ACT.3 / さよなら
「―――」
何時の間にか眠ってしまったらしい。外から聞こえてくる鳥たちの声で、京一の意識は覚醒した。
「おはよう、京一」
ベッドすら置き上がった途端、降って来たのは龍麻の優しい、声。そして包み込むような優しい、笑顔。その笑顔にひどく、安心感を覚える。
「おっす、ひーちゃん」
何時もの朝。何も変わらない日常。何もかもが何時もと同じ。嘘みたいだ、昨日の事が。
―――姉貴が、助からないなんて……
昨夜の事を思い出す。ずっと、自分は泣いていた。龍麻の胸で泣き続けた。涙が、声が、枯れるまで。ずっと、ずっとずっと。
そしてそのまま疲れて眠ってしまったらしい。自分はベッドにちゃんと寝かされていた。
―――お前が俺を…ここまで運んでくれたんだな……
「京一、早く着替えないと学校遅れるよ」
何時もと同じ。何時もの時間。何時もと変わらない風景。お前がいて、俺がいる事。それが『変わらない』日常。でも、本当は……。
「―――ああ、そーだな」
このままで、いたかった。このまま時を止めたかった。止められるものならば。でも気が付いてしまった。
今自分の周りを流れている空間の、足元がどんなに脆いものなのかを。
『お姉さんに付いていなくてもいいの?』
『…いや俺には…やんねーといけねー事があるから…』
『でも、蓬莱寺くん?』
『全てを片づけねーと姉貴の所にいけねーよ』
静かな夜だった。窓から覗く月明かりがいやに綺麗だった。その綺麗さが、怖かった。
「何時行くんだ?お姉さんの所には」
「明日の始発で」
京一は短くそう、答えた。そんな彼に龍麻はそうかと、ひとつ頷いた。京一の姉の入院した病院は彼女の会社の近くにあった大きな病院で、東京からはかなり時間のかかる場所だった。今すぐにでも彼は。彼は姉の元へと飛んで行きたいのだろう。でもそれをしないのは。それを、しないのは。
「――――」
支度をしていた京一の手がふと、止まる。そしてそのまま自分の後ろに立つ龍麻に振り返らずに言葉を綴る。
「…ひーちゃん…」
「何?京一」
「…俺、ここんとこずっと同じ夢を見ているんだ」
「へえ、どんな?」
機械的で、感情の無い声。感情を殺す時の龍麻の癖。京一が嫌いな。嫌いな、声。でも。
―――でも、今だけは……
「両親がまだ生きていた頃の夢なんだけどな」
「―――そうか」
「俺の母ちゃんの実家にはな、帰らずの森って言う森があるんだ」
「それは随分大層な名前だな」
「ああ、なんでも婆ーちゃんが言うには鬼が住んでいるからって一人で行っちゃいけないんだよと」
「それで?」
「…俺さー…その森に一人で行ったんだ。鬼を見てみたくてよー。そうしたら、さ」
「―――鬼がいたのか?」
無機質な、声。感情のひとかけらも無い、声。でもその中に、含まれている小さな微粒子が。それが京一の胸に、突き刺さる。
「いいや、鬼はいなかった。その代わりに変な奴がいた」
「変な奴?」
「ああ」
―――突き、刺さる。その痛みは……。
「ずっとその事は覚えていたのに何故かそいつの顔だけが思い出せなくってさ。だけど…昨日さ…」
「―――昨日?」
「情け無くも、屋上で貧血起こしてぶっ倒れた時に」
ゆっくりと、京一は背後を振り返った。そこには。そこには何一つ変わらないお前がいる。なにひとつ、変わらない。お前は何時から、ここにいた?
「夢を見た。そして、思い出した。そいつの顔を」
何時から、俺の傍にいた?何時から俺と共にいた?何時から…時間を共有していた?
「……お前、だった」
静かな夜だった。窓から覗く月明かりがいやに綺麗だった。綺麗過ぎて、怖かった。
「―――」
お前みたいな、月。綺麗で、何処か怖い…お前の瞳の色。
「お前だったよ、ひーちゃん…」
その瞳を何時から、何時から俺は見ていたの?何時からその瞳を知っていたの?
「…京一……」
お前の記憶は突然、始まった。姉貴が会社の寮に入る事になって、両親が唯一残してくれたこの家に独りで住む事になった時。その時からお前はいた。ここに、いた。俺の記憶の中にいた。幼なじみとして。ずっと、ともに時間を共有してきた者として。当たり前のように。当たり前のように、俺の傍にいた。
「…きょう…いち……」
静かに、俺の名を呼ぶその声。それは優しくも残酷で…そして、何処か哀しくて……。
「―――俺と、還えろう」
龍麻の大きな手が目の前に差し延べられる。けれども京一の瞳は動かない。ただ、その瞳は真っ直ぐに龍麻を見つめるだけで。見つめる、だけで…。
「京一」
「…だめだ…」
京一は首を横に、振った。そしてもう一度、龍麻を真っ直ぐ見つめる。それしか、自分には…出来ない……。
「だめだよ、還れないよ。俺には姉貴がいる。そして友達たちも…ここには俺が今まで生きてきた全てがある。だから、還れない」
龍麻の表情は、変わらない。何時もと変わらない。やっぱり無表情の冷たい顔をしている。感情を殺した、その顔を。
でも、痛い。京一にはそれが何よりも、痛い。その顔をさせてしまう自分が、そして何も出来ない自分が。
「還れねーよ…ひーちゃん…あの森には……」
そんな時ふいに、龍麻の差し延べられている手が動いた。そしてそのまま京一を抱きしめる。きつく、壊れてしまうほどにきつく。
「ひ、ひーちゃんっ?!」
その力強さに、腕の中の京一が暴れ出す。けれども強靭なその腕は、その動きすら封じてしまうほどだった。強く。腕の中の彼を逃さないように、強く。
「はっ離せよ、おいっ!!」
「―――いやだ、京一」
「…ひーちゃん?…」
頭上から降って来るその声の。その声の、思い掛けない強さに京一は思わず顔を上げた。その先には。その先には、恐ろしい程残酷な微笑を浮かべている龍麻がいる…。
その顔に、無意識に京一は震えた。震える理由などありえない相手の筈なのに。それなのに、震えた。
「どうしてそんな事いうの?ひどいな、お前は。俺から全てを奪っておいておきながら、そうやって突き放すのか?」
「奪うって一体なんの事だよっ?!」
「そうだね、何時だってお前は何も分かっていない。子供みたいな無邪気な心で俺を追いつめるんだ」
「ひーちゃん、一体何言って…」
「分からないなら教えてあげるよ、京一。お前が奪った俺の心と魂を…」
そう言うなり龍麻は京一の顎を掴むと、いきなりその唇に強引にくちづけた。
「…っ…」
顎に掛けた指先に血からを込めて、口をこじ開けさせる。そして無理やり舌を進入させる。
「…やっ…」
そんな龍麻に京一は純粋な『恐怖』を覚える。ただどうしようもなく怖くて、がむしゃらに龍麻の胸を叩いた。けれども強靭な龍麻の身体は、そんな事にはびくともしない。
逃げようとする京一の舌を捕らえて、絡ませる。舌の裏を嘗め上げ根本を吸い上げた。
何時しか京一の口元から唾液が伝う。その不快感に顔を歪ませても、口づけは止まらない。止められることは、ない。執拗に京一を責め立てるだけで。
「…ふっ……」
やっと唇から開放された京一が大きく息を付く。しかしその呼吸はまだ乱れたままで。
それでも顔を上げて龍麻を睨みつけた。真っ直ぐな瞳で。まるで、獲物を捕らえようとする野獣のような瞳で。
「―――お前、分かっているのか?その瞳がどんなに男の欲情をそそるか?どんなに俺を狂わせるのか?」
龍麻はその細い両手首を片手で掴んで動きを押さえ付ける。京一が必死に抵抗してもその手は全く動じなかった。
「分からないだろう、京一。俺がどんなにお前の事を愛しているのかなんて。どんなにお前が欲しいかなんて」
「…ひーちゃん?……」
「お前が俺の目の前に現れたあの日から、俺は自分の持っている物全てをお前に奪われたんだ。お前を愛して愛して、とっくに俺は狂っている」
そう言うなり龍麻は京一をその場に押し倒した。温かいはずの絨毯が何故か今は氷のように冷たく感じる。そう、今のお前のように。冷たくて、鋭くて。そして全身を貫くような氷に。
「そうさ、俺は狂っている。だからもう、自分を抑えなくていいんだ」
龍麻の微笑はまるで自分自身を嘲るような、哀しいものだった。自からを抉るような、そんな笑み。自らを傷つけるような。
「好きだ…京一……」
「やっやだっ!やめろっ!!」
片手で掴んだ京一の両腕を頭上で抑えつけ、龍麻は空いた方の手で器用にYシャツのボタンを外す。京一は動けない手の変わりに足で抵抗しようとしたが、両足は上手い具合に龍麻の足によって抑え付けられている。
「…京一…愛している……」
ワイシャツのボタンを外すと、そのまま覗く素肌を龍麻は見つめた。その傷ひとつない、滑らかな肌を。真夏の太陽を閉じ込めたようなその褐色の素肌を。くびれた鎖骨のラインを。全てが綺麗で。
「いっ嫌だっ!止めろ!!」
その太陽の匂いのする肌に龍麻は淫らに指を滑らせる。そして、その桜色の小さな突起の上で指が止まる。
「お前のここって可愛い」
くすっと笑うとその突起を指で玩ぶ。それはすぐに痛い程張りつめた。
「…ん…やっ…やめっ…」
「感じやすいんだな、お前のここって。こうするだけで」
ぴんっと指で京一の乳首を弾く。それだけで、ぴくんっと腕の中の身体が跳ねた。
「やっ!」
京一の口から細い悲鳴が零れる。その反応を楽しむかのように龍麻はその突起に舌を這わした。
「やっ…やめっ…ぁ…」
舐めあげ、舌で転がす。それだけで京一の身体は小刻みに震える。ぴくぴくと、震える。
「ああっ!」
そこを歯で噛むと、たまらずに京一が声を上げる。その反応に龍麻はひとつ笑うと、胸を弄っていた手をそのまま、京一のズボンの中へと忍ばせる。
「やっやだっ!!ひーちゃんやめ…」
龍麻が京一自身に手を触れた時には、すでにある程度の固さを持っていた。胸の愛撫だけで、敏感な身体は反応を寄越す。それがどうしようもなく龍麻には愛しくて。
京一の耳に、ズボンのジッパーの外れる音がする。その恥ずかしさに思わずその頬が赤く染まるのを止められなかった。
「やめるのか?やめたら辛いよ。こんなになっているのに…」
京一の気持ちとは裏腹に、それは龍麻の手の中でどんどん大きさを増す。指先で形を辿られ、そして包み込まれる。巧みな指先によって、それは弄ばれる。
「…くぅ…」
龍麻の指は淫らに京一を追いつめる。それを振り払うように京一は必死で縋った。自分の意識に。自分の理性に。けれども。
「辛いだろう、京一?今俺が楽にしてやるよ」
けれども耳元で囁く龍麻の声に。その声ですら、感じてしまう。その低く甘い声に。
「やっひーちゃん何するっ?!」
京一自身への愛撫が止まったかと思うと、龍麻の手はジーパンを剥ぎ取っていた。これで京一の下半身を覆うものは何も無くなってしまった。
「楽にしてやるって…いっただろう?」
剥き出しになった足を掴むと、龍麻は京一の中心を自分の口に咥えこんだ。生暖かい舌が京一のソレを包み込む。
「ばっばかやっ…やめっあっ…」
その舌使いに意識が段々遠ざかる。何だか頭の中が白い霧に包まれていく。ただどくどくという音だけが、身体中に響いて、そして。
「ああっ―――!!」
そして、頭が真っ白になって。龍麻の口の中に白い液体が、流し込まれた。
身体が、重い。何だか足が自分の物では無いみたいで。ひどく、だるい。
どうして自分が、こんなめにあうのか?
―――何故、お前はこんな事をするのか?
ぼんやりする意識の中でずっと考えていた。
それでもひどく霞む意識は、答えを導き出してはくれなくて。
「京一、まだ終わりじゃないよ」
そんな思考を遮るように龍麻の冷たい声が降ってくる。冷たくて熱い、その声が。
「言っただろう?俺がお前をどれだけ好きか教えてやるって」
「やっお前何して――」
龍麻は京一の足首を掴んでそれを持ち上げると、そのまま双丘の狭間を舌で丁寧に舐めた。
「何って舐めててるんだよ。こうしないとお前の後が辛い」
「やっやだっ…やっ!」
ぴちゃぴちゃんわざと音を立てながら、そこを舐める。そしてやっと舌が離れたかと思うと、今度はそれと入れ替わるように龍麻の指が侵入してきた。
「いっ痛いっ…やっ…あっ…」
指はまさぐるように奥へと進む。捕らえようとするように内壁は無意識に、指を締めつけた。
「初めてなのに、お前のココ俺の指を悦んで飲みこんでいるぞ」
龍麻はくすくすと笑った。そして慣れた頃を見計らって、入れている指の本数を増やす。
「あっあっ…」
何時しか京一の声に苦痛以外の何かが交じり始める。何処か艶を含んだ、それに。それを聞いてまた龍麻は笑う。ひどく、愛しそうに。
「そろそろいいか?教えてやるよ俺の気持ちを。忘れられないように」
そう言うと龍麻自らのベルトを外し、ズボンを下ろした。ガチャンと冷たい金属音がする。そして京一の前に欲望にたぎった龍麻自身が暴き出される。それに無意識に京一は、震えた。
「行くぜ、京一」
そしてその見掛けよりもずっと細い京一の腰を掴むと、一気に彼の中へと入っていった。
「ひいっ!」
指とは比べ物にならない大きさが京一の身体を貫いた。その痛みに京一の口からは、堪えきれずに悲鳴が漏れる。
「あっあっああ…っ!」
それは内壁を引き裂いて、奥へ奥へと進んでいく。何時しか堪えきれずに京一の媚肉からは紅い血が滴り始めた。その血が、しなやかな褐色の肌を穢がしてゆく。
「京一、これが俺だ。これがお前を誰よりも愛している、俺だ」
「あっああぁ――っ」
「忘れるな、これが俺だ。お前を愛して狂わされた、俺だ」
「あっあっあっ」
「京一、愛している、愛している!!」
「ああ―――っ!!」
京一が今までに無い程の激しい悲鳴を上げた時、龍麻はその中に自分の欲望を放っていた。
―――その夜、お前は何度も何度も俺を貪り続けた。
幾ら奪っても、きりがないとでも言うように。
幾ら埋め尽くしても、足りないと言うように。
何度も俺を引き裂いた。何度も俺を貫いた。
――――そして……
月が頭上から消えた時、俺はお前をその手から離した。
既に意識を失っていたその身体をもう一度しっかりと抱きしめ。強く、抱きしめて。そして。そしてこの手から、離した。
―――俺は還らない。
お前の言葉が俺の脳裏を駆け抜ける。それは鋭い刃物となって、俺のこころを抉った。
「そうだな、どっちにしろこんな事した俺を…お前は嫌うだろう…」
――――ばか…お前を嫌う訳ねーだろ……
「京一…」
何時しか俺の瞳から一筋の涙が伝う。
…泣くなんて…何時以来だ?ああ、そうか…そうかお前に初めて出逢ったあの日以来だな…。
俺はあの日以来、泣くことは無かった。自分を恨む事も、孤独を感じる事も。疲れる事も、絶望を感じる事を。
―――お前が、俺の前に現れたその日から。
ぽたりと、お前の頬に落ちる。透明な雫が一粒、落ちる。
「愛している…誰よりも…」
意識のないお前の唇にもう一度口付けた。吐息を掠め取るような優しいキスを。でも今はそれさえも、哀しい。かなしい。
「お前がいてくれたから…お前が現れたから…俺は今まで耐えられた……」
―――屍を食らい、生き続ける事の虚しさ。そして死ぬ事も出来ないこの身体。
「…お前のその瞳が、好きだ。真っ直ぐに逸らされる事の無い瞳が。誰にでも向けられる、その太陽の瞳が……」
ただ時間の流れに身を任せるだけの日々。その中で、お前は現われた。きらきらとした、瞳で。真っ直ぐな誰にも負けない強さを持って。
「…お前のその…強さを…愛している……」
そしてお前だけが。お前だけが泣いてくれた。俺の為に、泣いてくれた。蔑まれるだけの俺を…お前、だけが。
「…愛している…京一……」
俺の声は最後まで声としての機能は持たなかった。ゆっくりと消えてゆく身体を他人事のように眺めながら、それでもお前の顔をこの瞳に脳裏に焼き付けたくて。
――――その姿を…見つめた……
……さよなら、京一………
「…いちっ…きょう…いち…京一!!」
「…醍醐……」
「全く、お前は何時まで寝ている気だ?姉さんの所へ行くのだろう?」
―――そうだ、俺は行くんだ。病気で助からない姉貴のもとへ……
「おい、京一?」
「何だ?」
「何、泣いてんだ?お前」
「…え……」
「いい年して、怖い夢でも見たのか?」
「…ひー…ちゃん……」
「京一、ひーちゃんって誰だ?お前の友達か?」
「え…し…知らねー…俺何言って…」
「おい、京一?!」
「何言ってんだ、俺?…」
「…何…言って……」
―――そう言った京一の瞳は自分自身の涙で、濡れていた。
EPROUGUE
京一は雨の中を動く事が出来なかった。
雨具を忘れた彼は約一時間この店の前で立ち往生していた。
つまらなそうに雨に煙る街を眺める。灰色の、何も無い空。
姉の状態が小康状態なので取り合えず東京へ戻ってきた自分だが、こっちへ戻って来てからと言うもの姉の事よりも別の事に何時も思考が捕らわれている。そんな自分がいやだった。気付けば、別の事を考えている自分が苛ただしかった。
そしい、今も。今も自分の心は『それ』に捕らわれている。でも、思い出せない。いくら考えても答えが出ない。
「…どうしてだ?……」
呟きだけが虚しく街を包む。夏の匂いはそこまで来ているのに、心は冷えきって凍えそうだった。
…バカ、みてー……
答えの無い問題を必死に解いているみたいで、イヤだった。永遠の迷路に迷い込んだみたいで。永遠に抜けられないその森の中に。
思考を振り切るかのように、反対側の歩道に視線を走らせる。無気力な人間達が、操られたように機能的な顔で通り過ぎてゆく。この街の風景は全く生命を感じさせなかった。
……それはまるで虚偶の真実に、似ている。
―――作りものの人々。作りものの空。
自分が見たいのは欲しいのはそんな物じゃない。
自分が欲しいのは、蒼い空。そして―――
暫く虚像の人々を眺めていた。瞳を通り過ぎてゆく人々を。
―――真実がここには、ない。
じゃあ真実は何処にあるの?
―――お前が求めているものは何?
求めているものはここにはない。
お前が探しているのは何?
…探している…物…それは……
―――それ、は……
その瞬間、視界を蒼い空が覆う。一面の蒼い、空が。そして。
そして、反対側の歩道で自分に向かって微笑んでいる『彼』が。
自分の視界に飛び込んだのは。
――――お前…だ……
自分は、何の疑いもなく、そう思った。
これが、自分が探していたものだと。
自分が、求めていたもの、だと。
―――京一はがむしゃらに、その真実へ向かっていった。
―――その日はひどい、雨だった。
アスファルトに打ちつける水滴は無数の線を描き、街を白く包み込んだ。
「―――おいっ人が轢かれたぞっ!!」
何処からか声がする。男の、声、だ。でも、どうでもいい、声。
「きっ救急車を呼べっ!!」
――――救急車?どうして?
「―――そこを退け」
見知らぬ男の後ろで聞きなれた声がする。俺がよく知っている、とても心地好くと、そして何よりも安心する声。
…ずっと…聴きたかった…声……
「なんだてめーは。人が轢かれたんだぞっ!そんな事いっている場合じゃ…」
「いいから、退け」
見知らぬ男の顔が視界から消えていく。その代わりに、柔らかい微笑が映る。そうだその顔だ。俺がずっと…ずっと捜していたものは……
「―――還ろう、京一」
……還る。そうだ、俺はずっと還りたかったんだ…………
「ああ…そうだな…ひーちゃん……」
還ろう、ひーちゃん。あの蒼い空へ。何も知らなかった無邪気な時間へ。
―――還ろう、幻夢の森へ…一緒に、還ろう…京一……
その声はひどく、優しくて。俺の胸に静かに降り積もった。
End