地上の華<過去>


人は昔空を飛ぶ術を知っていた。
ただ時がそれを忘れさせただけで。
その背中の翼を思い浮かべた時に、人は。


…人は空を、飛べる……


何時も素直になれなかった。こんなにもお前は俺を『好き』だと言ってくれたのに。それなのに好きだとちゃんと俺は言えなかった。何時も言葉をごまかしてばかりで。お前の目を見てちゃんと、言えなかった。…それだけが、それだけが…後悔……。


「何を見ているんだい?紅葉」
後ろからその広い腕で抱きしめられて、僕は微かに瞼を震わせた。大切な、ひと。僕の大切な…大切なたったひとりの大事な人。
「地球を、見ていました」
目を閉じてその温もりを感じる。柔らかい優しい腕の中。この場所が自分にとって何よりも大切な場所。
「君はこの蒼い星に夢中だ。少し焼けるね」
「ごめんなさい、でもこの星が…人間が進化してゆくのを見るのは楽しいです」
「楽しい?僕といる時よりも?」
「…貴方といる時は何時もどきどきして少し…緊張してしまいます」
「いい加減慣れてくれてもいいのに」
「…それは…ムリですよ…」
少しだけ困った表情で微笑ったら、貴方はそっと口付けをくれた。やっぱり未だにどきどきしてしまう。きっと一生…慣れる事はないなと、思った。
「魂があるんです」
「え?」
「人間には魂があって入れ物である肉体が滅びても、何度でも生まれ変わる事が出来るんです。僕達と違って」
「僕らは死んだら終わりだからね。使い捨ての身体だね。天使の肉体なんて」
使い捨てという言葉に、僕は少しだけ哀しくなった。僕らは人間達よりも何万倍も永い時間を送る。けれども一度きりだ。一度きりしかその命をまっとう出来ない。でも出来ないからこそ、その一度だけの命を…貴方といたい……。
「そしてその魂の結びつきが…凄く強い場合があるんです」
「強い?」
「ええ、何度も何度も生まれ変わっても必ず出会って、互いに恋をするんです。
例え人間に生まれ変わらなくても…彼らは必ず恋をしている。凄い事だなと、思いました」
「で、今は?今はその二人は恋をしているの?」
「していますよ、同性同士で困っているみたいですけど。ほら」
僕は指を刺してその二人の様子を貴方に見せた。貴方は柔らかく微笑って耳元で一つ、
『…少しだけ、羨ましいな……』
と囁いた。その言葉に僕は、くすっとひとつ、微笑った。何よりも幸せな時間。


この時間が永遠に続くと、信じていた。


地上に咲く華が少しずつ、そして確実に消えてゆく。それは誰もが気づかないうちに、そして誰もが心の何処かで気付いているうちに。消えてゆく、地上の華。小鳥たちの囀りは?虫の羽音は?気付いた頃には、もう遅い。それらに逢えるのは、夢の中。冷たい機械の箱の中。


…気づいた時にはもう、何もないのに……


初めて出逢った時から、どうしようもない程に気になっていた存在。
「隼人っ」
ふざけた様子で劉は後ろから黒崎に抱きついた。その瞬間黒崎の心臓はイヤと言う程に跳ねあがった。その音が劉に聞えないかどうか、それだけが一番の心配事だった。
「いきなり抱きつくなよっびっくりするだろっ?!」
「いいやーん隼人った抱きごこちめためたええんだもん」
「なんだ、それは…」
「言葉通りや」
ふわふわの柔らかい髪から微かに香るシャンプーの香りに、劉はどうしようもない程の幸福感を覚える。自分よりもひとつ年上で、そして何時も先輩ぶろうとして失敗する彼がどうしようもない程に愛しい。…どうしようもない程に、愛しいと……
「ヴ、お前全然俺を先輩扱いしてないなっ」
「そんな事ないでー隼人先輩」
「今更先輩ってつけても遅いわっ!」
「だって先輩つけたら遠くなりそうなんやもん」
「…劉?…」
「こんな風にふざけられないような気がして、わいはやや」
「…そんなコト言うなよ。しょうがないだろっ俺の方が先に生まれたんだから」
「そうやけどーでもいややーっ」
じたばたと人を抱きしめながら暴れ出す劉に、黒崎は苦笑した。こんな所がひどく子供っぽいと。でも。でもそんな所がどうしようもない程。
『…好きだ……』
その一言が言えたらどんなに楽か。どんなに楽になれるか。でも言ってしまったら今みたくにこんな風にふざけあう事もじゃれあう事も出来なくなってしまう。…こんな風に抱きしめて…もらえなくなって…しまう……


俺はどうして、こんなにも臆病なのだろうか?


窓の外でガキどもがじゃれているのが目に付いた。不思議とそれが視界に自然に飛び込んできた。
「…平和、だな……」
馬鹿みたいに日差しは暖かくて、聞えてくる生徒達の声は無邪気だ。その背後から聞えてくる終末の音にも気付かずに。犬神はふかしていた煙草を灰皿に投げ捨てると、再び窓の外に視線をやった。一面の、桜。甘く気だるい匂いが、ひどく鼻孔に纏いついていやだった。
「この星が滅びるなんて…お前らは考えもしないだろうな……」
この桜も多分もう見納めになるだろう。滅びゆく運命の種族。それを止める事はもう誰にも出来ない。自業自得の愚かな人間ども。
「別にお前らが滅びようが…俺が死のうがどうでも構わんからな…」
執着も想いも何も持たない自分には。何も持たない自分には、どうでもいい事のように思えた。…いや実際…どうでもいい、事だった……。


…そして最期の審判が、下される……
人類最後の日。そして、ジェノサイド。


綺麗だと、思った。そう思う事事態自分は狂っているのかもしれない。でもその瞬間、自分はただ綺麗だと。綺麗だと思った。
「…俺は…死ぬ…のか?…」
一面の火の海と、降り注ぐ放射能の雨。それに肉体を焼かれてそして内臓を侵され、屍となって消えてゆくのだろうか?
「…死んじまうのかな…俺……」
不意に今まで生きてきた自分の短い人生を思い出して、京一は何だか少しだけ虚しくなった。自分はまだ何もしていない。本当に欲しいものも、真実したかった事も。何も見つけられずに。何一つ手に入れる事が出来ずに、このまま死んでゆくのか?
「…畜生…死んでたまるか…」
まだ自分は何一つ見つけてはいない。自分にとって生きる意味を。自分にとってかけがえのないものを。ただ今まで流れに任せてぼんやりと空気を吸っていただけで。何かひとつ、何でもいい。自分にとって…自分にとってかけがえのないものが欲しい。
「…死んで…たまるか……」
自分にとっての『運命』が、欲しい。たとえそれが自分の手にしてはならない禁断の果実でも。


俺は『真実』が、欲しかった。


死ぬと思った瞬間に、その腕に抱きしめられた。頭上から落ちてくる瓦礫から自分の身体を護るように包み込んで、そして自らの広い背中を盾にして。
「隼人、大丈夫か?」
「大丈夫かって…お前…お前頭から血が出てる……」
手を伸ばしてその額の血に触れてみた。どろっとした生暖かい感触が、全ての出来事を現実のものだと伝えていた。…そうこれは全て、現実の出来事だ。
「こんな平気や。わいは隼人さえ無事ならそれでええ」
「…でも……」
戸惑いながら見つめると、劉はどうしようもないくらい優しい顔で微笑った。その顔に泣きたくなった。嬉しいのか、切ないのか自分には分からなかったけれど。ただ。ただどうしようもなく泣きたくなった。
「隼人が無事ならばええんや」
崩れた瓦礫から離れてとりあえず安全な場所へと移動した。その途端崩れ落ちるように劉はしゃがみ込んでしまった。
「劉っ?!」
「はは、気が抜けてもーたわ。平気やから」
心配そうに自分を見つめてくる黒崎に笑いかけると、劉はその少し癖のある彼の髪をそっと撫でた。柔らかい、髪。太陽の匂いのするふわふわのその髪に。
「隼人が平気なら、わいも平気や」
「…劉…」
このまま泣いてしまおうかと、思った。このまま泣いたら少し楽になれる気がして。けれども最期のどうしようもないプライドが、自分に涙を流す事を拒否させた。…どうして自分はこんなにも。こんなにも素直になれないのだろうか?
「隼人もうちょっとわいの近くに来てくれへんか?」
言われてみて少しだけ戸惑いながら、劉の隣に黒崎は座った。その途端に肩を抱き寄せられてそして抱きしめられた。
「…劉?……」
「好きや、隼人。こんな時に言うのも卑怯かもしれへんが…今言わんかったらもう二度と言えない気がして」
劉の言葉に黒崎は答える事が出来なかった。ただその瞳を茫然と見開くだけで。今の言葉の意味を理解する事がすぐに出来なくて。
「…好きや、隼人。わいはずっと隼人だけが……」
「…う、そ……」
「嘘やない。嘘で同性に告白出来るほどわいは器用ではないぞ」
どきどきと、心臓の鼓動が耳元にまで届く。こんな時に不謹慎だと思いながら。思いながらも止められなくて。死ぬか生きるかの瀬戸際で。その中で自分は今、どうしようもない程の幸せを感じている。沢山の人が、死んでいるのにも関わらず。…どうしようもない程の嬉しさを……
「……うん………」
「隼人?」
「…俺も……」
それ以上黒崎は何も言えなくなって俯いてしまった。そんな黒崎の髪に劉は顔を埋めるとそっと髪先に口付けて。
「なーんか今ならわい死んでも後悔ないわ」
と、言った。


神様、ごめんなさい。
そして沢山の死んでいった人達ごめんなさい。
俺はこんなに幸せで。
こんなにも幸せで、ごめんなさい。


今ならば本当に死んでもいいなと、思った。


『お前の罪は深い。永遠にそれを許される事はないぞ』
絶対的な声が頭上から降り注ぐ。紅葉は黙ってそれを受け入れた。絶対的な権力者。全ての真実。全ての支配者。誰も逆らう事は出来ない。人類がその人の名を呼ぶとすれば『神』と呼ぶだろう。
『愚かな人間を作りだし、そしてこの星を汚したのはお前だ。お前は自らの肉体を持ってして永遠に償うがよい』
「…分かりました…」
「待ってくださいっ!!」
その言葉を遮るように飛び込んできた翡翠に、紅葉は驚愕せずにはいられなかった。これは、自分の罪。自分が侵した罪。このひとは何の関係もない。
「人間に知恵を与えたのは僕です。償うのなら僕も同罪ですっ!」
「違いますっ!!これは僕独りがした事です。罪を償うのは僕だけにしてください。お願いします!!」
『庇いあうか…それを美しいと思うか馬鹿らしいと思うかは…聴いた者の差だなまあよい。そこまでして、傍にいたいのか?』
…傍に、いたい……それはまぎれもない真実だ。どんなになっても自分はこの人の傍にいたい。この人を巻き込みたくないと思いながらも、それでもやはり傍にいたいと思うのは。…思ってしまう僕は…どうしてこんなにも…こんなにも、自分勝手なのか?
『傍にいたいのであろう?紅葉』
その問いに紅葉は答える事は出来なかった。けれどもその瞳が、表情が全てを物語っていた。全てを、伝えていた。
「僕は紅葉とともにいたい。例え貴方に逆らってでも。全てに逆らってでも」
「…翡翠……」
『全てに逆らってもか…ならばそうしてみよ。運命にも逆らってみよ。お前らの罰は今決定した』


そして何もない地上に一輪の華が咲く。最期の地上の華。
傍にいて、そして共にいても。
声を出す事も瞳を見つめることもその腕に抱かれる事も出来ない。
死ぬことも、出来ない。ただこうしてふたり、何もない地上で。
永遠に閉じ込められる。


『傍にいたいのであろう?』


傍に、いたい。例えどんな事になっても。このひとの傍にいたい。
貴方を見つめていたい。貴方の声が聴きたい。貴方の瞳に映りたい。
それだけが。それだけが、望み。


「紅葉」
物を言わない恋人。自分を見つめ返さない恋人。
それでも。それでも自分にとっては唯一の。
「愛しているよ」
花びらにそっと、口付けた。
普段君にするように、全ての想いを込めて。
全ての愛を込めて君に、口付けた。
「…僕だけの…紅葉……」


それが僕らの持っている唯一の、真実。


End

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