地上の華<今>


…禁断の果実に手を、触れた……


手を伸ばして、掴んだものが。
それが自分にとって、どんな意味を持つものなのか。
どんな『現実』なのか、分からない。
ただ。ただ、確かに自分は手を伸ばした。


それだけが。それだけが、唯一の真実。


…喉が、乾いたと思った。
この喉を潤してくれるものなら何でもいい。
液体をこの喉に注ぎ込んでほしい。


目覚めた瞬間に飛び込んできたのは、深い…深すぎる闇だった。
「…こ、こは?……」
ぼんやりとする意識を持て余しながらも、京一は呟いた。思いの外掠れていた自分の声に驚きながら。
「地獄、だ」
そう答えた男の声の思いがけずの深さに、何故だか無意識の恐怖を覚えた。恐怖を覚えながらも、また耐えがたい惹き付けるものを感じずにはいられなかった。恐怖と魅了は紙一重だとでも、言うように。
煙草の匂いがこの場所一帯に満喫している。それが男の吸っているものだとすぐに理解した。独特の、匂い。身体の芯までその香りに侵されてゆきそうな…。
「あんた、誰だ?」
「聞く前に名前を名乗れ、ぼうず」
「…京一…蓬莱寺京一……」
まるでここだけが時が止まったみたいだった。あの火の海も放射能の雨もまるで映画の出来事だと思わせるように。ここだけが時が、止まっていた。
「蓬莱寺か…俺は犬神だ」
そう言うと犬神は吸い終わった煙草を地面に投げ捨てた。砂漠と化した地上にその吸殻はゆっくりと埋め込まれてゆく。その様子をひどくぼんやりと京一は見つめていた。
「何でお前煙草持ってるの?」
「さあ、たまたま買いだめしていただけだ」
「変なの」
置きあがろうとして自分に掛けられていた白衣に気がついた。…白衣…こいつは医者なのだろうか?その白衣を手に取りながら京一は置きあがると犬神の隣に座った。ごつごつとした岩場だった。
「あんた、医者?」
白衣を渡しながら京一は尋ねた。その瞳の思い掛けないほどの光の強さに、犬神は驚愕を覚えた。…驚愕を?……自分、が?
「教師だ」
「へー全然教師に見えねーの」
きらきらと鏡のように何度も反射する瞳。この闇だけの世界で。未来も希望も何もない世界で、きらきらと。その瞳だけが、光る。
「まあ、先公らしくねー方がいいけどなっ」
「よく喋るガキだ」
「しゃーねーだろっ?!話し相手いなかったんだから…」
言ってみて初めて気がついた。あの大量虐殺の日から初めて、初めて自分が他人と会話した事に。自分が見たのは無数の屍それだけだった。無数の屍の山を乗り越えて初めて、初めて生身の人間と会話している。
「独りは、辛いか?」
聴いてみて、馬鹿な質問だと思った。誰だって独りを自ら望みはしないだろう。そんな物好きは自分くらいだ。誰にも煩わされる事なく、誰にも関わる事なくただ独りでいたいと思うのは。
「辛いと思った事はなかったけど…でもこーやってあんたと話してたら独りよりも二人のがいいなーって思った」
「俺は独りのがいいがな」
「…俺は迷惑か?……」
「別に。飽きたら捨てればいいだけだしな」
「ひでーなっその言い方っ!俺はモノじゃねーぞ」
「俺が拾ったんだから、俺のものだ」
不意に犬神は京一の顎を掴むとそのまま強引に唇を奪った。その瞬間唇に何か硬いものがあたったが、それが牙だと認識するのに京一にはしばらくの時間を要した。
「…んっ…な、何するんだよっ」
「退屈凌ぎだ。何もする事はないからな」
「だからって何でこんな事を?!」
「人の本能は食欲と睡眠と性欲で出来ている。それを満たそうとしただけだ」
ってこんなガキに欲情すんのかよってめーはっ」
「だから退屈凌ぎだ。拾ってやったんだ、付き合え」
「やだって…お前それに『人間』じゃねーだろ?」
深い漆黒の瞳と、口付けられた時に当たった鋭い牙が。本能的に自分と違うと…違うと京一に伝えていた。
「ああ人じゃない。それがどうした?」
そう言われてしまったら京一に反論する事が出来なかった。確かに人じゃなくても人間じゃなくても、別にどうでもいい事だった。そんな事はどうでも、いい事だ。ただ自分が無意識に手を伸ばして救いを求めたのが目の前の男だったと言うだけで。それだけが今ここに自分がいる『事実』だ。
「だから食料を取らなくても、水を飲まなくても生きて行ける。お前とは違う」
「…俺は、死ぬんだな…このまま」
「喉が、乾かないか?」
不意に犬神に囁かれた言葉に、京一は頷いた。確かに喉が、乾いていた。飢えていた。会話をする事で忘れていた欲求が今身体に沸きあがる。
「喉が乾いた」
「ならば俺の舌を噛めばいい」
「…犬神……」
「そして俺の血を、飲み干してみろ」
再び犬神の唇が京一のそれを塞いだ。そして舌が忍び込んでくる。京一は言われるままにその舌を噛み切った。口の中に生暖かい血が溢れてくる。
「飲め、蓬莱寺。喉が乾いているんだろう?」
「…んっ…ふぅ……」
流れ込む生暖かい液体。むせかえる程の匂い。自分は一体何をしているのだろうか?そう思っても京一は本能的な欲求を堪える事が出来なかった。喉を流れてゆく液体。乾ききった器官を潤してゆく、もの。
「…んっ…んん……」
何時しか物足りなさを覚えた京一の舌が犬神の自らのそれに絡んでくる。ぴちゃぴちゃと淫らな音を立てながら、互いの欲求を満たしてゆく。ぞくぞくと京一の背筋から快楽の波がゆっくりと押し寄せてくる。
「…もっと俺が、欲しいか?……」
糸を引きながら唇が引き離される。それが今の京一には、もどかしかった。もどかしくて、そして。そしてどうにかして欲しくて。
「……くれ…よ………」
…何時しかその広い背中に手を廻していた……。


最期にこの瞳が映し出したものは、蒼い天使。
綺麗な蒼い髪と、羽根を持つ。蒼い、天使。


…魂がある限り何度でも生まれ変われるって、信じているから。
だからもう一度逢えると…逢えると、信じたい。


それでも夜空に星は降って来る。
「このまま、死んでもいいなって思った」
唇を離して真っ先に言った言葉に、黒崎自身が驚いた。まさかこんなにすんなりと自分の気持ちを口に出す事が出来た事に。
「わいもええなーって思った」
黒崎を自らの腕に抱き寄せたまま、劉は答えた。その変わらない柔らかい髪を撫でながら。
「でももうちょっと一緒にいたいって…思った…」
「隼人今日は正直や。嬉しい」
「…今の『俺』と『お前』で逢えるのはこれが最期かなーって思って」
「生まれ変わりを信じとるんかい?」
「…信じたい気持ちになった…」
「そうやなー、次に生まれ変わるのが『人間』じゃなくったって…わいは隼人を好きになるんやからな」
「人間はもうこの地上にはいなくなると思うか?」
「だってわいらが最期の人類やろ?」
「…それもいいけど…やっぱり何処かで信じたい…」
「人間が地球に生き続ける事が?」
「……お前に…また巡り合える事を………」
バカみたいだと思いながらも、それでも信じたかった。このまま今が終わっても、永遠に続くと信じたかった。こうしてふたりで、指を絡め合う事を。こうしてふたりで、みつめあえる事を。……こうして『ふたり』で、いられる事を………
「好きやで、隼人。わいはずーっとお前が好きや」
「…うん……」
「だから、隼人」


「そんな哀しそうな顔、しないでくれや」


…永遠って、あるのかな?ずっとずっと変わらないものって、あるのかな?
もしもあるのだったら。この気持ちが、永遠だと。永遠だと、信じたい。


「哀しそうな顔、しているか?」
「瞳が、泣いてる」
「うれし泣きだよ、劉」
「ほんまか?」
「本当だ、少しは俺を信じろよ」
「信じてるで、隼人」
「だったら…俺の気持ちも…信じろよな、劉」


地上に降りた、最期の天使。


『…翡翠……』

僕が貴方の名前を呼んでも、それが届くことは永遠にありえない。それでも貴方の名前を呼びつづける。
『貴方だけが、好き』
貴方に触れる事も。貴方に口付ける事も出来ない。ただ貴方を見ているだけ。そのさらさらの髪を長い睫毛を。綺麗な顔をまっすぐな瞳を。…ただ。ただ、見つめているだけ。貴方は僕の花びらにそっと口付ける。貴方は僕にそっと触れる。それだけで。それだけで、どうしようもない程に、切なくなるから。切なくて苦しくて、そして。そして嬉しくて。
「紅葉」
貴方の、声。よく通る低くて優しい貴方の声。その声に包まれて、包まれて幸せ。
『翡翠』
「愛しているよ」
『僕もです』
「君だけを、ずっと…」
『僕も貴方だけを』
何時も貴方の言葉に答えていても…それは貴方には届かない。それでも。それでも僕は、貴方に言葉を送りつづける。…貴方とともにこの地上で…永遠に……


そしてまた星がひとつ、落ちた。


ふわりと身体が宙に浮くような感じだった。自分の身体が何故か遠くに、見えた。
『…俺は、死んだのか?』
そう呟いてみて、初めて自分の今の現状を理解した。そう俺は。俺は死んだんだ、と。そう思ったら途端に俺は、不安になった。『死』に対してじゃない。俺が不安に思ったのは…
『…劉?……』
名前を呼んでみる。果して声は声として機能しているのか、俺にも分からなかった。ただその名を呼ぶ。それが俺にとっての『唯一』だから。けれども。
「大丈夫もうすぐ貴方の傍に来ますよ」
けれども自分に答えた声は、劉の声ではなかった。もっと別の…人ではないような声、だった。
「だって貴方達はずっと、ずっと一緒だから」
柔らかく降って来る声。見上げればそこには天使。蒼い羽根と髪を持つ、綺麗な天使。
『俺達はずっと、一緒なのか?』
「ずっと…ずっと一緒ですよ。これから先どんなものに生まれ変わっても。どんな姿になっても…貴方達はずっと。ずっと一緒だから」
そう語る瞳が何処か淋しげに見えたのは俺の気のせいだろうか?気のせい、だろうか?
「だから安心して…おやすみなさい」
綺麗な蒼が視界に一面に広がる。その蒼に誘われるように俺は目を閉じた。それは抗う事の出来ない程の心地よさだった。…ああ俺達はずっと…ずっと一緒なんだな……
その事だけが意識の薄れてゆく俺の頭の中で囁いている。ずっと一緒。それだけでもう何もかもが怖くなくなった。何もかもが、全て。


最期に何故か、一輪の華が見えた。

蒼い天使は消えて、ただ。ただぽつりと一輪の小さな華が。
地上に咲く唯一の華が。華が、見えた。


End

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