まった事では無いにしろ、やはり自分には理解出来ない所がある。それは龍麻も、壬生を知っている人間誰もが共通の意見だった。気まぐれで、掴み所が無い。そして、何時も彼には見えない壁がある。どんなに親しくなっても、壬生は決して一定以上他人を踏み込ませない。いつも一定の距離を置いて他人と接するのだ。それを京一や龍麻はいつももどかしく思っていた。本当はもっと親しくなりたいのに。でも彼は絶対に最期まで他人を受け入れない。
「壬生って、風みたいだ」
「―――ひーちゃん?」
「気まぐれで、掴み所が無くて。いくら構えようとしても、するりとかわしてしまう。そして何時も人より高い所からものを見ている」
「あんな生意気な奴に風なんて勿体ねーよ」
「そう?でもやっぱり壬生は風だよ」


――――二度と来ない、夜。二度と来ない、朝。
それでも、祈っていた。もう一度と。
夢を見ない夜を呪いながら。
二度と来ない朝を抱きしめながら。
ずっと、祈っていた。―――もう、一度と。
もう一度だけで、いいからと。それだけを切実に、願っていた。
――――それだけを……。


―――風が、舞う。柔らかく、そして激しく。


「…随分と……季節外れだな………」
彼は口元に柔らかい笑みを浮かべると、自分の掌に落ちた一枚の花びらを見つめる。それは、淡い色彩をした桜の花びらだった。ふわりと風がひとつ吹いて、彼の掌から花びらを浚ってゆく。その花びらを追うように、彼の視線がゆっくりとその軌跡を辿る。そしてその視線が不意に、止まった時。今まで吹いていた風が突然に、止んだ。―――それは、予感だったのかもしれない。


「―――如月 翡翠さんですね」
細い指先の上に止まった、ひとひらの花びら。淡い色彩の、桜の花びら。
「……僕を、知っているのかい?………」
少しだけ意外そうな顔を見せる彼に壬生はくすりと微笑うと、自分の掌に落ちた花びらを自らの指先で玩ぶ。しかし彼の―――如月の視線は、真っ直ぐに壬生へと向けられていた。
「……知っています、ずっと前から…………」
くすくすと楽しそうに壬生は微笑うと、玩んでいた花びらをそっと飛ばした。それはまるで自らの意思を持っているかのように、如月の掌の上に落ちていった。
「如月 翡翠。世界でも有数の財閥家如月家の嫡男で、文武両道で才色兼備。常に成績は学年でもトップクラス。そして何よりも、その整った容姿。完璧過ぎる程に綺麗な顔は何処へ行っても注目の的で、特にその日本人離れした容姿と、漆黒の瞳は、嫌でも他人の目を引きつけずにはいられない……」
「―――随分と、詳しいんだね」
「言ったでしょう?僕は貴方を知っているって」
ゆっくりと壬生は近づくと、如月の目の前に立つ。その時にふと、如月は気付いた。彼が足音を立てていない事に。それだけでもう、彼が『普通の人間』でない事が分かる。
「綺麗な経歴、綺麗な容姿、綺麗な未来。貴方は他人が一生掛かっても手に入れられないものを、いとも簡単に手に入れている」
「酷評だな」
「でもそれが貴方の進む道でしょう?貴方はこの世で一番綺麗な星の下に生まれて来たのですから」
「――――」
――――遠くから、チャイムが聞こえてくる。ホームルームに間に合わせようと掛け出す学生達の足音がする。しかし校舎の脇にある渡り廊下にいる二人には、そんな騒がしさは無用だった。
「職員室は、向こうですよ」
不意に壬生は指を如月の背後に向ける。この渡り廊下の先には、廃坑となった校舎しかない。
「知っているよ」
「ならば行った方がいいですよ。先生が、痺れを切らして待っていますよ」
「君こそ、こんな所に居ては遅刻だよ」
「僕はいいんです。何時もの事ですから」
そう言って壬生は微笑うと、ゆっくりと如月に背中を向ける。そうして、廃坑となった校舎へと歩き出す。
「―――」
そんな壬生を如月は、無言で見つめた。鏡のように無表情な漆黒色の瞳で。そして。
「………君、名前は?」
彼の細い背中が視界から消える寸前、如月は一言そう壬生へと告げた。
「―――紅葉。壬生 紅葉」
一度だけ振り返って、壬生はそれだけを短く答える。不思議な色彩をした如月の瞳を真っ直ぐに見つめながら。そして、如月は。そんな彼の姿が完全に消え去るまで、その背中を見つめていた。

End

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