――――誰も、傷つけたくは無かった。でも誰かを、傷つけてしまうのなら。それをどうやって償えば、いいのだろう?
愛していた。ずっと、もうずっと前から。
何事も無かったように、いやもう龍麻にとっても京一にとっても、それらは何の関係も無い事だった。彼らは壬生によって封印され、自分の前生も使命も記憶も消されたのだから。もう彼らは日常に組み込まれ、そして人間として一生を終える。何も気付く事無く。何も、知る事無く。けれども、それはどれだけ幸福な事だっただろうか?自分のようにしがらみだけで生きていく事に比べて。――――それはどんなに、幸せだっただろうか?
それでも、また壬生は知っている。自分がそのしがらみにしがみついていなくては、生きてはいけない事を。
「始めまして、如月翡翠くん」
御門晴明と名乗ったその男は柔らかい物腰で、けれども鋭い刃物を隠しながら如月の前に現れた。
「―――よろしく、御門」
校舎の外れに有る生徒会室は、殆ど人気が無くしんとした静けさが漂っていた。けれどもそれは両者にとって、都合良い事だった。
「私は回りくどいのは余り好きじゃないから、はっきりと言うけれど……君は『玄武』だね」
口元に柔らかい瞳を浮かべながら、御門は鋭く如月を見つめる。そんな彼の視線を全て如月は、受け止めて。
「ああ、そうだよ」
怖いほど、壮絶に。何よりも、綺麗に。彼は微笑った。
「ならば話は早い。私が誰だか分かっているだろう?」
「勿論だ。共に黄龍を護った者なのだから」
如月の言葉に、御門も微笑う。それだけで、全てが通じる筈だった。この二人、ならば。
「ならば、単刀直入に聞くよ。何故、君には『記憶』が無い?」
「―――」
「私等が、自分の使命が分かるのに、何故君には記憶が無い?いや違う…君がないのは前世の記憶だ。新宿を、東京を護ったあの時の記憶が」
自分が何の為に生まれ、そしてその『力』も目覚めているのに。何故、彼だけが記憶が無い?一番記憶を戻さなくてはならない筈の彼の記憶が。
「……それが、僕の償いだからだ………」
「………え?…………」
如月の言葉に、御門は戸惑いを隠し切れなかった。何故ならば、その時の彼が余りにも、切ない表情をしたので。どんな時にも前だけを見つめ、成功と栄光だけを手に入れた彼の。―――それは初めて見る顔だった。
「僕が犯した罪の、それが唯一の代償だからだ」
前だけを真っ直ぐに見つめている人だった。何時でもどんな時でも、その時点における最高の能力を発揮して。全てを失わずに、全てを手に入れてきた。彼には後悔と言う言葉も、過去と言う言葉も、似合わない。その瞳は何時も、未来だけを見ているから。そして彼は必ず手に入れる。綺麗な未来と、そして成功と勝利を。
「あれぇ、壬生。どうしたんだよ?」
久し振りに学校に現れたクラスメートに京一は、わざと大袈裟に驚いてみせる。
「久しぶりですね」
封印の事など何一つ覚えていない京一の様子に、壬生は心の中でほっと一安心する。
「でも、良かった壬生元気そうで」
そして隣に居た、龍麻にも。何も知らない顔で無邪気に見つめる彼の表情に、自分の封印が確実に成功した事を確認する。これで、全てが終わった。自分がすべき事の全てが。だから、これからは。
「……ああ…元気ですよ………」
これからは。自分の為だけに、生きていっても許されるだろう。
「僕には生まれた時から、許嫁がいた。如月家の嫡子として、家を継ぐ事が生まれた時からの自分の決められた道だったから。だから僕は彼女と将来を共にする事に、何の違和感も抵抗も無かった」
幼い頃から共に居た年下の従姉妹を。自分はそれが当然のように、受け入れたのだ。
「―――でも、それは違っていた。僕は彼女との結婚を『承知』していたが、『望んだ』訳では無かった。でも僕はその違いをただの違和感として…黙殺していた」
決まっていた自分の道を逆らう事は、両親を不幸にするだけしか無いから。だから、その道に進んだ。彼女と結婚する事が、全ての人の幸福に繋がるから、と。でも。
「ある日彼女が僕に言った。『貴方の優しさは残酷』だと。その気が無いのに、優しくするな、と」
「―――つまり、君は彼女を愛してはいなかった」
御門の言葉に如月は頷いた。その何気ない仕種ですら、絵になる男だと、思った。
「大切だと、護ってやりたいとは、思っていた。でも、愛してはいなかった。その時、既に僕のこころには誰かがいた。それは誰だか分からなかったけれど…でも…僕は、生まれる前から誰かを愛していた」
ただ、それが誰だか分からなかった。自分の良く知っている者であるような気もするし、そして自分の全く知らない者のような気がした。けれども、その想いだけははっきりと自分は自覚していた。―――誰かを確かに、想っていると。
「…その存在が分からないまま……いや、否定しながら…僕は彼女を受け入れた……。けれども彼女は、僕の気持ちに既に気付いていた……そして………」
「―――そして?…………」
如月の顔が変化するのを、御門は見逃さなかった。どんな時でも前だけを見ている彼の唯一の、後悔を。そして唯一の、挫折を。
「―――彼女は、自殺をした……。僕が永遠に手に入らないと理解して………」
「―――!!」
空気が、大気が、一瞬凍り付いた。無理も無い。如月の言葉は、御門さえも予想の出来ないものだったから。
「…自殺で無いね……僕が殺したようなものだから………」
他に愛している者の存在を知っていながら、彼女を受け入れたのは自分なのだから。その存在を理解しようとする前に。自分は目の前にある運命を受け入れてしまったのだから。
「…皮肉だな……僕はよりにもよって彼女の自殺と同時に、記憶が戻ったのだから。そして、自分が唯一求めていた者の存在も……。でもそれは許されない事だった。僕は彼女に償わなければならなかったから………」
「―――如月?…………」
目の前の如月の様子が微妙に変化する。そしてそれは次第に御門の目にも分かる程、はっきりとしたものへと変わる。そう、これは。この変化は………。
「……君……まさか…………」
明らかに今までとは違う。如月の纏っている空気が。明らかに、違う。この『気』は……。
「………記憶が…………」
この気は、この大気は明らかに『玄武』そのものだ。御門が良く知っている。莫大な『力』の放出。これが本来の四神の持つ力なのかと思うと、御門は背筋が震えるのが分かった。今までの如月は記憶と言う枷で本来の『力』の半分程にも達していなかった。けれども、今目の前に居る彼は完全に『力』が復帰している。となれば、彼の記憶が戻った事以外有り得ない……。
「―――如月っ?!」
突然如月の肢体が、床に崩れ落ちる。それを咄嗟に御門は支えようと手を延ばしたが、その手は寸での所で宙に止められてしまった。何故ならば。――――激しい光の洪水が、この世界を覆い尽くしたからだった……。
なにもかも 悲しく みえるけど
全ての時間が、止まったような気がした。全ての物体が、停止したような気がした。――――そして全ての時間が、還って来た気がした。
「―――如月…さん………」
壬生は机に必死にしがみつくと、手探りのまま前に進もうとする。けれども彼には、立っているのがやっとの状態だった。それ程、如月の…『玄武』の、力の放出は凄まじいものだった。四神と言われ、力において最強と言われた神々の。それは恐ろしいまでの放出だった。何とか最初の衝撃から立ち直って、回復した視力で壬生は辺りを見渡す。けれども周りの様子は、彼には予測しえない状態だった。
「――――え………」
全ての物体が、生物が、停止しているのだ。まるで時間が止まってしまったかのように。全てのものがそのままの形で、停止しているのだ。
「…どうして?……」
如月の玄武の『力』が放出すれば…それは我々の使命即ち、人類の大量殺戮に繋がる。けれども、人間は誰一人死んではいないのだ。ただ停止しているだけで。それは、有り得ない筈だった。有り得る筈の無い……。
「……まさか……如月さんの身に…………」
そう思った瞬間、動くのがやっと筈の壬生の身体は本能のままに駆け出していた。
――――優しくして、あげたかった。
衝撃から何とか立ち直ると、御門は素早く起き上がって目の前に倒れている筈の如月を見つめる。その瞬間、伸の身体が凍り付いたように停止する。
「―――我が名は、玄武。黄龍を守護する者なり」
「……如月………」
それは、神経の全てを奪われる程、壮絶で綺麗だった。『玄武』として完全に復活した彼は、今までとは比べ物にならない程、美しかった。太陽の光を吸収した髪も。どんな宝石よりも豪華な漆黒の瞳も。どれもこれもが完璧に、そして精巧に造られた美だった。綺麗だと、伸は思う。純粋に目の前の彼を綺麗だと。それは思考すら奪ってしまう程。でもその美しさは恐怖と髪一重だ。彼は綺麗過ぎる故に、他人に恐怖を生ませる。それが、我等が四神『玄武』だった。
「…いや…玄武……君は許されたのかい?………」
御門の言葉に如月はゆっくりと彼を見つめる。そして、力強く微笑って。
「――――いや、これからが本当の意味での僕の償いだ」
と、言った。
今なら、全ての説明を付ける事が出来る。自分が何故『彼』を思い出せなかったのか。そして自分がしなければ、ならない事を。全てが、説明出来る。
全てを償う為に、自分は大切な『者』の記憶を封印した。けれども、自分たちは出逢ってしまった。そして、消す事は出来なかった。いくら償いの為に、自分の記憶を封印しても。彼を想う気持ちを消す事だけは出来なかった。この罪の意識よりも、償わなければと言う思いよりも、なによりも。――――自分は紅葉を選んで、しまったのだから。
――――誰よりも、何よりも、大切にしたかった。
「…如月、さん……」
壬生は無意識に掠れる声を押さえながら、目の前に現れた人物の名を呼んだ。そんな彼に如月はひどく優しく、微笑って。
「―――遅くなってすまない…紅葉……」
自分の記憶が、戻った事を告げる。そして。そして彼を抱き締める為に、その広い腕を延ばした。
「如月さん―――っ!!」
もう、何も考えられなかった。裏切られたと言う想いも。許せないと言う想いも。全て。全てがどうでも良かった。こうして貴方が傍にいてくれるだけで。こうして貴方が僕に手を差し延べてくれるだけで。―――それだけで。それだけで、良かった。
「……如月さん……如月…さん……」
堪えきれずに、壬生は如月の腕の中で泣きじゃくる。そんな彼をあやすように、宥めるように。そっと髪を、背中を撫でてやる。その全てが、自分のものだった。自分が最も望んだものだった。自分が、欲しかったものだった。
「……ごめんね……紅葉………」
如月の言葉に。壬生は小さくだけどもはっきりと頷いた……。
このまま時を止める事が、出来るなら。自分は何もかも失ってもいい。
こうして永遠にふたりで居られるなら。どうなっても構わないから。
だからお願いします。この人を自分から、奪わないで下さい。
この人を自分から、引き離さないで下さい。それだけが。それだけが、望みだから。
それだけが、唯一の望みだから。――――誰も僕から彼を奪わないで、ください。
End