―――愛していると、貴方が口にした時。ふたりの間で何かが、変わった。
紅葉がこの家に来てから一ヵ月が過ぎていた。その間殆ど掛かりきりで如月は、彼に様々な事を教えた。紅葉が全く知らなかった『外』の世界を。
如月は出来る限りの範囲で彼に教えたのだ。彼がこれから生きて行く為に必要な知識、全てを。
子供の時間に終わりを告げる時、一体僕は何を失うのだろうか?
「相変わらず、凄い可愛がりようだなー」
雪乃は楽しそうと笑いながら、ソファーに座る如月に向かって言った。その彼の膝の上には、さらさらの黒い髪が乗せられていた。
「天下の飛水流の跡取りが膝枕なんて…女達が見たら歯ぎしりするぜ」
「僕は、そんなはしたない女性は、好みでは無いけれども」
「そうだよなっ。お前の好みは、子供みたいに無邪気で素直な男の子だもんなー」
雪乃の視線が如月の膝の上で眠る紅葉へと向けられる。安心しきった彼の寝顔は本当に無邪気な子供のそれだった。
「全く、優しい顔しちゃってよー本当に大事にしているんだなー」
「当たり前だよ」
紅葉の髪を撫でてやりながら、如月はきっぱりと雪乃に告げた。いつもこうだ。
彼は真実しか言わない。どんなにポーカーフェースを作っても、その瞳だけは真実を告げている。
「でも如月、いくら大事にしてもいくら想っても、こいつは男だぜ。結婚は出来ないぜってその前に義兄弟だから無理だけどな」
「―――君とならば、結婚は出来るね」
「俺らの父はそれを望んでいるぜ。お前と俺もしくは雛乃が結婚すれば飛水流とこの財産が手に入るもんな…でも」
雪乃の視線が再び、紅葉へと移動する。無垢な真っ白な彼へと。
「でも俺は形だけの結婚なんていらねーよ。雛乃はお前ならそれでもいいって言うけどな。あいつはお前の事好きだからよー。でも俺は心が無ければいやだぜ」
「ならば僕は、失格だね」
如月の言葉は決して嘘では無い。彼ならば言葉通り紅葉を護り続けるだろう。永遠に、彼抱き締めるだろう。
「…全く…こんなにいい男が一生独身で過ごすなんて…世の中って理不尽だぜっ」
「仕方ないだろう?こればかりは」
「まあ、こいつを連れて来た時から、そんな事分かってたけれどさー。雛乃が哀しむぜ」
「ごめんね」
そう言いながらも如月の表情はちっとも済まなそうでは無いのが少し、憎たらしい。割り切ってはいるのにやはりどこかでムカついてしまう。雛乃よりも選ばれた紅葉に。如月を手に入れた彼に。
どんなに女達が手を差し出しても、どんなに捕まえようとしても、決して捕らえられなかった如月。そんな彼を唯一手に入れたのはこんな子供のような少年で。女ならば誰だって、嫉妬してしまうだろう。それ程に如月は魅力的な男なのだ。男にとっての最高の条件を全て兼ね備えた彼。こんなに完璧な人物はどこを捜しても存在する訳が無い。存在する訳が無い。
「やっぱお前って天下の女たらしだぜ」
「僕にはその様な覚えは無いけれども」
「自覚が無いから、始末に終えねーんだよ」
お前の前でならどんな絶世の美女だって、身体を自ら開いてしまう。どんな女だって、彼に跪いてしまう。どんな女だって、彼に狂わされる。
「でも、しょうがねーよな」
「どういう意味だい?」
「―――だって、望むのはいつも女の方だからだよっ」
如月が欲しいと思うのも、如月に抱かれたいと思うのも、いつも女の方だから。
「君も、僕を望むのかい?」
「…そうだな…下手な女に渡すぐらいなら、俺がお前を奪おうと思うけれどよ…相手がこいつじゃ、ね………」
吸い込まれそうな夜の瞳。まるで綺麗な夜空だけを切り取ったような。そして、真っ直ぐな心。何者にも染まっていない心だからこそ、紅葉は如月にしか染まらない。
「俺が奪ったら、こいつがかわいそうだしな」
そう言って笑う雪乃に、如月は口元を微かに綻ばせる事で答えたのだ。この、聡明で賢い従姉妹に。
「……ん…………」
紅葉の瞼が微かに揺れて、ゆっくりと開かれる。それはまるでスローモーションを見ているようだった。
「―――起きたかい?紅葉」
「……あれ…僕………」
未だ意識が朦朧とするのか、ぼんやりとした表情のまま紅葉は如月を見上げる。そんな彼に、柔らかく如月は笑って。
「余程外に出て疲れたらしいね。ぐっすりと眠っていたよ」
如月の言葉に少しづつ紅葉の記憶が蘇ってくる。
確か今日は如月さんに『動物園』と言う場所に連れて行って貰って…そして、そのまま家に帰って来て疲れて眠ってしまったんだ。それも如月さんの膝の上で。
「ごめんなさい、如月さん」
突然がばっと膝の上から起き上がる紅葉に、如月は苦笑を隠し切れない。
「謝る事はないよ。ここは、君だけの特等席だ」
そう言うと如月は紅葉の髪を撫でながら、彼をそっと抱き締める。その腕は、とても優しくて。
「…如月さん……」
「何?」
「…僕の事…好きですか?……」
「ああ、好きだよ」
ここの所良く紅葉はこの言葉を自分に尋ねてくる。まるで確認でもするように、何度も。だからその度に如月は答えてやる。―――君を、愛していると。
「誰よりも、愛している」
そして拒まない唇に口づける。それは未だ触れるだけの優しい口づけだけど。
「……僕も、です………」
―――今はそれだけで、充分だった。
如月の手を取って、ここへ来てから一ヵ月が過ぎていた。今まで家の中と龍麻しか知らなかった紅葉にとって如月から与えられる世界は、全てが未知の世界だった。
それらは本当に自分が漠然として知っていた知識とは遙かに異なるものだったのだ。その広くて冷たい世の中と言うものは。
けれども紅葉は一生懸命だった。早く『大人』の如月に追いつきたくて。彼と同じ場所に立ちたくて。紅葉は懸命に如月に教えられる世界を吸収していったのだ。でも。
「……………」
紅葉は中々寝付けなくて、もそりとベッドから起き上がった。そして視線を四角く区切られた窓の外へと移動する。そこには三日月がぽっかりと浮かんでいた。
「……如月、さん………」
その名前を呟く時、いつも紅葉は微かな胸の痛みを伴う。それは多分一生消える事が無いだろう。
自分が如月を『好き』でいる限り。でもこんな胸の痛みすらどうでも良くなってしまう程、如月が好きだと壬生は自覚していた。それがもう自分では、どうする事も出来ない程の想いだと言う事も。
今までの自分が何を考えて何を思っていたのかすら、思い出せない程に自分は『如月』と言う存在で埋もれている。こんなにも好きで、こんなにも欲しくて。時々言葉では足りなくなるくらい、如月を求めてしまう事がある。でも、紅葉にはどうしていいのか分からないのだ。どうすればこの『飢え』にも似た想いを満たす事が出来るのか。
―――紅葉には未だ、その手段を知らなかった。
「…大好きです……」
言葉で幾ら伝えても、この気持ちには追いつかない。追いつけない程に、自分にとって如月と言う存在は大きくなってしまった。本当に今自分が彼を失ってしまったらならば、もう生きて行く事なんて出来はしないだろう。いや、出来る筈が無い。
僕が貴方の手を取った瞬間から、僕の全てが貴方と言う名のもの全てに傾いてしまったのだから。
「……本当に…好きなんです………」
初めて自分に外の世界を教えてくれた人。初めて自分に想いを教えてくれた人。
―――初めて自分に『恋』を、教えてくれたひと。
龍麻を好きだと言う気持ちとは全然違う、この強い感情。その腕を、瞳を誰にも渡したくなくて。自分だけのものに、したくて。
そうこれは、『独占欲』だ。恋よりも愛よりも醜い独占欲。でももう、止められない。
止められるくらいならば、初めからその手を取らない。止められるくらいならば。初めから、無理だった。自分の前に彼が現れた時から。もう、無理だったのだ。
―――でも未だ自分は、その想いを満たす術を知らない。
あれからすっかり目の冴えてしまった紅葉は、そっと部屋から抜け出すと庭先へと向かった。この広すぎる屋敷の庭は、まるで森のようでひどく紅葉のお気に入りの場所になったのだ。
「―――ちょっと、寒いや………」
パジャマのままで外に出るのには、未だ季節は早かった。けれども何となく取りに戻るのも憚られて、紅葉はそのままで庭の芝生へと足を踏み入れる。―――その時、だった。
「……紅葉?………」
紅葉の視界を一面の優しさが染める。それは紅葉が何よりも大好きな、如月の瞳だった。
「……如月、さん………」
「おいで、紅葉」
差し出された腕に導かれるように、紅葉はその腕の中へと飛び込んでゆく。その広くて優しい腕の中へ。初めて出逢った時と同じように。
「身体が、冷えているよ。何時からここにいたの?」
冷たくなってしまった身体を暖めるように如月は抱き締めながら、何度も紅葉の柔らかい髪を撫でてやる。その感触に紅葉の瞼が、震えた。
「……ついさっきからです……何だか眠れなくて……如月さんは?」
「僕は、月が綺麗だったから。眠るのが惜しくなってね」
そう言って如月は、紅葉だけに見せる綺麗な笑顔を向ける。それに自分が気付いたのはついこの間の事だったのだが。
気付いてからはその笑顔をされるたびに、胸の奥がひどくざわめいた。
「…本当です…綺麗ですね……」
紅葉はその胸のざわめきに耐えられなくなって視線を、空へと移動する。漆黒のカーテンからぽっかりと発光する月は、ひどく儚げで夢のようだった。
「……でも…君の瞳の方が…綺麗だよ……」
「―――え………」
紅葉がその言葉を理解する前に、如月の唇が盗むように自分のそれに触れる。そしてそのまま頬に手を当てると、自らの方へと向かせた。
「君の瞳に、月が映っている」
「……如月さん………」
「綺麗だよ」
そう言って如月は紅葉の瞼にそっと、口付ける。その瞬間、瞼が微かに震えた。
「……貴方も、綺麗です………」
紅葉の指先が如月の極上の感触を与える漆黒の髪へと絡まる。そしてゆっくりとその瞳を、見つめて。
「その髪も瞳も全部、綺麗です」
震えながら、紅葉は如月に口付けた。いつも彼が自分にしてくれたように。それは紅葉からの初めてのキス、だった。
「―――」
その紅葉からの行為に一瞬だけ如月の瞳が見開かれ、そして次の瞬間には何よりも綺麗に微笑った。
「……僕、これしか知らないから……」
「……紅葉?………」
「貴方に僕の気持ちを伝える方法、分からないから」
そう言って紅葉は如月にぎゅっと抱きついた。その子供のような仕種に、如月は苦笑を禁じえない。誘うような口振りをしながら、その中身は未だ未だ子供の紅葉。けれどもその動作が余りにも必死だったから。
「…嬉しいよ…紅葉………」
如月は何よりも綺麗で優しい笑顔で、紅葉に答える。そんな如月に紅葉も、笑って。
「僕も嬉しいです。貴方が喜んでくれるなら、何でも嬉しいです」
「おかしな事を言うね、君は」
「おかしいですか?でも僕は真剣なんです…だから……」
不意に紅葉の瞳の色彩が変化する。それは如月が初めて見る彼の瞳の色彩だった。そうそれは、自分によって造り出された彼の瞳の色彩。
「……だから…僕は貴方が喜ぶ事は…何でもしてあげたい……」
如月に出逢って初めて知った想い。それは綺麗なだけの想いではなかった。けれどもそれは本物の心だった。この醜いまでの独占欲も、我が儘な想いも、だけどそれは全部自分の正直な想いだった。本当の心、だった。
「―――何でもかい?」
無邪気で無垢で真っ白な紅葉。けれども彼は確実に染まっている。自分の色彩へと、自分の存在へと。紅葉は、染まってゆく。
「……はい………」
如月の言葉に紅葉はこくりと、頷いた。その動作を見送りながら、如月はひどく悩んだ。
多分紅葉は何も知らない。自分の言った言葉の意味を。そしてこれから自分が行うであろう行為の意味を。けれども。
「紅葉、僕は君に綺麗なだけの想いをやる事は出来ない。君への僕の想いは、そんな安ぽいものじゃないと…僕は自覚しているから」
けれども、確かに自分は紅葉を求めていた。この腕に抱き締めて、自分だけのものにしたいと言う想いを否定出来ない。それ程、紅葉を愛していたから。
「だから僕は君の言葉を、利用してしまうよ」
「……如月さん?………」
不意に強く抱き締められて紅葉は戸惑いを隠し切れない。けれども同時に、感じていた。如月の強い想いを。それが自分を幸福にさせる。そして。
「―――君を僕にくれ」
「……如月さん?………」
「……心も、身体も、君の全てを僕に………」
その言葉がまた、紅葉を幸福にさせる。その言葉は裏を返せば、自分が何よりも望んでいた言葉だったから。自分も、欲しかったから。彼が、彼の全てが。
「……はい………」
如月の言葉に紅葉は微かに頷いた。それは本当に見逃してしまう程、小さな動作だったけれども。如月には充分に伝わったから。
「―――ありがとう、紅葉……」
如月はひどく優しく、紅葉にそう告げたのだ。
怖くは、なかった。如月の告げた意味を、その行為を全く知らない訳ではなかったけれど。
――――でも、怖くはなかった。
相手は如月さんだったから。他でも無い如月さんだったから。
僕は何も怖くはなかった。何も脅える事も、何も不安になる事も、なかったのだ。
―――ふたりして、夜の波を渡った。
紅葉の爪が如月の背中へと食い込む。その爪が白く染まってしまう程に、きつく。
「…あっ…あぁ……」
初めて他人を受け入れた器官は、容易に如月を受入れはせずに紅葉の形良い眉を歪ませた。
「……紅葉………」
「…如月…さんっ…あぁ…」
そんな彼を宥めるように如月は何度も口づけながら、指を滑らせて快楽の火種を煽ってゆく。痛みと快楽を、擦り代える為に。
「…紅葉、愛している……」
声が、降ってくる。紅葉の耳元に当麻の身体に、心に。彼の声が、降ってくる。
「…ああ…あ……」
この焼けるような熱さも、気が狂うような感覚も、全てが如月さんによってもたらされるものだから。この身体が受け入れているのは、他でも無い如月さんだから。
「…愛しているよ、紅葉……」
全身が溶けてしまいそうだった。いや、溶けてしまいたかった。溶けてしまって何も彼も
無くなって彼と一つになりたかった。
「…きさらぎさんっ…きさら……」
もう紅葉には何も分からなかった。ただ彼の鼓動を彼の存在を感じるだけで。それだけで、もう。
「……紅葉………」
「――――ああっ!」
視界が一瞬真っ白に染まったかと思った瞬間、二人は同時に欲望を吐き出していた。
――――一生懸命に追いつくから、一緒に連れていってください。
「……気が付いたかい?………」
重たい瞼を開いた先に少し心配そうな如月の表情が飛び込んでくる。そんな彼を安心させたくて、紅葉は笑った。しかしその瞬間腰に鋭い痛みが走って、その笑顔はすぐに壊れてしまったが。
「大丈夫か、紅葉?」
「……少し…痛いかも…しれないです……」
「…ごめんね…出来る限り優しくしたつもりだったけれど……」
心底心配そうな表情をする如月が堪らなくて、紅葉は一生懸命に微笑う。そして彼の首筋に指を絡めて。
「…大丈夫です、そんな顔しなくても。僕、平気ですから……」
「……でも………」
「…大丈夫です、貴方だから……」
「……紅葉………」
これは自分が望んだ事だから。貴方を独りいじめしたくて。貴方の存在が欲しくて。そして、貴方とひとつになりたくて。
「僕、未だ子供ですか?」
「―――え?」
不意に尋ねられた紅葉の質問に、如月は疑問符を隠し切れない。そんな彼に少しだけ不安そうな表情で紅葉はもう一度尋ねた。
「…如月さんにとって僕は、未だあの家の中に居た時の子供なのですか?……」
初めて紅葉に出逢った時、如月は言った。『君は何も知らない子供のようだね』と。紅葉は、その言葉を全て覚えていた。初めて出逢った時に交わした言葉の一つ一つ。その全てを。紅葉の記憶は『如月』と名の付くもの全てで埋まっていた。
「……僕は…未だ小さな子供ですか?………」
「―――いいや………」
今にも泣きそうな紅葉の表情に安心させるように如月は、綺麗に笑って。そして。
「君は子供じゃないよ。僕の大切な『恋人』だ」
「……如月、さん………」
「僕の大事な恋人だよ」
そう言って如月はそっと紅葉を抱き締めた。その腕の広さと優しさに、ひどく安心して。そして。
「…こうしているのが、何よりもの証拠だろう?……」
甘いキスを紅葉に、くれた。でもそれは今までのただ触れるだけのキスとは違うものだった。
「それに約束したよね。君を一緒に連れてゆくと」
それが龍麻との約束だった。自分では紅葉を子供のままで置いてゆく事しか出来ない龍麻との。それが、約束だった。
「僕がちゃんと、君を『大人』にするとね」
大人になってしまった自分だからこそ、それが可能だった。一つ先に行って君を導いてやる事も、振り返る事も出来る。
そして自分には、紅葉を想う心がある。何よりも大切に想う心が。
―――だから、紅葉を連れて行く事が出来る。
「―――如月さん………」
紅葉の瞳が微かに濡れていた。それは如月の気のせいだったのだろうか?
「……何だい?………」
「……ありがとうございます………」
それだけを言うと紅葉は瞼を閉じて、如月の腕の中へと滑り込んだ。如月は返事を返す代わりにそっと彼を抱き締める。
―――一緒に連れて行ってくれて、ありがとう。
子供の時間が終わって、紅葉が手に入れたものは何よりも優しいこの『愛』だった。
End