紅葉は、幸福だった。この男に捕らえられて、支配者の、当然の権利の如く凌辱されても。―――自分は、幸福だったのだ。全てを奪われても。全てを失っても。それがこの男によってならば。決して手に入れる事が出来ない存在。決して触れる事すら許されない存在。そんな彼が、自分に触れて、自分を手に入れたのだ。それが幸福で無いとするならば、一体何と呼べばいい?彼の視線に貫かれ、彼の腕に閉じ込められて。紅葉は何よりも幸せだった。
――――何よりも誰よりも、幸せだった。
「君は何も、望まないのんだね」
あれから一ヵ月余りが過ぎていた。しかしここでは時間すらも紅葉に忘却させていた。いや、もう自分には時間すら関係無かった。
「欲しいものが、無いんです」
ベルベットの感触がする翡翠の口づけを受けながら、紅葉はくすくすと楽しそうに言った。
「無欲だね」
豪奢なソファーの上に座っている紅葉を抱きしめながら、翡翠は言う。当然のように彼の背中に手を廻して。
「…まさか…僕程強欲な者はいませんよ…」
「―――何故だい?」
翡翠の問いに紅葉は、答えなかった。答える事は、出来なかった。何故ならば。それを言ってしまえば、自分はこの幸福を失ってしまうかもしれないから。だから。
「…翡翠……」
濡れた声で、紅葉は彼の名を呼ぶ。それは翡翠が教えたものだった。彼が教え込んだ紅葉は、一匹の獣だった。
「こんな昼間から、かい?」
くすくすと笑いながら、翡翠は言う。しかしその笑みは拒否をしてはいなかった。決して彼は自分を拒否した事が無い。そう、初めの約束通り…彼は自分の望みを全て、叶えてくれる。
「…昼間だから…スリルが、あるんでしょう?……」
「―――君は、いい子だね」
翡翠の腕が紅葉の腰を掴み、そのままソファーへと押し倒す。その重みを感じながら自分は、背中へと手を廻した。そして。
「…いい子だね、紅葉……」
――――二人は、貪るように、口付けた。
抱かれている時が一番、幸せだった。
その瞬間は確かにその瞳は。その声は、僕だけのものだから。
僕だけを見つめてくれて。僕だけを考えてくれるから。
貴方が、自分だけのものになるから。僕の望みは、それだけだった。
―――望みはそれだけだったのだ。
僕が欲しいのは『貴方』だけだから。けれども。それだけが決して叶わない。
いくら貴方がどんなに僕の望みを叶えてくれても。
どんなに欲しいものを与えてくれても。
どうしてもそれだけは、手に入れられないものだった。
だって自分は、知っている。
それを言ってしまったら、この関係が終わってしまう事を。
僕と貴方は決して対等では無いから。支配する者と支配される者だからこそ。
貴方は僕を抱き、僕から全てを奪う。でも対等になってしまったら。
――――このままでは、いられない……
「―――帝王」
「何だい?雪乃」
玉座に腰掛ける翡翠に跪きながら雪乃は彼に一礼すると、顔を上げてその秀麗な容貌を見つめた。
「帝王は彼を、どうするつもりだい?」
雪乃の問いに、翡翠の瞳が一瞬光る。しかしそれは本当に一瞬の事で、次の瞬間には何時もの冷静な表情へと戻っていた。
「僕のものにする、そう言わなかったかい?」
「それは分かってるよっでもっ!」
「―――示しが、付かないのかい?」
翡翠の言葉に惹雪乃はきっぱりと頷いた。その通りだった。開放王とも言われる彼は、決して罪の無い民衆を捕らえる事はしないのだ。まして紅葉はただの一介の少年だ。そんな紅葉を捕らえあまつさえ夜の相手をさせるなど。それではただの暴君とは変わらなくなってしまう。それは帝王の名を傷つけるものだった。
「帝王とあろう者が気まぐれなどとは、度が過ぎるぜ。どうか彼を保釈してくれよ」
「…気まぐれでは、無いよ……」
「―――帝王?……」
「聞こえなかったかい?気まぐれでは無いと言ったんだよ」
「帝王っ!」
雪乃の切羽詰まった声が室内に響く。しかしこの部屋に居るのは生憎二人だけで、虚しく声が反響するだけだった。
「あれを初めて見た瞬間から、手に入れたいと思った。手に入れてそして………」
「……………」
ゆっくりと翡翠は玉座から立ち上がる。そして跪く雪乃の横を擦り抜けて。
「―――愛してやりたいと、思った」
―――そう初めから、愛していた。
あの戦いの中で、自分を痛い程見つめる視線があった。無数の人だかりの中で、何故かその視線の主だけが鮮やかに自分の瞳を捕らえた。その夜空よりも深く、海よりも透明な。その漆黒の瞳が。人々が争い合う中で、ただ立ち尽くしたように自分を見つめるその瞳が。
だから翡翠は、捕らえた。逃げも隠れもしない彼を、翡翠は捕らえた。何もかも奪う代わりに、何も彼も与えて。それでも、未だ。紅葉は自分にあの時の視線を向ける。未だ何か足りなさそうに。未だ何かを欲しそうに。
――――紅葉は、翡翠に求めていた。
「―――失礼いたします」
丁寧にノックをして、雛乃は紅葉の部屋へと入って来た。翡翠から与えられた部屋は、この宮殿の最も奥にある一番静かな場所だった。この部屋に居る時は、紅葉は何をしても自由だった。ここで何をしようが彼の勝手だった。でも。こうして雛乃が紅葉の世話役を任されてから見掛ける彼は、ここで何をする訳でも無くて。いつもぼんやりと椅子に座って外を眺めているだけだったのだ。
「何か今、不自由しているものがありますか?」
「――――いいえ」
「では今何か、欲しいものは?」
「―――何もないです」
いつもの問いに、紅葉はいつものように答える。帝王の情人ともなれば欲しいものも、何でも思い通りになると言うのに。この漆黒の瞳の彼は、何一つ望まないのだ。何一つ望まずに、かと言って自分の立場を哀しんでいる訳でも無く、ただ。ただこうして。
「…戦争……」
「…え?……」
紅葉の呟きが聞き取れなくて、雛乃は聞き返す。そんな彼女に紅葉は何とも取れる表情を浮かべながら。
「また、戦争が始まるのですか?」
「私には分かりません。それは帝王がお決めになる事ですし」
「―――そうですか……」
「あの、それが何か?」
「…いえ、いいんです。あの人だって色々忙しいし……」
雛乃はその言葉を、その声を、見逃さなかった。まるで捨てられた子猫のような瞳で、哀しそうに笑った彼の顔を。そして彼の言葉の裏に隠された意味を。
「…紅葉、様……」
雛乃は意を決したように、彼を見つめる。そして覚悟を決めたように尋ねた。
「―――何?」
「紅葉様は、帝王を愛しておいでですか?」
雛乃の言葉に紅葉は微笑う。それはひどく、自虐の笑みだった。
「…僕は…捕虜です、雛乃……」
「―――でも……」
「そして、あの人は帝王です」
いくら名前で呼ぶ事が許されても。いくら望みを叶えてくれても。でもそれは、契約だから。自分が彼の捕虜になると言う。彼が自分の支配者だと認めると言う。
「僕はあの人の命じられた通りにならなきゃ、いけない」
だから愛してはいけない。だから望んではいけない。彼は帝王だから。彼は誰のものにもなってはいけないのだから。だから。
「そんな感情すら、僕には許されない」
「―――紅葉様………」
「何?」
「今、紅葉様は幸せですか?」
雛乃の問いに紅葉は微笑った。それは先程見せた自虐の笑みでは、無かった。ただ純粋に、幸福な笑みを浮かべていたのだ。
「…戦争、するのですか?……」
乱れたシーツの上で絡み合うように抱き合いながら、紅葉はぼそりと呟いた。
「―――君は戦争が嫌いなのかい?」
紅葉の柔らかい髪を撫でてやりながら、翡翠は細いその肩を抱きしめた。
「…戦争が好きな人なんて、いないですよ…でも………」
「―――でも?」
「この不公平な世の中を変える為ならば、仕方無いと思います」
「僕は争うのは、嫌いだ」
「…翡翠?……」
「本当ならば、こんな事はしなくても世の中は変えられる筈なのに。
でも僕には生憎、変えるだけのものを持ってはいなかった。だから、力に頼った」
何も持っていなかったから、それを手に入れる為に実力行使をした。でもそのせいで無関係な人々までも、傷つけてしまった。
「僕は、天国へは行けないね」
「…翡翠……」
「どうしたの、そんな顔をして?」
ひどく驚いた表情をする紅葉に、翡翠は優しく尋ねる。しかし彼は首を左右に振ると、いきなり翡翠に抱きついた。
「―――紅葉?……」
「貴方は、帝王ですっ」
爪が白くなってしまう程、力の限り紅葉は翡翠を抱きしめる。そんな彼にひどく優しい手で、背中を撫でてやった。
「誰もが望んでいる世界を、造る事が出来るのは貴方だけです。貴方は、特別ですっ」
「でも僕は、人を殺した」
「それでもっ、人々は皆貴方を望んでいますっ!」
本当は祇孔や龍麻達が、この帝王に自国を滅ぼされる事を望んでいたのを知っている。この腐敗しきった国を建て直してくれるメシアを望んでいた事を。人々の心の中にこの帝王を、望んでいた事を。自分は、知っている。
「―――君は?」
「…え?……」
「君はどうなんだい?紅葉」
翡翠の手が紅葉の頬に掛かり、強引に自分へと向かせる。その強いの視線に全身を貫かれ、胸が痛かった。この鋭く尖った視線に貫かれ。でもそれはひどく、甘美だった。
「君も僕を…『帝王』を望んだのかい?それとも……」
翡翠の視線が消えたかと思うと、不意に口づけられた。それは噛みつくような口づけで。
「それとも、君は『僕自身』を望んだのかい?」
紅葉の瞳が驚愕で見開かれる。それは翡翠が初めて知った彼の表情だった。無防備な、子供のような瞳で。今にも泣きそうな瞳で。
「………ま、ない…………」
「…紅葉?……」
「……僕は…何も……望まない………」
望める筈がない。望んだら、終わってしまう。この幸福な時間が。この幸せな時間が、終わってしまう。終わって、しまう。
「―――そうかい……」
翡翠の声はひどく、胸を締めつけた。けれども俯いてしまった紅葉には、分からなかった。このセリフをどんな表情で彼が言ったかを。どんな表情で、言ったかを。翡翠の手が紅葉の髪に掛かり、そのまま顔を上げさせる。そして拒まない唇に口付けた。――――その口づけは何故かひどく、切なかった。
「…あぁ…」
綺麗な紅葉の喉がそりかえる。その白いラインに翡翠は、口付けた。
「…はぁ…あ……」
翡翠の手によって慣らされた身体は、いつのまにか与える快楽を追う術を覚えていた。ゆっくりと侵入する彼を逃がさないようにと、紅葉のそこは無意識に締めつける。
「…ああ…あぁ…」
「…紅葉……」
紅葉は翡翠の手によって変化していく。無垢な身体に自分を教え込ませ、淫らな獣へと。―――彼は未知の世界へ自分を連れていく。
「…ひす…いっ…あぁ…」
紅葉の爪が翡翠の背中へと食い込む。そこから紅い血が滴る程に、きつく。
「…あぁ…あ…あ…」
紅葉の背中がしなる。その背筋のラインを翡翠は指で辿りながら、より深く彼を求める。
「…あぁ…んっ」
眩暈すら起こしそうな、エクスタシー。男に貫かれる事がこんなにも快楽だとは、紅葉は知らなかった。でも、それは。
「…ひす…い…ああ…」
この人でなければ、ならなかった。この人でなくては、いけなかった。他の誰に抱かれても、こんな激しいエクスタシーは感じられない。この人で、なくては。
「―――紅葉、君は…」
紅葉の背中が極限まで撓う。ばりっと音を立てて、翡翠の背中を引っ掻いた。
「…何故……」
翡翠の腕が紅葉の腰を引き寄せる。そして最期を促すように、深く貫いた。
「―――ああっ!」
その刺激に紅葉の意識は、弾け飛んだ。翡翠の最期の言葉を聞き終える前に……。
End