ACT/1
「…本当に、行くのですか?……」
「僕はここでは厄介者だ」
曇った夜空には以前のような月も星も何も見えない。この空には何も無い。
「だけど…ヒスイ様……」
「別に皆を恨んでいる訳ではないよ。この時代、仕方のない事だから」
「…私は…好きです…その瞳……」
「―――ありがとう、ヒナノ」
ヒスイの言葉に堪えきれず、ヒナノの瞳から涙が零れ落ちる。真っ暗な世界にも涙は見えるのだろうか?
部落の人々は皆、その金色と銀色の瞳を不吉だと言った。その、ヘテロクロミアを。今はない太陽に愛された黄金の色と、魔物の印…銀色の瞳。この世界では何処にもない物だった。
だから皆、言う。―――これは不吉だと。けれども。
「…すごく、綺麗だと思います……」
彼は特別だったから。神様に愛されたとしか思えないくらい綺麗だから。きっと皆は嫉妬していた。恨みや妬みは羨望の裏返しだから。
「―――僕はこの瞳を、誇りに思っている」
いつもヒスイは真っ直ぐ前だけを見つめている。どんな時でも、その優しさと強さで。
「それに僕はここを追い出されるのでは無いよ。自分の意思で出ていくのだから」
「…ヒスイ様の意思で?」
「ああ。この手で未来を掴む為に」
―――そう言ったヒスイの顔は、とても綺麗だった。
―――夢だけでは生きられないと分かっていても。夢を捨てては生きられない。
絡み付く匂いは死の匂い。いつでも自分の背後には死がまとわりついている。
いつでも。それはどこにも落ちていて、絶えず自分を甘美な誘惑へと誘っていた。
そして今も。こうして自分を招き入れようとしている。
「…僕の幸運も尽きたかな……」
岩場の影に隠れて、モロハは血塗れの右腕を抑えながら呟いた。その言葉は途切れ途切れで、今にも消えてしまいそうだった。
―――不覚だった。この地上には安息の場など存在しないのだ。それなのに油断をして…。
「…このザマだ……」
モロハの口から苦笑が零れる。いつだって慎重で隙のない自分が、だ。まさか蛮賊に襲われるなどと。
「……ふぅ……」
血は止めどもなく溢れだし、モロハの着ている白い服を染め上げる。もう限界まで達していた。意識がどこか白く染まる。
―――自分はこのまま死ぬのだろうか?
モロハの頭の中をそんな意識が掠めた。……それでも、いい。この何も生産しない地球に生きている意味など、見出せはしないのだから。
蛮賊の足音が遠ざかる。彼らの手からは逃れる事は出来たとしても、この死から逃れる事は出来なかったらしい。モロハは意識を手放していった……。
―――喪服の聖者は、太陽を捜していた。
遠ざかる意識の中で、モロハの聴覚に微かに訴えるものがあった。それは今にも消え入りそうに小さな音だったけれど、確かに自分の耳に届いたのだ。
―――死に神が迎えにきたのかな……。
しかし死に神にしては随分と、優しく綺麗な音色だった。まるで音楽を奏でているような柔らかい音色。その音に溺れてしまいたくなる程の。
モロハの意識がその音に同化していくような錯覚に陥る。まるで音色に包まれているような。それは母の胎内にいるように心地好く、暖かい。
音の洪水。まるで波にでも呑まれているような感覚だ。だけど全然不快ではないのは、そのもたらす音色があまりにも心地好いせいだった。
モロハはゆっくりと重たい瞼を開ける。その途端、彼の目に飛び込んだのは――― 一面の蒼。それも透明を思わせる程、澄み切っている。どこまでもどこまでも深い蒼。
――――天国は、蒼かったのか……。
朦朧とする意識の中でモロハはぼんやりとそんな事を考えていた。そうきっとここは天国なのだ。でなければこんなにも綺麗な色をしていない。そうきっとこれは失ってしまった空の色だ。太陽が輝いていた頃の、本物の空の色。
その蒼が微かに揺れる。その度にこの蒼は密度を増してゆき、モロハの全身を包み込むような錯覚に陥らせる。―――そして。
その蒼の中からゆっくりと人が生まれる。いいや、実際には人影が近づいてきただけなのだが、モロハの目には確かにそう見えたのだ。
―――この蒼の中から、生まれたと。
まわりの大気と同色の瞳。それはまるで硝子細工のそれで、全てのものを透かしてしまう程、透明だった。
白い真珠を思わせる素肌と、それに反比例するかの如くに頭からかぶられている黒い布。
そして、真紅を彩る唇から零れる『声』。
―――それは確かにモロハの耳に届いた音だった。
人間の肉声とは全く異なるその声は、物体に例える事が出来ないものだった。そう表現出来る言葉が、言い換える物体が見つからない程、それは幻想的で夢のようだった。
「―――水の中の太陽」
それが唯一、モロハが聞き取れた言葉だった。その他、この人から零れ落ちる言葉は自分の耳元には言語として届かなかった。ただ漠然と―――声として、届いただけで。
何時しかモロハの視界が反転する。まるで奈落の底へと落とされる感覚だった。そしてそれは自分の瞼を有無言わさず、閉じさせる。意識とは、正反対に。
モロハは見ていたかった。この目の前にいる彼を。空から生まれたこの人を。だけれども、意思とは裏腹にシンはその意識を手放していった。
―――喪服の聖者を瞼に焼き付けながら……。
星が、落ちる。何も見る事が出来ない筈の、濁った夜空から。蒼い運命の星が落ちる…。
ヒスイは砂漠と化した小高い丘の上からその星を見つめていた。光など映る筈のない夜空に線を描くように星は流れてゆく。透明な程綺麗な、蒼い色の筋を残して。
「………」
北の空へと消えてゆく星を見上げる。それだけが道しるべだった。それだけの為に自分は部落を後にしたのだから。
「…水の中の…太陽………」
ヒスイの形のいい唇から零れる言葉は、誰にも聞こえる事は無かった……。
それは、柔らかい目覚めだった。重たい瞼がゆっくりと上がり、モロハの意識が緩やかに覚醒する。それは余りにも当たり前にやって来たので、自分の身に起こった事すら忘れてしまった程だった。そう、本当は夢なのでは無かったのかと疑う。何故なら、彼が負った筈の傷が綺麗さっぱり消えていたので。
「…本当に…夢…だったのか?……」
血で赤く染まった筈の白い衣服は見事なまでに白いし、身体の痛みが全く感じられない。
本当に、これは夢だったのかもしれない。―――しかし…。
次の瞬間、モロハの瞳に飛び込んだ一面の蒼が全てを否定していた。いや、それは実際に蒼では無かった。彼―――その人を彼と呼べるのならば、彼は漆黒の布を全身に被っていたのだから。しかし、目に見えない大気が彼を蒼く取り巻いていた。
「貴方っ!」
約一メートル先にうつ伏せに倒れている彼に向かってモロハは走り出す。そう確かに『彼』だ。自分の目の前に現れた蒼い空のひと。空から生まれたひと。
「大丈夫ですか?!」
ぴくりとも動かない彼をそっと抱き上げながら、モロハはその細すぎる肩を揺する。しかし彼はその透き通る程蒼い瞳を決して見せてはくれなかった。
―――本当に、このひとは生きているのだろうか?
不可解な思いに捕らわれる。現に今目の前にいる彼は本当に儚く幻にすら見えるのだから。こうして腕の中に抱き止めてみても、全く身体の重みが感じられない。実体すらあやふやな存在に思えるのだ。
「………」
モロハの耳元が彼の胸の音を確かめようと、移動する。その瞬間、今まで全く動かなかった彼の手が、急にモロハの栗色の髪を掴んだのだ。
「痛っ」
突然の行為にモロハは顔を微かに歪める。しかし彼は全く動じた事なく、機械的にすら思る瞳で自分を見つめていた。そうまるで鏡みたいに反射する瞳で。
「気が付いたのなら、こんな事しなくてもいいじゃないですか」
少しだけ恨みがましそうに、しかしそれ以上に嬉しさを讃えた瞳でモロハは彼に言った。しかし彼は自分には答える事なく、只真っ直ぐに見ているだけだった。いや、実際には何も見てはいなかった。
「とにかく…名前くらい教えてくださいよ。僕はモロハ。この先の部落に住む者です」
「――――」
しかし彼は答えなかった。相変わらず空っぽの瞳でモロハを見つめるだけで。
「何か話してくださいよ」
モロハは焦れったくなって彼の肩を揺すって、自分の方へと気を引こうとする。しかしやっぱり彼の瞳は自分を見てはいなかった。その間に髪を掴んでいた手が外されて、それはゆっくりと南の方向を指差す。
「―――?」
モロハは彼の細い指先を視線で追う。そこには何も無い不毛の地が続いているだけだった。
「南がどうかしたのですか?」
それでもモロハは尋ねる。どんな言葉でもいいから、聞きたかった。彼の唇が綴る声を。
「…………」
しかし彼は答える事無く、ただ真っ直ぐに南を指すだけだった。
「あっちには砂漠があるだけです。それもかなり激しい…あ、待ってっ!!」
モロハの言葉を聞き終える前に彼は急に立ち上がる。そして何処か覚束ない足で、彼は南へと向かおうとする。しかし寸での所で、彼の腕を掴んだ。
「駄目です、貴方みたいな人ではあの砂漠は越えられない」
その言葉に初めて、彼は反応を示した。しかしそれは言葉では無くて、首を横に振ると言う動作だったが。
「どんな理由だか知らないけれど、あの砂漠は余程鍛えられた身体が無くては渡る事は無理です。だから……」
尚も言い募るモロハを彼は振りほどこうとする。しかし力の差は歴然としていて、その細い腕では振り払う事は出来なかった。
一体、彼は何をそんなに急いでいるのだろうか?―――南には、何があるのだろうか?
自分の力ではこの手を振りほどけないと理解したのか、彼は途端に大人しくなる。それはまるでゼンマイ仕掛けの人形がピタリと止まってしまったかのように。
「…貴方?……」
びくとも動かなくなってしまった彼にモロハは不信そうに尋ねる。すると彼はゆっくりと顔を上げて自分を見つめたのだ。見つめたと言うよりは、訴えていた。
―――その瞳で。この手を離してくれ、と。
モロハはまるで魔法に掛かったかのようにその手を離す。それ程彼の蒼い瞳は神秘的で幻想的だった。
「―――」
彼はモロハが手を離したのを確認すると、ゆっくりと自分から離れる。そして彼は南の方角を見つめると、その場に跪く。
「………」
モロハは無言で彼を見ていた。いや、声が出なかったのだ。身体中の全ての器官が停止してしまったかのように。腕も足も声も瞳も全てがこの場へ凍り付いてしまったように。
彼は片膝を付いて跪くと、ゆっくりと両手を組み合わせる。それは祈りの姿勢だった。彼は静かに瞼を閉じると祈りを送る。風が吹いて彼の頭から被っている黒い布をぱたぱたと揺らしても、彼は一身に祈りを捧げていた。
―――誰に?モロハの頭を真先にその言葉が過る。誰に彼はこの祈りを送る?何の為に?
言葉は何一つ発っせられる事は無かった。しかし自分には伝わる。この祈りが。暖かく優しく哀しい祈りが。この大地を包み込むその祈りが。
空気が、変わった。それは目で発見する事は出来ない微妙な変化だったけれども、確かに変化を遂げたのだ。姿は全く変わらない。変わらないのだけれども、確かに変わっていた。
モロハの目の前に拡がる砂漠は他人を拒んではいない。それは他人を招き入れようとしていた。あの砂漠が。この彼の祈りだけでその本質的な姿を変化させようとしていた。
「―――あっ!」
その変化を関心する以前に、目の前で祈っていた筈の彼が不意に崩れ落ちたのだ。モロハは咄嗟に彼に駆け寄る。しかし彼はその蒼い瞳を自分に見せてはくれなかった。
「大丈夫ですかっ?!」
その顔が微かに蒼ざめていた。きっとこの祈りをする為に、相当の精神力を酷使したのだろう。でなければ、モロハが確かめる為に胸に頬を寄せても反応をしない筈が無い。
「…………」
微かに音が聞こえて、ほっと溜め息を一つ零す。しかし意識を失っている事には変わりが無い。
そっと彼を抱き上げる。それは不思議な程重さを感じなかった。いや、彼はまるで空気のように軽かった。
「……貴方はまるで空のようだ……」
腕の中の彼にモロハは呟く。その瞳は全てが人々が失った空を、蒼い空を連想させる。
だからこんなにも焦がれるのかもしれない。無くした空の色に。
「…僕は、貴方が欲しい……」
手に入れたい。この空の人を。手に入れて自分だけのものにしたい。不意にそんな衝動がモロハを襲う。この人を誰にも渡したくない。
「――――僕だけのものにしたい」
モロハはそう呟くと、意識のない彼を抱き上げたままでこの場を立ち去った。
――――それは夢だと言うにはあまりにも、切なすぎた。
ヒスイのヘテロクロミアの瞳が不意に和らぐ。それはとても優しい色彩だった。苦しい程に。
「……僕を、呼んでくれるんだね。君は……」
歩く度にざくりと砂は乾いた音を立てる。しかしそれは不思議と、優しかった。ヒスイを拒んではいなかった。
一刻も早く、いかなければならない。一刻も早く、この手で抱きしめなくては。
これは運命でも宿命でもない。自らの意思だ。自らの意思で選んだのだ。生まれた国も大切な友達たちも全てを引換えにして、選んだたったひとつの。
――――たったひとつの、真実。
「…ああ、愛しているよ。ずっとずっと……」
変わらない不偏なものが、この世にあるのなら。この気持ちはそれだから。何も脅える事は無い。何も不安になる事は無い。この気持ちだけを自分は信じていけばいいのだから。
「―――愛しているよ、紅葉……」
この地球も空も海も緑も太陽も、全て。そして君を愛している。
「…お婆、いますか?……」
モロハは部落の外れに在る、一件の古びた小屋を尋ねる。今にも壊れそうなその家は、しかしひどく重みを感じるものだった。
「モロハかい?お入り」
中から嗄れた声がして、それを合図にモロハゆっくりと扉を開く。その腕には、彼を抱かえたままで。
「今日は、どうしたのじゃ―――っ」
扉が閉じる音と同時に老婆はゆっくりとモロハに振り返る。その瞬間、老婆の瞳が驚愕に見開かれる。
「どうかしたのですか?お婆」
そんな老婆を不信に思ってモロハは尋ねる。しかし老婆は自分の言葉を無視するように、彼の前までやってくると、モロハの腕の中の人物へと視線を送った。
「……喪服の…聖者………」
「……え?………」
老婆はそう呟くとモロハの腕の中にいる、彼の掛けられているベールを頭から外してゆく。そこから、漆黒の髪がゆっくりと現れる。人々が失った筈の夜空の色をしたそれが。
「モロハ、この方を何処で拾われた?」
「…拾ったって……そんなんじゃなくて…砂漠の手前の丘で、倒れていたから……」
「倒れていた?」
「そう、だからお婆に直して貰おうと思いまして」
「…そうか……」
老婆は大きな溜め息をひとつ洩らすと、モロハに彼をそこに在るベッドに寝かすように命じる。それに素直に従い、彼をそこに寝かした。
「ねえ、お婆?」
「何だい?モロハ」
ベッドに寝かした彼を見下ろしながら、老婆はモロハに答える。彼はそんな老婆に相変わらずのポーカーフェースを作りながら尋ねる。
「老婆は彼の事を知っているみたいですけど、一体彼は誰なのですか?」
「―――喪服の聖者じゃ」
「……え?………」
「昔からの言い伝えでな。…喪服の聖者、太陽を捜し地へ降りる……」
老婆はゆっくりと目を閉じ、そして静かにいにしえの調べを紡ぎ出す。そう、消えた筈のものを復活させるように。
「世界が破滅し全てが消え去った時、喪服の聖者は太陽を捜し地へ降りる。水の中の太陽は、聖者に出会う時全てを開放する……私が知っているのは、この部分だけじゃがな」
「……水の中の…太陽……」
「それがどうかしたのか?モロハ」
「彼が、言っていました。他にも何かを言っていたみたいだったけど、聞き取れたのはそこだけだったから」
モロハは敢えてそれを夢だとは言わなかった。いやあれは夢じゃない。確かに自分はこの耳でこの目でその様子を刻んでいるのだから。
「…そうか……」
そう呟いて再び老婆はベッドの上の彼へと視線を戻す。今にも壊れてしまいそうな身体。細い手足。透明な程白い素肌。
「…しかし…喪服の聖者が男だったとは、ね……」
「彼が男だと何か都合悪いのですか?」
「いや、そんな事は無いが。ただずっと女だと思い込んでいたからね」
「どうして?」
「そりゃあ、太陽が………」
そう老婆が言い掛けた時、だった。今まで全く動かなかった彼の瞼が微かに震えたのは。それは二、三度大きな動作で振られて、ゆっくりと瞳が開く。その誰もが焦がれる蒼が。
「気が付いたかい?」
最初に尋ねたのは、老婆だった。ひどく穏やかな声で、彼を脅えさせないようにと。
「………」
しかし彼は答えなかった。モロハの時と同じように空っぽの瞳で老婆を見透かすだけで。
「喪服の、聖者じゃろ?」
それでも老婆は諦めなかった。まるで子供をあやすように優しい声で言い続ける。その言葉にやっと、彼は反応を示したように老婆を見返す。
「『太陽』を、捜しているのじゃろう?」
微かに驚いたように彼は目を見開いて、そして頷いた。それだけで全てを老婆は理解した。
「分かった、未だ疲れているだろう?休むがいい」
彼は老婆の言葉に従うように目を閉じた。それを見届けると老婆はモロハに外へ出るように目で促す。モロハはそれに逆らう事無く従う。その後を老婆は続いて、二人は外へと出た。
「…全く、随分な拾いものをしたもんだよ。お前さんは……」
「いえ、僕は大変にいいものを拾ったと思っていますけれど」
今にも溜め息を付きかねない老婆にモロハは、柔らかい笑みを浮かべる。歳に似合わず賢くしたたかな彼は、世を渡る術と本音を隠す術を知り尽くしている。
「ああ、考えようによってはそうかもしれん。本来なら見る事など叶わないお方を見ているのだから」
「見る事が叶わない?」
「あの方は、空の民だ。決して我々人間とは相いれない。決して交われる事の無い」
「じゃあそれならば何故、彼は僕等のもとへと降りてきたのですか?」
「だから太陽を捜していると、言ったじゃろう?」
「でももう、この地上のどこにも太陽なんて無い。それなのに彼は捜すのですか?それは無駄な事じゃないのですか?」
「太陽と空は一対じゃ。決して単独では現れん。だから必ず『太陽』は存在する」
「―――お婆の言い方ではまるで太陽は、生き物みたいですね。それとも生き物なのですか?」
モロハはふと、思い出す。さっきの場面を。砂漠を指差し、祈りを捧げた彼を。一体彼は誰に、祈っていた?
「生き物か否かは、知らないがね。少なくとも喪服の聖者が人の形を取っているならば、太陽も多分そうであろう」
「…そうですか……」
祈りを捧げていたのは『太陽』の為。そして彼が見つめていたのは。
「…それならば、変えてしまえばいいんです……」
「……モロハ?……」
人間と相いれない交われないのならば、それを覆せばいい。『太陽』を想い続けるならば忘れさせてしまえばいい。そう思わせる程に、彼には価値がある。
「もしかしたら太陽は彼のもとへと、現れないかもしれない。そうすれば、ずっと彼は地上に止まらなくてはいけない」
モロハの秀麗な顔がひどく幸福な笑みを浮かべる。しかしそれはどこか壮絶だった。
「……モロハ、馬鹿な事を考えてはならないよ。あれは決してお前の手にはおえない……」
「どうして?彼を傍に置きたいと思う事は、罪なのですか?」
「違う、モロハ。置きたいと思っても置く事は出来ないのだ。彼は人間では無いのだから」
「―――」
「…根本的に、我々とは違うのだから………」
人々が蒼い空に焦がれるように、空を手に入れたいと思うように。でも空は決して人々の手に届く事も、手に入れる事も出来ないものだから。
「―――彼は、空そのものなのじゃ」
人々のエゴによって失われた空の破片なのだから。
この砂漠を越える事は容易では無かった。いくら昔のように太陽の光が容赦無く照らされると言う事は無くなったけれども、それでも砂嵐は収まる事を知らなかった。
「…畜生……あと少しなのに……」
タツマは視界の全く見えなくなった廻りに独りごちる。しかしそうしてもどうなる事でも無かったのだが。それでもタツマの口は止まる事を知らなかった。
「何でだよっバカ野郎ーっ」
そう怒鳴ってみても声は強風に掻き消されてしまう。それは余計な体力を消耗するだけでしかなかった。タツマはいい加減諦めてその場に止まる決意をした。このまま視界の開けない砂漠を通っても、一向に埒が開かない。それならばこれが収まって視界が開けるのを待った方が利口であると判断したからだ。
「…でも本当に…困ったな………」
やっとの思いで手に入れる事が出来た薬を手に持ちながら、タツマは呟いた。この薬を一刻も早く母親の元へと持っていかなければならないのに。それなのにこの砂嵐である。
「……母さん……」
普段から余り丈夫とは言えない母親が病に倒れて、もう三年にもなる。文明が破壊された今では、その病気を直す手立てすら無い。それでもタツマはそんな母親の為に、数千キロも離れた部落にまで薬を取りに行っているのだ。
「……文明か……」
母親の病気は直って欲しいと願うのだが、タツマは昔のような地球を望みはしなかった。
昔の過ちの歴史を、望みはしなかった。タツマは人類の自分勝手な文明を憎んだりもしたのだから。空を濁し緑を破壊し、動物たちを絶滅させた文明を。
見てみたいと、思った。今は叶う事の無い空の色や、太陽の光を。澄んだ水の流れや、萌える緑の色を。見てみたいと。タツマは切実に願っていた。
「……太陽の光か………」
何だかひどく意識が朦朧とする。このままこの場所へと眠ってしまいたい。しかしこんな所で眠ると言う事は即ち『死』を意味する事になる。それ故にタツマは必死で意識を集中させようとしていた。そんな時、だった。
タツマの視界に一面の金色の洪水が埋めたのは。
―――しかしタツマはそれが何かと認識する前に、意識が反転した。
「―――名前は、何と言うんだ?」
あれから、彼―――喪服の聖者と老婆に呼ばれた彼は、今この古びた家にいた。
「相変わらず、答えぬか。それともお前さんは口が聞けぬのか?」
取り合えず具合が良くなるまではここに置くと言う老婆の主張を、モロハは聞き入れて素直に自宅へと引き下がった。しかしモロハが全く彼を諦めていないと言う事は、百も老婆には承知だった。あの穏やかな仮面の下の素顔を、老婆は知っていた。
「大丈夫じゃ、私はそなたの味方じゃ。悪いようにはせん。只名前が分からなくては色々不便なので、聞きたいだけじゃ」
しかし彼は、首を縦に振る事は無かった。幾ら、老婆が言い聞かせても。
「…そうか……お前は……」
頑なに拒否を続ける彼に老婆ははっとしたように彼の顔を見る。そして何とも言えぬ表情を、した。
「太陽の為に、自らを封印しているのだな」
老婆の言葉に彼は、小さくだが確かに頷いたのだ。そう、彼は空なのだ。太陽と伴に在らねばならぬ、離れる事が出来ない空。
「愛しているのか?」
それはいにしえの、言い伝えでしか無かった。喪服の聖者も、太陽も、言葉でしか無かった。でも喪服の聖者である空の民はここに存在し、太陽の為に自らを封印している。
――――そして、太陽は。それは確信だった。
老婆のその言葉に彼は、笑ったのだから。今まで硝子細工のように、無表情の彼が。間違えない。太陽は実在する。それも人の形で。そうきっと。
「そうか、そうであろうな。でなければ、お前は現れない」
太陽は華奢な彼を抱きしめる広い腕を持つ、何よりも輝いている者だろう……。
いつも彼は、ひどく幼い表情で自分の名を呼ぶ。少しだけ間を置いて、そして無邪気に笑って、その名を呼ぶ。―――翡翠、と。
一面の、金色の洪水だった。その眩しすぎる光を思わせるそれに、タツマは思わず目を細めてしまう。まるでそれは太陽の光、だった。漠然とタツマはそう思った。見た事の無い筈の太陽の光を。
そしてそれは次第に輪郭を成して、人の形へと変化する。その中でタツマは、声を聞いた。深くて低い心地好い声を。まるで胸底まで響いてくるそんな声だった。そして。
タツマは確認する。それは自分の身体を揺すっている力強い腕からも、心配そうに覗き込む瞳からも、確認出来た。だからタツマは、笑った。ひどく不器用に。
自分を心配して助けてくれた人に、もう平気だよと。
彼の名は、ヒスイと言った。表情の少ないのか彼はひどく無表情だったけれども、倒れていたタツマを助けてくれた事や、自分の身の上話に何も言わずに聞いてくれた事からも、彼が冷たい人間では無いと言う事はすぐに分かった。否、彼はとても優しい人間だった。
そしてとても不思議な人間だった。いや、人間なのかとタツマは疑ったぐらいだった。
まずその容姿。本当に光かと思わせるくらいに綺麗な金色の瞳。そして宝石よりも輝いて見える銀色の瞳。それはこの地上の何処にも存在しないものだった。力強い腕も、広い肩もすらりと延びた身長も。全てが完璧だった。計算し尽くされた完璧さじゃなく、超自然的な完璧さ。こんな人間が存在するのかと、思えてしまう程に。
そして何よりも。今まであれほど吹き荒れていた砂嵐が何故か、彼の廻りだけ嘘のようにぴたりと止まるのだ。だから今、タツマは全く風の影響を受ける事無く進んで行けるのだ。
「ねえ、ヒスイ」
「何?」
端正な横顔を見上げながら、タツマは尋ねる。背の高いヒスイは自分が見上げねば、その表情を伺う事が出来なかった。
「ヒスイは何処へ、行くの?」
「僕かい?」
タツマの質問にゆっくりとヒスイは振り返る。その顔にはひどく優しい微笑が浮かんでいた。それは本当に綺麗な笑顔、だった。
「―――僕は北へ、行くんだ」
「北?北ってどこら辺の街へ行くんだ?」
「知らない」
「…え?……」
ヒスイの言葉に一瞬タツマは止まってしまう。そしてその意味を理解した時には、自分はひどく茫然とした表情をしていた。
「僕にはその街の名も場所も知る事を必要としないんだ。ただ」
「―――ただ?」
不意にヒスイの瞳が遠くなる。それは本当に遠くを、見つめていた。
「ただ、出逢えればいい」
ただ出逢えて、抱きしめられれば。離れていた時はとても、永かったかもしれない。けれども一度も自分は不安に思う事も、記憶が薄れていく事も、ましてや気持ちが変化する事も無かった。疑う余地すら無かった。それ程に愛していたから。そして、愛されている事を知っていたから。だから例えどんなに離れていても、平気だった。
「その人は、ヒスイの恋人?」
その質問の答えは明確にヒスイの瞳が語っていた。柔らかい光を讃えたヘテロクロミアの瞳が何よりも優しいものへと変化する。そう、その瞳だけで分かってしまう。
「どんな人なの?ヒスイの恋人って?」
その質問にヒスイは一言だけ、答えた。―――ひどく、子供のような人だと。
「…………」
彼は不意にベッドから起き上がった。隣ではあの老婆が微かな寝息と供に眠りの底へと沈んでいた。しかし彼は別段老婆に気にする風でも無くベッドから起き上がると、ゆっくりと窓へと向かった。
壊れかけた窓に掛けられたカーテンをそっと開ける。そこからは四角く縁取られた闇色の空間が存在していた。そこには当然のように星の輝きは無い。月の蒼さも存在しない。けれども。
「……ひ…すい……」
そっと彼は、呟いた。誰にも聞こえないように。誰にも聞かれないように。その声を聞くのは、たったひとりいればいい。自分の声を聞くのも、本当の自分を見るのも。
――――翡翠、だけでいい。
彼はひどく無邪気な顔で笑った。目の前に居る筈の無い恋人に向かって。
紅葉は、笑った。この想いを、そっと運ぶ為に。
その姿を老婆は、うっすらと開けた瞳で見つめていた。そして、その名も。
紅葉が呟いたその名を、聞いていた。
――――彼等はこの地上に漂う、漂流者だった。
End