…『貴方』と言う名の水が無いと…僕は枯れてしまう……
地上の華。最期の、華。
この砂だらけの大陸に咲く、たったひとつの華。
約束なんて、いらない。
約束をする事で貴方がいなくなってしまうなら。
それならば何もいらない。
…だから…傍にいて………
初めて指を絡めて眠った夜。怖いと思っていたもの全てが消え去った。
「…俺達このまま死ぬのかな?…」
繋いだ指先だけが世界の全てになって、そして温もりだけがふたりを結ぶ永遠になる。
「死にとーないか?隼人」
闇夜にでも黒水晶の瞳はきらきらと反射した。そんな劉の瞳に黒崎はひどく安心感を覚える。安心感…絶対の、安心感。
「…死ぬ事は怖いと思っていた。ずっと怖いと。けれども……」
少しだけ繋いだ手に力を込めてみた。それだけで。それだけで何も怖くはないと思った。
「……お前となら…怖くない…かも……」
「わいも怖くない。隼人と一緒なら、どんな事でも平気や」
最期の最期になって、初めて素直になれたと。初めて自分の気持ちを正直に言えたと思った。こんなにも劉の事が好きなのに、何時も素直になれなくて…ごめんな…と心で呟いて。…こんなにも、お前の事が好きなのに……
「砂さらさらしてるな」
「ほんまやな。さらさらしとる」
目を閉じれば聴こえてくるのは砂の音だけ。さらさらさらさらと無限に流れる砂の音だけ。萌える緑も澄んだ水ももうこの地上の何処にもない。あるのは延々に続く砂だけ。砂漠と化したこの地上だけ。地球は蒼い色をしていると…どれだけの人間が覚えて…いるのだろうか?
鳥の楽しそうな鳴き声も、気まぐれな猫の足音も、犬の吠える声も。もう何処を探しても見つからない。この地上の何処を探しても。そして、華。自分達が見た最期の華は、何色だっただろうか?血のような紅い色だっただろうか?それとも透明な程白い純粋な色だっただろうか?
…目の前にすぐ浮かぶ程間近な気もするし…そして思い出せない程遠い昔の気もする……
でももうそんな事はどうでもいい。この砂の柩でふたり。ふたりだけで死ねるのなら。
「…俺達最期の人類、かな?…」
「どうやろ?そんだったら世界はふたりのもんや」
「はは、ふたりだけの世界か」
「ああ。わいと隼人ふたりだけや」
「…それも…悪くないな…」
そっと目を閉じて世界を闇の中に包み込んだ。砂の音すら消滅させるほどの温もりを指先に感じて。
「なあ、隼人。最初で最期のお願いや」
「何?劉」
「…隼人から…キスしてくれへんか?……」
言われてみて初めて。初めて、気が付いた。自分から彼にキスした事がなかった事に。何だかそれが可笑しくて無意識に黒崎の口許が綻んだ。
「キスだけでいいのか?」
「ああそれだけで充分や。だってわいらの魂は繋がっているだろう?」
「…魂…そうだな…」
ずっと、ずっと、繋がっている。運命の紅い糸よりも強い絆で繋がっているから。
「…ずっと俺達は……」
最期の気力を振り絞って黒崎は立ち上がると、そっと劉の唇に口付けた。かさかさに乾いた唇は、けれどもその温もりが全てを忘れさせた。…好きだ…劉……
このままキスしながら、死のうか?そうしたら俺達死ぬ瞬間も一緒にいられるよな。バカみたいな事を考えながらも、それが現実になったらいいなと。いいなと、思った。
…このままふたりだけで、永遠に眠れたらと……
「見事に何もなくなったな」
砂漠しかない大地を感情のない瞳で見下ろしながら、犬神は呟いた。人間はどうしてこうも愚かな生き物なのだろうか?
自らの手で、自らの生き場を壊して。自らの命を破壊して、そして種を滅亡させた。何て馬鹿げた生き物だろうか?
「お前らが滅ぶのは一向に構わん。ただ他を巻き込むな」
我が物顔で地球の支配者になって、他の生物たちから生き場を奪っていった愚かな人間ども。そして核によって自らで自滅した…救いようのない生き物。それが『人間』だ。
「我々の『同朋』がどれだけ生き残っているのか…な…」
言葉出してみて自分がいかに関心がないかを改めて実感した。どうでもいい。自分にとって全てがどうでもいいことだった。人類が滅ぼうと生物が滅ぼうと、自分が滅ぼうと…。一切が無関心で、何もかもが関係のない事のように思えた。実際自分は死んでも構わなかったのだ。この大量虐殺の中で、その他大勢の犠牲者の中に加わっても。…自分が心を動かすものなど…もうこの地上の何処を探しても見つからない……さくりとひとつ、音がした。自分が歩いた訳でもないのに確かにこの耳にその音は届いた。
…もしも。
もしも気まぐれにその音に振りかえらなかったなら。
そのまま通りすぎていたら。
運命の歯車はこのまま、音を立てて廻り続けたのだろうか?
それとも軋んだ音を立てて、壊れただろうか?
手を、伸ばしてみた。
最期の力を振り絞って。自分の身体の何処にそんな力が残っていたか分からなかった。ただ霞んでゆく視界の中で見えた『それ』に向かって、懸命に手を伸ばした。それが人間だったのか…まして生き物だったのかは分からない。ただ、本能が。いや本能よりももっと、もっと原始的な心の奥底が告げていた。だから手を、伸ばした。
…お前に届くようにと…一生懸命に手を伸ばした……
噛みついてみたい衝動に駆られた。理由も思いもなにもない。ただ噛みつきたいと。その全てを反射する強い光を持った瞳を噛みつきたいと。それだけを思った。
「死にぞこないの…人間か……」
声にしてもその衝動は収まる事はなかった。ただ噛みついて、この牙を埋めたいと。その欲望だけが全身を支配した。伸ばされた手にそっと、触れてみた。自分でも何故そうしたのかは分からなかった。ただ。ただその手に触れたいと、確かに今自分は思った。
その瞬間安心したかのようにその手から力が抜けた。犬神は咄嗟にその手を掴むと、意識のない身体を抱き上げた。それはひどく軽かった。
「大量の放射能を浴びて…それでも生き残って…幸せか?」
食べる物も語るべき友も何も残っていない世界で生き残って。独り生き残って、幸せか?
そう思った自分がひどくおかしかった。その言葉はそっくりそのまま自分に返すべき言葉だ。独りで生き残って…幸せか?…いや…幸せとは…何だ?……
「まあいい。どうせ俺も長くはない。死ぬまでの退屈凌ぎにでもなってもらおうか」
ただお前が生きていればの、話だがな…
小さな小さな、魂。地上に置き忘れた、小さな小さな、命。
それをそっと抱きしめて、今眠ろう。
だれにも気付かれずに咲きつづける最期の、華を。
その胸に抱きながら。僕は永遠の眠りにつこう。
…たとえ死ぬ事が出来ない身体で、あっても。君だけを想って眠るから。
目を閉じればまるで今さっきあった出来事のようにそれは浮かんできた。人類最期の日。核爆弾が世界に投下されて、全てがなくなった日。
…ジェノサイドが、実行された日……
そして僕らの永遠の償いが始まった日。死ねない僕と、枯れない君と。どちらが、救われない?僕は生き続ける。この世界に何もかもなくなっても。それでも僕は生き続ける。そして、君も。君も咲き続ける。水がなくても枯れる事のない最期の華。この地上に咲く、最期の華。
「…紅葉……」
目の前に咲く一輪の小さな華。それが今の君の命。かけがえのない大切な僕の小さな、命。こうして僕が名前を呼んでも君の声が聴こえる事はない。君の声が僕の耳に届く事はない。けれども。けれども、伝わるから。目には見えなくても、耳には聴こえなくても。確実に伝わるものが僕らにはあるから。
「紅葉…共に眠ろう…」
永遠に死ねない身体。眠れない心。それでも。それでも君と一緒ならば。
「…このままずっと……」
許される事のない僕らの罪。それでも。それでも僕らは。僕らはともにいたかった。傍に、いたかった。
約束なんて、いらない。『今』ふたりで、いたいから。
…未来なんて…いらない…
『人間』を作った、君と。『知恵』を与えた僕と。
…どちらが、罪深いのか?
時々、子供のような無邪気な瞳を僕に向けた。その瞬間が、何よりも嬉しかった。何時も独りで他人を寄せ付けず、皆から『異端』とされていた君だから。
「この蒼い星、僕が貰ったんです」
少しだけ戸惑いながら、でも子供のように微笑った君。君の持つ羽根と同じ蒼い色。白だけの世界の中で唯一蒼い羽根を持つ君。…蒼天使。絶滅したはずの『純粋』な天使。それが蒼い羽根と髪を持つ蒼天使。僕らと違い君には性別がない。本当になんの属性を持たない真実の天使。けれどもそれ故に君は『異端』とされた。それゆえに全ての天使から『拒絶』された。自分だけが人と違うと言うレッテルが、彼を孤独の殻の中に閉じ込めてしまった。だからこそ、僕は。
「よかったな、紅葉」
その殻を少しづつ破って僕に見せてくれるようになった表情が、何よりも大事だから。「…この星がきちんと発展したら…僕も…」
「ん?」
「…僕も一人前の天使として…皆に認めてもらえるでしょうか?…」
「大丈夫だよ、紅葉。君は誰よりも本物の天使なのだから」
「……翡翠…さん……」
「いい加減『さん』付けは止めてほしいな」
「……あ、はい…その……」
「翡翠だよ、紅葉」
「…翡翠……」
君が名前を呼んでくれるだけで。それだけで幸せだと、思った。
『…翡翠……』
微笑う、君。君の笑顔。それだけが僕の護りたいものだった。
この蒼い星よりも、何よりも。君の笑顔を、護りたかった。
星が、落ちる。運命の星が。
静かに地上へと落ちてくる。それを止める術を。
…誰も…知らない……。
End