地上の華<未来>

この蒼い星に抱かれて、僕は眠る。


君の瞼の上を通り過ぎてゆく、光と。君の髪を揺らす柔らかい、風。
そして儚い程に柔らかく微笑う、君の笑顔に。僕はそっと口付けた。


これが夢ならば、醒めないようにと。


…萌える緑と、そして。そして一面の華。柔らかい日差しと、突き抜けるほどに蒼い空。
小鳥たちの囀りと、虫の囁き。その全てをこの蒼い星に、還してください。


僕らの『子供達』を殺さないで。


禁断の果実の味は、ひどく甘いものだった。
「…このまま俺は闇に堕ちてゆくのか?……」
腕の中に抱かれる。相変わらずそこから匂うのは煙草の香り。でも今は…それがひどく落ちつくものに思える。
「いやか?」
低く心に突き刺さる声。まるで傷を付けられたような。じわりと傷口を広げられたような。そんな、声。
「…太陽が…見たいな……」
呟いてみた言葉に自分自身が驚いた。降ってくるのは放射能の雨。そして空はただの灰色の空間でしかない。灰色の、空間。そこに空の破片は何処にも見えない。
「太陽…か…」
それ以上自分を抱く男は何も答えなかった。ただ一度だけ、その髪を撫でてくれた。


太陽は今、ここにある。この腕の中にある。
その灼熱を思わせるぎらぎらとして瞳と。
陽だまりの匂いのする髪と。その全てが『太陽』だ。


俺が幾ら闇に染めても、その光は決して失われる事はない。


「…そうか…俺は……」
血を分け与え、闇に堕とした。けれどもその瞳の輝きは決して失われはしなかった。どんなにその体内に血を、注ぎ込んでも。
「…俺は…太陽に…焦がれていたんだな…」
闇に生きる自分。闇でしか生きられない自分。だからこそ。だからこそ、自分は。
「犬神?」
見上げてくる全ての光を吸いこんだその瞳。その瞳に焦がれた。そうだ…自分を惹き付けて止まなかったのは…。
「その瞳に噛みつきたい」
「そうしたら俺の瞳、潰れちまう」
「潰れても、お前の瞳は光るだろう」
「どうしてそんな事を言う?」
「お前の瞳は決して闇に染まらないからだ」
欲望。噛みつきたいと思うその欲望。それは。それは…その瞳を闇に染めてみたかったから。そして。そしてそれは自分の物にしたかったから。自分だけの色に染めたいと、そう思ったから。…自分だけの『太陽』を手に入れたかったから……
「でも俺の身体にはお前の血が流れている」
「それでもお前の瞳は、血を弾くから」
引き寄せて、そして口付けた。一瞬ぴくりと身体が震えるのが分かったが、決して口付けを拒みはしなかった。
「…俺の身体には…『お前』が…注ぎ込まれている…」
「共に堕ちるか?」
その言葉にこくりとひとつ、頷いた。


手を伸ばした先に俺が掴んだもの。
薄れゆく意識の中で、俺が選んだもの。
それが例え闇への道しるべだとしても。それでも。


それでも『選んだ』のは、俺だ。


「このままお前と共に堕ちてゆく」
それが俺の手に入れた、真実。最期に見つけた真実。これが…
これが俺が、手にいれた唯一のもの。


…これが俺の、運命。
俺だけが手にいれた『運命』。


幸せだと、思った。


地上の華に今、手を触れた。そこから生まれゆく小さく壊れそうな命に今、手を触れた。新しい命。新しい生命。それに、それに今手を触れた。


蒼い星。綺麗なたったひとつの蒼い星。
僕と同じ、壊れた星。僕が壊した、蒼い星。
だから。だから僕が、この傷ついた星を癒す。
それが僕に出来る、僕しか出来ない事。


僕がこの星の『命』になる……。


小さな華がふたつ、生まれた。それは未だ芽を出したばかりの小さな小さな、命。今にも壊れてしまいそうな、それは生まれたての華。そして。
「…これは……」
その芽にそっと指先で触れてみる。瑞々しい緑と、伝わる息吹の香り。この砂上の大地に咲く筈のない華が今こうして生まれた。
「…紅葉…君か?…」
答える筈のない恋人の名を呼んだ。恋人はただ黙って自分の前に居る。小さな華となって。地上に咲くたったひとつの華となって。
「君が…この地上に新たな生命を吹き込んだんだね…」
寄り添うように生まれた小さな芽。まるでずっと前からそこに一緒にいるような。そんなふたつの芽。
「…紅葉……」
そしてその指を生まれたての芽から恋人へと移した瞬間。


その瞬間、花びらは崩れ落ちた。


地上に雨が、降る。二度と降るはずのない雨が。綺麗な雨が。雨が降る。地上の全ての穢れを浄化させるように。全ての汚れを落とすように。生命の雨が、降る。この枯れた地上を潤す、この穢れた大地を洗う、生命の雨が。『命』の雨が、降る。…それは、天使の流した涙……


「…紅葉?……」


花びらが風に舞う。雨に濡れて地上へと落ちる。そこから枯れた大地に柔らかい緑が生まれる。花びらが枯れ土を生む。それが肥料となり草を生えさせる。それがどれだけの時間を要する事になるか分からない。どれだけの時を刻むか分からない。けれども。けれども今この大地は『再生』を創めた。


今、この大地は再び産声を上げた。


『…翡翠……』
名前を、呼んだ。もう二度と届く事のない、二度と呼ぶ事の出来ない貴方の名前を。
『…貴方だけが、好き……』
声は風となって貴方の耳に届けばいいと、それだけを思った。それだけを願った。ただ、それだけを。
『それだけが僕の真実』
僕の涙は雨になって地上に降り注ぐ。貴方へ送る僕の最後の想い。貴方に届くように一生懸命に僕は想いを告げる。伝わらない言葉で、聴こえる事のない声で。…僕に与えられた罰。僕が償わなければならない罪。それは。それは、僕自身がこの地上の『生命』になる事。僕自身がこの星になる事。…僕が…この星になる…事……
貴方に羽根をもぎ取らせて、貴方に堕天使の烙印を押させて…それでも。それでもこの地上に貴方を縛りつけたのは。貴方の傍にいたかったのは…
『…翡翠…翡翠……僕は……』
届かない手を貴方へと伸ばす。その頬に僕の手が触れても。触れてもそれは擦り抜けてゆく。それでも、僕は。
『…僕は…貴方をずっと見ていたい…』
触れられない口付け。それでも僕はキスをした。僕から貴方への最期のキス。思えば僕は自分から貴方へキスする事は一度もなかった。
『貴方だけを見ていたい…僕という存在がこの地上の何処からも消えても、消えても僕は。僕は貴方だけを見つめていたい…』
貴方の顔に雨の雫が零れる。これが僕の涙だと…気付いてくれると…いいな……
『ごめんなさい…ごめんなさい…貴方をこんなめに合わせて。地上へと縛りつけてごめんなさい。僕の我が侭の為に…僕の勝手な想いの為に…ごめんなさい…』
貴方の髪を、頬を、僕の涙が濡らしてゆく。風邪を引いたらどうしようと…寒かったらどうしようと…そんなバカな事を考えながら、僕は貴方に謝罪し続ける。
『…ごめんなさい…翡翠……』
貴方を好きになって、ごめんなさい。こんなにも貴方を好きで、ごめんなさい。


「…泣かないで…紅葉……」


降り続ける雨、止まない雨。それは…それは君の涙だね……。綺麗だよ、紅葉。
僕に君の姿を見る事は出来なくても。僕の心の瞳が、君を捉えているから。
僕に君の声が届かなくても。僕の魂の耳が、君の声を伝えているから。だから、紅葉。


「…もう、泣かないでくれ……」


君を微笑わせたらと。君に本物の笑顔をさせてあげたいと。
何時も何時もそんな事ばかり僕は考えていた。
独りだけ孤立して、ずっと孤独に生きてきた君だから。
だから僕は。僕は君を微笑わせてあげたかった。
独りじゃないと、伝えたかった。
決して君は独りではないと。そう伝えたかった。


僕が共にいるから…と。永遠に君とともに。


「君がどんなになっても、僕は君の傍にいる」


『…翡翠…』
「紅葉、君がこの星になるのなら。この星の命になるのなら」
『…ひ…すい……』
「僕は君を照らす、光になろう…何時か…何時か…この僕に再び羽根が生えたならば。それまでしばしのさよならだ」
『…さよなら…翡翠……』
「愛しているよ、紅葉」
『僕も貴方だけを愛しています』
「愛しているよ…僕だけの…紅葉…」


「愛している、紅葉」


蒼い天使。この星と同じ色の羽根と髪を持つ、蒼い天使。
それは失った空の色。この穢れた地上から消えた本物の空の色。
蒼い蒼い、空。ただの空間じゃない本物の空。
…そして君は、蒼い空になる。
僕を何時も見つめてくれる。そして僕が何時も見つめられる。
綺麗な、綺麗な空になる。


そして雨は、止んだ。


「すげーどしゃぶりだったな」
濡れないように自分を抱きしめていてくれた腕の人物に京一は呟いた。煙草の匂いが何時しか自分の空気の一部になる。
「…ああ、でも…」
「…でも?…」
「雨が全てを流してくれたらしい。空が怖い程に綺麗な蒼い色をしているぞ」
その言葉に京一は顔を上げた。そこに広がるのは蒼い蒼い空。人類が失ったはずの、本物の空。それが今、俺達の元へと帰ってくる。
「でも太陽が出てねーな」
「…ふ、そんなものはいらん」
「何故?」


「今俺の腕の中に『太陽』はあるのだからな」


寄り添うように存在した蕾が今、華を咲かせた。それは地上の、華。生まれたての新しい命。
「君達の事は、僕はよく覚えているよ。紅葉が何時も気にかけていたからね」
そっと指先で花びらに触れるとそこから甘い香りが広がった。春の、匂い。無くしたはずのもが少しづつこの手に帰って来る。…僕らの未来が、還ってくる……
「何度生まれ変わっても、必ず惹かれあう魂だってね」
蒼い空。君の空。…君の…命……。


「…紅葉…君の大地は…君の命はこうやって少しづつ、生まれているよ……」


地上の、華。
それは僕らの未来の約束。


何時か僕が君の大地を照らす事が、出来るように……。




End

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