―――夏を、見ている。
お前は帰らない夏を見ている。
現実の俺を通り抜けて。
夢の中に映るその太陽に焦がれている。
お前は俺の見えない物を見て、俺の聞こえない音を聴く。
人間界の切符を持たない夢の中の住人。
――お前はそうして子供に還る。
「ハハハ、こっちへ来いよっ」
冬の海は冷たい程、綺麗だった。綺麗で、そして静寂だけが包む空間。
「こっちだぜっ!」
数羽の白い鳥が京一の廻りを囲んでいる。そこだけが別世界のように。龍麻はそれを少し離れた場所で、ただ見ていた。見つめるだけ、だった。
「…くすくす……」
又、京一の楽しそうな笑い声が龍麻の耳に届く。見つめた先には鳥達に自らの手を差し延べて餌を与えている京一がいた。
―――本当に、楽しそうに。
もう京一は、振り返らない。龍麻がいくらその名を呼んでも。
還ってしまった、から。もう、自分の手の中には戻ってこない。
醜く汚い現実を『大人』である事を、京一は全て捨ててしまったから。
「あっ!」
京一の悲鳴が、耳に飛び込んでくる。その声が龍麻の意識が再び現実に戻させた。そしてその視線の先には、海の上に飛び去っていった鳥達を追いかけている京一の姿が映し出される。
「京一っ!!」
龍麻は咄嗟に京一のいる場所へと駆け出す。けれども間に合わなかった。彼はこの真冬の海の中へ、鳥を追いかけて入っていってしまう…。
「京一、戻れっ!そんな冷たい海の中に入ったら死んじまうっ!!」
しかし、彼の耳にはもう龍麻の声は聞こえない。夢に返ってしまった京一には、もう現実の声が聞こえないから。
「京一っ!」
彼の細くなってしまった背中を追いかけながら龍麻はふと、思う。
―――お前は本当に今ここにいるのだろうか?
今、俺の目の前にいる人は一体誰なのだろうか?
あの眩しい太陽の下で俺を狂わせ、激しい執着を植え付けたお前と同一人物なのだろうか?
この細い肩と、小さな背中と。全てを捨てて子供に還った、無邪気な魂。俺を見ない瞳。
―――いったいお前は今、どこに居るのだろう?
「京一っ」
「離せよっっ!!」
波が膝まで掛かった時、龍麻はその腕をやっと捕まえた。けれども京一はその手を振り払おうと暴れ出す。そしてまるでその言葉しか知らない子供の様に何度も何度も叫ぶ。
「離せよっ離せよっっ!!」
俺を見ない京一。現実を見ない京一。でもお前は蓬莱寺京一だ。俺が手に入れたたった一つの真実。他には何も持っていない。
―――自分が手に入れたものはこれだけだった。
お前を愛するこの心だけ。でも、それだけでいい。他の物は何一つ自分には必要の無い物だったから。
「…京一……」
「……う………」
龍麻がひどく優しく京一の名前を、呼ぶ。その優しい声に、抵抗する力すら尽きてしまった彼は龍麻の胸にすがるようにして泣き出してしまった。
「…京一…」
「…う…あ……」
どこまでも優しくその柔らかい髪を撫でる指先が。その指先に弾かれるように、京一は生まれたての子供の様に泣き続けた……
―――全ての始まりと全ての終わりは神様の嫉妬からだった。
未だに龍麻は夢に見る。あの無機質な白い空間の中で京一が遠い瞳で声も立てずに泣き続けていた事を。皆の前では決して弱みを見せずに、ただ独りで。独りだけで、声を殺して泣いていた、あの瞬間を。
医師が告げた訳の分からない病名と。点滴の紅い血だけがリアルに自分の頭脳を支配しする。そして。そして、何もかもが分からないその状況の中で。それでも自分はたった一つの事だけを考えていた。
―――もう、京一は戦えない。
俺達が築き上げた仲間達との信頼と、そしてかけがえのない絆。それが今全て京一の手のひらから零れていく。
―――それだけで。それだけでもう、全てが……。
京一が俺達と共に戦えなくなる。誰よりも仲間を…大切にしていた彼が。
それでもう、全てが終わったのだ。
神様は嫉妬した。あの真夏の太陽よりも熱く激しい京一の瞳に。誰にも穢す事の出来ない、誰にも触れる事が出来ないあの強い瞳に。神様は、嫉妬したのだ。
でも自分は純粋に彼と同じように哀しめない。どこかで残酷な独占欲がひたひたと音を立てて侵入してくる。
―――もう、お前を誰にも取られることがないと。
「京一」
「ひーちゃん、か」
病室の窓をぼんやりと見つめていた京一にそっと声を掛ける。その声に何でもないと、何時ものように笑う彼が切なくて、苦しい。
「ほら、お前の大好きな三丁目のチョコレートケーキ買ってきたぜ」
「サンキュー。でもよく覚えていたな…俺、ずっと前に言っただけなのに」
「―――覚えているよ、お前の事なら何でも。一瞬でも見逃したりはしない」
「―――」
京一は黙って龍麻の顔を見つめる。何処までも、ポーカーフェイスの冷たい顔。でも、自分の前でだけは惜しみもなく吐き出される激しい感情。耳を塞いでも、目を閉じても、痛いほど感じる。―――こいつの自分への気持ちが。
いくら逃げてもきっと捕まってしまう。捕らえられてしまう。じゃあ、今度も捕まえられるだろうか?
―――こいつは俺を離さないだろうか?
その時、ひどく京一の心に冷めた感情が支配していた。それは自分でもよく分からなかった。ただ。ただふたりを繋ぐ絆の強さを確かめたかっただけなのかも、しれない。
「―――ひーちゃん」
京一の真っ直ぐな視線が龍麻を捕らえる。それは自分がどうしようもなく焦がれた強い光を放つ、太陽の瞳。
「何だ?京一」
「…俺を、捕まえてみろ……」
けれども。けれどもまだ、龍麻にはその意味が理解出来なかった。
―――― 一緒に空を捜しに行こう。
白い、夢。
どこまでも永遠に続く白。無限の、白。
その中を京一は独り歩き続けた。
何も、無い。自分の心にも手の中にも。
ただ歩き続ける。この永遠に続く白い迷路の中を。
もうきっと誰もここへは辿り着けない。
―――ここで俺は消える……。
そう思うと妙な安心感が京一の中に生まれた。
なにもかも消えてしまえば、この苦しみから開放される。
全てから、解放される。
―――その時、だった。その、瞬間だった。
京一の耳に微かに人の声が届いたのは。
その聴き覚えのある声に引きずられるように、京一の身体が宙に浮いた……。
「…いち…きょう…いち……京一!」
夢の続きかと、思った。視界に入った白い天井が夢の色に似ていた。
「…ひーちゃん?……」
「よかった―――!」
龍麻はそう言うなり自分を力強く抱きしめた。まるでもうこれで逢えないかとでも言うように。強く、強く抱きしめた。
「………」
京一は静かに龍麻の背中に手を廻す。けれども、よく分からない。分からなかった。ここは、何処で。そして何でこいつはこんな泣きそうな顔をしているのか?
…分からな、かった……何もかも、が……
「俺、どうしたんだっけ……」
京一が顔を上げると廻りには自分のよく知った顔があった。たか子先生と、高見沢と…。ひどく安堵の表情で自分を見ているのは、どうして?
「…京一…お前はバカかっ!自分のしでかした事を分かっているのかっ?!」
相変わらずのたか子先生の怒鳴り声。でも自分には分からない。何の事だか理解出来ない。
「ひーちゃん?」
少しだけ戸惑いながら、自分の最も大切な人の顔を見上げる。その顔は怒っているようにも…そして泣いているようにも見えた……。
「京一、独りで行くつもりだったんだろう?でも行かせないよ。俺は絶対お前を離したりしない。たとえ死に神の首だとしても俺が締めてやる」
「ひーちゃん…何言って…」
「俺はお前を捕らえたんだ。お前の言った通りに、な」
龍麻の腕の力が強くなる。京一はその余りの力の強さに耐えられず身体をよじった。強い、強い力。心まで掴みかかるような、その強さに。
「やめっ…もー離せっ」
「誰にも、お前を捕まえさせない」
その強さに、理由のない安堵感を憶えるのはどうしてだろうか?
「―――自殺を、しようとしてたな、あのバカは」
たか子の声が冷たい空間の中にやけに響く。その声は何時もと変わらないようで、でも何時もとは違っていた。そこには確かに『怒り』が含まれている。
「…いくら何でも…睡眠薬の量を間違えて一瓶飲み干すなんて普通じゃないだろうが…あいつは救いようのないバカだが、それっくらいの事ぐらいは分かるだろう」
「―――そうですか……」
―――俺を捕まえてみろ。
京一のあの言葉。それは彼が生死を残酷に、そしてまるで他人事のように賭ける為に用意された言葉。
戦えない、京一。神に嫉妬された哀れな。今、彼はこの地上に居る意味を失ってしまった。
―――そして「死」によって開放を求める……。
「お前は、残酷だ」
龍麻の呟きは、誰にも聞える事はなかった。
卑怯だと、思う。京一は残酷で卑怯だと。自分が彼無しでは生きられないと知っていて、自分にその生死を賭けた。
―――なんて卑怯で、なんて幸福か……。
自虐の喜び。陶酔。狂気。
お前の死に脅えながら、お前の賭けに甘美する。
なんて、矛盾しているのだろう?でもそれは真実だ。
―――俺はお前に出逢った時から、正気と言う物を永遠に失ったのだから……
「ひーちゃんっ!」
龍麻の顔を見るなり嬉しそうな声を上げる京一は、まるで欲しかった玩具を手に入れた子供のようにひどく無邪気だった。それは向きだしの魂を目の当たりにしたような、そんな感覚だった。
「やあ、京一」
龍麻決して他の誰にも見せることの無いその優しい笑顔で、京一を包み込む。たか子先生達は気を利かせたのだろうか、いつのまにか病室内はふたりっきりとなっていた。
「どう?気分は」
龍麻は京一のベットの近くにある椅子に腰掛けると彼の顔を覗き込む。
―――やっぱり、京一は痩せた。以前から太らない体質とはいえ自分の目以外にも分かる程、彼の身体は細くなってしまった。
「…京一……」
いとおしそうに龍麻はその名を呼ぶと、京一の頬を大きな手で包む。この手で彼の全てを包み込むことが出来たなら…そう思いながら。
「ん?」
「もう、独りで死のうなんて考えるなよ」
「……?……」
その言葉に京一が不思議そうに龍麻の顔を覗き込む。本当に不思議そうに。
「それとも、俺を試さないと俺の気持ち分からなかった?」
「…ひーちゃん?……」
「俺は絶対お前を離さない。誰にも俺からお前を奪えない」
そう言うと京一の頬に掛かってた龍麻の手がその顎に移る。そして。
「愛してる。京一」
そして拒まない唇に静かに口付ける。それだけで焼けてしまいそうに身体が熱い。京一に触れるだけで、焼けてしまう。彼を見てるだけで、苦しい。
きっとこれ以上の口づけをしたらお前を欲望の赴くままに破壊してしまう。このままお前の身体を貫いて、自分と言う存在で埋め尽くしてしまいたくなる。
「ひーちゃん」
だから、唇を離した。そして腕の中に閉じ込める。自分の腕の中に。そんな龍麻に見上げてくる京一の視線は痛い程、綺麗で。
「お前、変だぜ」
「そうだよ、俺はお前に逢ってからずっと異常な神経になってるよ」
京一の日に焼けたさらさらの髪に指を絡ませる。その柔らかい髪を撫でても京一は抵抗も反応もしない。ただなすがままにされている。
「…違げーよ……」
京一はぺたん、と龍麻の胸に顔を押しつけた。その仕種がまるで子供のようで。本当に生まれたての子供のようで。
「どうして、俺が死ぬ訳?」
「…え…?」
龍麻は一瞬京一の言った言葉が理解出来なかった。戸惑いながらもう一度尋ねる。そんな龍麻に京一はひとつ、笑って。
「だって、お前の言い方まるで俺が自殺でもしたみたいじゃん」
「…だって…お前、睡眠薬飲んで……」
「何言ってんだよ、ひーちゃん。俺は睡眠薬なんて飲んだ事、ないぜ」
一瞬、龍麻の頭は真っ白になった。お前は一体何を言っているのか?
それとも、自分が夢を見ていたとでもいうのか?自殺未遂は夢だったのか?
―――そんな筈は、無い。
だって自分の心には自虐の幸福と、歓喜の狂気が刻まれているのだから。
じゃあお前は一体、何を言っているのだろう?
何を、見ているのだろう?
―――まだ、分からなかった。神様が本当に嫉妬した人間を。
京一は自分が自殺未遂をした事の記憶を失っていた。
しかし、それだけだった。
その時以外の事は全て覚えているし、自分がもう人並みの生活を、戦う事が出来ない事も分かっていた。
たか子先生の声が、龍麻の耳に響いてくる。
――― 一時的な精神の錯乱だろうな。それにこう言う記憶は返って無いほうがこれからのこいつの為にはいいかもしれんな。他に関しては全く何一つ変化がないみたいだしな。もう、退院してもいいだろう。勿論、共に戦うなどもっての外だがな。
そう京一は人並みに動けない。でも生きていかなければならない。
これからの日々の方がきっと彼には辛いだろう。
それでも龍麻は京一を一刻でも早くあの白い無機質な部屋から出してあげたかった。
あんな太陽の光が届かない場所では、京一は枯れてしまう。
―――枯れて、しまう。
「久し振りだなっ」
龍麻の住んでいるマンションの部屋を開けた途端、京一は嬉しそうに呟いた。中に入るのを見届けると龍麻はその扉を閉める。
京一はよく龍麻のマンションに上がり込む。まるでこっとが自分の家だとでも言うように。そして。そして、龍麻はそんな京一を絶対に拒んだりはしない。
京一はこのマンションがひどく気に入っていた。特に夜、窓から覗く都会のイルミネーションが綺麗だ、と。
「あ、ミー」
京一が自分の足元に擦り寄ってきた真っ白の猫に向かって名前を呼ぶと、手を延ばしそっと抱き抱える。その猫は親愛の情を込めて京一の顔をぺろっと舐めた。
「くすぐってーよっ」
子供みたく無邪気に猫とじゃれる京一は、ひどく子供のように見えた。小さな、無邪気な子供のように。
「京一」
「何だよ?」
京一が振り返ると同時に龍麻彼を腕の中の猫ごと、抱きしめた。
「バカッ、ミーが潰れるだろっ」
腕の中の白猫が苦しさを訴えるように、鳴く。その声と同時に京一の怒ったような、瞳も。その瞳に龍麻は完敗した。
「ごめん、ね」
腕を緩めると同時に、京一の腕から猫はすり抜ける。そして猫が床に着地したと同時に、再び京一は力強い腕の中に閉じ込められてしまう。
「バカっ痛てーよ、ひーちゃんっ」
「やだ、離さない」
龍麻の腕は益々力がこもる。京一の身体が壊れてしまう程に。壊れてしまう、程に。
「やっとお前をこの腕の中に感じているんだ、これは夢じゃないんだ」
「……ひーちゃん……」
「京一、好きだ。俺にはお前だけだ」
「知ってんよ、そんくらい」
京一の手がそっと、龍麻の背中に回される。そして、ひとつ笑って。京一の瞼が静かに閉じられる。その仕種が龍麻には哀しい程綺麗に、見えた。
「さすがだな、京一。俺の事は何でもお見通しだ」
「当たり前だろ。お前の事なら何でも知ってるさ」
京一がゆっくりと顔を上げる。その澄んだ瞳に自分が映し出される。自分、だけが。
「本当だ、京一。今お前の瞳には俺しか映ってない」
「…当たり前…だろーが……」
二人は何方ともなく瞳を閉じて、唇を重ね合った。
太陽の、匂い。
お前は夏の太陽の匂いがする。
体温の高い、身体。
ひどく、温かい。
心と身体の温度が同じとでも言うように。
同じとでも、言うように。
心臓の音がとくんとくんと聞こえる。
お前は生きていると、思った。
俺の腕の中で生きている、と。
―――太陽は決して沈まない。
まだ、信じていた。信じられた。
愚かな子供の自分は、太陽はいつも後ろをついてくると信じていた。
でも、それはやっぱり子供だけの夢で。
俺たちはこの夢と言う空間の中には永遠に居る事が出来なくて。
いつかはそこから抜けなくてはいけない。
目を覚まさなくては、いけない。
海の底で何者にも傷つけられず眠っているだけではいられない。
でも、それが出来ない子供はどうするの?
目覚められないまま、目覚める事の無いままで夢から抜け出た子供は。
―――この絶望と言う名の現実の中で、何処に行けばいいのだろう?
End