太陽の瞳/3


―――いくら奪っても、きりが無かった。君は次々に色々なものを僕の前に差し出す。奪っても奪っても、君は次から次へと新たな一面を出してくる。きっと永遠に君を全て奪う事は出来ないのだろう。きっと永遠に君に全てを与える事は出来ないだろう。
それでも。それでも、僕は。彼を奪い続け、彼に与え続けなければならない。それ以外に、方法は無かったのだから。


―――――ひどく、胸が痛んだ。


「―――紅葉を、返して下さい」
漆黒の瞳が真っ直ぐに雪乃を貫いた。その視線の意思の強さに、思わず自分が目を奪われてしまう程に。
「……帝王が、俺らを開放して下さった事はとても感謝しています……まして、俺たちにこんなに色々な事をしてくださったのも……でも………」
龍麻はギュッと唇を噛み締めた。仲間である自分達は全て開放され、今まで味わえなかった自由と言うものを満喫しているのに。それなのに、紅葉だけが未だに閉じ込められている。開放王である筈の、帝王に。
「―――何の罪の無い紅葉を、閉じ込める事は無いと思います」
龍麻とて帝王の噂や人の成りは知っていた。敵には全く容赦は無いが、味方と弱い人々には優しいと。決して罪の無い民衆たちに不当な事はしないと。だから祇孔も自分も心の底から彼に開放される事を望んでいた。例えその為に戦争が起きたとしても。今までの生活に比べたら、遙かにその方が希望があったのだ。でも。
「……お願いします。俺たちだけが、自由になって紅葉がこんなめにあっているのを俺は耐えられないのです………」
龍麻は深々と頭を下げ、雪乃に哀願した。そんな彼に頭を上げるように促して、そして何とも言えないような表情で龍麻を見つめる。そして。
「…おめーの気持ちは良く、分かるぜ。俺もそう思っていた。でも……」
「―――でも?」
――――愛してやりたいと、思った。雪乃の脳裏にあの時の言葉が駆け抜ける。帝王は確かにそう、言ったのだ。強い意思を持った瞳が、真っ直ぐに自分を貫いて。
「…いや、何でもねーよ。お前の主張は帝王に伝えとくぜ……」
「本当ですか?!」
ぱっと嬉しそうに笑った龍麻の姿を見て、なぜか雪乃は苦しかった。そして再び帝王の言ったあの言葉が脳裏に、浮かぶ。―――――愛してやりたいと、思った……、と。


「戦争が、始まります」
紅葉の、部屋の花瓶の水を取替えながら、雛乃は躊躇いがちに言った。
「…そう、ですか……」
紅葉は相変わらず窓辺の椅子に腰掛けながら、外をぼんやりと見ていた。雛乃の問いに答えても、振り向く事はしないで。
「帝王が望まずとも、戦いは起きるものですね」
開け放たれた窓から風が吹いて、紅葉の細い髪を揺らす。それが雛乃の瞳に、ひどく焼き付いた。
「―――何故、帝王が戦いを望まないと分かるのですか?」
「…分かりますよ……」
雛乃は、柔らかく笑った。その表情を紅葉が見る事はしなかったが。でも、何故か自分には今彼女がどんな顔をしているか分かる気がした。
「帝王は、誰よりも優しいお方ですから」
そう、誰よりも何よりも優しかった。敵には容赦無く残忍とも言える彼は、味方にはそして罪の無い人々には、とてもとても優しかった。そして。
「帝王は貴方をとても、大切にしています」
「…雛乃?……」
初めて、紅葉が振り向いた。今まで決して振り向かなかった、彼が。
「あの方は、気まぐれや手段の為に貴方を捕虜になさる方じゃありません」
「―――――」
「帝王は、きっと貴方を愛しておいでです」
「…………嘘、だ…………」
「嘘か誠かは貴方が一番知っている筈です。それとも貴方は見ていなかったのですか?」
「……見る?………」
「帝王の心を、帝王の気持ちを、見ていなかったのですか?」
「…………」
「見て上げて下さい。信じて上げて下さい。帝王の気持ちを」
「……嘘だ……僕は………」
太陽の下で輝いていた漆黒の瞳と、光すら反射しと強い視線。初めて見た時から、瞳に焼きついて。焼きついて、そして渇望した。ただ手に入れたくて、ただ欲しくて。その欲望は無限地獄のように、自分に押し寄せて。そして今でも、紅葉は潤う事無く『翡翠』と言う水を欲している。でもそれは禁断の水だ。自分が望のが許されない筈の。許されない、筈の。
「……僕は…ただの…『捕虜』で………」
「ただの捕虜に全ての望みを叶えるなんて、そんな事普通言うと思いますか?」
「……翡翠に…全てを奪われた…捕虜で………」
「でも帝王は、貴方に全てを与えてくれたでしょう?」
「……貰って…無い………」
紅葉の身体ががくりと、椅子から落ちる。そしてそのままその場にへたり込んでしまった。
「紅葉様っ!」
そんな紅葉に雛乃が駆け寄る。しかしその手は紅葉の肩に掛かる前に、宙に止まってしまった。―――無理も、無い。紅葉の夜空の瞳からは、せきを切ったようにぽろぽろと涙が溢れ出したのだから。
「……僕は…貰って……いない………」
もう、止められなかった。今まで堪えていたものが全て。全て溢れ出してしまった。この封印していた想いが。閉じ込めていた想いが、全て。
「……翡翠、の……気持ち……」
渇望と愛は表裏一体だった。手に入れたいと思ったのは、どんなに全てを失っても傍にいたいと思ったのは、全て。全て、彼を愛していたから。広い腕に抱きしめられてひどく安堵感を感じるのも。柔らかい口づけに瞼が震えるのも。この人を失いたくないから、本当の望みを言わなかったのも。全て。
「……貰って……いないよぉ………」
語尾は涙で滲んで、言葉にならなかった。けれども、雛乃には伝わった。痛い程、紅葉の気持ちが。気持ちが、伝わったから。
「―――そう、望めばいいのですよ。帝王は貴方の望むものは全て、与えてくれるのですから……」
泣き崩れてしまった紅葉を雛乃は、母親のようにそっと慰めた。


「―――そうか」
雪乃の言葉に翡翠は、それだけを言った。
「どう、するんだ?帝王」
いつかこんな日が来ると、思っていた。所詮支配者と、捕虜の関係なのだ。このままでいられる筈が無い。幾ら紅葉を奪っても。幾ら紅葉に与えても。これは虚像の関係なのだ。いつかは、終わりがやってくる。いつかは彼を開放しなくてはならない。
「…紅葉の好きに、させてやれ……」
翡翠の言葉に雪乃の瞳が大きく見開かれる。それは彼女が予想しえなかった返答だった。
「―――帝王?………」
「あいつの好きに、させてやってくれるかい?」
―――何も、望まない。紅葉は、翡翠にそう言った。俯きながら。肩を震わせながら。君は僕にそう言ったのだ。賢い紅葉。決して逆らわずに、自分を受け入れた紅葉。でもそれは、裏返しなのかもしれない。順応にしていながら、本当は自分を憎んでいたのかもしれない。あの時の視線は、純粋に自分に開放だけを望んでいたのかも、しれない。
「―――それが、紅葉の望みならば……」


――――このまま時が止まってしまったらと。何度願った事だろう?


このまま時が止まってしまって。このまま全てが失くなってしまって。
何もかも失って。全てを奪われて。全てを失って。そして。
彼の存在だけで全てが埋め尽くされたなら。
自分はどんなに幸福だろうか?自分はどんなに幸せだろうか?


この肉体も骨も魂も全部。全部が『彼』と名の付くもの全てで、埋め尽くされたい。
「―――紅葉っ!」
雪乃によって案内された部屋に入った瞬間、紅葉は懐かしい友人に抱きしめられていた。
「…龍麻……」
「良かった、紅葉無事で……俺…お前だけが戻らなくて、心配で………」
堪えきれずに龍麻は泣き出してしまう。素直で真っ直ぐな彼の気持ちが紅葉には痛い程伝わった。でも。
「僕は、大丈夫です。龍麻」
泣き止まない龍麻の背中をぽんぽんと叩きながら、紅葉は宥めるように言った。そんな彼にやっと落ち着いたのか、潤んだ瞳で自分を見つめる。
「本当に?本当に大丈夫か?」
「相変わらずだね、龍麻は。見ての通り僕はぴんぴんとているよ」
「…でも…お前だけが捕虜に…されていたし…それに……」
龍麻は言いにくそうに言葉を濁す。流石に鈍い自分だとて、紅葉がどの様な扱いを受けているぐらいは薄々理解出来た。帝王直々で捕虜にしたのだから。しかし彼はそんな龍麻に、笑って。
「―――あのひとは、優しいですよ」
「…紅葉?……」
「何て顔しているんですか?」
「へ、変なのはお前だよっ!いくら俺だってお前が帝王に、何をされているかぐらい分かるぜっ。それなのに何で笑うんだよっ?!何で優しいって言うんだよっ!!」
「…優しいですよ…翡翠は……」
「…紅葉?……」
「貴方だって、知っているでしょう?」
龍麻は茫然と自分の友人を見つめた。その表情は今まで自分が知らなかった、紅葉の顔だった。こんなにも切なくて、こんなにも幸福で、こんなにも綺麗な彼の笑顔を。
「―――帰ろう…紅葉……」
龍麻の手が紅葉の細い手首を掴む。しかしそんな龍麻に首を横に振った。
「僕は、帰りません。龍麻」
「どうして?!やっと俺たちは望んでいた自由を手に入れたじゃないか?やっと、俺たちは欲しいものを手に入れたんじゃないか!」
「―――欲しいもの?」
「そうだよっ俺たちは自由の為に、未来の為に戦ったんだ。そうだろう?当麻」
「僕は未だ、手に入れていないんです…龍麻……」
「紅葉?」
「未だ、手に入れていません」
「どうしてだよ?ここにいたらお前はずっと自由を手に入れられないんだぞっ。ここにいたら永遠にお前は何もかも奪われた捕虜のままだ……」
龍麻の瞳がまるで凍り付いたかのように、止まった。それは衝撃だった。驚愕だった。そこにいる紅葉は、別人だった。龍麻の知っている友人の顔では、無かった。
「―――僕は、幸せなんです」
純粋に龍麻は紅葉を綺麗だと、綺麗だとそう思った。それはまるで幻のように。それはまるで夢のように。彼は、とても綺麗だった。
「今、僕は何よりも幸せなんです」
目の前の紅葉がひどく幻想的に見える。まるで現世には存在していないような。でも。確かに紅葉は現実にここにいる。龍麻の目の前にいる。龍麻の目の前で語っている。
「―――紅葉……」
「ごめんなさい、龍麻。貴方の気持ちは嬉しかった。でも僕は」
――――貴方に、全てを奪われて。
「もう、他に欲しいものはあの人以外に無いんです」
――――そして貴方に、全てを与えられて。
「だから僕は帰りません。欲しいものを手に入れるまでは」
――――奪い合い、与え合い、お互いの存在だけで埋もれてしまう、至上の幸福。
「…嘘つきだね、紅葉……」
「…龍麻?……」
「手に入れても、俺たちの元へは戻らないくせに」
龍麻の言葉に紅葉は、笑った。それは無言の肯定だった。そして、龍麻は知る。――――この友人は自分とは違う場所へと行ってしまった事を……。


「帰らなかったんだな」
一人残された紅葉に、雪乃は少しだけ笑いながら言った。しかし紅葉はそんな彼女に気にする事無く。
「帰ってほしかったですか?」
ひどく無邪気な表情で、尋ねた。それは生まれたての子供のような顔だった。
「―――そうだな、政治戦略的には帰ってほしかったんだがよっ…でも…」
「…でも?……」
「それはお前が決めた事だから。そしてお前の決めた事は帝王の意思だしな」
「―――え?………」
雪乃の言葉にひどく、紅葉は驚いた表情をする。そしてもう一度雪乃に問い正した。
「帝王が言ったんだよ。お前が帰りたいのであれば、その望みを叶えようと」
「……そんな事……言ったのですか?………」
――――望みは全て叶えてあげる。僕から、逃げる以外。
「…あのひと…そんな事、言ったのですか?……」
「―――ああ、そう言ったぜ」
「…何処に、居るのですか?……」
「え?」
「…翡翠、どこにいるのですか?……」
「帝王は今自室に―――紅葉っ!!」
紅葉は、飛び出した。雪乃の制止の声も聞かずに。翡翠の元へと。―――横暴で残酷でそして、誰よりも優しい己れの支配者の元へと……。


最初から、望みはたった一つしかなかった。たった一つだけ。それだけが、欲しかった。


――――それを手に入れる為ならば、どんなものを失っても構わなかった。


「―――紅葉……」
ノックもせずに飛び込んできた侵入者を、翡翠はひどく驚いた表情で迎えた。しかしそれは一瞬の事で、彼の表情はいつもの冷たい容貌へと戻っていた。
「どうして、逃げなかったの?やっと助けに来たのに」
パタンと、扉が閉まる音が室内に響いた。それは無論紅葉が閉めたものだった。
「行かないです、僕は」
「――――」
ゆっくりと紅葉は翡翠に近づくと、彼の目の前に立つ。そして眩しいまでの、その顔を見つめた。自分が渇望し続けた強い瞳が、紅葉の顔を捕らえる。
「貴方がそう言ったんです。自分から逃げる以外の事ならば、何でも叶えてやると」
「僕は君が望むなら、逃げてもいいと雪乃から伝えた筈だよ」
「――――翡翠」
紅葉の手が翡翠の指を捕らえる。そしてその指先に口付けた。それはまるで部下が主人に忠誠を誓うように。
「あの日以来僕は、貴方のものなんです。だから」
「――――」
「僕は、貴方の傍にいます」
「…何故だい?紅葉……」
翡翠の指先が紅葉のそれから離れる。そして、改めて彼を見つめ直した。
「…何故君は、自由を望まない?……」
「……………」
「何故僕に閉じ込められているんだい?」
「…分かりま…せんか?…翡翠……」
「―――分からないよ、紅葉」
翡翠は、そうきっぱりと答えた。いつもの何事も無かったかのような口調で。何も無かったかのような顔で。何も無かったかのような……。
「……どうして…分からないのですか?………」
「―――紅葉?………」
突然俯いてしまった紅葉に、翡翠は不信そうに尋ねる。しかし彼は決して顔を上げようとしなかった。顔を上げない代わりに、翡翠の衣服を力一杯に握り締めた。布がしわくちゃになるくらいに、きつく。そして。
「何で、分からないんですかっ!!」
やっとの事で顔を上げた紅葉は、涙でぐしゃぐしゃになって、いた。
「何で、何で、分からないんですっ!」
感情の赴くままに、紅葉は翡翠の胸を拳で殴りつけた。何度も、何度も。翡翠は彼が気が済むまで、そのままにさせていた。
「……何で…何で…ですか………」
こんなにも、こんなにも。貴方の傍にいたいのに。こんなにも、こんなにも……。
「――――紅葉……」
殴り付ける力すら無くなった紅葉の腕を、翡翠は掴む。一方の空いている方の手で、彼の顔を自分へと向かせながら。そして。
「……僕を―――愛しているのか?……」
ひどくゆっくりと、翡翠は紅葉に尋ねた。でもその声は、とても優しかった。そう、彼は優しい。誰よりも何よりも、残酷で優しい。
「………愛しています…………」
掴まれていた紅葉の腕が、ぱたりと落ちた。それはスローモーションのように、ゆっくりと落ちていった。
「……愛しています、翡翠………」
そして、紅葉の肢体は翡翠の腕の中へと閉じ込められる。それは自分が何よりも欲した、彼の広い腕だった。この腕に閉じ込められて全てを奪われる事が。彼によって、全てを奪われる事が。
「―――僕も君を、愛している」
そして、翡翠によって全てを与えられる事が。それが紅葉の、望みだった。奪い合い、与え合う事が、それが二人の至上の幸福だった。それは汚れた絆かもしれない。それは綺麗な愛じゃないかもしれない。それでも、構わなかった。構わなかったのだ。
――――ただこの人を、手に入れる事が出来るのならば。
何を失おうが。何を無くそうが。一向に構わない。この人を手に入れる事が出来るならば。他に何もいらなかった。ただこの人さえ、自分を見てくれれば。それだけで、構わなかったのだ。


――――全てを失う事が。全てを奪われる事が。こんなにも幸福だとは思わなかった。


「―――僕を、連れていってください」
紅葉の望みに、翡翠は柔らかい微笑で答えた。そして。
「ああ、どこまでも。僕は君の望みは全て叶えてあげると、約束したからね」
誓い合うように、深い口づけを二人は交わす。―――それは、約束だった。二人が永遠に交わす、果てる事の無い渇望と略奪に。そして。二人が与え合う、互いの全てに。



世界中は、混乱していた。そんな略奪と暴力の支配の中で、彼は現れた。
まるで運命に選ばれたように。まるで神に望まれたように。
そして彼は世界を開放し、人々に自由と秩序を与えた。
そんな彼を後の人々は、その強い瞳にちなんで、太陽王と呼んだ。
そしてそんな太陽王の傍らには、いつも夜空の髪と瞳を持つ一人の少年がいた。
それはまるで空の上に太陽が存在するように。ごく自然に当たり前のように。


――――ふたりはいつも、一緒にいた。


End

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