まぼろしと 知っていながら抱きよせる 熱いからだ
貴方は優しすぎるんだと、彼女は言った。でも貴方の優しさは人を傷つけると。貴方の優しさは、何よりも残酷だと。――――彼女は、そう言った。
全ての事がもう、どうでもよかった。
「――――気が、付いたかい?」
瞼を開いた先に真先に飛び込んできた顔に、壬生は驚愕を隠しきれなかった。そんな自分を半ば茫然と見つめる彼に。
「君でも、そんな顔をするんだね」
「……如月さん……」
如月は、ひどく優しい顔で、微笑った。
「……ここは?………」
未だ夢を見ているような心地で、壬生は尋ねる。そんな彼を如月はまるで子供をあやすような瞳で見つめながら。
「僕の部屋だよ。空き地で倒れていたので、ここまで運んできたんだ」
「……貴方、が?………」
「―――そうだよ」
如月の言葉に。壬生はまるで子供みたいに無邪気に、微笑った。そしてそっと手を延ばすと、傍にある如月の手を掴んだ。
「……如月…さん……」
壬生の指が如月の指に絡まると、そのままぎゅっと握り締めた。それはまるで宝物を必死で護っている子供のよう、だった。
「いくら君に『力』があっても、一日に二度も封印をするのは不可能だよ」
「……また…見えたのですか?…………」
「見えたよ。はっきりと」
「……そうですか………」
それだけを壬生は言うと如月から手を離して、今度はその両手を首筋に絡める。そうして、彼を引き寄せて口づけを奪う。
「………また、僕に優しくしてくれましたね……」
壬生の指が如月の首筋から、その髪へと移動する。そして、その髪を指先に絡めた。
「…貴方は…本当に狡いです……。知っていてそうするんですね……優しくすれば誰だって貴方に…焦がれるのを……知っているのに…優しくするんです……」
「僕の優しさは、残酷かい?」
「残酷です。優しくするだけ優しくして、そうして捨てるんですから」
「――――」
「……でも、どうしてだろう……分かっているのに…期待してしまうのは……」
壬生の言葉に。如月は答えなかった。答える代わりに、その唇に口付けた。
泣きながら、彼女の言った言葉が通り過ぎていく。――――その気が無いのなら、期待させないで…と。そして言う。だから貴方の優しさは残酷だと。貴方は綺麗過ぎるから。その容姿も、心も、魂も。綺麗過ぎるから。だから、傷つけると。貴方を見ていると自分がどれだけ醜いかを、悟ってしまうからと。
「―――君は、僕をどう思う?」
多分それは、ずっと聞いてみたかった質問だった。初めて彼を見た時から。彼が自分の前に現れた時から、ずっと。
「……嫌いです……何よりも誰よりも……嫌いです……」
「嫌いだから、僕から奪いたいのかい?」
「―――違います…許せないから……貴方から、奪うんです」
矛盾した行為。壬生は拒絶の言葉を口にしながら、盛んに如月を求める。その唇を、腕を、温もりを。それでも如月は、拒否をしない。――――それが、どんなに残酷な事だとしても。もう、如月には構わなかった。
「…あっ…あぁ……」
壬生の白い喉に口付けながら、如月はゆっくりと侵入する。彼の中は、焼ける程熱かった。
「…あぁ…ん…」
自分の内部を満たす異物の質量感に満足したように、壬生は一際甘い声で啼く。そんな彼に軽く口付けると、如月は自らの腰を使い始めた。
「…ああ…あっ……」
耐えきれずに壬生が如月の広い背中に爪を立てる。そこからは、ぞくりとするる程綺麗な紅い血が滴り落ちた。
「…如月…さん…キス……」
喘ぎのせいでもつれる舌を必死に動かしながら、壬生は訴える。
「…キス…して……」
その壬生の望みを、如月は叶えてやる。そのせいで益々彼を深く受け入れてしまった彼の眉が、微かに歪んだが。それでも。
「…んっ…んん……」
それでも、壬生は構わなかった。それでも。そして。
「――――っ!」
二人が同時に最期の時を迎えた時、壬生の声は彼の口づけによって奪われた。
「血、付けてしまいましたね」
壬生の指先が如月の広い背中の爪痕を辿る。そしてゆっくりと顔を上げると、彼はその傷痕に舌を這わした。
「…痛いですか?……」
血を綺麗に舐め取ると、壬生は如月を見つめてそう尋ねた。そんな彼に如月は、雄の匂いのする笑みを浮かべながら。
「挑発しているのかい?紅葉」
そう言うと彼を腕の中に抱き寄せて、深く唇を奪う。その激しい口づけに壬生が、眩暈を感じる程に。
「いや、何時も君は僕を挑発している。その瞳で、その唇で、その仕種で」
「――――」
「分からないね、紅葉。君は僕を口で拒絶しながら、身体で僕を求める。どうして?」
「……貴方が…僕を分からないからです……」
「―――紅葉?………」
不意に腕の中の、彼の表情が変化する。それはまるで捨てられた子猫のような、顔だった。
「……貴方が、僕を分からないから………」
壬生が、盗むように如月の唇を塞ぐ。その口づけは何故か、血の味がした。そして。
「――――貴方が僕の事を分からないなんて、そんなの許さない」
そして、彼は。真っ直ぐに自分を見つめて。痛い程の視線を彼に向けて。冷たいポーカーフェースでその言葉を告げる。今にも泣きそうな瞳をしながら……。
―――――思い出まで 捨てたら 許せない
「…壬生……」
明け方如月のマンションを帰宅した壬生を迎えたのは、ひどく穏やかな表情をした御門だった。
「…何処へ行っていたなんて、野暮な事は聞きませんよ。でもね、そんな表情はしない方がいい………」
「―――何故ですか?」
「そんな顔をしていたら、男は付け込みますよ。優しさをちらつかせてね」
ゆっくりと御門は近づくと、そっと壬生を抱き締めた。自分はその腕を拒否、出来なかった。
「だから君は放って置けない。そうやって全てのものを拒絶しているような態度を取るくせに、その瞳は正直だ。何時も優しさを欲しがっている。温もりを求めている」
自分よりも一廻り細い華奢な身体を抱き締めながら、御門はぼんやりと考えた。この子は何時までこんな虚勢を張り続けるのだろうか、と。でもそれを自分がどうにもしてやれない事もまた、知っている。一時の同情で彼に優しさを与えても、壬生は傷つくだけだ。いや、傷つける事も出来ないだろう。彼を傷つける事が出来るのも。彼に優しさを与える事が出来るのも。
「――――そんなにも『如月 翡翠』が好きなのかい?」
彼だけだとまた、御門は知っているから。分かってしまったから。彼が見つめていた遠い視線の先を。彼が最も欲しがっていたものを。―――彼が何よりも、求めていたものを。
「……可愛そうにね…君はその想いの為に自らを封印する事すら出来ない……。幾ら忘れたいと思っても、その執着の方が勝ってしまってね……。誰よりも覚醒が早かったのも、君が誰よりも彼を思っているからだ」
腕の中の、壬生の身体がぴくりと震える。そして次の瞬間、彼は咄嗟に御門の腕から逃れた。そして。
「―――でも、あのひとは僕を捨てたっ!」
「……壬生?…………」
見上げた壬生の顔は、まるで置き去りにされた子供の顔だった。
「優しくするだけ優しくして、僕を独りにしたんだ!!」
耐えきれないのか、壬生は拳をぎゅっと握り締める。そして、口の端から血が零れるのも構わずに強く唇を噛み締めて。
「僕を置いて、あのひとは独りで逝ったんだっ!!」
それだけを言い残すと、壬生は御門の制止も構わずに駆け出した……。
―――君は、独りじゃない。僕が傍にいるから。
ずっと、傍にいるから。だから泣かなくていいんだ。
もう、泣かなくてもいいんだ。
哀しい夜はこうして抱き締めて、あげるから。
「……嘘…ばっかり………」
何時のまにか壬生は、この学校の渡り廊下に来ていた。この、初めて如月と出逢った場所に……。
「……何が…ずっと傍に居るんですか……先に死んでしまったくせに………」
がくりと膝が折れて、壬生はその場に崩れ落ちる。その瞬間膝をしたたかに打ちつけたが、そんなもの気にもならなかった。気にする事すら、出来なかった。
「……僕を…置いて……僕を……庇って…………」
壬生は指が折れてしまうのでは無いかと言う程、力任せに拳を握り締める。爪が食い込んで、血が滴るのも気にせずに。
「………僕を…庇って……………」
知っている。それは如月が何よりも壬生を想っていてくれたからだ。何よりも自分を大切にしてくれたからだ。けれども。けれども、置き去りにされた自分はどうすればいい?自らのせいで大切な命を失った自分は。自分はどうすればいい?
「……あのまま…狂ったままで……いられたら…良かったのに………」
あの後、如月を失った自分はその想いの深さゆえに発狂した。新宿が東京が、護られて戦いが終わったのに。全てが終わったのに、自分は終わらなかった。そしてその想いを抱き続けたままで転生をした。現実に区切りを付ける事も出来ずに。だから、自分は封印が出来ない。その想いを消す事が出来ない。でも、けれども。
―――そんな事で消える程、自分の想いは単純では無いとも、また自分は知っている。
「…だったら…何で、貴方は僕を思い出さないのですか?………」
壬生の瞳からは耐えきれずに、透明な雫が一つ零れ落ちる。それから後は制御出来ずに、ただ零れ続けるだけだった。幾つもの筋となって頬を伝うだけだった。
「……僕を、思い出さないのですか?………」
自分だけがこんなにも、執着している。自分だけがこんなにも、彼を想っている。自分だけが……。それが壬生には何よりも、辛かった。そして哀しかった。
――――貴方が僕を想い出さない事に。こんなにも自分は彼を想っているのに。彼は自分の事などどうでもいいのだろうか?あの時くれた優しさは、同情だったのだろうか?それとも?信じたいと想う気持ちと、不安を感じる気持ちがごちゃまぜになって、今の壬生を支配している。そうして彼は正直に、素直になる事が出来なかった。それ程までに、自分は弱くなってしまった。余りにも彼を愛しすぎた為。余りにも彼が愛してくれた為。壬生は何も、見えない。
―――――何も、見えなくなってしまった。
――――貴方の優しさは、何よりも残酷だ。
傍にいて、抱きしめて。優しく、囁いて。
甘い口づけを降らせて。眠る事が出来るなら。
夢に堕ちてゆく事が、出来るなら。
全ての代償と引換えに、貴方を手に入れることが出来るなら。
「―――僕は、もう何も持っていないと思っていた」
ベッドサイドに置かれた細い金色のリングを、如月は自らのその手のひらの上に乗せた。
「…僕には他人を愛する資格も、愛される資格も……」
鈍く光るリングを見つめながら、如月は独白を続ける。いや、それは誰かに語っていたのかもしれない。
「……でも、こんなにも僕は想っている………」
資格とか、償いとか、代償とか。そんな言葉を全て投げ出しても。
「…こんなにも、君に焦がれている………」
それがどんなに重い意味だと分かっていても。分かっていても、如月には止められなかった。もう、止める事が出来なかった。
「生憎だね、紅葉。僕が唯一持っているのは君への想いだけだ。それを知っても君は、僕から奪うのか?」
――――この想いでも、奪うのか?
彼女は言った。貴方の優しさは何よりも残酷だと。けれども彼女は言う。判っていても、貴方が欲しかったわ、と。
――――漆黒に汚れた手でも、君を抱く事が出来るのだろうか?
End