水の中の太陽


ACT/2


まるで彼は玩具を与えられた子供のように、夢中だった。
ひどく聡明で頭の賢い彼は、その反面とても子供のような心を持っていた。だから彼は、自分が造り上げたとても優秀な玩具―――『人間』に、夢中だった。

「今度は、彼らに『知識』を与えたんです」
視下に広がる蒼い星を見つめながら、紅葉はきらきらと瞳を輝かせながら言った。嬉しそうに、楽しそうに。そんな彼の表情を見る事がとても、翡翠は好きだった。
「知識かい?」
「はい。自分でも食料を作れて蓄えて、そしてきちんと生活出来るように」
「…そうかい…」
夢中になって話す紅葉に、翡翠はひどく優しく笑って話を聞いてやる。こうしてどんな事にも子供のような純粋な心で、一生懸命にやる彼が愛しかった。
空の民に生まれ唯一真の空の名を語る事が許される空の人。そんな彼は自分の護る大地に自らの子供のように造り上げた人間を落としたのだ。無論翡翠はそれを反対しなかった。四神として『あの方』に仕える自分は太陽を守護する者として、紅葉のする事を決して咎めはしない。それが過ちで無い限り。そう、人間を造る事は過ちでは、決して無かった筈なのだ。
「…翡翠……」
ふと、紅葉は改めたように翡翠の顔を見上げる。自分より頭一つ分だけ高い彼は、自分が見上げると必ず柔らかい視線を返してくれる。
「どうしたんだい?」
「…何でも、無いです……」
本当は人間に夢中になっていた事に少しだけ彼に済まないと思ったのだが、それは余計な心配だったようだ。翡翠にしてみれば夢中になって一生懸命話す紅葉が愛しくて仕方無いのだから。
「紅葉」
「はい?」
翡翠の言葉に顔を上げた途端、紅葉はその唇を塞がれてしまった。しかし紅葉は抵抗せずに素直にそれを受け入れる。それは当たり前の事なのだ。彼らにとっては。愛し合う恋人達にとっては。
ゆっくりと紅葉の腕が翡翠の背中に廻りぎゅっとしがみつく。翡翠は一方の手を彼の腰に廻しながら、もう一方の手で彼のさらさらの髪を撫でてやる。柔らかい細い髪を。
「…んっ……」
次第に口づけは深くなり互いの口内を貪るようになる。舌を絡め合い、根本まで吸い上げ互いの味に酔い痴れる。紅葉の口元からは何方とも分からない唾液が零れたが、気にする事無く翡翠に溺れていた。
「…ふぅ……」
耐えきれずに紅葉は翡翠に倒れ込む。それを受けとめながらやっと唇を離してやる。
「…紅葉……」
官能的な翡翠の低い声。いつもその囁きを聞く度に紅葉は瞼を振るわせる。
「ずっと、愛しているよ」
「はい。僕も…こんなにも貴方が…好きなのですから…」
「相変わらずの答えで安心したよ」
「なんですか、それは…翡翠ったら…」
くすくすと堪えきれずに笑う紅葉に、殊更優しい微笑を翡翠は浮かべる。
いつも、こうだ。彼はいつも、自分に向かって微笑んでいる。決して哀しい顔も辛い顔も自分の前ではしない。いつも翡翠は穏やかな笑みを口元に浮かべて、優しい瞳で自分を見つめているのだ。
「紅葉これだけは覚えておいてほしい。もしも永遠に君から引き離されたとしても、僕は永遠に君を愛していると」
「…僕達が…離れる事なんて…ないと信じてます……」
でもその時翡翠は気付いていたのかも知れない。それは何か直感みたいなものだったけれど、漠然と自分は感じ取っていたのだ。これからの二人が繰り返さなければならない、漂流の旅に。


不意にヒスイの意識が浮上する。それは余りにも穏やかに訪れたので、自分は違和感を感じる事が無かった。
「――――」
廻りを見回すと、隣で微かな寝息が聞こえる。その正体をヒスイは確かめる前に思い出した。漆黒の髪と瞳の彼、タツマを。そして、思い出す。ここが、地球だと言う事を。そうここは地球で、自分は『ヒスイ』と名を持つ人間だ。幼なじみでも在り、妹のようでも在るヒナノの両親に拾われた孤児。そしてこの金色と銀色の瞳のせいで、部落の人々からよく思われなかった事も。
そう、ここは『地球』だ。未だ、自分は完全に覚醒してはいない。否、出来ない。未だ自分は人間だ。彼に逢うまでは。
―――未だ僕は、水の中の太陽だ。
彼がこの地上へ降りるのをずっと、待ち続けた。何度も何度も転生を重ねて、この地上を延々と漂流し、彼を待っていた。予言通り、喪服の聖者が太陽を捜すまで……。
いや、あれは本当は予言じゃない。あれは、約束で契約だった。紅葉の犯した取り返しのつかない罪を償う為の。そう、罪。人間を造ったと言う罪を償う為に。
でもどうしてそれを罪だと決めたのだろうか?確かに人間は取り返しの付かない過ちを犯した。この大地を穢し、犯した。しかしそれは人間達のせいであり、又彼らのせいでは無かった。何も知らない無邪気だったからこそ、人々が何も知らなかったからこそ、地球は穢れたのだ。そう誰のせいでも無かったのだ。誰も、争いを望んではいなかった。
誰も血で血を洗う事を望んではいなかった。いや、一体誰がそれを望む?大切な人を失うかも知れない戦争を?でも、人々は余りにも無邪気であまりにも何も知らなすぎた。だから極一部の指導者達に従い頷いたのだ。弱くて強い人間たちは何よりも弱い心で戦いに従い、何よりも強い心で結集し、何よりも醜い心で殺戮を働いた。
そして、何もかも無くなった。結果、彼らの手の中に残ったのは、この穢れた地球と、本能のみで生きる心だけだった。そう、本能。彼らは自分の生命を護る為に他人を殺していく。自分の大切な者を護る為に、他人を傷つける。自分が生き残る為に。
どうしてそれを過ちと言うのだろうか?確かに他人の生命を奪うのは許されないかも知れない。それでもそうしなければ自分は死んでしまうのだ。大切な者たちを護る事は出来ないのだ。そんな世界に一体、誰がした?
「…君は…間違ってはいない……」
もしもこの世界が間違えだとしても。人々が誤った道へと進んでいても。それでも、ヒスイは。人々を嫌悪する事も憎む事も呆れる事も出来ない。自分が人間として転生している間に出会った人達は、決して悪い人達では無かったと知っているから。
だから間違えでは、無い。過ちでも無い。紅葉が造った人間達は………。


「お前は、字は書けるか?」
次の日老婆は彼―――紅葉にそう尋ねた。その問いに紅葉は静かに頷いた。すると老婆は紙とペンを用意して。
「ならばこれにこれから私のする質問の答えを書いてくれ。無論、言いたくない事は書かなくても良い。お前が太陽の為に封印をしている事は分かっている。だから書ける範囲でいい」
そう、紅葉は封印をしていた。太陽の為に。本来ならば色々見せる筈の表情も。唇を伝うてであろう筈の声も。全てを封印していた。彼が決して言葉を語らないのはその為だ。口が決して利けない訳では無いと言う事はモロハも老婆も、知っていた。
「…そうだな…先ず、あの言い伝えの文を全て知りたい……」
始め紅葉には言い伝えの意味が分からなかった。しかし老婆が水の中の太陽と言う言葉を出した時に、それが自分と『あの方』との契約だと知ると、ゆっくりとその紙に文を書き出した。でもそれは老婆の望む全てでは無かった。契約すらも、紅葉は封印する。
それでもかなりの部分を知る事が出来た。太陽を喪服の聖者が捜す事により、太陽は開放する事で本来のあるまじき姿へと戻り、天へと戻る事が許されると。そして何よりもこの『人間』を造ったのが他でも無いこの老婆の目の前にいる人物だと言う事を。
「何故、太陽は地上へと降ろされ、お前はそれを捜さねばならん?」
老婆の質問に短く彼は、答えた。それが何よりも自分を苦しめるには有効な手段だと。罪を犯した代償だから、と。
「―――罪?お前は罪を犯したのか?」
その問いに紅葉は、答えなかった。否、答えられなかった。まさか目の前の者に対して、貴方達を造ったのが何よりも罪だとは、いくら紅葉でも答えられなかったのだ。


「君の村は何処だい?」
ヒスイはさらさらと流れる砂の上を歩みながら、彼の隣を歩くタツマに尋ねる。
「この砂丘を越えて、川を下った先にある」
地理的な事は初めてな場所のせいで詳しくは無かったが、ヒスイにはそれがかなり遠い場所だと理解した。
「大変だね、母親の為に」
「当たり前だよ、たった一人の母親だもん」
ヒスイの質問にタツマは真っ直ぐな瞳で答える。その漆黒の瞳は一点の曇りも無く、本当に純粋で無垢な色彩を成して。
「―――そうかい……」
ヒスイはそれだけを言うとタツマの頭をくしゃっと撫でてやる。それはまるで兄が弟にしてやるような動作だった。
「ヒスイの手って大きいな。まるでお父さんみたいだ」
タツマはふと、自分の父親を思い浮かべる。未だ幼い頃一度だけ、抱き締めてくれた父。それ以来逢っていない。いや、逢えない。彼はもうこの地上にも何処にもいない。
「未だ僕はそんな歳では無よ」
「そういえば、ヒスイっていくつなの?」
「十八歳だよ」
「えっ?!同い年なの??」
絶対に自分よりも年上だと思っていたタツマは少なからずのショックを受けた。自分は確かに歳の割には子供っぽいと言われるが、ヒスイの威厳すら感じられる風格と、ひどく冷静な雰囲気は彼を年令よりも大人びてみせたのだ。
「…そうか、僕と君は同い年なのか……」
改めたようにヒスイはタツマを見つめる。それが身長の差で見下げる恰好になってしまうのが、いささかタツマには悔しかった。
「何だよーどうせ俺はガキだよっ。ヒスイとは大違いだよっっ」
「いや、そんな事は無いよ。君は年相応だと思うよ。僕が変なのだから」
「…そうかな?……」
「そうだよ、君が気にする事は無いよ」
こんな所がひどく、優しいと思う。こうやってヒスイはタツマを立ててくれる。そうヒスイは初めて出逢った時から優しかった。
この時代他人を助けるなどと言う行為は、美徳でも何でも無かった。自分が生きる事に精一杯だったから。それなのにヒスイは見ず知らずのタツマを助けてくれて、今もこうやって彼を送ってくれている。本当にヒスイは優しい。とても、とても。
「…それに僕は……」
ヒスイは言い掛けた言葉を取り消した。多分言っても理解出来ないだろうし、言う必要の無い事だから。この事を知っているのは自分と、もう一人だけでいい。
「何?ヒスイ」
「いや、何でもないよ。それよりも急ごう。夜になるとここは歩きづらいだろうから」
「うん」
ヒスイの言葉にタツマは素直に頷いた。彼は絶対の信頼を彼に見つけたのだった。


「相変わらず貴方は、何も語らないのですね」
古びた椅子に腰掛けていた紅葉に、穏やかモロハは尋ねる。しかし目の前の人は、自分の望んだ物を決して与えてはくれなかった。
「僕は貴方の声が聞きたいのに」
その問いに紅葉は、首を横に振るしかなかった。振る事しか出来なかった。いくら望まれても、彼は封印をしている身だから。言葉を語る事も、表情を造る事も出来ない。
「これ、モロハ。無理強いをするのでは無い」
それでも要求をしようとするモロハに老婆は窘める。事実を僅かながらに知っている老婆にとって、それがどんなに彼にとって辛い事か分かっていたから。
「今は放って置いておやり。時がくればお前の望みも叶おうて」
そう時が経てば。彼が太陽に逢う事が出来れば。―――太陽……彼から聞き取る事の出来た、たった一つの言葉―――『ヒスイ』。その人に出逢う事が出来れば。
「――――いや、叶った時はもう既に……」
もう既に彼は『この世』の人では無いかもしれない。何故ならば彼は、この地上に縛られるべき人では無いから。我々の手の届かない遠い所で、彼は生きているのだから。
「独りにしておやり、モロハ」
老婆の言葉にモロハは逆らわなかった。何故ならば彼の蒼い瞳は無言で語っていたから。独りにしておいてくれ、と。そう語っていたから。


「紅葉、お前にとって一番過酷な罰を与えよう」
『あの方』はひどく冷静な声で一言、紅葉にそう告げた。そしてそれは確かに紅葉にとって最も過酷な罰だった。何よりも自分にとっては効果的な罰だった。
「どうしてですか?!罰を受けるのは本来ならば僕なのに……何故………」
それでも紅葉は言い募る。この罰をすんなりと受け入れる訳には自分にはいかなかった。
「だからだ、紅葉。お前に最も過酷な罰だと」
そうそれはとても、過酷で辛い罰だった。罪を犯したであろう自分には何のお咎めも無い代わりに……『あの方』は、翡翠をこの天上界から地上へと落とすと言ったのだから。
「地球を穢した代償は重い。あれは只の惑星とは意味が違う。それはお前も充分承知しているであろう」
「……でも……だからって翡翠には何の関係も無いじゃないですかっ?!」
「―――お前は翡翠を愛している。それだけで充分だ」
「…だからって……」
「地球を穢した代償にお前の最も大切なものを差し出す。それがお前の償いだ」
『あの方』の命令は絶対だった。誰も逆らう事も購う事も許されない。したくても、出来ないのだ。それが自分達の天命だった。
「私はお前を失望したくない。だから、こうする。お前の愛が決して自らのエゴに負けないと、私はそう思っている」
「……エゴ?………」
「これから翡翠は人間として、延々と転生を繰り返すであろう。しかしそれでも翡翠がお前を決して忘れず、そしてお前が翡翠を愛し続けるならば」
―――翡翠をここへと戻す事を許そう……。そう『あの方』は言った。これは、契約だった。永遠とも思われる永い時間の中で。紅葉はこれからこの契約だけを頼りに生きていかなければならなかった。でも、それでも。
―――紅葉にとっては翡翠を忘れると言う行為にくらべれば、それは他愛も無い事だったのだ。彼を失うと言う行為よりは……。


「ヒスイ、いいのか?」
自分に付き添ってくれるヒスイにタツマは幾分済まなそうに尋ねる。事実本当に彼は自分に済まないと思っているのだ。
「―――何故?」
「だってお前、恋人に逢いに行くんだろう?俺なんかに構ってたら……」
「気にする事は無い。僕はそれ程冷たい人間では無いよ」
今は未だ自分は人間だから。人間として最大限に生きていきたい。変な事かも知れないがヒスイは自分が人間として落とされた事に感謝すらしていた。
例えどんな逆境が訪れても一生懸命に生きている人々。その中では確かに醜い事や汚い事もあった。それでも一生懸命に生きる人々はとても、輝いていた。そう、とても。とても輝いていた。
「やっぱりヒスイって優しい」
タツマは本当に嬉しそうに笑う。そんな彼に自然とヒスイも優しい笑みを返した。そう、彼だって一生懸命に生きている。それはとても凄い事だ。何の能力も力も持たないちっぽけな存在である人間は、時には我々の想像に及ばない程の心を持って生きている。
それはとても強くてとても優しい。ヒスイはそんな人間が好きだった。この異質な容貌に残酷な言葉を向けた部落の人々だって。自分たちを護る為に必死で生きている。
「いや、僕は冷たい男だよ」
もしも自分が本当に優しく強い男ならば、今紅葉をこんなめにさせはしない。彼を独りにしたりしない。自分の事を想って、待ち続けた彼を。
「どうして?ヒスイは今まで逢った人の中で、一番優しいよ」
「…優しければ、泣かせたりはしない………」
ふとヒスイの瞳が遠くを見つめる。自分が地球へと降ろされる最期の時。ただ何も言わずに笑っていた紅葉。その瞳には涙をいっぱい、溜めていたのに。それでも彼は笑っていた。自分に心配させないようにと。精一杯笑っていた。
「ヒスイはいつもそんな瞳をするんだね」
彼の端正な横顔を見つめながら、おもむろにタツマは呟いた。その表情は何とも言えないものを含んでいた。
「どんな瞳だい?」
「遙か遠くを見ている。俺たちには決して届かない所を見つめている」
「―――そうか………」
人間には決して届かない空。彼はその空の中でも、全てを司る空の民。そして自分も。彼の傍に何時もあるべき太陽を導く四神。
「タツマ」
「何?」
ヒスイの瞳がゆっくりとタツマへと向けられる。そのヘテロクロミアの瞳をタツマは純粋に綺麗だと思う。銀は魔性の色だと言われているが、タツマは全くそんな事は思わなかった。
こんなに綺麗なのに、どうしてそれを魔性などと言えるのだろうか?
「本物の空を見たいと、思うかい?」
「本物の空?」
「ああ、本物の空だよ。こんな濁った色では無い。もっと蒼くて深い空を」
「見せてくれるの?」
ヒスイの質問にタツマは見当違いの答えを出す。しかしそんな自分に彼は、とても綺麗に笑って。
「―――ああ、見せてあげるよ。本物の空を」
それが自分が決して人間になれない理由だから。この生に逆らう事も、そして。
―――いくら転生を繰り返しても、紅葉を愛する事だけが忘れられなかったから。


どの位、この時を待っていたのだろうか?
ずっとずっと待っていた。契約が実行されるのを。狭い隔離された空間に閉じ籠もって、紅葉は、ずっとずっと待っていた。
何時も地上を見つめ続け、翡翠の姿を追っていた。決して語り合う事も、触れる事も出来ない彼を。紅葉はずっと、見つめていたのだ。
人間として生きている彼は、どこか紅葉の知っている『翡翠』とは違っていて、彼を苦しめたけれど。でも。
それでも翡翠は紅葉を愛していてくれた。いつでもどんな時でも。自分が『四神』である事すら忘れてしまった時でも。彼は自分を愛していてくれた。だから紅葉も。ずっと翡翠を見つめていた。ずっと彼を見つめ続けていた。今の自分にはそれしか出来ないから。彼が戻ってくるその日まで、この喪服を纏いながら。翡翠をずっと、待っていた。

――――本物の空の色を隠してしまったのは、他でもない彼だった。


「―――」
四角く区切られた灰色の空間は、どんよりとして重たかった。見ている者までも潰してしまうかのように。とても重くて、苦しかった。
その空を紅葉はずっと見つめていた。自分が曇らせてしまった空を。人間達が蒼い空と太陽を失った日。翡翠が地上へと降ろされた日。
それからどれだけの時を、費やしただろうか?紅葉には永過ぎて思い出せなかった。思い出す事すら忘れてしまった。でも今でも翡翠の顔だけは鮮明に思い出せる。彼の声だけははっきりと耳に残っている。彼の温もりだけは今でも身体に刻みこまれている。
―――翡翠の存在が、自分の全てに刻まれている。
本当は今すぐにでもここを飛び出して、彼のもとへと飛んで行きたかった。けれども本来自分の背にある筈の白い翼は、今は無い。この喪服を纏った事によってそれは消滅してしまった。のみならず彼の、空の民としての力も。この喪服を纏っている限りそれは永遠に使える事は無い。
しかしそれは自分の意思だった。自分の意思でこの喪服を纏ったのだ。翡翠に、出逢えるまで。それまでは自分は『空の民』ではいられないから。太陽を失った空は蒼い色をする事すら出来なかった。その色すら、自分は封印したのだ。
「…………」
紅葉は不意に窓から視線を外して、室内を見渡す。さっきまでいた老婆の姿もモロハの姿もどこにも見当たらなかった。それに安堵したかのように紅葉の表情が緩む。
独りに、なりたかった。とにかく独りになって色々な事を考えたかった。今までの事。今の事。そしてこれからの事。これから自分にはどうなるか分からなかった。でも不安や脅えは全く無い。
彼に出逢う事が出来るのだから。紅葉にとって自分の感情は全て、彼に起因しているものだから。紅葉は翡翠の為にしか泣けなかった。翡翠の為にしか笑えなかった。翡翠の為にしか、感情を乱せなかった。翡翠がいなければ何も、出来なかった。
それ程に愛していた。それ程に愛している。離れた今になってそれが痛い程、理解出来た。今ではあれ程執着していた『人間』も、自分と彼を引き離す原因となった今ではどうでもよくなってしまった。
こんな事を言ったらきっと翡翠は自分を無責任だと言うだろう。でもそれでも永すぎたのだ。紅葉には余りにも彼との離れていた時間が。
紅葉は、弱かった。そして脆かった。翡翠のように自分の運命を受け入れて、そしてそれを乗り越えていけるだけの強さを持ってはいなかった。だから自分で造った人間ですら、後悔しそうになる。紅葉が人間を造った事を後悔すると言う事は、人間の存在事態を否定する事になる。それだけは自分は避けねばならなかった。それでも。それでも思ってしまう。思ってはいけない事を。
―――人間すら造らなかったら、翡翠と離れなくてもよかった、と。
そして紅葉は。そんな事を考える度に、自分の浅ましさに嫌悪を覚えるのだった。


旅は順調に進んで行った。蛮賊に出会う事も無く、盗賊にも出会う事なく二人はタツマの済む部落へと向かっていた。
「タツマの母親とは、どんな女なんだい?」
「お母さん?俺の母さんはとても、優しい女だよ」
太陽で在り四神であるヒスイには『母』と言う存在がいなかった。自分は『あの方』によって造られた、人間達の言葉で言うならば『神』と言う存在だったから。
人間として転生している間には母を持つ事があったかもしれないが、幸か不幸かセイジには転生している間の記憶が全く無かった。
いつも彼が転生の間共通して覚えている事は―――彼のたった一人愛する空色の瞳を持つ…紅葉だけだった。
ヒスイには分からない事だが、彼が自分を『四神』だと自覚したのは、この転生の時が初めてだったのだ。そしてこれが最期だった。やっとヒスイの永い漂流に終止符が打たれる。
「優しくて、厳しい女だ」
「そうか」
「俺は母さんを尊敬している。そして愛している」
タツマは真っ直ぐな瞳で、そう告げた。ヒスイはそんな彼に微笑む。その顔はひどく優しかった。その顔にタツマは無意識な安堵感を覚える。何故だか理由は分からないのだけれども。ただヒスイの纏っている空気がひどく、優しかったから。
「僕は生憎母親と言うものを知らないけど…きっとタツマの母親はとても素晴らしい女なのだろうね…」
『あの方』によって造られた自分達に子孫を残す義務は無かった。だから自分たちの仲間には『女』はいても『母親』は存在しなかった。それでもヒスイは子供を必死に護っている時の母親の強さを知っている。そして厳しさと優しさを、知っている。その尊さを。
「うん、きっと世界中のどんな女よりも立派な女だよ」
そうやって自分の母親を誇りに思えるタツマ。そんな彼を育てた母親。やはりヒスイには、人間を軽蔑する事も憎む事も出来なかった。それがいくら自分と紅葉を引き離した原因だとしても。こんなにも健気に生きている人達を、恨む気などなれなかった。


―――罰っせられぬことほど苦しい罰はない。

いつもその真っ直ぐな瞳は、強い意思を持って輝いていた。太陽の光をそのまま象徴した金色の瞳は、世界中の何よりも綺麗だった。他のどんな者よりも『あの方』の寵愛を受けていた、四神の一人。気高く何者にも屈しない誇り高き男。そしてたった一人の、ひと。
「―――どうしてですか?」
「君を、愛しているから」
そう言って、翡翠は紅葉を抱きしめた。広くて優しい腕が、自分を。
「愛している、紅葉。君だけを」
翡翠の腕がきつく、なる。その腕の強さに微かに紅葉の形の良い眉が歪む。
「だからこんな事何でもないよ。僕は平気だから」
「…でもっ……」
尚も言い募ろうとする紅葉の唇を、翡翠は自らのそれで封印する。優しくて甘くて切ないキスで。
「君がこんな事にならなくて、良かった」
「…翡翠…僕……」
紅葉の細い両腕が翡翠の広い背中に廻される。そして千切れる程に、それにぎゅっとしがみついた。
「…僕…待っていますから……ずっとずっと…待っていますから……」
「―――紅葉……」
「待っています、貴方が帰ってくるまで。何百年だって、何千年だって」
待っているから。ずっと、ずっと、待っているから。だから。
「…僕を…忘れないで……」
「忘れない、紅葉。決して君を忘れはしない」
再び翡翠の唇が紅葉のそれを塞いだ。しかし先程のそれとは違って、今度は自らの想いを伝える深い口づけ。相手の全てを奪うように。相手の全てを貪るように。
「…ひす…い…ひ…す……」
「…紅葉……」
何度も何度も二人は口づけを繰り返す。互いの名を呼び合いながら。何度も何度も、尽きる事無く二人は。互いの存在を求め合った………。


――――目覚めは、声のない悲鳴だった。
不意に、大気が揺れた。そんな気がした。モロハは自らの家路へと向かっている途中、不意にそれを感じた。
「…何だ…今の……」
それは一瞬の事だった。しかしモロハにはそれが錯覚だとは、どうしても思う事が出来なかった。―――何故ならば。
こうした変化を前にも一度感じた事があったから。でもそれは今とは違うもっと、優しくて哀しいものだった。でも今のはダイレクトにヒスイに伝えた。『哀しみ』と言う感情を。
そしてそれを伝えたのは…他でもない蒼い瞳を持つ彼……。
―――モロハは素早く方向を転換して、駆け出した。

紅葉は茫然と宙を見つめていた。今まで思い出した事はあっても、夢で見る事が無かったあの日の場面。夢で見るには余りにも哀しいから、自らの意識を封印していたのに。しかし気が緩んだ隙を縫って、その意識が夢へと入り込んで来た。紅葉の了解無しに。
「――――」
大気が紅葉の感情に敏感に反応した。空の民である彼は自らの感情一つで、空も大気も操れる。しかし今、留め金を失った感情は暴走し、紅葉の意識外で過剰反応をする。
「…駄目……」
翡翠の為に全てを封印したのに。それなのにこんな只が夢で、封印を壊してしまっては。
でも、それでも。止められない、翡翠への想いが。止める事が出来ない。
「…駄目…ひす…い……」
紅葉は必死で感情を消そうとする。しかし翡翠への想いは溢れるばかりで。もう自分には、どうしようも無かった。
「…ひす…い……」
逢いたい。逢いたい、逢いたい。その顔を見て、その声が聞きたい。その瞳を見つめて、その腕の中に埋もれたい。貴方に、逢いたい。
「……助け…て……」
紅葉はその場にうずくまった。もうこうなってしまっては、どうする事も出来なかった。


「―――紅葉……」
「…え?……」
不意に呟いたヒスイの言葉は、タツマの耳には届かなかった。しかし自分には、何となく分かった。ヒスイが呟いた言葉を。でなければ、彼はこんな顔をしない。滅多に表情を変えない彼のこんな、切なそうな顔を。
「…どうしたの?ヒスイ……」
「―――」
しかしヒスイはタツマの質問には答えなかった。いや、自分の言葉すら耳に入っていないようだった。
「ヒスイっ?!」
突然ヒスイは脇に刺していたナイフを取り出すと、後ろに束ねていた自らの髪をばさりと切り落とした。漆黒のさらさらの髪がばさりと音を発ててヒスイの手のひらへと落ちてゆく。
「…僕には未だこれくらいしか、出来ないからね……」
「…ヒスイ?……」
ヒスイは自らの髪にそっと口付けると、それを風に飛ばした。指を擦り抜けてしまう程細い髪は、まるで意思を持っているかのように一定の方向へと飛ばされてゆく。
「―――愛していると、伝えてくれ」
いつのまにか、その漆黒の髪は一筋の光の線へと変化していた。

「…これは……」
異変を感じて部屋へと戻ってきた老婆の瞳に真先に飛び込んで来たのは、床にうずくまっている紅葉の姿だった。
「どうしたのじゃ?!大丈夫か?!」
老婆は素早く駆け寄って紅葉の身体を揺する。しかし彼は反応を返さなかった。何かに必死で耐えているように、じっとしていた。
「―――堪えられなくなったのか?」
その老婆の問いにも、紅葉は答えなかった。でもその答えはこの大気の変化が雄弁に物語っている。ましてや老婆になら。凡人には『気のせい』で済む事でも、敏感に感じ取る事が出来るのだ。
「……そうか、太陽への想いが溢れ出してしまったか……」
この地上から太陽と空が消えた日。それからもうどのくらい経ってしまったのだろうか?
その間ずっと離れ離れにされた二人。『空』と『太陽』。その永い間にどれだけの想いが溜まっていたのだろうか?
「…かわいそうにな……」
誰もが焦がれ望む空である彼。でもそんな彼の実体は壊れそうに脆い、ただの少年だった。

―――愛しているよ、誰よりも愛している。だからもう……。

「―――え………」
駆け足で戻って来て老婆の家の前に辿り着いた時、モロハは不思議な感覚に陥った。
それは『光』だった。もうこの世界の何処にも『光』は存在しなかった。人工的な偽の光なら存在したが、モロハの感じたものは全くの別物だった。本物の光。それは自然の光だった。そうまるでそれは失った太陽の光のように。
しかしモロハはそれを振り切るように扉を開けて、紅葉の元へと駆け出した。

まるでそれは雪みたいに、紅葉の頭上に降り積もる。ゆっくりと静かにそして優しく。
「…何…これ……」
扉を開けたモロハに真先に飛び込んできたのは、ゆっくりと紅葉に降り積もる光だった。その光は彼の髪の先から、瞼にまで降り積もる。まるで彼を包み込むように。
「―――太陽、だ」
しばらく茫然とその光景を見つめていた老婆も、我を戻したようにそう言った。そう、間違えのない。これは太陽の光だ。喪服の聖者が追い続けた。求め続けた。
「…太陽……」
これが太陽の光?この包み込むように優しくて暖かい光が、太陽の光?
紅葉はゆっくりと瞳を開いた。そして太陽の光を見つめる。もう先程の大気の乱れも溢れ出した感情も全て、消え去っていた。全てこの光が、消してくれた。
「―――」
そっと紅葉は手を延ばして、光を受けとめる。するとそれはたちまち彼の手のひらで漆黒の髪へと変わった。
紅葉はそれをぎゅっと抱きしめると、そっとそれに口付けた。丁度、この髪の所有者がしたように。紅葉は、口付けた。そして。
――――紅葉はそれを握り締めたまま、その場に崩れ落ちた。

ひどく無邪気な顔で。何も知らない子供のような幸福な顔で。紅葉は……。


―――愛しているよ、紅葉。
ずっと、愛している。だから。
だからもう、哀しむ事も脅える事も無い。
ずっと僕は君の傍にいるから。
こうやって抱きしめてやる事は、今は出来ないけど。
それでも心はずっと君の元に在るから。
こうやって誰よりも近くにいるから。だから、紅葉。
―――泣かなくても、いいんだよ。

どうしても、貴方を忘れる事だけが出来なかった。


End

 HOME  BACK 

  プロフィール  PR:無料HP  合宿免許  請求書買取 口コミ 埼玉  製菓 専門学校  夏タイヤを格安ゲット  タイヤ 価格  タイヤ 小型セダン  建築監督 専門学校  テールレンズ  水晶アクセの専門ショップ  保育士 短期大学  トリプルエー投資顧問   中古タイヤ 札幌  バイアグラ 評判