世界が、紅く染まる。日差しも、木々も。…そして視界の全てが。季節が秋へと変化しても、その事すらふたりには届かない。届か、ない。
静かな日々だった。静か過ぎる、透明な日々。誰にも邪魔出来ない、誰にも穢せない、透明な時間軸。その中にふたり、閉じ込められていた。
京一の病気は一進一退と言うような状態が続いた。でも、それは龍麻の居ない時だけで。龍麻さえ側にいれば、決して京一はその症状が現れる事が無かった。現れる事は、なかった。
―――龍麻の傍にいる時だけ京一は現実の中に、生きていた。
―――R.R.R……
不意に鳴り出した電話の音に。その音にすら京一は、脅えた。
「電話の線、外そうか?」
前に京一が余りにも不安な顔をするので、そう言った事がある。でも、そのたびに彼は一生懸命に笑顔を作る。そして。
「いいよ、ひーちゃんが困るだろう?」
そして、自分の頭をくしゃりと撫でるのだ。その時、自分が泣きそうになったを覚えている。言葉に出来ない切なさと、言葉にならないもどかしさが全身を支配して。
―――そして、憶えている。京一の身体のぬくもりを、覚えている。
龍麻はその音を一刻でも早く止めたくて、素早く電話を取った。それを黙って見ている京一の瞳はまるで捨て猫のようで。ひどく、哀しそうで。胸が詰まりそうに、苦しかった。
「もしもし、緋勇です」
一刻も早く電話を切って目の前の人を抱きしめたかった。この人を脅えさせる物全てから、守りたかった。
「龍麻くん?私です。美里葵です」
「…え……」
その声の主に、龍麻は戸惑いを隠し切れなかった。予想外と言うよりも…自分にとってあまりにも…あまりにも遠い人に思えたので。
「久し振りだな、美里」
もしも自分が真っ直ぐな道を歩んだなら。誰もが望む未来を歩んだなら。ただひとりの、運命の相手。でも自分は…運命の相手よりも愛する者を、選んだ。
「…早く…貴方達に会いに行くべきだったのだけれど…私……」
その先を言おうとして、噤んだ言葉に。言葉の先に、永遠の距離が存在していた。一度ほつれてしまった紅い糸はもう二度と元には戻らない。
「いや、いいんだ」
「…京一くんに…逢わせてくれるかしら?岩山先生がもしたしたら…もしかしたら私の『菩薩眼』の力が彼を治せるかもしれないって……」
―――余計な事を…。自分の、心の中のどろどろした感情がそう言っていた。そしてまた別のまっとうな心が言っている…京一を元に戻してやりたいと…も……。
『あのひとと生きていたい』
自分の半身であるべきお前は、如月と光の道を選んだ。共に手を取り合って生きてゆく未来を。そのこころの中に互いにどうしようもない独占欲と、どうにも出来ない想いを抱えながら。それでも『生きる』道を選んだ。
―――ならば俺は?俺はどちらの道を選ぶべきなのだろうか……。
「…そうか…それで?」
驚くほどに自分の声には感情がなかった。もしも今、この感情を吐き出したならどちらの答えを導くのか?自分はどちらの、答えを。
「…明日…貴方の家に行ってもいいかしら?」
「―――構わないよ、迎えに行くよ」
あっさりとOKを出した俺の本心は?その先は何があると言うのか?
「ありがとう、龍麻くん…あ、でも迎えはいいわ…如月くんと一緒に行くから」
「…それは余計都合がいい…」
「え?」
「何でもないじゃあ明日…十時頃に」
「じゃあ、その頃に…おやすみなさい」
カチャリと電話の切れる音がひどく龍麻の耳に届いた。まるで自分とは別の世界の、出来事のように。
―――如月…俺と同じ瞳を持つ男…お前ならどうする?
生きるといった壬生の言葉通りに、光の道を選ぶのか?
…それとも…それとも……
壬生を壊してまでも、闇に堕ちるか?
……そして。そして俺はどちらを選ぶのか?
「…ひーちゃん?……」
京一は部屋の隅で震えていた。膝を抱えて、淋しそうに。捨てられた猫のような瞳で、龍麻を見上げる。
「大丈夫だよ、京一」
龍麻はそれだけを言うとそっと、京一を抱きしめる。こうしてないと。こうやって腕の中に抱きしめていないと、彼は消えてしまう。
龍麻がいないと京一は、夢の中から出られなくなる。脱け出せなくなる。
一体誰がお前と俺を引き離せると言うのだろう。誰にも引き裂く事なんてさせはしない。
……美里…お前の言いたい事は分かる…お前の飲み込んだ言葉も俺には分かる……
お前は俺から京一を引き離したいんだ。でなければお前の『運命』は完成しない。俺の子供を産まなければ、お前の運命は成熟しない。そして真の意味での『平和』は訪れない。
―――でも俺はもうそんなものは、いらないんだ……
…京一…お前とともにいる事が出来ないのなら、お前を愛する事が出来ないのなら。そんな地上なんて亡くなってしまってもいい。そんな世界なら、俺はいらない。
「…京一…やっぱり電話線、切ろう」
「…え?」
「だって電話に出たらお前とその間離れていないといけないもの」
「バカっおめー何言って…」
耳まで真っ赤になって、京一はそっぽを向いてしまった。そんな彼が愛しくて、愛しくて。
―――愛し、過ぎて……
龍麻は堪え切れないとでも言うように、京一をそっと抱きしめる。そしてそんな龍麻に。京一はそれが当たり前だというように、自然にその背中に手を延ばした。そして。
そして、龍麻の顔を少し赤くなりながら見つめて。見つめて、静かに瞳を閉じる。
そんな京一に。龍麻はいつも、クスッと一つ笑って。その唇を塞ぐのだった。
――― 一体、誰が俺からお前を離せると言うのだろうか。
「ひーちゃん、どこ行くんだよ」
龍麻がジャケットを羽織って部屋の鍵を取り出した時、背後から声が聞えた。
「京一?」
振り返るとそこに、京一が立っていた。ベッドの上で眠っていた筈の彼が。彼が立っていた。哀しそうな瞳で。ひどく、哀しげな瞳で。
「煙草を買いに行くだけだよ」
龍麻は京一を安心させるように、彼の頬を大きな手で優しく包む。けれども。けれども怯えた瞳の色は消える事は、なくて。
「―――やだ……」
「……京一?」
「どこにも行くなよひーちゃん。俺の側にいろよ」
「…京一……」
「独りにすんなよ。俺、だめになるだろーが」
抱きついてきた京一の体温の高い身体を、龍麻は拒むことが出来ない。いや、拒める筈がない。子供が必死で大切な物を離さないとするような、がむしゃらな腕を。
「俺、お前がいねーと、だめになる」
それはとても漠然とした物言いだったかもしれない。それは無意識から来た言葉だったかもしれない。無意識の、狂気の中から。でも。でも、龍麻にはそれで充分だった。
必死で自分の意識を繋いでいるの京一。夢に引き込まれないようにと。龍麻にすがって、そして現実に必死で止まろうとしてる。
「いかないよ、京一。俺は何処にもいかない」
「…ひーちゃん……」
「お前がいない世界になんて、生きている意味なんてないんだから」
それだけを告げて。それ以上の想いを込めて、龍麻はその無防備な唇を塞いだ…。
「…あぁ…ん……」
何よりも、どんな時よりも。今自分は満たされていた。渇きにも似た飢えも。心の中に食らう深い闇も。
「……やめ…ひーちゃ……」
京一が愛しい。どうしようもない程。どうにも出来ない程。言葉では、言い尽くせない。言葉なんかでは足りない。こんなにも。こんなにも、愛している。
「京一、愛している誰よりも…」
こんな時、自分が言葉を知らないのを悔しいと思う。こんなにも彼を愛しているのに、その気持ちを伝える言葉を知らない。
愛しているなんて言葉が、安っぽく思える。そんな言葉なんかじゃ、足りない。全然、足りない。どうしたら、この気持ちの全てを伝えられるのだろうか?
愛している、愛している、愛している。
命なんかいらない。自分なんかいらない。お前さえいてくれれば。お前が俺を見ていてくれるのならば。
「…ひーちゃん……」
京一の細い手が、龍麻の背中に廻る。喘ぎで上手く言葉を綴れない唇で、それでも必死に龍麻の名前を呼びながら。
「…京一…俺と一緒になろう…」
「…あぁ…ひーちゃんっ…はぁっ……」
「俺と、一つになろう」
遠ざかる意識の中。それでも京一は、ことりと頷いた。―――小さく、頷いた。
―――気が遠くなるほど、幸せ、だった。
こうなる事を、自分は分かっていた。だから。だから、拒まなかったのかもしれない。
「…京一くんは?…」
部屋に招かれて真先尋ねた言葉は、その一言だった。―――美里葵…俺の運命の女。俺が愛すべき女。俺が愛さなければならない女。それが。それが『正しい』未来。
「向こうの部屋で寝ている」
視線だけでベッドルームを指す龍麻に、美里は次の言葉を言いかけて、そして止めた。
「蓬莱寺は、相変わらずかい?」
そんな美里の変わりに如月は尋ねた。でもその瞳は明らかに美里の持つものとは違う。言葉とは裏腹に京一に関心がない事など、龍麻には手に取るように分かる。この男の関心は壬生以外のものに何一つ向けられていない。そしてそれは自分にも言えることだが。
「相変わらずだ。俺以外の人間を判別できない」
その言葉は如月だけに向けられた自慢と、優越感だった。その言葉を告げる自分はひどく暗い喜びで満たされていたのだから。
「それは幸せな事だな」
「如月くんっ!」
如月の言葉に美里は半悲鳴のような声で否定する。この女には分からないのだろう。一生、分からないのだろう。この自虐の中にある、悦楽が。
「君には分からないか、まあいい…そこまでひとを愛せないのは逆に幸せな事なのかもしれんからな」
「…如月くん……」
「永遠に満たされない程、誰かを愛したら…終わりなんて何処にもないのだからな…」
―――終わり?その言葉はひどく俺をざわつかせた。終わりなんて…なくていい。この肉体が滅びても魂がなくなっても、愛する事は止められないのだから。
「…京一くんに…逢わせてもらえるかしら?……」
美里の言葉にひどく、満たされてゆく自分がいる。俺以外の人間を識別出来ない京一。皆、自分を殺すと恐れている京一。今、それをお前に見せてやるよ、美里。
「―――ああ…」
見せて、やるよ。どんな運命も俺達を引き離せないと言う事を。
―――顔に、硝子の破片が飛び散った。
その破片を手にした如月は一言、龍麻に言った。
『お前は闇に堕ちるのだな』と。
そして切れた頬の血を指で掬いながら
…紅葉に心配されるな…
それだけを、こころの中で思いながら。
部屋はめちゃくちゃになった。大切にしていた植木が皆床に散らばり、本はびりびりに破かれた。その中で。
その中で京一が割ったグラスの破片が太陽に反射して、ひどく綺麗に見えた。それが。それがこの場面にひどく似つかわしくなくて。
「大丈夫か?」
龍麻は感情の無い声で、如月と美里に声をかける。その中に絶対的な『優越感』を含ませながら。
「…ええ…大丈夫よ…」
答えたのは美里だった。如月は平然とその様子を見ていた。相変わらず関心のなさそうな瞳で。それは少しだけ龍麻の暗い優越感に傷を付けた。
―――京一は、発狂した。
龍麻の腕の中にいなければ多分、この暴走は止まる事はなかっただろう。自分が見えなくなるまで、傷つけるだろう。
京一の、世界には。彼の世界には龍麻しか存在しない。龍麻だけが京一を『ここ』にとどめている。現実に、とどめている。
「帰ろう、美里さん。君にも分かっただろう?」
「如月くん…で、でも…」
「やっぱり君には分からないんだろうね。こういう形の幸せを」
「―――如月くん……」
「他人に理解出来ない幸せは、確かに存在するんだよ」
―――そう。そう誰も、ふたりの間には入れないと…知った……
「京一」
二人が帰った後、気を失ってベッドに眠る京一にそっと声を掛けた。多分彼は、起きている。頭まで布団をかぶって、そして身体を小刻みに揺らしながら。
「皆帰ったよ。京一」
布団の上から京一の身体をそっと撫でる。その指がひどく、優しい。優し過ぎて、苦しい程に。
「…やだぜ……」
「…京一…」
「俺…お前と離れるの…やだ…」
「…うん…」
「…やだかんなっ…俺…やだ……」
「…うん、京一…」
龍麻は京一を布団の上から、そっと抱きしめた。その身体がひどく、温かくて。優しくて、心地好くて、切なかった。
「離さないよ、お前を離したりなんてするもんか。お前がいやがっても俺は縛りつけるよ。俺の傲慢な独占欲でお前を縛ってやる」
「…本当だな…」
掠れた、京一の声。きっと布団の下で彼は泣いている。こんな所は…何も、変わってはいない。
「京一、俺は自分勝手な奴だから。お前が不幸になったって、俺はお前の側にいる」
そして、龍麻は厚い布越しに口付けた。それは、優しすぎて。とても、優しすぎて。
「…バカヤロー……」
こんなにも、熱くて。
「…俺がお前の側にいて不幸になる訳、ないだろう……」
――――全てをとかして、くれた。
――――運命を絞め殺して、やりたい。
電話線を切れば、よかった。
あの時、切ってしまったら。
社会から全てを。
全てを抹殺させれば、よかった。
―――京一の優しい気遣いが、全てを終わらせた。
それは一本の電話から、だった。
「…もう一度だけ…貴方と話がしたいの…」
「―――今更…何を話すと言うんだ?」
「…お願い…龍麻……」
「やっぱり私には、貴方の愛が分からないの」
「ごめんね、龍麻」
遠ざかる意識の中でどこか。どこか、幸福そうな声が聞えてきた。
―――幸福?お前俺の幸せが分からないと言ったくせして…俺と同じ瞳をしているじゃないか?
「……どうしても、貴方を京一くんに渡したくはないの」
眩暈と吐き気。白い意識の中で何かが渦を巻いている。ぐるぐる、と。
「このままでは貴方も京一くんも破滅でしかないわ。だから私は京一くんを正常に戻して上げる」
―――何を…言っているんだ……。
龍麻の耳にはもう言葉が入らない。脳が痺れて、おかしくなっている。
「だからこそ、貴方の手から離さなくてはいけないの。貴方がいない世界でも京一くんが『生きて』いけるって事を…私は証明したいの」
……離す?……京一を?………
「愛しているのよ、貴方を」
冷たい唇が、俺の唇を塞いで。そして。そしてその『声』は、消えた……
「本当に、奪ってくるとは思わなかったよ」
白い無機質な部屋。再び京一はそこへと閉じ込められた。太陽のない場所で。光のない場所で。
「何でもするわ、私は。そう決めたのよ」
「緋勇を自分のものにするためにか?…無理だとわかっていてもか?……」
「ええ、だって私は『女』なのよ。愛に生きる女なの。どんな事でもしてみせる」
「―――そうか……」
それ以上岩山は何も言わず、ベッドの中で安らかな寝息を立てている京一を見つめた。
―――何も知らない幸福な顔。きっと龍麻の夢でも見ているのだろう……。
「…もしも…」
「…先生?……」
「京一がこのままだったなら?」
「私が傷つくだけだわ」
―――京一と龍麻の絆が他人を傷つけたら。
きっと、京一は還らない。二度と、還えらない。
それは、確信だった。
月が、紅い色をしている。血を吸い込んで、紅の色を。
「…きょう…いち?……」
怖い程に紅の色を。それは、あの女が流した涙の色だったのかもしれない。
「京一!」
龍麻はまだ痺れの残る身体を無理やり立ち上がらせて、室内をさ迷うように捜した。京一を、捜した。―――連れ去られた、京一を……。
「京一っ京一!!」
布団の中も、バスルームも。部屋の中を。扉と言う扉を開けて。気が狂ったようにを捜し続ける。洋服箪笥をひっかき回し。食器棚の食器を粉々に砕き。部屋中全てを破壊して。
―――全てを、破壊して。
「京一!京一っどこにいる?!」
砕け散ったガラスが龍麻の身体を貫き無数の傷を作る。それでも構わずに龍麻は京一を捜し続けた。何処までも、どこまでも。
「京一っ!!!」
流れ出る血は、月の色。紅い、月の色。あの女の流した涙。運命の紅の糸。俺が引き千切った運命の糸の色。運命の、紅い色。
『…こうなる事を…貴方は分かっていたんでしょう?…』
『僕には、関心のない事だ。紅葉――それに…』
『如月、さん?』
『もしかしたら僕が君をこうしていたかもしれない』
『…それはありえませんよ…』
『何故、そう言い切れる?』
『僕は蓬莱寺さんのように綺麗な魂を持っていないから…僕の魂は穢れているから…だから…僕は真っ白になんてなれない…それに…』
『―――それに?』
『どんなになろうとも僕は貴方だけは、忘れない』
一晩中、龍麻は京一を捜し続けた。身体が動かなくなって倒れるまで。倒れても…その名を呼び続けた。
「…京一……」
限界に来た身体がその場に崩れ落ちる。それでも龍麻の口から零れるのは、京一の名前だけ。彼の、名前だけ。
「…京一…京一……」
立ち上がろうと、手を延ばす。しかし、血まみれの腕は思うようには動いてくれない。いいや、動かなかった。
「畜生っ何で、動かないんだよっ!!」
身体は動かないのに声だけは出る。その声だけが虚しく響く。空っぽの壊れた部屋の中で。
「どうして、どうしてだよっ!!何で俺からあいつを奪うんだよっ答えろよっ畜生っっ!!」
―――ひーちゃん、俺を独りにすんなよ。
「返せよっ返せよー俺に返せよ……」
―――俺、駄目になる。お前がいないと。
「俺は何もいらない、お前さえいてくれれば、なのにどうして……」
―――夢の中に捕らわれちまう。
「…俺から…あいつを引き離すんだよぉ……」
―――愛しているぜ、龍麻。きっと、俺も……
「…うっあ……」
―――だから、ずっと一緒に。
「京一…京一……あっあっ……」
――俺の側にいろよ。
「ああ―――っ!!」
龍麻は、生まれて初めて声を上げて泣いた。
優しい、腕が好きだった。
俺を包み込む大きな手と。
耳元で囁く低い声が。
好きだった。
俺をとかしてくれる指も。
全てを忘れさせてくれる瞳も。
とても、好きだった。
―――俺はお前とずっと、一緒にいたかった……。
京一は無言だった。
この白い部屋の中で。死人の瞳で。
美里を見ていた。高山を見ていた。
その瞬間、彼は。
―――人間界の切符を、捨てた。
もう、何も見えない。何も聞こえない。
灰色の空はただの空間でしかなく。
車のクラクションはただの雑音でしかなく。
この世界のどこにも真実はなくて。
真実を教えてくれたはずの人はもうどこにもいなくて。
俺は、祈りの言葉すら知らない。
―――祈りの、言葉すら知らない。
「…龍麻……」
半分狂い掛けていた俺を最初に発見したのは、壬生だった。やっぱりお前は哀しく、優しい瞳をしている。如月が、愛した瞳。
「…壬生……」
「貴方は、死ねません。分かっているでしょう?」
「―――京一が…待っている……」
「そうです…貴方を…待っています…あの白い箱の中で……」
「お前は京一が連れ去られるのを、知っていたのか?」
「…いいえ…如月さんが…教えてくれました…」
「そうか」
他人に関心のない如月。壬生以外どうでもいい如月。それでも壬生に知らせたのは、それはただ単に壬生が俺を気にかけ、京一を気にかけているからだ。ただ、それだけだ。それでも。
「…蓬莱寺さんを…助けてあげてください…」
それでも壬生に話したのは。彼がこうする事を分かっていたから。俺の元へと来る事を。
「病院に入れろってお前は前に言わなかったか?」
「…僕が蓬莱寺さんだったら…貴方に連れ出して欲しいと思います……」
「如月なら間違えなくお前を連れ出すだろうね」
「―――でも貴方も…」
「蓬莱寺さんを…連れ出すでしょう?」
ならば連れだそう。
そしてふたりでもう一度。
――もう一度……
見るがいい、見せてやるよ。
俺達の強過ぎる、絆を。
―――他人を傷つけても離れられないこの、絆を。
―――空は灰色に染まり、今にも白いものが降ってきそうだった。このまま冷たい世界に閉じ込められてしまっても…いいかもしれない…。
「帰ろう、京一。もう暗くなりかけている」
疲れてしまったのかやっと泣き止んだ京一に、龍麻はひどく優しく言った。
「―――還る?どこへ?」
京一の瞳には何も映らない。目の前の自分すらも。もう、何も映さない。
「家にだよ。俺とお前の」
再び龍麻が京一と巡り合った時。彼は病室の中でまるで人形のように、そこにぼんやりといた。その瞳は空っぽで。空っぽで。
その手を取り、龍麻は京一を連れ出した。自分の元へと。ふたりで、手を取って白い部屋から逃げ出した。
そして、この海に彼を連れてきた。人間界の切符を捨てた、京一を。でも。
でももう、彼は意識を手放してしまった。
龍麻の手によっても還ってこない。
―――還ってこない。
「…ひーちゃん……」
京一がそっと龍麻の手を掴んだ。それは冷たい水に浸されて、凍えそうな程に冷え切っていた。
「お前ってあったけーな」
「……きょう…いち……」
龍麻の瞳が驚愕に見開かれる。何も覚えていない筈の。夢に還ってしまったたはずの彼が。
―――昔と同じ、少しだけ甘えた瞳で龍麻を見上げた。
そして、その手を自分の頬に持っていく。それは京一の最も好きな温もり、だった。
「……お前、好きだ。美里よりも岩山よりも。優しい……」
「…京一……」
龍麻はきつく京一を抱きしめた。彼は抵抗も脅えもしなかった。
暖かかった、から。その腕がなぜか優しくて温かくて。そして、懐かしくて。
「…ひーちゃん……」
京一の手がそっと、龍麻の背中に廻った。
神様は、京一を龍麻の手元に置こうと夢の中に連れていった。
太陽すらも反射する彼の瞳に。神様さえも、魅せられ狂わされたのだ。
そして。神様は最も大切な人間に嫉妬した。
でも、それならば。
思い知らされる事になるだろう。
この龍麻の激しい執着心と独占欲に。
きっと地獄にいってさえ、京一を離さないだろう。
たとえ、京一が不幸になっても傷ついても。
絶対に彼を、離さない。
―――離したりは、しない。
神様が本当に嫉妬した相手を知った、冬の海は。
―――なぜか、夏が透けて見えた。
End