桜の、森・4


<現世編 2 命の章>


…椿の花が、好きです……

何時しか庭に一面の椿を咲かせて。
その全てをお前に与えたら。
…お前は微笑ってくれるか?……

偽りの命でも、構わなかった。
偽物の身体でも、構わなかった。
そんなものは俺にとってどうでもいい事だから。
お前の存在が何であろうとも。
俺は。俺はただお前が。

ただ俺は『お前自身』が、好きだっただけだ…。

椿の花が、好きだと言った。柔らかく微笑いながら。
そう言ったお前に、心がないだなんて誰が決めつけた?
花を好きだと、そう言ったお前に。

こんなにも綺麗なこころを、持っているのに…。

「…紅葉…」
もう一度その名を呟いてみた。ひどく口に馴染むその名前に、如月は少しだけ戸惑いを覚えた。彼とは、初めて出逢った筈なのに?初めて逢った、筈なのに?
「はい、如月さん」
けれども彼はそんな如月を余所に真っ直ぐに、彼だけを見つめそして返答した。真っ直ぐな瞳。漆黒の綺麗なそして何処か哀しげなその瞳。ただそれだけの事なのに。ただそれだけのことなのに、不思議な錯覚に陥る。
この感覚は一体何処から、来るものなのか?
「名前で呼んで、貰えるんですね」
そして。そして、微笑う彼。その笑顔の儚さが、その笑顔にある淋しさが、自分の心の琴線に触れる。触れて切ない音を響かせた。苦しい程に切ない音を。
…これは…何だ?…この想いは?……
「嬉しいです、如月さん」
この想いは、一体何処から来て…何処へ抜けてゆくものなのか?
「…嬉しいです……」
分からない、ただ。ただどうしようもない切なさが胸に染み込んで。どうしようもなく哀しくなった。

ひどく自然にふたりは『そこ』にいた。
まるで昔から互いの存在を知っているような、そんな感覚だった。それが、それが嫌だった。
「あ、如月…ここにいたんだ」
わざと偶然を装って二人の前に現われた。その透明なふたりの纏っている空気を壊す為に。透明で綺麗でひどく純粋なその空気を。
「龍麻」
俺の声に振り返る如月は少しだけ俺の知っている如月とは、違っていた。何処がと聞かれても答えられなかったけれども。ただ。ただ何時も彼が持っている絶対の自信が、今の彼には見えなかった。
「壬生とは仲良くしてくれているんだ。ありがとう」
それがまるで自分の知らない彼のようで。自分がずっと前から知っている彼とは別人のようで、それが嫌で俺は。
「行こう、如月。京一を助けに行かないと」
彼から如月を、奪い取った。如月の腕を取って、そのまま歩き始める。子供じみた我が侭みたいで、そんな自分に自己嫌悪に陥る。けれども。
けれども俺は何時もの如月に逢いたかった。俺だけを護ってくれる『飛水流』の如月に。
…俺だけを護ってくれる…如月に……

すぐに、分かったから。
彼が貴方の探していた『綾乃』さんだと。
貴方がずっと想い続けていたそのひとだと。
貴方は彼の傍にいる。
大切な人の護らねばならぬその人の、傍にいる。
…よかった……
貴方の願いは叶ったのですね。貴方の想いは届いたのですね。
もう貴方は夜中に目覚める事もないのですね。

…貴方は、幸せなのですね……

でも、ごめんなさい。
僕は貴方の幸せだけを望んでいたのに。
それなのに。

どうしても…涙が零れそうになる……

何処までも、抜けられない深い森。
深い深い、森。
出口を捜して、光を捜して。何処までも。
何処までも迷い続ける深い森。

…声が、聴こえる。
遠くから、近くから。まるで波のように。
それは繰り返し、繰り返し。潮騒のように。
…いやぁぁぁぁぁぁーーーっ!!
それは、悲鳴。胸が張りさけんばかりの悲鳴。
…京一…京一…
それは、囁き。俺の名を優しく呼ぶ声。
その繰り返し、繰り返し。まるで螺旋のように繰り返されるその声。
そして浮かんでは消える。狂女のように泣き叫ぶお前と、少女のように笑うお前と。
どちらが真実で、どちらが幻影か?
…それともどちらとも…真実なのか?……

どちらも、現実だ。どちらも、真実だ。
俺はずっとお前を見ていたのだから。
聖女のように微笑むお前と。狂女のように泣き叫ぶお前と。
どちらも『お前自身』だ。
俺が愛した。愛し続けた、唯一の存在。
どんなお前であろうとも俺はお前だけを愛しているのだから。

重たい瞼を開いた瞬間、飛び込んできたのはまばゆいばかりの星空だった。星が落ちてきそうな、そんな夜空だった。
「…俺…死んでねーや…」
最初の第一声がこれかと思うと京一は苦笑せずにはいられなかった。奴らは自分が完全に息の根を止めたかを確認しなかったらしい…全く暗殺のプロのわりには情けない仕事振りだ。まあ、そのお蔭で自分は一命を取りとめられたのだが…。
「…くっ…いてぇ…全く手加減ねーよな…」
起きあがろうとするとわき腹がずきんっと痛んだ。けれどもその痛みを必死で堪えて立ち上がる。
「…痛つつ…俺の身体こんなやわだったか?……」
立ち上がり夜空を見上げた。あの日もこんな星空だった。遠い遠い遥か彼方の記憶。
「…ひーちゃん……」
自分には戻らねばならない場所がある。帰らなければならない場所がある。
『笑い方を忘れてしまったの』
…あいつの元へ…ひーちゃんの元へと…俺は帰らねばならない…
俺には俺にしか出来ない事が、ある。俺だけがお前に出来る事が。
『…ええ…私はそう言ったもの全てを埋めてきたの』
その瞳が例え誰を見つめていようとも。その心が誰を想っていようとも。
俺にはしなければならない事がある。俺にしかやれない事がある。
「…俺しか…俺しか…ひーちゃんを…笑わせてやれないんだ……」

『ならば俺が、思い出させてやる。お前が笑えるように』

…それが俺の誓い。遠い昔誓ったたったひとつの想い……
全てを思い出した時、自分に残された選択肢はそれしかなかったから。
それだけが俺がお前に、してやれる事。
たとえお前が誰を、想っていようとも。俺はお前の傍にいる。

そして。そして俺は、お前の元へと戻った。
俺しか出来ない、俺にしか出来ない事をする為に。
お前を微笑わせる為に。

その見慣れた木刀を見た瞬間、ただ泣きたくなった。
「ただいま、ひーちゃん」
何時もの声。聴き慣れた声。誰よりも何よりも安心出来る声。そして太陽のような眩しい笑顔。全てを包み込んでくれるその笑顔。
「なんだよ、久々過ぎて俺の顔忘れちまったか?」
俺の全てを包み込んでくれる、太陽のような笑顔。

「…京一……」
瞳に涙をいっぱいに溜めながら、ひーちゃんは俺の名を呼んだ。そして堪えきれずにその頬に一筋の雫の跡を作る。
「泣くなよ、ひーちゃん。お前の背中は俺が護るって約束してただろう?」
「…だけどっ…」
「ひーちゃんは笑っていてくれよ。俺はその為に死の淵から戻ってきたんだから」
泣いている。そして笑っている。怒ったり拗ねたり、哀しんだり喜んだり。
…お前が…泣いている……
それだけで俺は、幸せだと思った。

笑えないと言ったお前。感情を置いてきたと言ったお前。
でも俺の前では笑ってくれた、泣いてくれた。
子供のように。子供に戻って、俺の前では、綾乃。
…綾乃…お前…ちゃんと泣けるじゃねーか……

「よかったな、龍麻」
柔らかい笑顔で如月は、自分にそう言った。その途端また、胸が締めつけられそうになる。何時も、何時も。如月の前でだけは必要以上に緊張してしまう。今も微笑んでいる筈の顔が、ひどくぎこちない。どうして?
「あ、うん」
「君は彼が本当に好きなんだね」
「…え?……」
「本当に君は、彼の事が大切なんだね」
柔らかく、微笑う彼。何処までも優しく、そして穏やかに。でも、それは。でもそれは自分には…残酷だ…。そう、残酷だ。何でそんな事を言うの?
…俺は…俺は…俺は?……
「…如月は…俺が大事じゃない?」
「何故そんな事を聞く?大切に決まっている。君は『黄龍の器』だ。そして僕は飛水流の末裔。君を護る為に生を受け、君に仕える為に生きている」
揺るぎのない真っ直ぐな瞳。力強い瞳。その瞳の奥には何一つ嘘はない。嘘は、ない。けれども。けれども。
「…じゃあ…『如月』自身の意思は?…」
「え?」
「飛水流の末裔ではない、お前の意思は今何処にあるの?」

…私は…あの人の飛水の呪縛を取る事が出来ませんでした……
…あの人をあの人自身に戻すことは…私には…出来ませんでした……

「…僕…自身…?……」
「如月翡翠と言う人間は、俺を大切に想っていてくれてる?」

…大切な、大切な、綾乃。
僕の小さな、たったひとつ護りたい小さな命。
紅の夕日の下で指を絡めてした約束。
それが僕にとっての、全て。僕の生きる、意味。

「…大事…だよ…龍麻……」
大切だと、想う。目の前の彼が何よりも自分にとって。自分にとって大切な存在だと。それは嘘ではない。嘘では、ない。けれども。
けれども何かが足りない。それが何だかは分からなかったけれども。確かに、何かが足りないとそう思った。それは、何なのか?
思い出そうとすると記憶にぼんやりとした膜が覆われる。それが何かを掴む前に深い場所へと封印されて、しまう。これは一体何?
「…如月……」
自分の腕の中にその細い身体を龍麻は預けてきた。それを受け止めながら。彼をそっと抱きしめながら、思った。
…何かが少しだけ…違うと……
この腕がこの指先が記憶しているのは。記憶しているのは、違うものだと。けれども。けれども、抱きしめた先に沸き上がる想いもまた否定出来なかった。
この腕の中の存在を護る事。それが自分の生まれてきた意味だと。飛水流の血の宿命がそうさせるのか、もっと違う何かがそうさせるのかは分からなかったけれども。
…自分は彼を護る為だけに生まれてきたのだと……

そんなふたりを、蒼い月だけが見ていた。
そして蒼い月だけが、知っている。
…ふたりの全ての、真実を……

お前の心の音が、聴きたい。
命が無いと言うお前の。心が無いと言うお前の。
その音が、聴きたい。
お前の命の音が、聴きたい。そしてそれをこの腕で抱きしめたい。

「おめーあの時の、猫だな」
彼と初めて出会った時、迷わずにそう告げられた。この人は僕と同じ、同じ種類の人間だと。過去の記憶を持ち続ける、哀しいさだめ。
「俺がせっかく餌を恵んでったのに、全然食わねーでよ。そんで呆気なく死んじまったな」
「…村雨さん…ですよね」
「ああ、そーだ。お前名前は何て言うんだ?」
ぶっきらぼうな口調の中から覗く優しさ。覚えている。死にかけていた僕を助けてくれようとした事を。けれども僕はあの時、死ぬつもりでいた。
「壬生 紅葉です」
「…紅葉…か…変わった名前だな」
「いいんです。もしかしたらあの人が気付いてくれるかも…しれないから…」
言ってみてそれは叶わない夢だと気づいて否定した。そんな事、あるわけは無いのだ。自分から、自らあの人の記憶を封印したのだから。あのひとの、記憶を。
「ふーん健気な『猫』なんだな。お前の飼い主は、あれか?」
指を指された先には如月さんの後姿。そしてその隣には龍麻が笑っている。あの人の願いは、叶ったのだ。最期の最期まで呼びつづけていた『綾乃』の名。今姿は違えどあの人の隣には、運命の恋人がそこにいる。
…如月…さん……
心の中で名前を呟いてみて、自分が本当に無駄な事をしていると思った。あの人は龍麻のものなのに。龍麻だけのものなのに。ふたりを見ているのが辛くて僕は、視線を外した。

月だけが、あの蒼い月だけが知っている。
ふたりを結んだ紅の糸を。あの、月だけが。

名前を呼ばれているような気がして、振り返った。けれども自分の視界に入ってきたものは、彼の後姿とそして。そして、隣に親しげに立つ独りの男。
名前を村雨 祇孔と言った。新たな仲間。向かえるべき仲間。けれども…僕は…。
「どうしたの?如月」
龍麻が不思議そうに尋ねてくる。僕はあいまいに笑った。あれから僕達は少しだけ、互いに近づいた。彼が僕に身体を預けてくれば抱きとめるし、一緒にいたいといえば傍にいる。
けれども。何かに触れるのが怖いのか、何かに気付くのが怖いのか、僕らは先に進めずにいる。このまま。このまま、ただ立ち止まっている。
…まるで真実から瞳を、逸らすように……。
「何でもないよ」
…紅葉……
心の中でそっとその名を呟く。その自然に零れる響き。口の中に溶け込むその言葉。どうして、どうして君はすんなりと僕の心に入ってきた?
「行こう」
どうしてもこれが引っかかって、僕は。僕は龍麻の全てを受け止める事が出来ない。こんなにも龍麻を大切に想っているのに。こんなにも大事な存在なのに。
たったひとつ引っかかるこの言葉が僕の行動全てにブレーキをかけている。

視線を外して見返すとそこには村雨の何とも言えない笑みがあった。全てを気付いて、そして敢えて何も語らない男。
「可愛そうだな。やっとの事で人間に転生できても所詮愛する男は、他人の物か」
「…いいんです…これで…」
ぼつりと呟くと壬生はいたたまれなくなったのか、その場を後にして歩き出した。その後を何気に村雨は付いてゆく。彼が行く場所は村雨には簡単に予想が付いた。
「いいのか?本当に。欲しくないのか?」
ここだけは今でも別世界だった。まるで時が止まったかのように。深い森。人気のない深い深い森。静かにここだけが時を止めて、ずっと全てを見護っている。
「欲しいと言って手に入るのなら幾らでも言いますよ」
桜の、森。けれどもこの季節に、桜は無かった。その桜も今は遠い。遠い、遠い桜の花。
「ならば言えばいいじゃねーか」
「…村雨…さん?」
「言えるだけ、おめーは幸せ…なんだよ……」
不意に村雨の手が壬生の手首を掴むと、そのまま強引に口付けられた。ざらついたヒゲの感触が頬に当たる。壬生はそれを黙って受け入れた。その哀しい、口付けを。
「…貴方の方が…可愛そうだ……」
唇が離れて、壬生は村雨を見つめた。その瞳の奥の深い色はきっと、自分では見付ける事は出来ないだろう。そして彼も、自分にその色を見つけて欲しくはないのだろう。
「同情、してくれるのか?」
壬生の手が村雨の背中に廻る。その身体を抱きとめて村雨は、もう一度壬生の唇を塞いだ。
「同情は…しません。だって貴方は、そんなもの欲しくは無いでしょう?」
髪を、撫でた。柔らかい髪だった。あの時の猫と同じ感触が指先に伝わる。そして見上げてくる瞳も、やはりあの時の哀しい程に綺麗な瞳だった。
「ああ、そうだ。そんなものいらない」
「貴方の欲しいものは…何ですか?……」
欲しいもの、それはたったひとつ。ひとつだけだ。昔から、ずっと昔から。
「それは言えない。お前があいつに何も言えないようにな」
声に出す事も出来ずに、欲しいとも言えずに。ただ。ただずっと想い続けるだけで。ただずっと願い続けるだけで。それだけで。
「…分かりました…ならば貴方ももう二度と、言わないで下さい」
「あの男のことか?それともお前の正体か?」
「どちらもです、村雨さん」
壬生はそれ以上何も言わずに、自分から一度だけ村雨に口付けた。それが契約とでも言うように。村雨もそれ以上何も言わなかった。そして抱きしめた身体を、雨の匂いの残る草の上に押し倒した…。

僕と、貴方と。どちらの方が正直なのでしょうか?
「…あぁ…」
広い背中に爪を立てた。貫かれた痛みと快楽が交じり合って、意識が飛ばされそうになる。それを押し止めるように、背中に爪を立てた。
「抱いているのがあの男じゃなくて悪かったな」
熱い身体と、冷たい心。この行為に愛は無い。ただ哀だけが、あるだけで。それだけで。
「…村雨…さんっ…あ…」
髪を撫でられた。その指先だけが優しい。貴方の隠された心のように、貴方の本当の心のように。
「それでも今だけは、あいつの事を忘れろよ」
このまま、貴方の言葉のまま。快楽の海に溺れた。瞼の奥に焼き付いているあの人と龍麻の残像を振り払うかのように。この腕の中に僕は溺れた。
「…あ…あぁ…」
溺れた先に何も残らなくても。何も生み出さなくても。それでも今だけは。今だけは、全てを忘れたいから。
「忘れろよ、壬生」
涙が、零れ落ちた。それが快楽の為なのか、哀しみの為なのか僕にはもう分からなかった。

背中の爪痕が、こいつの心の傷のようで少しだけ痛かった。
「俺に身体を差し出したのは、口止め料だと思っていいのか?」
わざとふざけたように言ってみた。この先互いに残るのが罪悪感だけならば、それだけならばそれはあまりにも淋し過ぎるから。
「…それで、いいです…」
お前は相変わらず儚く微笑った。その場凌ぎの慰めではお前の心は癒されないだろう。分かっている。それは俺自身が嫌と言う程に分かっている。それでもお前を抱いたのは。抱いたのは…俺も心の何処かで癒されたかったから?
「村雨さん、ありがとう」
ああ、俺も癒されたかったんだ。お前を抱く事で俺は胸に渦巻く想いを抑えたくて。心にブレーキをかけたくて。だから。
「礼はいらねーよ。俺はお前の気持ちを利用したんだから」
「…それでも今…僕は独りでは…いられなかった…」
それは俺も同じかもしれない。今独りでいたら俺は。俺はあいつの事を考えてしまうから。…あいつの、事を…考えてしまうから……
どんなに見つめても、触れる事の出来ない相手。どんなに想い続けても、告げられる事の出来ない相手。どんなに、どんなに愛しても。
「俺も、独りでいたくなかった」
決して俺の手の、届かない相手。

冬になれば椿が咲くなと、思った。
その花をお前に渡したら…お前はどんな顔をするのか?
微笑ってくれるのか?それとも驚くのか?
どちらでも、いい。お前が『人間の表情』を見せてくれるのならば。

永遠に想いを告げられない、相手。

何時ものように俺はその門の前に立った。何時もの通りに。それは永遠に繰り返される儀式のように。俺が俺以外のものになれないのならば。それ以外のものになれないのならば。
俺は永遠にこの門をくぐり続ける事になる。でもそれは。それは俺自身が、望んだ事。
「村雨、どうしたのですか?」
門をくぐって玄関に立った瞬間、その声は俺の耳に届いた。そっと耳元を擦り抜ける、その声。俺は。俺は過去から今そして未来、この声を求め続けるのだろう。
「…芙蓉……」
その声に弾かれるように俺は顔を上げた。見上げた先のその顔が微かに驚愕の表情を作ったのは、俺の見間違えなのだろうか?それとも?
「いや御門は、いるか?」
それとも本当に、驚愕の表情を俺に向けてくれたのか?
「晴明様はお出かけです」
まるで機械のように話す、お前。何時も聴かれた事だけを答える『人形』。それでも、俺には。俺にとっては何よりもかけがえのないもの、だから。
お前の作り物の命が、偽者の身体が。俺にとっては唯一の真実だから。
「…そうか…芙蓉……」
このまま手を伸ばして、そして抱きしめたら。抱きしめたら、お前はどんな顔をする?何も変わらないのか?それとも少しは驚いてくれるのか?
そんな事を考えてしまう自分が嫌だった。そんな事をしても、どうにもならない。お前は式神。御門の式神なのだから。
「…はい……」
作り物の身体、作り物の心。その身体に紅の血は流れていない。そして鼓動は聞こえない。けれども、けれども俺には。
…お前の命が、聴こえるから……。
「…あの…村雨……」
「何だ?芙蓉」
「晴明様はいませぬけど…部屋に入りませんか?ここは寒いですよ」
「…芙蓉……」
抱きしめたいと、思った。このまま抱きしめて、自分だけのものにしたいと。でもそれは。それは出来ない。御門の式神。命の無い身体。この気持ちを告げた所でどうなるものでもない。どうにも出来ない。
お前は未来永劫、御門の式神だ。御門のものだ。どんなに望んでも、俺はお前を手に入れられない。どんなに俺が想い続けても、決して手の届かない相手。
「入らぬのですか?」
「いや入るよ、茶でも入れてくれ」
…御門から俺は、お前を奪えない…。

螺旋のように巡る想いに、幾千の時を支配された。
お前を手に入れたいという想いと。
お前を奪えないという想いと。
それに永遠に葛藤し続け、こうして何処にも進めずにいる。
自分のエゴだけでお前を奪えば、きっとお前は許されない。そして俺も許されない。
お前の優しさが、好きだ。作り物の身体に芽生えたその優しさが。
俺はお前に芽生えた命の音を消したくはない。だから。だから、俺は。
…俺のこの想いだけで…お前を…奪えない……

私は何処かで待っていた。
貴方がここを訪れるのを、心の何処かで。
門の前に人の気配がする度に貴方ではないかと、そう思って。
そう思って何時も見に行ってしまう。
自分でも馬鹿な事をしていると、思った。
でもそう思う事自体が、私にとってありえない事の筈なのに。
ありえない事の、はずなのに。

私は自分でもよく分からないものに支配された。自分が教えられてきた事全てを無にしてしまったような、そんな感覚だった。
私は、式神。晴明様の為だけに存在する、偽りの命。けれども。
「どうぞ」
けれども私は、今この人に暖かいお茶を入れてあげたいと思った。寒くないかと心配をした。私は晴明様以外の人の事を考えた。
「ありがとよ」
私の手からお茶を受け取って、貴方はそれを一息に飲み干した。そして私に向かって笑う。その笑顔をずっと、見ていたいと…思った…。
私に存在しないはずの…存在しないはずの胸の鼓動が、とくんとくんと耳に響き渡る。そんな訳は無いのに。そんな筈はないのに。それなのに、確かに私の耳にその音は届いた。
「美味しかったですか?」
こんな質問をしている私は一体何者だろう?与えられた事だけをしていればいい私にとって、質問などありえないはずなのに。でも、聴きたくて。貴方の答えが聴きたくて。
「美味かったぜ、芙蓉」
また笑った。その笑顔が、私の名を呼ぶその声が。私を式神としての機能を狂わせる。私の何かを…狂わせる。
…私は…私は…一体…何者なのか?

手を伸ばせば、触れられる距離にある。
もしもこの指先を重ねてしまったのなら。
その細い指先に。その冷たい、指先に。

「…椿…」
「え?」
「お前は椿が好きなんだよな」
「…どうしてそんな事を?……」
「いやお前に…椿が咲いたら見せてやりてーなって思っただけさ」

指を重ねて、そして引き寄せて。抱きしめたなら?

「…どうして…覚えているのです?…」
「え?」
「…私が椿を好きな事を……」
「覚えているさ、忘れねーよ。お前が初めて『好き』と言ったものを」
「でもそれは…昔の話…貴方が生まれる前のずっと遠い…」
「遠くはねーよ。俺には。俺には昨日よりも近い、お前の言葉は」

優しく微笑う、貴方の腕の中に。もしも。
もしも貴方のその腕の中に。
その腕の中に飛び込んだ、なら?

「…村雨…もうお帰りなさい……」
飛び込める訳なんてない。私は晴明様の命令以外で動いてはいけない。いや、動ける筈が無い。私には意思がないのだから。私には心がないのだから。私、には。
…私には何も…ないのだから…。
「どうしてだ?」
尋ねてくる貴方の質問に私は答えなければならない。けれども。けれども答えられる訳がない。だって理由などないのだから。貴方が帰らなければならない理由など、何一つ。何故ならば。
「………」
何故ならばそれは、私の無いはずのこころが。こころが揺れている、から。
どうしようもなく、私の気持ちが溢れているから。そして。
「…芙蓉…もしも…もしも俺が御門を裏切ったなら…お前どうする?」
そして貴方はそんな私を見透かすかのように。今一番答えられない質問を私にしてきた。
その答えに私は即答、出来なかった。迷わず答えねばならなかったのに。
迷わずに私は晴明様を選ばなければならないのに。それなのに。それなのに、どうして戸惑ってしまうの?どうして、その名を告げる事が出来ないの?

…もしも俺が…御門からお前を奪ったなら?……

許されるはずは無い。許されるはずが無い。
そして叶うはずなどないのだ、この想いは。
お前は全てが御門のものだ。御門だけのものだ。
けれども。けれども…俺は……

『…貴方の方が…可愛そうだ…』

可愛そうなのか?俺は。告げないお前と、告げられない俺と。
…どちらが、不幸なのか?…
ならば、俺は。俺は…

許されるはずは無い。許されるはずが無い。
この芽生えたあるはずの無い気持ちは。このこころは。
私の全ては晴明様のものだ。晴明様だけのものだ。
けれども。けれども…私は……

『やるよ、お前に』

最期の一輪の椿の花。
貴方の手の中で、貴方に護られて咲いていた。
一輪の、椿の花。
…貴方だけが…私にくれた…もの……。

「…芙蓉…」

その瞬間、何かが壊れた。何かが弾けた。
互いに見つめたものが同じだと。同じだと気付いた瞬間に。
その見つめた先のものが、同じ想いだと気付いた瞬間に。
今までふたりを遮っていた重たく硬い壁が崩れ落ちた。
それがどんなに許されない事であろうとも。
…互いの見つめた先が、同じだったから……

その手を取り、俺は彼女の作り物の身体を抱きしめた。
それは暖かい身体、だった。
命の音がする、暖かい優しい、身体だった。
ずっと触れたくて。触れたくて触れたくて。そして触れられなかったもの。
それを今。今俺はこの腕の中に抱いた。
微かに香る椿の香りと共に。俺は許されない罪とともにお前を抱きしめた。

「…む…村雨?……」

腕の中に、包み込まれた。逞しい腕。力強い腕に。
その途端。その途端どうしようもない程、苦しくなった。
…苦しい?……
これが苦しいと言うことなのか?これが切なさと言うものなのか?
この込み上げてくるもどかしいほどの気持ちが、それならば。
私は、私は狂ってしまいたいと思った。

「…芙蓉…俺は……」

俺は不幸になろう。何処までも、不幸に。愛する女を手に入れる為に。
愛する女を傷つけて。愛する女を苦しめて。
誰よりも大切に、誰よりも護りたいとそう思っていた女。
おまえを傷つけたくなくて苦しめたくなくて、永遠に見つめるだけだと。見つめる事しか許されない女だと。それでも。
それでもお前の瞳が俺を映してくれるのならば。お前の視線の先に俺があるのなら。
俺は、俺はこの自分の全てを壊してでもお前を。お前を手に入れたい。
…でもお前は…傷ついて…苦しんでくれるのか?……

「…愛してる……」

それだけを告げて、その唇を塞いだ。柔らかい唇、暖かい唇。その何処が、作り物だと言うのか?その何処が、偽者だというのか?
この腕の中で震える身体が。震える睫毛が。この何処が、作り物だと言うのか?
「…芙蓉…ずっと…お前だけ……」
この命の鼓動が、聴こえないとでも言うのか?このお前の命の、音が。

私は、彼の唇を拒めなかった。そして。
そして気付いた時には、私は彼の背中へと腕を廻していた。
その広い背中に、腕を廻していた。必死に。必死に貴方へとしがみ付いた。
離して欲しくなくて。このままずっとこうしていて欲しくて。ずっと、ずっと。
…このまま貴方の腕の中に…いたくて…私は……
自分の意思で。自分の想いのままに。
…私の『こころ』の命じるままに……

「…村雨…暖かい……」

窓の外から、細かい雨の音が聴こえた。
ぱらぱらと遠くから、聴こえた。それは。
それはまるで命の音のように。
命の、鼓動のように。



End

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