幻夢の森/銀の鬼


ACT.2 / 銀の鬼



孤独と背中あわせの夜。
時計の音だけがやたら耳に響く。
ざらついた感触だけが手元に残っている。
喉がからからで気持ち悪い。
身体が焼かれそうに熱い。
ここはどこ?
海の中。そうだここは海の中。
紅い紅い海の中。
切り裂かれた血の海。
――――そうだね、俺はずっとここにいたんだ………

夜中ふいに、龍麻は目を覚ました。上半身を起こして壁掛け時計を見ると、まだ二時を少し廻った所だった。窓から覗く月が妙に蒼い。
「――――」
龍麻は物音一つ立てずにそっとベッドから起き上がると、窓を開けて外を覗く。そこから風がひとつ流れて龍麻の漆黒の髪を揺らした。
月光が彼の端正な横顔を映し出す。その姿は一枚の絵になる程、綺麗だった。そして、何処か、怖かった。
暫く外を眺めていた龍麻がふいに、視線を別の方向に移す。そこに眠るのは無防備な京一の姿があった。
親友であり、そして自分にとって、たったひとりの人間。
京一は一度眠ると朝まで起きないタイプで、何時も感心する程ぐっすりと眠るのだ。まるで子供のように。そう、何も知らない、子供のように。
「…京一…」
声にならない程小さい声でその名を呟く。きっとお前は知らない。自分が血を吐くように、こころを壊すように。毎日毎日お前の名を心で叫んでいるなんて、気付きもしないだろう。
気が狂う程求めているなんて、お前はきっと何ひとつ知らない。
「…きょう…いち……」
―――どんなにお前が強がろうとも、お前の心は子供のままだ。純粋で汚れを知らない子供のままの、こころ。だから、強くて弱い。
本当は硝子のように脆くて、そして壊れやすい。それを知っているのは俺だけだから。
お前は、本当はひどく淋しがり屋だ。独りで居るのが、本当は怖いのだ。そんな事知っている。一番近くにいる俺が、知っている。
「――でも、もう間に合わない…」
龍麻は声を立てずに笑った。それはどこかひどく幸福で残酷な微笑だった。
「もう、遅いんだ」
永遠の捕らわれの身。お前に全てを奪われた。それならば、俺は奪い返せばいい。
お前が自分から奪った物を、お前自身から奪えば、いい。
「俺はお前を、奪うよ」
――――月は、まだ蒼い。

京一はまた、教室へは向かわず屋上に行った。何時もの自分のさぼりのコースだった。更に、ここはめったに人が来ない。この静寂さが、京一にはひどく心地よくて。そして。そして自分は何よりも、この偽りの空を見に来ていた。
「―――そうだったな…」
京一はさらさらの自分の前髪をぶっきらぼうにかきあげる。風が一筋身体を掠める。それがとても、心地いい。
ずっと考えていた。―――夢の事を。
自分の還りたい場所を…。
こんな灰色の空じゃない蒼い空を。無邪気な時間を。
遠い昔の優しかった日々を。
そして、自分はある一つの事を不意に思い出す。
「…ひーちゃん……」
頭の中を掠めたのは、自分の最も大切な友人の顔。一見冷たくて、でもひどく優しく微笑う、大切な親友の顔。
「お前ならきっと笑うだろうな。…夢を見てたんじゃないのか?京一、って」
くすっと京一はひとつ笑って、その場から立ち上がろうとする―――その時だった。
急に視界が暗転して、眩暈と吐き気が同時に襲ってきたのは。
「なっ…」
―――そして京一はそのまま、その場に崩れていった……

まだ、空が蒼かった頃。太陽が眩しかった頃。
幼い京一は両親達の言いつけを破ってこの森に入ってしまった。
「ちっ、鬼なんて何処にも居ねーじゃんかっ」
京一は不満気に声を上げる。
「しゃーねー、帰るか…」
京一が諦め掛けた時、急に視界に何かが飛び込んで来た。それは。それは、確かに…。
「…え?…」
『それ』はその廻りの木々の中で最も大きな木に凭れ掛かっていた。
(もしかして鬼?)
京一は期待と不安をごちゃ混ぜにしてそっと『それ』に近づいてゆく。けれども『それ』は一瞬も動かずただ、木に身を任せて座り込んでいるだけだった。
京一は顔が見える位置まで近づく。しかし、表情は見えなかった。その顔は地面に付く程の長い髪に閉ざされている。そしてその漆黒の髪は風に吹かれて、まるで生き物のように蠢いていた。
「おいっ、お前そんなトコで何してんだよ?」
思い切って京一は声を掛けた。それでやっと『それ』が反応する。でも、返事は返って来ない。ただ、その場に俯いたままで。
「おいっ何か言えよっ」
何だか無償に腹が立って京一はぐいっとその長い髪を引っ張る。その時になって初めて。初めて『それ』は反応をした。
「…え……」
京一の双目が大きく見開かれる。掴んだ手がすとん、と落ちる。すとんと、宙に落ちる。
「お前…泣いているのか?」
京一の腕に透明な涙が伝う。それはとても、暖かくて。そして、そして哀しくて。
「どうして?」
そっと手を伸ばす。そして、その涙を小さな指先で一生懸命に京一は拭った。
「…名前は?…」
初めて声が返ってきた。京一は自分に向けられるその顔を、もう一度まじまじと見つめた。透明ではないかと思う程の青白い肌。硝子玉みたいに光る銀色の瞳。
「俺?俺は京一…蓬莱寺…京一…」
「…きょう…いち?……」
「ああ、京一だ」
京一はひどく無邪気な笑顔を向ける。子供特有の、全てを信じ切った穢れなき笑顔で。そんな彼を『それ』引き寄せ、抱きしめた。
「…おっ、おいお前何して?…」
一瞬何が起こったか分からなかった京一だが、状況を理解して慌てて声を上げる。けれども。けれども包み込むその腕はひどく、優しい。
「―――何もしないから。少しこうしていてくれ……」
そう言った顔が余りにも儚くて、あまりにも哀しそうで。何も言えなくなってしまう。何も、言えなく。ただ自分は体温の高いその肢体を預ける事しか出来なかった。
「…何で泣いていた?」
「―――哀しかったから」
「どうして?」
「もう、独りでいたく無かったから」
「独りで?」
「疲れたんだ。人の屍を貪り続け生きてるおぞましい自分が」
「屍?屍って何だ?」
「死体だよ、人間の」
「死体?!お前そんな物食っているのか?止めろよそんなの美味くねーぞっ。今度俺がもっと美味いもん食わしてやっから」
京一が言い終わると同時に、おもっいっきり『それ』は笑った。ひどく、楽しそうに。本当に、楽しそうに。けれども、京一にはそれが気に入らないらしい。恨めしそうに睨み付ける。
「何で笑うんだよっ」
「ごめん、お前が余りにも変な事言うから!」
―――一瞬何が起こったのか理解出来なかった。そして気付いた時には京一の大きな黒い瞳に透明な雫がぽろぽろと零れていた。
「ばっばか野郎!!おっ俺は本気で…お前…しっ心配して…」
涙は止まらなかった。後から、後から零れ落ちてくる。哀しかった。自分が本気で心配したのに、笑われたことが。それは思いっきり叩かれた時の痛みよりも、痛かった。
「ごめん、京一…」
そんな京一の涙を優しく拭った。そして、ひなたの匂いのする髪を撫でる。愛しそうに、どうしようもない程に愛しそうに。
「俺今まで他人に心配なんてしてもらった事がなかったから…そのとても、嬉しい…」
「本当か?」
その言葉に、急に京一は顔を上げた。その顔は涙に濡れてぐしゃぐしゃだったが、表情はひどく嬉しそうで。
「ああ、とても嬉しい」
「そっかーじゃあ、今哀しくないな」
「え―――」
「もう、哀しくないな」
京一は念を押すようにもう一度尋ねる。そんな彼に答えるように、柔らかく微笑んだ。包み込むように、優しい笑顔で。その笑みに京一の顔が満足したようにきらきらとする。
「じゃあ…もう泣かないな」
「―――」
「独りで淋しいなら、俺が友達になってやるから」
「…京一……」
「なっだから淋しくないだろう?」
「――ああ……」
「じゃあ俺そろそろ帰んなきゃ、母ちゃん達が心配するし」
「…帰る…のか?……」
「だって…皆心配すっし…明日また来っから、な」
その言葉に京一は困ったような表情を浮かべる。その顔を見て、京一を抱いていた腕をそっと離す。
「分かった、京一。でも一つだけ願いを聞いてくれるか?」
「何だ?俺に出来る事だったら何でもいいぞ」
「十年後、お前を迎えに行ってもいいか?」
「迎えにっていったい何処へ?」
「―――ここへ。ここへ一緒に還ろう……」

『お前とこの幻夢の森へ、還ろう』

龍麻が室内に戻ってきた時、部屋の中は真っ暗になっていた。まだ眠る時間でもないのに。
―――京一はまだ、帰って来ていないのだろうか?……そう思って室内の電気を付けようとしたその途端、京一の鋭い声が飛んだ。
「付けるなっ!」
「…京一?…」
「…灯りは…付けるな……」
搾り出すような京一の、声。それは何処か震えている。その声が堪らなくて、龍麻はその声の聞こえてきた場所へと向かう。
「…ひーちゃん……」
ベッドの上に京一は、いた。頭からすっぽりと布団を被って。そのせいで今彼がどんな表情をしているかは見えなかったが、龍麻には手に取るように京一の表情が分かるから。
…今…彼が…どんな顔を、しているか……
「―――どうした?京一」
そっと近づいて、彼の頭を布団越しに撫でる。一瞬その身体がぴくりと震えたが、ゆっくりと身体が弛緩してゆくのが分かった。
「…ひーちゃん…姉貴が…」
「お姉さんが?」
「…姉貴が……」
それっきり京一は黙り込んでしまった。けれども龍麻は焦らなかった。ゆっくりと、彼が…彼から言葉を紡ぎ出されるのを待った。
京一自ら、語り出すのを。その頭をそっと、撫でながら。
「…京一……」
そっと、龍麻は名前を呼んでみる。優しく、何よりも誰よりも優しい声で。
「どうした?京一」
優しく柔らかい龍麻の声。緊張して強張った京一の身体を、こころを、その声は溶かしてゆく。そう、何時も。何時もその声は、自分の全てを溶かしていてくれた。
「…ひーちゃん……」
ぱさりと、音がして。京一の被っていた布団が落ちた。そして。そして…
「―――」
瞳から、零れ落ちる涙。何よりも負けず嫌いで、人に絶対に弱みを見せない京一が。京一が自分に見せた涙。
――――お前の涙を見るのは…二度目…だな……
「…ひーちゃん…俺っ……」
「京一っ?!」
龍麻の顔を見た途端、何かが崩れるように京一はその胸に抱き付いてきた。逞しい腕。強い、腕。そして何よりも優しい…腕……。
「どうしたんだ、一体?」
その腕がそっと。そっと、自分を抱きしめる。そして優しく背中を撫でてくれた。労わるように、ただただ優し過ぎるほど優しく…。
その腕に堪えきれずに京一の感情は堰を切ったように、溢れ出す。
「あ…姉貴が…姉貴が…死んじまうっ!……」
「―――え?」
京一にとって、何よりも大切な『姉』。自分を育ててくれたのは父でも、母でもない。たった一人の姉だった。幼い頃亡くなった両親の代わりに、自分を育てくれたのは。
―――たったひとりの、大切な姉。
「死んじゃうって…一体?」
「さっき…姉貴の会社から電話があって…姉貴が倒れたから病院へ連れてったら…そうしたら…そうしたら……」
消えてしまいそうな細い声。消えてしまいそうな細い肩。その存在すら、消えてしまいそうな。こうやって、こうやって自分の腕の中に抱いているのに。
「ガンだって…もう、助からないって…」
「京一っ!!」
―――大切な、もの。何よりも、大切にしていたもの。口に出さなくても、彼がどれだけ自分の姉を思っていたか。どれだけ感謝していたか。こうやって自分が高校までいけたのも姉が働いてくれたからだと、そう照れながら笑って教えてくれたお前。
……それを…お前は…失うと言うのか?……
「…ひーちゃん…痛てー、痛てーよ…」
龍麻は無意識に京一を抱きしめている腕に力を込めていた。その京一の声がなければ、気付かなかった。気付けなかった。でも龍麻はその手を、緩めなかった。その手を緩めたりは、しなかった。
――――お前が、この腕から消えてしまいそうで…
「ひーちゃん…」
それどころかますます力を込めて抱きしめた。お前が、この腕の中から消えてしまわないように。お前の存在が消えてしまわないように。
…お前が…ここにいると、確認する為に……
「泣かないで京一、俺がいるから。いつだって、どんな時だって俺がいるから。俺がずっとお前の傍にいるから」
そばに、いる。ずっと、ずっと永遠に。俺はお前のそばにいる。初めて出逢ったその日から。その日から俺の運命は決まっていた。
「…ひーちゃん…」
俺の全てを懸けて、お前と言う存在を護ると。俺の全てを懸けて、お前を愛すると。この全てで。
「俺が、俺がいるから。例えお前に嫌われても…嫌われたって俺はずっとお前の傍にいるから。絶対にお前から、離れないから」
――――最後の血の一滴まで、お前に上げるから。
「ばか…お前を嫌う訳ねーだろ…」
「…京一……」
「―――嫌いになるくれーなら…初めから…一緒にいやしねーよ…」
「―――京一っ!」
もう、何もいらない。お前さえいれば。お前さえ、いてくれるのならば。

何時しか、外から細かい雨の音が聴こえてくる。けれどももうふたりの耳には入ってこなかった。ただ。ただふたりは。

――――何時までも何時までも、抱き合っていた。  


End

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