桜の、森・2


<現世編 1 蒼の章>


俺は、ただお前の笑顔が見たかっただけ。

何時も遠くを見つめ。遠くだけを見つめて。
決して笑わない、お前の。
お前の笑顔が、見たかったから。
ただそれだけだから。
だから俺は、バカな事ばかりしてた。
お前に笑ってほしかったから。
バカな男を演じ続けた。

…お前が笑ってくれたら…俺は何も望まないのに……

初めてお前が教壇に立って、そのひどく良く通る声で名前を告げた時。そしてそっと微笑んだ時。俺は多分…多分『恋』をした。
いや、これが『恋』なのかどうかは分からない。ただ他にこの気持ちを当てはめる言葉を、俺は思いつかなかったから。だから、だからこの想いを。この想いを『恋』だと思った。
…恋だと、想った。

…何を、してやれるのか?
そして俺に、何が出来るのか?
お前の為に俺がしてやれる事は何があるのか。
それを、知りたかった。

「京一」
何時しか名前で呼ばれるようになった。それが何時からそうなったのかは、覚えていないけれど。自分が『龍麻』から『ひーちゃん』へと変わったのと同じくらいの時期だったと思う。そして確実に言えるのが、自分の方が先に『ひーちゃん』と呼び始めた事。
「何だよ、ひーちゃん」
ごく自然にそう、呼べるようになった。まるで空気のように馴染むその言葉と、声。自分の『日常』に彼は自然に組み込まれていた。
「今日、部活ないなら一緒に帰ろう」
「ああ、いいぜ。それならラーメン食べていこうっ!」
「うんっ」
その言葉に龍麻は嬉しそうに笑う。その顔を見るのが自分は好きだった。本当に彼は子供のような無邪気な顔で笑うのだ。その顔が見たくて、自分はつい彼の喜びそうな事を考えてしまう。
「ほんとーにお前、ラーメン好きだよな」
「京一も、だろ?」
「ああ、大好きだぜっ」
こうやって笑い合いながら、楽しく日々が過ごせれば。毎日笑いながら過ごせれば。それでいいと、思った。
全てを忘れて、全てを消し去って。ただ。ただこうやって笑い合えたなら。

お前が、笑っていられるのなら。
俺はそれだけでよかった。
お前が、幸せならば。
俺はそれ以外望まなかった。

…ただ俺はお前の笑った顔が見たかっただけなんだ…

夢を、見た。
内容は、思い出せない。けれども。
けれども、苦しかった。
ひどく苦しくて、そして切なくて。
…それだけを…覚えていた。

ただその苦しさだけ、を……。

この指に絡めた髪も。
この身を埋めた身体も。
全部儚い一夜の幻だとでも言うように。

目覚めた瞬間、君がいない。

月が綺麗な夜、だった。如月はそっとカーテンを開くと、そのままその月を見上げた。ひどく蒼い月だった。この世の全ての蒼を飲み込んだようなその色彩。
その月を何処かで自分は見た事があると思った。でもそれが何処なのかは、思い出せなかったけれども。蒼い月。怖い程に綺麗で、そして哀しい…。
「…水が…ざわついている……」
その月の幻想を打ち消すかのように言葉に出して呟いてみた。水が、ざわついている。そしてこの飛水流の血も、ざわついている。
…血の、宿命。血の、呪縛。何かが始まっている。自分の知らない場所で、確実に何かが。

…何かが、始まっている……
見えない所で、聞こえない場所で。
確実に何かが始まっている。

「ひーちゃんって、本当に楽しそうに笑うよねー」
「そうね、龍麻の笑顔は見ているこっちまで幸せな気分にしてくれるわ」
そう言われて、少しだけ照れくさくなった。そんな事生まれてから一度も意識した事がなかったのに。改めて言われると、何だか恥かしくて笑い顔がぎこちなくなってしまった。
「まあ、それがひーちゃんのいいトコだよなっ」
ぽんっと大きな京一の手が頭に乗っかってくしゃりとひとつ、髪を乱した。少しだけむくれながらもその顔を見上げると、彼は楽しそうに笑っていた。
…京一の方が、楽しそうに笑うのにな……
口には出さなかったが心の中で呟いてみて、何だか可笑しくなってしまった。本当に自分には眩しいくらいに、京一は笑う。まるで太陽みたいに。
そんな彼の笑顔をみているのは、自分は好きだった。ひどく安心出来るその顔を見ているのが。
「どーした?ひーちゃん。俺の顔になんか、ついてっか?」
「ううん、何でもないよ」
でもどうして自分は、その笑顔に安心を覚えるのだろう?どうして、自分は。
…この笑顔を見ていたいと、思うのだろう?……

戦いが始まり、俺らは普通の『高校生』ではなくなった。何も考えずにただ笑っていた日々はあっと言う間に終わりを告げて、そして。そして俺達は…戦う。
この東京を護る為に。この自分の住んでいる街を護る為に。自分の全てを賭けて、自分達の力の全てを賭けて。
俺達は、戦った。この東京をそして新宿を護る為に…。

「お前の背中は俺に預けろよ」
「京一」
「なっひーちゃん」
髪を撫でられた、くしゃりと。太陽のその笑顔と一緒に。その顔に俺は何よりもの安堵感を覚えた。そして俺はこくりとひとつ、頷く。
「ああ」
この背中を預けられるのは、お前だけだと。お前だけだと、伝える為に。

真っ直ぐに見つめて頷くお前に、俺は心の中で誓った。
どんなことがあっても俺がお前を護ると。
どんなことがあっても。どんなことになっても。俺は、俺はお前の為に生きると。お前の為だけに。

…そしてお前の笑顔を…護る為に…。

…約束、遠い日の約束。
それだけが…それだけがふたりを繋ぐ絆。
それはあまりにも細くて、そして脆いものだから。

…だから、その手を…離さないで……

初めて彼と出会った時、何処かで何かが弾けた。それは遠い過去から引きずり出された何か、だった。
「君が緋勇龍麻…噂には聞いているよ」
怖い程に整いすぎた、綺麗な顔と。そしてよく通るその声と。さらさらの髪と、長い睫毛。そのどれもが、自分の心を震えさせた。
「僕は如月翡翠。飛水流の末裔だ」
真っ直ぐに前だけを見ているその瞳。視線の強さが心の強さとだと言うように真っ直ぐで。
そして全てを射抜くような、強い強い瞳。真実だけを映し出す…真実以外を映し出さない、真っ直ぐな瞳。
「如月…翡翠…」
声にしてその名を呼んで…呼んでみてひどく胸がざわついた。そのざわつきは自分を冷静ではいられなくさせる程に強くて。強くてそして、激しくて。
…とくん…とくん…と。
心臓の鼓動がイヤというほどに耳に届く。耳を塞いでしまいたいほど。そして耳を塞げないほどに。
「よろしく、緋勇」
伸ばされた手をそっと握り返した。それだけで手が汗ばんでしまう。自分とは対照的に冷たい彼の手。その冷たさに不意に妙な違和感を感じた…彼の手は…冷たかった?
彼の手は、こんなにも冷たかった?
「…よ…よろしく……」
こんなにも、冷たかった?どうしてそんな事を思うのか。思うのか自分では、分からなかった。ただ彼の手は暖かいと…暖かいと、そう漠然と思っただけで…。
「ああ」
…彼の手は…暖かいと…そして全てを包み込む程に、優しいと……

どうして、お前は笑わないの?
…笑い方を忘れてしまったの
笑い方を?
…ええ…私はそう言ったもの全てを埋めてきたの…
ならば俺が、思い出させてやる。お前が笑えるように。

…お前が、笑ってくれるように……
それが。それだけが、俺の望み。それだけが俺の願い。
…それだけが…

…だから、笑ってくれ…

この気持ちを『恋』だと思った。
恋というにはあまりにも、不器用だけど。
確かにこの気持ちを『恋』だと思った。

…俺は…ひーちゃんが…好きだ……

心で呟いてみて、何だかおかしかった。
何を今更と。今更と思った。
初めから。初めて出会ったその瞬間から、そう思っていたのに。
こうして改めて確認してみて、ひどく変な気持ちになった。
それは当たり前のように自分の中に存在していたのに。当然のように自分の心の中に。
今更と思ったら、何だかおかしかった。

「行こう、ひーちゃん」
「京一?」
如月から強引に龍麻を奪うとその手を引いて、京一はすたすたと歩き始めた。そんな自分をみっともないと思いながら。そう思いながらも止められなかった。
…自分は確かに今、如月に嫉妬をした……
何時もの龍麻とは明らかに様子が違っていた。如月を見る瞳が、表情が、その全てが違っていた。だから。
それは今まで自分が見た事のない顔。自分の、知らない顔。
それがイヤで、それが許せなくて。だから。
…そんな彼を見ていたくなくて、その手を掴んだ……
「京一、痛いよ」
その声でやっと京一は我に返る。そしてやっと掴んでいた手を、離した。
「ごめん、ひーちゃん」
「本当京一は、乱暴だ」
少しだけ拗ねながら、でも龍麻は笑いながら言った。京一が大好きなその笑顔で。何時もの、笑顔で。
「ひでー俺は優しいぜっ」
だから自分も笑顔で返した。何時もの通りに。何時もの日常にゆっくりと時間を戻すために。一番、優しい時間へと戻すために。
「くす、嘘だよ。そんなの俺が一番分かってる」
「…ひーちゃん?……」
「京一は俺が転入してきた時に真っ先に声を掛けてくれた…俺は本当は凄く不安だったんだ…けれども。けれどもお前がまるで昔からの知り合いのように声を掛けてくれたから」
優しい、時間。暖かくて陽だまりのような。ずっとそこに居たいと思わせる時間。
「…俺…凄く嬉しかった…。あの時の気持ちはずっと今でも変わっていないよ」
「…ひーちゃん……」
「だから俺が一番分かっている、お前がどんなに優しいかを」
ずっとこのまま。このままでいられれば。自分も彼も、幸せなのではないのだろうか?
「分かっている、京一」

例えそれがかりそめの、幸せだとしても。
それでもお前が幸せでいてくれるなら。
お前の瞳が曇らないのならば。その為ならば。
かりそめでも、構わない。

何時も何かを思い出そうとすると、記憶が霞む。ぼんやりと白い何かに覆われて、肝心な事をうやむやにしてしまうのだ。
「…緋勇…龍麻か……」
名前を呟くと何かが心に引っかかる。けれども如月にはそれが何かは、分からなかった。ただ何処か記憶の奥底で、琴線が震えるだけで。微かに、震えるだけで…。
「僕の護るべき人間は…君なんだね」
蒼い、月。あの時もこんなに蒼い月の夜だった。水がざわめいて、飛水の血がざわめいて。そして。そして一つだけ確信した事がある。
この飛水の血が、誰を護るべきかを。誰を自分が護るべきかを。
「…今日も、月が蒼いな……」
窓から覗く蒼い月。その蒼さを見ていると、何故か哀しくなる。自分にそう言った感情が存在するのかと、驚く程に。
この飛水の血に全てを捧げた自分には、人間らしい感情など必要なかったから。

…だから…全てを…閉じ込めてしまおう……。

何も思い出さなければ。
誰も傷つけは、しないのだから。

冷たい頬も。熱い涙も。
それは閉じ込められた記憶だから。
僕の中には存在しないものだから。

それから。それから俺達は微妙に不安定なまま、過ごした。
誰もが自分の真実をどこかしらに隠しながら。
その真実から少しだけ視線を逸らしながら。
…俺達は過ごした。
そしてその真実は激しさを増す戦いの中で、そっと何処かに置き去りにされた。
置き去りにして、このままうやむやにしてしまいたかった。けれども。
…けれどもそれは…出来なかった。

それは激しいまでの、喪失感。
足元から崩れてゆくような、そんな感覚。
自分の世界の全てが崩壊してゆくような。
そんな、感覚。

自分を包み込む優しい日常が突然に崩れてゆく。当たり前のように傍にあったものがある日突然に消えてしまう。
優しい時間の、消滅。いつわりの優しさの、消滅。
そしてそこに残ったものは、剥き出しに暴かれる事実だけだった。
…その真実が何処へと連れ去って行くのか…まだ分からなかった……

やっぱり貴方は、笑ってはいない。
もう貴方を縛るものは何もないはずなのに。
貴方を苦しめるものも。貴方を哀しめるものも。
今ここには何も無いはずなのに。
それなのに、どうして?

どうしてそんなに淋しそうな顔をするの?

その日の月は、怖い程に蒼かった。
まるで海の蒼を溶かしたようなそんな色。その蒼さがひどく自分を不安定な気持ちにさせた。ざわざわと背筋に這い上がる蒼の闇。
「…僕を…殺さないのか?……」
漆黒の深い闇のような瞳が、自分を見上げてきた。このまま止めをさせばいい。そうすれはこの戦いは終わる。けれども。けれども?
「…殺しなよ…君の友達を取り返したいんだろう?…」
ああそうだ、俺は京一を取り返したい。大事な大事な京一。俺の一番の親友。俺に優しい時間を、安らぎをくれるひと。大切な、ひと。けれども。
「…俺にはお前を…殺せないよ……」
けれども目の前の彼を殺して何になる?彼には明らかにもう戦う意思はない。それに彼が京一をさらったのではない。そして。そして、何よりも。
その漆黒の瞳がどうしようもない程、哀しそうに見えたから。泣いてるように、見えたから。
「…殺せないよ……」
…だから俺には…殺せない……

胸にぽっかりと空洞が出来たような、この喪失感。
…京一…お前は今、何処にいるのか?
何処にいるのか?どうして俺の傍にいないのか?
…どうして…俺の背中を…お前が護っていないのか?

不思議な気持ちだった。
自分がこんなにも京一の事だけを考えている事が。
京一の事だけを、考えている事が。

「大丈夫だ、龍麻。あいつは無事だ」
その声に振り返るとそこには、何時もの如月の綺麗な顔があった。彼は何時も無表情で、そして強かった。どんな時でもどんなになっても、彼は変わらない。変わらないひと。
…ずっと、ずっと…変わらない、ひと。
「…如月……」
きっと永遠に彼は、変わらない。自分が『黄龍の器』である以上、飛水の血に従って自分の傍にいてくれる…そしてその命の全てを懸けて自分を護ってくれる。
…変わらないと…思った…ずっとずっと彼は変わらないのだと……
でも自分は何に対して、それを比べている?そしてどうしてそう、思うのか?
「だからそんな顔をするな」
そっと如月の手が伸びてきて、龍麻の髪を優しく撫でた。それだけで。それだけで胸が震えるほどに苦しくなる。心が乱れる。乱れてしまう…。

京一が傍に居ないから…心が落ち着く場所がない…
…お前が傍にいてくれないと…俺は心から落ちつけない…

月だけが、知っている。
その埋もれた記憶を。消し去った唯一の真実を。
その蒼い月だけが、知っている。

貴方に逢う為だけに、生まれてきたと。

蒼い月。何処かで知っている、その海よりも深い蒼い色。
綺麗でそして哀しい、その蒼を。自分は、知っている?
「…君、名前は?…」
蒼い月が彼の背中越しに、見えた。けれども僕はその蒼さよりも、自分を見つめ返してきたその瞳に目が奪われた。
漆黒の深い闇を称えたその瞳。哀しい程に綺麗なその瞳に。
「壬生 紅葉」
呟く声は闇に溶けて。そしてゆっくりと僕の胸に染み込んでくる。それは君の闇が哀しく見えるから?哀しく、見えるから?
「…紅葉…変わった名前だね」
君の闇が、哀しいから?君が、哀しいから?
「…ええ……」

「…『もみじ』って書くんです…如月さん……」

蒼い、闇。蒼い、光。
その深すぎる蒼を、自分は知っている。
…知って、いる?……

「…紅葉…」

言葉にしてみてひどく馴染んだその名前に。
自然と零れたその名前に。言いようの無い切なさと共に。
そして、自分を見つめる黒い瞳に。

置き去りにしていた何かが、呼び戻された。

それは哀しい、記憶。
泣きたくなるほど哀しくて、そして。
そして唯一の真実だった。
…たったひとつの、真実だった……。



End

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