桜の、森・3


<前世編 2 幻の章>


…神様…ひとつだけ、僕の願いを叶えてください……

貴方が淋しそうに、微笑うから。
哀しそうに、微笑むから。
それが、苦しいから。それが、哀しいから。
だから僕は。僕に出来る事を必死で考えた。
貴方の為に僕が出来ることを。
こんな僕でも貴方の為に出来る事があるのならば。
…僕は……

僕はただ、貴方に何時ものように微笑ってほしかっただけなんだ…

ただ一夜の幻でもいい。
ただ一夜の夢でもいい。
貴方の為に僕が、出来る事。

「…『緋勇』の名を捨てるのですね……」
自分の目の前に座るこの人が、何時もよりも小さく見えた。どんな時でも圧倒的な存在感と強さを持っていた人だったのに。でも今は。今は何処か、小さく見える。
「わしは緋勇の名よりも…綾乃を取った…この家の当主としては失格だな、翡翠」
「…いいえ……」
それならば自分はどうだろう?飛水流の後継者として、その血を受け継ぐものとして、この緋勇家を護り運命を共にするはずの自分は。
『緋勇家』よりも『綾乃』を護ると誓っている…。
もうその時点で自分は、飛水の血からは裏切り者なのかもしれない。けれども、自分が護ると誓った彼女はもう…ここにはいない。
それでも。それでも彼女の元へとゆかず、彼女を受け入れず、ここにいる自分は。
一体…何者だと言うのだろうか?
血の宿命を捨てられずに、かと言ってその宿命の全てを受け入れずに自分は。
自分はただ中途半端のまま、ここにいる。飛水流の後継者にもなり切れず、綾乃を護り切れずに、ただここで。ただここにいる自分は?
…一体僕は…『何』なのだろうか?……

涙。頬からいくすじもの零れ落ちる、涙。
その涙を拭ってやりたくて、手を伸ばした。
その涙をこの指で掬って、やりたくて。
けれども。
…けれども伸ばした瞬間。

…君は僕の前から、消えた……

目が醒めて真っ先に飛び込んできたのは、蒼い月だった。
怖い程に綺麗で、そして哀しい蒼い月。
その蒼さが今の如月にはひどく切なく感じる。この蒼さが、綺麗過ぎるその色彩が。
「…夢…か……」
未だに蘇るあの日の、彼女。彼女自身の全てを懸けて、自分への想いを告げた彼女。幼い子供の彼女を捨てて、大人の…そして『女』の顔で抱いてと言った彼女。
たったひとりの女となって、自分の目の前に立った彼女。
…僕は彼女の想いを受け止めるべきだったのか?……
それこそこの血を捨て全てを捨て、彼女の手を取るべきだったのか?
そうすれば彼女を、泣かせはしなかった?
けれども。けれども…自分は…。
自分にとって彼女はやっぱり小さなままの綾乃だった。必死になって自分の後を付いて来る、彼女。些細な事ですぐに泣いてしまう、小さな小さな女の子。
紅の夕日の下で、約束を交わした幼い女の子。
この手で自分の全てで護るべき、たった一つの小さな命。
…そう、本当は分かっていた。
自分がこんなにも後悔しているのは、自分がこんなにも酷い男だと思ったのは。
…僕が時間を閉じ込めていたから……
僕達は確かに成長したのに。あの頃の僕らとは違うのに。それなのに僕はずっと彼女をあの頃の彼女のままで、見つめていた。そして想っていた。
時は確実に流れているのに。
先に名前を呼ばなくなったのは、自分だ。先に彼女へと近づかなくなかったのも。それなのに、行動でそうしてても、心はあの頃のままから一歩も進んではいなかった。
あの日の幼いままの綾乃がずっと僕の心に住み付いて、そしてそれが永遠だと錯覚する程に。時はこんなにも確実に過ぎているというのに。
「…僕の…せいだね…綾乃……」
初めから君を一人の『女』として見つめていればよかったのか?それとも最期まで君の『女』に気付かず小さなままの君を見ていればよかったのか?
…それが出来ていたら…結果は変わっていたのか?……
でも自分にはどちらも出来なかった。どちらも選べなかった。『女』としての君を受け入れずに、かといって『子供』のままの君を自分の傍には置いておけなかった。
…どちらにも自分は、進めなかった……
どちらにも行けなかった。進むことも、戻ることも。ただ立ち止まるだけで。それしか、出来なかった。
「…みゃあ……」
何時の間にかもみじが自分の前に立っていた。夜の闇の中でも綺麗な、その瞳が自分を見上げてくる。漆黒の綺麗な、瞳が。
「おいで、もみじ」
手を伸ばして、そっと抱き上げた。その小さな身体が、益々小さく感じる。この小さな猫はまるで自分の気持ちが手に取るように分かるとでも言うように…言うように、こうして自分の前に現れる。
「もみじ…また…痩せたのか?……」
…まるで自分の心が手に取るように分かるように?…
殆ど重みを感じない身体。柔らかい毛の感触がなければ抱いているのが、分からない程に。分からない程に痩せたその身体。小さな、小さな命。
「お前が痩せたのは…もしかして僕のせいか?…」
如月は言葉にしてみて、そんなバカなと否定した。それはあんまりにも自分に都合が良すぎる。そしてそんな事を考えてしまう自分は、そこまで弱気になっているのか?
「…一緒に寝るか?もみじ…」
弱気になっているのかも、しれない。こんな蒼い月の夜に、独りで眠るのが嫌だと思う程に。誰かに傍にいて欲しいと思う程に。
「にゃん」
布団を開けて少し隙間作ってやると、もみじはその小さな黒い身体をその中へと滑り込ませた。そしてまるまったと同時に眠りにつく。微かな寝息が如月の耳に届く。
「おやすみ、もみじ」
それを見届けて如月は目を閉じた。子猫の身体の暖かさを感じながら。その体温を感じながら。そのぬくもりが、伝わって。
その日はこれ以上夜中に目覚める事はなかった。

貴方はきっと覚えてはいない。
それでも、構わない。
構わないから傍に、いさせてください。

「…貴方は、誰?…」
表情ひとつ変えずに、その女は言った。まるで能面のような顔で。それでもその美貌と内から溢れ出る芯の強さが俺の興味を引いた。その強さに、惹かれた。
「誰はねーだろ?これから夫婦になるのに」
漆黒の艶やかで長い髪と、それと同色の瞳。何もかもを拒絶しているその色が、実に自分の好みだった。自分を拒絶しているその全てが。
「村雨…祇孔様…ですね」
深々と頭を下げわざと自分に順応な振りをした。そう、振りだ。その目が自分を拒絶している限り。その鋭い光を称える瞳は、俺以外の何かを見ている。そして、求めている。
「ああ、今日からお前は俺の女だ…名前は確か…」
「綾乃でございます、旦那様」
「そうか、綾乃か。いい名前だな」
順応な女には興味がなかった。自分に簡単に抱かれる女にも。
そして何よりも自分の『家柄』目的で近づく女は、反吐が出るほどに嫌だった。けれども目の前の女は違う。
『結婚』と言う契約の為に差し出された人質。自分の意思に反して差し出された女。そして何より。
「お前には他に好きな男がいるのか?」
何よりもその瞳が告げている。どんなに無表情を装っていても。自分じゃない誰かを想っていると、そう。そう瞳が告げているから。
「はい」
迷うことなく、戸惑うことなくこの女は言ってのけた。無表情のままで。瞳だけに炎を宿らせて。強い炎を、宿らせて。
「はは、正直だ。だが俺は正直なのは嫌いじゃない。お前とは上手くやってゆけそうだぜ、綾乃」
「…貴方様も同じですね…」
真っ直ぐな瞳が初めて俺を捉えた。今まで自分以外の何かを見ていたその瞳が。そして。
「ん?」
「貴方様も誰かを求めている。私ではない誰かを」
そして、真実を映し出した。曇りの無い瞳が見つめた俺の唯一の、真実。
「分かるのか?綾乃」
…俺の、永遠の…閉じ込めた真実……
「分かります。私と貴方とは同じ…ええ、そうですね。私達上手くやってゆけるかもしれませんね」
「へ、俺の求めているものは遠すぎて手に入らないものだ」
「私もです。もう私には遠すぎて二度と戻ってこないものです」
ああそうか俺達は。俺達は同じ秘密を抱える共犯者。共に許されぬ罪を持つ…。
「こいよ、綾乃」
その言葉に目の前の女は素直に従った。そして俺の腕の中にすっぽりと納まる。細い身体はただ順応に俺の腕に全てを預けてきた。
「抱いてやるよ…俺達は夫婦なのだから……」
その言葉に女は、拒まなかった。細すぎるその腕を俺の背中に廻した。それが合図だった。
これから始まる偽りの、愛の儀式の。

この男の腕に抱かれながら、ぼんやりと幸福な少女の頃を思い出した。

何時も私は貴方の後ろ姿を必死で追い駆けていた。
何時も自分よりも前を歩いて、そして前だけを見つめている人。それが哀しくて、それが淋しくて、自分はわざと転んだりしてみた。すると必ず貴方は振り返ってくれるから。
…大丈夫かい?綾乃……
そして必ず差し伸べてくれる手。その手を握り返して初めて自分は安心出来た。その温もりを感じる事で、初めて。初めて自分は、淋しくなくなるのだ。
…翡翠兄さん、綾乃足が痛くて…歩けない……
そしてそう言えば必ず、必ず貴方は幼い私を背中におぶってくれた。広くて大きな背中。自分が最も安心出来る場所。この背中だけが自分の、一番安全な場所。
その背中で眠る事が、何よりもの幸せだと…そう思いながら。

初めて男の人に抱かれた夜。私は違う男の影を追っていた。
そしてその男は私ではない違う誰かの面影を追っていた。
救われないと分かっていても。
それでも互いに違うものを求めずにはいられなかった。

月の蒼さに誘われるように私は、寝室をそっと抜け出した。
さっきまで私を抱いていた男は私が布団から抜け出しても、止めようとはしなかった。ただ笑って「気をつけろよ」と一言だけ告げて。
それは全てを悟って、全てを諦めているような顔だった。貴方のように全てをそう出来たならば、私も少しは救われるのだろうか?ふとそんな事を思う。
女としての幸せ…父はそれを私に与えたくてこの人の元へと私を嫁がせた。
確かにこの人ならば私に女としての幸せを与えてくれるのだろう。私にはきっと優しい『夫』になってくれる。そして子供も与えてくれるだろう。
例えそれが偽りの愛の上でしかなくても。それでも私達は互いに上手くやってゆける。共犯者として。同じ罪を背負う者として。
けれども。けれども私があの紅の森に埋めた、私の『子供』の心は…。
真実の幸せは全てあの森に埋められている。あの人の傍であの人の元で、埋められている。
私は、笑えない。私は、泣けない。私は、怒れない。私は、哀しめない。
当たり前の全ての感情を閉じ込めてきた。あの森の中へと。紅の、森の中へと。
…貴方への『愛』と一緒に……。
「…翡翠……」
声に出してその名を呼んでみた。それは風にかき消される程に小さな声、だったけれど。それでも、呟いた。小さな見えない糸が、切れてしまわないように。
…ふたりを結ぶ唯一の糸が、切れてしまわないように……。

ただ俺は、お前の笑った顔が見たかっただけなんだ。
見たかっただけ、なんだ。
淋しそうな顔をしているから。哀しそうな瞳をしているから。
だから微笑って。微笑って欲しかったんだ。

蒼い月の光に、誘われた。
怖い程綺麗なその月の光に。
その光に誘われて、そして。そして俺は、この世の幻を見た。

まだ幼い自分でも『綺麗』と言う言葉の意味は理解していた。けれども今。今その言葉の真実の意味を、俺は初めて知った。
漆黒の長い髪が蒼い月夜に照らされて、そしてその瞳も月の蒼に染められて、この世のものとは思えない程に、綺麗だった。怖い程に、綺麗だった。
「…子供がこんな夜更けに歩いて…危ないわよ」
降り積もる声はまるで天女のようだった。本当に現実感のない、綺麗な声と綺麗な顔。
「危なくねーよ。俺には怖いモノなんて何にもねーもん」
口では言ってみても、今少しだけ怖いとそう思った。目の前のその綺麗さが怖いと。怖いと思った。
「…怖いものがないの?私には怖いものがあるわ」
長い睫毛がゆっくりと降ろされる。やっぱりそれは怖い程に、綺麗で。無意識に身体が震えるのを押さえ切れなかった。
「へっ何だよ?お前の怖いものって」
「…教えられないわ……」
無表情のままで答えるその表情を見つめながら、子供心に俺はふと思った。
…笑ったら…きっともっと綺麗なのに…と。
笑ったら、こんな風に震えたりしないと。笑ったらきっと。きっと泣きたくなるくらいに綺麗なんだろうと。綺麗、なんだろうと。
「どうしてお前は笑わないの?」
聞いてみた。聞きたかったから、聞かずにはいられなかったから。本当にその時俺は笑ったら綺麗だろうなと、それだけを。それだけを、思っていたから。だから聞かずには、いられなかった。
「笑い方を忘れてしまったの」
そんな俺の問いにちゃんと答えてくれた。真っ直ぐに自分に視線を向けて。だから俺は。俺はそんなお前に。
「笑い方を?」
「…ええ…私はそう言ったもの全てを埋めてきたの」
…俺は……。

「ならば俺が、思い出させてやる。お前が笑えるように」

笑わせたいと、思った。俺が笑わせたいと。
その綺麗な顔に幸せな笑みを。優しい笑顔を、浮かべてやりたいと。
…お前の笑った顔が見たいと、そう思った。

ひどくその言葉だけが大人びて聞こえて、吹き出しそうになってしまった。忘れていた筈の…置き去りにして来た筈の笑いが…不意に呼び戻されそうになって。
…埋めてきたはずのものが…今手の中に呼び戻されて……
「生意気なことを言うのね、貴方は」
…相手が、子供だからだろうか?幼い子供だから。だから私の置き去りにしてきた筈の『子供』の心が反応したの?私の、子供のこころが。
「生意気じゃねーよっ俺、本当にそう思ったんだからっ」
めいいっぱい顔を膨らませて拗ねるその表情が、その仕草が可笑しくて。私は…私は…無意識にその口許に笑みを…浮かべていた……。
二度と笑えないと、笑わないとそう思っていたのに。私は、笑っていた。
「あ、笑ったっ!!やっぱ綺麗だっ!!」
無邪気に笑って、本当に楽しそうに笑って私に飛びついてきた。その顔を見ていたら、何だか涙が零れそうになった。涙など、もう枯れ果てた筈なのに。
…私が置き去りにしたものを…この子は簡単に私の手の中に返してきた…

あの紅の森で。
膝を抱えて泣いている、私。
幼い頃の約束だけを信じて。あの夕日の約束だけを信じて。
貴方を待ち続けている私。
けれども、今。
…今幼い私は…今『ここ』にいる。
この子の目の前に、立っている。

「やっぱ笑った方が全然綺麗だぜっ!!」
この闇の中で、まるでそこだけが太陽の光のようなその笑顔。その笑顔が、私には眩しすぎて。闇に身を堕としてしまった私には、その純粋さが眩し過ぎて。
けれども、眩しいからこそ見ていたいと思ったから。見ていたいと、思ったから。
「…貴方、名前は何て言うの?……」
だから、その名を尋ねた。それがただの気まぐれだったとしても、私は。
「京一、蓬莱寺 京一って言うんだ」
私は確かに、その名を知りたいと思った。貴方の名前を、子供のままの心で呼んでみたいと。呼んでみたいと思った。
…貴方の名前を、呼びたいと……

向き合う瞳が真剣で、そして痛い程に真っ直ぐだったから。
強い太陽の日差しのようなその視線と。
何者にも穢れていないその笑顔。
だから私も。
私も貴方の前でだけは。貴方の前でだけは『子供』でいたかった。
まだ醜さも汚さも知らない、ただの子供に戻って。
貴方と、向き合いたかった。

貴方の裸の声が、聴きたい。
貴方のこころの声が、聴きたい。
どんな些細な事でいいから、聴かせてください。
それが僕が見つけた、貴方の為に出来る事だから。

咲き乱れる桜。それが静かに日常を埋めてゆく。
ひらひらと舞い散る花びらが。その花びらが『約束』を埋めてゆく。
幼い日の、約束を。
「桜が満開だな、もみじ」
この森だけは永遠に変わらないだろう。僕が死んでもずっとこうしてここに在るのだろう。そうきっと。きっとこの桜の森は、僕らが生まれてから死ぬまで。ずっと見護り続けているのだろう。ずっと。
「…綾乃……」
あの日から初めて、名前を呼んだ。君が僕の前から消えて、初めて。心の奥底に封印したその名前を。
「…にゃあ……」
腕の中のもみじが何時しか僕の腕に顔を摺り寄せていた。柔らかい温もり。何故かひどく安心する、その暖かさ。
…しかして、自分を慰めてくれている?…
「…僕は…どうすればよかったのか?…」
もみじの瞳を、見つめながら。その漆黒の綺麗な瞳を見つめながら言った。誰にも言う事の出来ない思い。誰にも聞かせる事の出来ない気持ち。それをもみじ、君に聞いてもらいたくて。
誰も知らないのならば君だけはせめて、僕の本音を知っていて欲しいと。
僕の弱さを、僕の罪を知って欲しいと。
「君を抱くべきだったのか?そうしたらよかったのか?」
何時もこうして傍にいてくれる君だから。ただが猫相手にと思うかもしれない。でも。でも君だけは今こうして傍にいてくれる。
何もかも持ってはいない、綾乃を失って全てを無くした僕の。今僕が唯一持っているもの。
それがこの、腕の中にある小さな命ならば。この、命ならば。
「僕は今まで君を護る為だけに生きてきた。幼い約束が僕の全てだった。その全てを失った今、僕は何の為に生きればいいのか分からない」
…綾乃…小さな綾乃。僕の中で時を止めてしまった、綾乃。僕の護るべき綾乃はもう何処にもいない。君はこの森に幼い自分を埋めて僕の元から消えて行った。
そして僕は。僕は時を止めたままで、ここに独り身動きできずにいる。
「今でも夢に見る。君の泣き顔を…幼い日の泣き顔を…そしてそれは何時しかあの日の大人の君の顔になるんだ」
僕は一体何を見ていた?何を護っていた?今までの僕は一体何をしていた?
「…僕は…綾乃…君に何をしてあげられたのか?……」
結局君を泣かす事しか出来なかった自分。今まで自分がしてきた事全ては、君を泣かす事でしかなかったのか?だとしたら僕は今まで何の為に生きてきた?
…僕が今までしてきた事は…何も意味を持たないのか?……
「…僕は…無力な人間だ…」
「…にゃあ……」
暖かいものが頬に、触れる。それはもみじの舌だった。ただひとつ哀しそうに鳴いて、そして僕の頬を舐めた。慰めるように。労わるように。
「…もみじ…お前は本当に…僕の気持ちが分かるみたいだね…それとも…」

「言葉ではない何かが、伝わるのかな?」

ひらひらと、ふたりの上に桜の花びらが降り積もる。
このまま。このまま埋もれてもいいなと、ふと思った。
この小さな暖かい命を、感じながら。
…このまま…桜に埋もれるのも。

僕の願いを一度だけ、叶えてください。

貴方が眠れるように。
もう夜中に目覚めたりしないように。
貴方が優しく眠れるように。貴方が嫌な夢を見ないように。
それだけを。それだけを、願った。

…神様…ひとつだけ僕の願いを叶えてください……

それは一夜の、幻。
狂い咲く桜の森が見せた。
一夜の、幻。

貴方は、何も、覚えていない。

零れる雫。
頬に零れ落ちるその雫を。
僕は、受け止めたくて。
この指先で、その零れ落ちる雫を。
零れ落ちるその涙を、受け止めたくて。

蒼い月だけが、この世界を埋めた。
頬に掛かる雫が、僕の瞼を開かせた。ぽたりとひとつ、熱いものが僕の頬に落ちる。僕はゆっくりと目を開けた。夢か現実か分からぬままに。それともこれは夢の続き?
「………」
最初に飛び込んできたのは、漆黒の深い瞳。闇に溶けながらも、綺麗に輝く。哀しい程に綺麗な、瞳。
…僕は…その瞳を僕はよく…知っている?……
そして次の瞬間僕の意識に触れたのは、頬に落ちた熱い涙。零れ落ちた、雫。僕が何時も拭おうとして手を差し出した瞬間に消えた…消えた涙の雫。
「…綾乃……?…」
名前を呼んでみて、そして次に心の中で否定した。この瞳は、綾乃の瞳じゃない。僕が手を差し伸べて、消えてしまうあの瞳じゃない。何時も拭おうとして、叶わないあの雫じゃない。でも。
でも、僕は知っている。この瞳を…この哀しい程に綺麗な黒い瞳を。
…僕は…知って、いる……。
「…違う…君は…綾乃じゃない……」
そう言って手を伸ばして、その頬に触れた。涙を拭おうとして。その零れ落ちる雫を掬おうとして。けれどもその指は目的を果せなかった。涙を拭う前に…冷たいその頬の感触を感じて。ひんやりと冷たい頬が哀しくて、僕は。僕はその頬を暖めてやりたいと、思ったから。暖めて、やりたいと。
「…綾乃じゃない…でも僕は君を…知っている……」
両手を伸ばしてその頬を包み込んだ。僕の体温が君に伝わるといいと思いながら。僕の温もりを君に分け与えられたらいいと思いながら。そっと、その頬を両手で包み込んだ。
「…君の瞳を…知っている…」
その言葉に再び君の瞳から涙が零れ落ちた。今度は、今度は僕の手は君の涙を受け止めた。その熱い涙を。冷たい頬とは対照的に熱いその涙を。
「その瞳を、知っている」
そっと髪を撫でた。指先に馴染むその感触。ひどく馴染むこの感触。
僕は…僕は、知っている。僕は君を知っている。その漆黒の瞳と、その柔らかい髪の毛の感触を。僕は確かに、知っている。
…確かに、僕は『彼』を…知っている……

貴方が穏やかに眠れるように。
もう二度と夢を見ないように。
…貴方が…微笑えるように……

「…泣かないで…ください……」
あの時と同じ台詞を僕は言ってみた。貴方が僕を何一つ覚えていない事を百も承知で。その言葉をもう一度、呟いた。もう一度、呟いた。
「…泣いているのは、君の方だろう?…」
そう言って頬を包んでいた指が僕の涙を拭った。優しい手。優しい指先。僕が一番大好きな。大好きな、この人の指。このひとの、優しい指。
「…君は、誰だ?…僕は君を…知っている…」
ええ、よく知っています。ずっと。ずっと僕は貴方の傍にいたのだから。ずっと、ずっと。
「…『紅葉』…と呼んでください……」
僕はずっと貴方だけを、見つめていたのだから。聴こえない声で貴方に囁き。見えない心で貴方を想い続けて。ずっと、貴方だけを。
「…くれは?…」
「…そう、呼んでください……」
頬を包み込むその指に僕はそっと自分のそれを重ねてみた。その指先はひどく暖かくて。このひとの、心のようで。ゆっくりと僕のこころにその温もりが染み込んでくる。
ひどく優しく、そして。そして柔らかく。
「…紅葉……」
「…は、い……」
ずっと貴方だけを想っていました。ずっと貴方だけを愛していました。それだけが僕の全てだから。それだけが僕の。
「泣かないで、くれ。僕は君の涙を見るとどうしてかひどく苦しくなる」

これが一夜の幻でも、構わなかった。
たった一度だけの、幻でも。
それでも。それでも僕にはそのたった一度が。
たった一度が、永遠になる。

…僕にとっての…たったひとつの『永遠』……

ゆっくりと上半身を起こしてその細い身体を抱きしめた。その腕の中にすっぽりと包まれた華奢な肢体は、全く重みを感じられなくて。そして。そして、その抱きごこちを僕は何処かで知っていた。僕の指先が記憶、していた。
「…紅葉…君は……」
何かを言おうとして、その言葉は彼の唇によって塞がれた。冷たい、唇。それが哀しくて僕は。その冷たさが哀しくて。僕はより深く彼に口付けた。
「…何も聴かないで…ください…これは夢、だから…貴方の夢だから…」
唇が離れてそして君は言った。微笑いながら。けれども。…けれども君の瞳は、泣いている……
僕はその瞳の哀しさが辛くてもう一度彼に口付けた。今度は暖かい唇だった。僕が分け与えた暖かさ、だった。…僕が分け与えた……
「…夢になんて…僕には…出来ない……」
夢になんて、幻になんて、したくない。この腕の中にいる存在を。この小さな命を僕は、夢になんて出来ない。この哀しい程に綺麗な瞳を。包み込んだ頬を。体温を分け与えた唇を。その全てを夢になんて、出来るわけが無い。僕は君を夢になんて出来ない。
……僕…は…君を…?………
「あのひと代わりに僕を抱いてください…そうして…全てを…忘れてください…」
代わりに?綾乃の代わりに?代わりになんて出来るわけがない。代わりになんて、出来はしない。
僕は綾乃を抱けなかった。この腕に飛びこんできた彼女を、抱く事が出来なかった。それは僕自身が時を止めていたから。心の時計を止めていたから。でも。でも今僕は。
「…代わりになんて…出来ない…でも…」
…綾乃は綾乃で…紅葉…君は君だ…そして……
「…でも僕は今…君を抱きたい……」
そして僕は君を抱きたいと、抱きたいとそう思った。その冷たい身体を僕が暖めてやりたいと。君の瞳の奥を知りたいと。君の心の真実を知りたいと。君のすべてを知りたいと。
心の時計は、止まってはいない。君を知りたいと今、確かに時を刻んで動いている。
「綾乃じゃない君を、君を抱きたい」
…蒼い月だけが、僕らを見ていた。哀しい程に綺麗な蒼い月だけが。

それは一夜の、幻。
蒼い月が見せた、一夜の夢。
…それでも…僕は…幸せだった……

色素のないその肌に、余す所なく口付けた。その度に体温のない身体がほんのりと朱に染まってゆく。肉の匂いのしない身体が、生身の肉体へと変化してゆく。自分が触れた、この指先と唇によって。
「…あっ……」
甘い吐息が口から零れる。その声を確認しながら、僕はその肌に指を幾度となく滑らせてゆく。その滑らかで、きめの細かい肌に。
「…如月…さん…っ……」
首筋に腕を絡めて、僕に彼はしがみついて来た。その仕草がひどく、愛しい。そう、愛しいと、思った。僕の中で僕の腕の中で、こうして震えるこの存在が。
…どうしようもなく、いとおしいと……
「…紅葉…」
「…はぁっ…ん…」
胸の果実に辿り付くと、それを柔らかく歯で噛んだ。その瞬間ぴくりと肢体が揺れる。その反応を楽しむかのように、執拗にそこを責めた。
「…あぁ…」
口から零れるのは甘い吐息。その吐息を奪うように口付けた。口内に舌を忍び込ませ、絡め取る。そしてそのまま口内を貪った。
「…んっ…んん…」
何時しか飲み切れなくなった唾液が君の口許に零れてゆく。僕は自らの舌でそれを舐め取った。互いの唾液が絡み合ったそれを。
「…如月さん…」
夜に濡れた瞳が、僕を見上げてくる。潤んだ瞳が、僕を。僕だけを見つめる。その瞳を閉じ込めたいと、このまま閉じ込めてしまいたいと思った。僕だけを見つめているその瞳を。
「…紅葉…僕は…」
君を僕の腕の中だけに、閉じ込めてしまいたい。このまま永遠にこの腕の中に。
「…僕は…君が……」
その言葉の先は君の唇によって閉じ込められた。君の唇が僕の言葉を飲みこんだ。そして。
「…如月…さん…」
そして、君は再び僕を見つめる。あの綺麗な瞳で。哀しい程に綺麗なその瞳で。
「…僕は…貴方が…好き…」
本当にこれは一夜の夢なのだろうか?この熱い吐息も熱い身体も、本当に夢、なのだろうか?君の今の言葉も、君からの口付けも。全部一夜の夢なのか?
…そんなのは、嫌だ…僕は君を夢だとは思いたくない……
「…好き…貴方が…好き…たとえどんな事になっても僕は貴方だけが……」
夢になんてしたくない。この腕の中に確かに今、僕は君を抱いている。この腕の中にこの暖かい身体を。君と体温こうして、分け合っている。君とぬくもりを分け合っている。
「…紅葉……」
再び手を伸ばした。君の瞳から零れる涙が、その涙が快楽の為なのかそれとも別の意味を持つのか、僕には分からなかった。けれども。けれども今は。今はただその涙を拭ってやりたくて。その涙をこの手で受け止めたくて。
「…如月さん……」

「…僕は、貴方だけが、好き……」

それだけを、伝えたくて。
ただそれだけを。
僕がどんなになっても。どんな姿であっても。
僕は貴方だけが好き。貴方だけを愛している。
…それを貴方に…伝えたくて……

ぽろりとまた頬に涙が零れた。
それを舌先で掬って、睫毛の先に口付けた。
君の瞳から哀しみが消えるようにと。それだけを願って。
「…紅葉…僕も…」
その細い腰に手を掛ける。その瞬間ぴくっと身体が震えた。それを宥めるように口付けて、そのまま一気に侵入した。
「…ああっ!…」
貫いた瞬間、君の口から甘い悲鳴が零れた。慣れていないその部分はきつく僕を締めつけてきた。それを和らげるように僕は彼自身に指を這わす。
「…はぁっ…あぁ…」
緊張が解けてきた事を確認してから、僕は彼を手に入れた。傷つけないようにと、細心の注意を払いながら。そして。

「…僕も…君が…好きだ……」

快楽の為に意識を飛ばしてしまった君に、君に告げた。
僕の真実を。僕の心を。…僕の想いを……。
…君に、告げた……

一夜の、幻。一夜の、夢。
けれども確かに。
確かに互いの体温を感じた。互いの鼓動を感じた。
それは。
それは夢でも幻でもない。
この想いは、夢でなんかで幻なんかで終わらせられない。

もう後は彼の言葉は言葉として発せられなかった。
言葉は皆甘い吐息と、甘い嬌声へと擦りかえられて。
…ただ快楽を貪るのみで……

蒼い月だけが全てを見ていた。ふたりの真実を、見ていた。
「…如月…さん……」
月夜に照らされた貴方の寝顔は綺麗。とても、綺麗。泣きたくなる程に。泣けない程に。
「…僕はずっと…」
貴方がもう二度と夢を見て苦しむ事がないように。貴方がもう一度微笑えるように。
僕が貴方の為に出来ること。
「…ずっと貴方の傍に…います…」
ただ一度だけの、永遠。ただ一度だけの、夢。それでも。
それでも、いい。それでも、構わない。
「…例えどんなになっても…僕は……」
眠ってしまった貴方に僕の言葉は届かない。僕の声はもう二度と届かないだろう。それでも。例え言葉が通じなくても、例え貴方が誰のものになっても。それでも。
それでも今この瞬間だけは、貴方は僕を見てくれたから。
「…僕はずっと…貴方の傍に……」
その寝顔にもう一度だけ、口付けた。最期の、口付け。
…貴方の記憶を封じる為に……

僕は貴方に、口付けた。
…貴方がもう夜中に目覚めないようにと…祈りながら……。

僕にとってのただ一度だけの、永遠。
この瞬間だけで僕は。
僕はこの先どうなってもいいと思った。

ぽたりとひとつ、貴方の頬に雫が落ちた。

目が醒めた瞬間、何か大事なものがこの腕の中から落ちていった。
それが何かを確認する前に、意識が浮上する。そしてその全てが何処か霧の中へと閉じ込められてしまった。全てを封印された。
「…僕は……」
そして現実に意識が戻って初めて、気付く。自分の頬に一筋の雫が零れている事に。暖かい涙が、頬に落ちている事に。
「…涙?…僕は……」

「…僕は泣いていたのか?……」

暖かいはずの涙が。
どうしてかひどく哀しかった。
切なくて胸を締め付けられるような。そしてどうしようもなくもどかしい。
…もどかしくて、苦しい……

そして、僕は顔を上げる。すると視界にもみじの小さな身体が飛び込んできた。
まるで全てを見ていたかのように、黒い瞳が僕を見つめ返す。そして。
「…にゃあ……」
そしてその僕の言葉にまるで答えるように、もみじは鳴いた。
…何故かその鳴き声はひどく、哀しく聴こえた……。




End

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