PLOROUGE
―――その日はひどい雨、だった。
アスファルトに打ちつける水滴は無数の線を描き、街を白く包み込み、そのせいで視界がはっきりとしない。
―――ついてない、そう思った。
朝はあんなに晴れていたのに。おがげで傘を持ってくるのを忘れてしまった。
ちっ、と舌打ちをすると空を見上げる。けれどもまだ雨は止みそうになかった。
―――どうするか…ぼんやりと考えながら周囲に視線を巡らす。
霧に眠る街。目の前の車道に車が通り過ぎる。その音でさえなぜか、煩わしい。
何の代わりばえもしない見慣れた風景。もう飽きてしまった。
つまらない風景、つまらない毎日。そして何よりつまらない自分。何か、が足りない。
それは漠然とした物だったけど。何かが、確かに『足りない』のだ。足りない事は分かっているのに思い出せない。
……それはとても。とても、大切なものなのに………
思い出せない自分がいらただしい。それは絶対忘れてはいけないもののような気がするのに。まるでこの霧のように、そこだけ記憶がぼやけて見えて来ない。
―――いったい何が足りないのだろう?いったい何が無いのだろう?何時も気がつけばその事ばかり考えている。ずっとずっと…。
でも、それは答えを導き出す前に曇って隠れてしまうのだ。
理由の無い苛立ちと意味のない嘔吐感が襲う。それは全て『この』せい。答えが欲しいのに、どうしてもそこだけがぽっかりと切り取られたように空間を作っている。
「…どうしてだ?……」
呟いてみても、何も変わらない。ただ、寒い。心が凍えてしまいそうに寒い。
一体、何時からこんな事を思うようになったのだろうか?それは余りにも遠い昔のような気がするし、そして余りにも近い未来のような気がする。
ただただどうしていいのか分からない。分からないでただ立ち止まっている。
―――この迷路を抜けられるのはいったい何時だろう?
…バカ、みてー……
軽く溜め息を一つ付いて、反対側の通りを見つめる。無表情の人形達が通り過ぎて行く。
景色がモノトーンに映る。色が見えない。おもちゃみたいだ。
―――みんな嘘、みたいだ……
これは作り物なのかも、しれない。もうここには真実は無いのかも、しれない。
じゃあ何故俺は、ここにいる?どうしてここにいる?
―――どうして?……
その時だった。
世界が色を造ったのは。
――――気付いた時には、雨の中そこに向かっていた……
ACT.1 / 帰らずの森
「帰らずの森に一人で行っては決していけないよ。帰れなくなるから、決して行ってはいけないよ」
「どうして?」
「鬼が居るからね。ひとりぼっちの鬼が淋しがって人間を帰してくれないからね」
「ひとりぼっち?」
「ああそうさ。気が遠くなる程の時間を一人で生きている鬼がね」
「おばあちゃん!また京一に変な事教えて」
「何を言う、これは真実さ。実際何人の人間が帰らずの森に入って帰れなくなったか」
「もう、そんなのただの迷信です。ただあそこの樹海は入り組んでいて迷い易いだけですよ」
「…いいや、これは真実さ……」
それは優しかった頃の遠い、記憶。
「…いちっ…京一…京一っ!!」
京一の耳に聴き慣れた声がする。何時も、傍で聴いている声。それはとても心地好く安心する声。その声に弾かれるように京一はそっと瞼を開く。
「…ひーちゃん……」
視界に真先に入ってきたその綺麗な顔に向かって無邪気に微笑う。まるでその顔は子供のようだった。その顔はひどく、幼くて。無防備に安心しきった顔。
「おはよう京一。早くしないと学校遅刻するよ」
龍麻は柔らかい微笑を浮かべて京一に言った。その言葉に寝ぼけまなこのまま京一は、くすっと笑った。彼は龍麻が自分だけに見せてくれるその笑顔が好きだった。
「…ああ…」
まだ少し眠たそうな目を擦りながら京一はベッドから起き上がる。そんな彼を見つめながら龍麻は、タオルを投げた。
「わっひーちゃん!!」
突然視界を覆ったその物体をはぎ取って、くすくす笑っている友人を、ひどく不機嫌な顔で京一は睨みつけた。
龍麻はまだ、笑っている。それが許せなくて、ベッドの上の枕を投げつけた。
が、しかし間一髪で龍麻はそれを避ける。そんな龍麻に益々京一の機嫌が悪くなる。けれども龍麻は気にせずに、逆に京一に近づいてその細い手首を掴んだ。
「なっ何すんだっ」
「何もしないよ、京一」
いつものポーカーフェース、いつもの冷たい笑顔。さっきの笑顔と違う普段の龍麻の顔。
京一は知っている。これは龍麻が感情を殺す時の癖だ。でも、何故自分の前で感情を殺す必要があるのだろうか?
ずっと一緒に生きてきた二人なのに。過ごしてきた時間は家族なんかよりも永いのに。
――――どうしてお前は俺の前で本音を言ってくれないのだろうか?
「お前のその顔、嫌れーだ」
少しむっとした声で京一は言う。彼は思った事を口に出さないと気が済まない質だから。
でも、そんな所が京一らしくて、そんな所が龍麻にはひどく愛しくて。
「じゃあ、どんな顔がいいんだ?」
「さっきの顔だよ」
「さっきの顔?」
「そーだよっ。お前俺の前でまでそんな無表情でいる事ねーだろ…ったくー何年一緒につるんでんだと思ってんだ」
「そうだね。俺達はずっと一緒にいたんだから……」
京一の手首を掴む龍麻の手に自然に力がこもる。殆どそれは無意識で、龍麻の意識下にないものだった。
「―――っ、おっめー手ーいてーよっ」
「…え?…」
龍麻は初めて京一に言われて、自分が無意識に手に力を込めているのに気付く。咄嗟にその手を離す。
「痛てーなっ本当にお前ってバカ力っ」
「ごめんな、京一」
京一は掴まれた手首をさすった。龍麻はそれをぼんやりと見ている。
さらさらの髪。細い肩。褐色の肌。すんなりと伸びた足。
全てが綺麗だった。とても、綺麗だ。
そして、何よりもその澄み切った汚れを知らない瞳。誰もこの瞳を奪うなんて出来ない。
だからこそ、価値がある守らなくてはならないもの。だからこそ、壊してしまいたいもの。
「京一」
「何だ?ひーちゃん」
残酷な程、純粋な心。痛い位の気高いプライドを持つお前。
「…何でもないよ。京一、俺先に学校行って来るな」
龍麻は静かに微笑んで、部屋を出て行ってしまう。京一の言葉も、聴かずに。
「ち、変な奴」
京一はその背中を見送りながらドアに向かって呟く。そして、着替えようと箪笥に手を伸ばそうとしたその時だった。
―――伸ばした手が、急に止まる。
「っ―――」
鋭い痛みが走って、咄嗟に京一は手首をさする。
「ちっきしょーひーちゃんの奴…」
――――そう言った京一の手首は紅く、腫れていた。
――――永い永い夢だった。
漆黒の闇の中で、祈り続けた。
叶わないと知っていた。
無駄だと分かっていた。
それでも祈り続けた。
祈りや願いは何も生まない。何も与えない。
ただの自己満足。
それでも祈り続けた。
――――幸せになりたい、と……
「おはよーっ!!京一っ!!」
学校に着いた途端、小蒔の元気な声が京一の耳に届く。本当に何時でもこいつは元気いっぱいだ。きっと悩みなんてないんだろうなと、思わせる程。
「オッス…相変わらず能天気だなーお前は」
「何よっ!!あんたにだけは言われたくないわよっ!能天気男っ!!」
「いい勝負だと思うけど」
龍麻が横から鋭い指摘をする。その言葉に京一と小蒔が同時に龍麻を睨み付ける。
「ひーちゃんっこんな女と俺を一緒にする気かっ?!」
「それはこっちのセリフよっこんなバカ男と一緒にしないでっ!!」
「まあまあ2人とも、冗談だよ」
それでも2人はまだ恨めしそうに龍麻を見る。けれども龍麻は知ってか知らずか、いつもの微笑を浮かべていた。
「そんな拗ねるなよ、京一」
「お前なぁ」
龍麻が京一の肩にぽんっと手を置く。それを目ざとく見た小蒔はここぞとばかり反撃をしてきた。
「やーらしーひーちゃん。京一の肩に手ーなんて置いてー」
「な、何だっ?!それはっ?!!」
そんな小蒔に、先に声を出したのは京一だった。龍麻は相変わらず涼しい顔をしている。
「イイネタ提供している?」
龍麻が京一を自分の方へと引き寄せる。その途端、ぴくっと京一の身体が震えた。
「ひっ、ひーちゃん!」
耳まで真っ赤になった京一が抗議の声を上げるが、龍麻は自分より頭一つ小さい彼を見下ろして笑うだけだった。
「何?京一」
「ひーちゃん!てめーっ離せっっ!!」
京一は顔を真っ赤にしてただひたすらに暴れる。冗談でもこういう事が出来ないのが可笑しい。それは充分過ぎる程分かっているのだけども…。
「痛てーんだよ肩がっお前バカ力なんだからなっもーちょっと力抜けよ。それにさっきだって…」
「何、何?さっきって?」
好奇心丸だしの口調で小蒔が口を挟む。京一があたふたしている姿は彼女にとってはとても楽しい事らしい。
そんな小蒔に苦笑しながら龍麻は、京一の肩から手を離す。ほっと一息ついた京一は苦々しげに小蒔の質問に答えた。
「さっきひーちゃんが俺の手首掴んだんだよ、そーしたらさ…」
京一はワイシャツの袖を捲くって小麦色の肌を見せる。たしかにその細い手首は、紅く腫れ上がっていた。
「まあ…見事…」
小蒔は感心したように手首を見つめて呟いた。そんな小蒔に京一は思いっきり不機嫌な顔で睨み付ける。
「お前…人事だと思って…俺の身にもなってみろってんだっ」
「まーまーそれも全てひーちゃんの京一に対する愛ってコトで、ね。ひーちゃん」
「ああ」
心とは正反対の感情の無い声。機械的で無機質な。心の奥の醜い欲望を悟られまいとするように。
それでも欲望は駆け巡る。龍麻の心の中を。
全神経が伝えている。お前に触れたい。細すぎる位の腰を引き寄せて、太陽の匂いのする髪に指を絡めて…そして、……。
でもそれは、幻だと知っていた。夢だと、知っていた。
「何が愛だっ何がっ俺は男だぞ、男に愛されても嬉しくなんかないっ」
急にした京一の声に龍麻ははっと、我に返る。そして彼に視線を映すと、少し顔を赤らめてぷいっとそっぽを向いてしまう。
そんな京一の姿が余りにも可愛くて。どうしようもない程愛しくて。無意識に口許から笑みが漏れるのを、押さえ切れなかった。
「ひーちゃん笑いがいやらしいよ」
「―――」
「やだっ冗談、冗談よーそんな顔しないでっ」
「…分かっているよ……」
小蒔に口許だけで笑うと、龍麻は不意に遠くを見つめた。
…分かっている……自分に芽生えたこの胸の中の、甘い苦痛が。もう両手では抱えられない欲望の刃が。
そして、分かっている。分かり過ぎるほど、分かっている。どうすれば誰も傷付かずに済むかを。
――――けど、それがどうしたと言うのだろう?
それ以上に自分は知っていた。
…もう戻れない、と。これは生まれる前から知っていた事だと……。
京一は一人、屋上に昇って寝そべっていた。まともに授業を受ける気にはならなくて、ついここに来てしまった。けれども、コンクリートのひんやりとする冷たさが気持ちいい。
「―――」
無言で視界を覆う空を見上げる。ここは日常の中で今、最も空に近い場所だった。だけど、違う。けれども、違う。
「本物の空が見てーな…」
呟きが零れる。それは溜め息に何処か似ていた。
―――嫌いだった。東京の空が。この灰色の空が……。
「空は蒼いんだぜっ」
少しむきになって空を睨む。バカみたいだと思いながらも、やっぱ気に入らない。空は蒼いのが当たり前なんだぞっ、と心の中で怒ってみせた。
「…還りてーな……」
次に自分の口から零れた言葉は本人も予想してなかったものだった。言ってしまった自分自身に驚く。
「―――何いってんだ、俺?」
やや、自嘲気味に京一は口を歪める。いったい自分は何処に還りたいと言うのだろう?還る場所など無いのに。
なのに一体自分は何処に還りたいと言うのだろう?
でも、還りたいのだ。とても、還りたい所がある。そこはひどく、優しく残酷な場所。
そして、空が蒼い所。本物の空がある場所。
そこは京一が生まれる前から知っている幸福感と絶望がある場所。
―――でも、そこが何処か?…と聞かれたら自分は答えられない。自分には分からない。そこへ辿り着く術を。
「ちっくしょー」
なんだか苛々する。無償に腹がたってしょうがない。焦っている気さえする。何かが変だ。何か忘れている気がする。
――――それはいったい何だろう?
「…夢?……」
ふいに何かを思い出したように呟いた言葉に、もう一度確かめるように心の中でその単語を紡ぎ出す。
…夢……これが、キーワードだ。全ての謎を解く…自分が最近毎晩のように見る夢。
そこの空はとても、蒼かった。とても、蒼かった。
自分は、そこに還りたいと言うのだろうか?
「そうかも、な」
京一の口元に微かな微笑が零れる。
そうかも、知れない。自分はあそこへ還りたいのかも知れない。
何も知らなかった幸福で優しい時に。何も必要なかった純粋な時間に。
でも京一はまた、知っていた。それは殆ど予感だったけども。
―――そこは還っては、いけない場所だと……
――――帰らずの森に決して一人で行ってはいけないよ。
もう、戻って来られなくなるからね。
帰れなくなるからね。
独りぼっちの鬼が淋しがって離してくれないから。
離してくれないから。
決して、一人で行っちゃいけないよ。
もしも、行ってしまったら後はもう、鬼の魔力に取りつかれてしまうだけさ。
そして死を待つだけの、いいや死を望むだけの屍になるのさ。
だから、行ってはいけないよ。
帰らずの森に独りで行ってはいけないよ………
End