桜の、森・5


<前世編 3 椿の章>


僕では、貴方の心を埋められないですか?
貴方の心の空洞を、埋める事は出来ないのですか?
生きる意味を失くしてしまった貴方の、そのこころを。
こころを埋める事は、僕には出来ないのですか?
…どうして僕は…僕はこんなにも無力なのだろうか……

『…椿の花が、好きです……』
呟くように、ぽつりとお前が言った。それはお前にとって何気ない一言だったかもしれない。けれども。
けれども心の無いお前が初めて、自分から。自分から好きだと、そう言った。
だから、俺は。俺は。
…俺は…椿の花が、欲しかった………

降り続ける雨は、止む事はなかった。線のように降り続ける雨。その音だけが静かな室内を埋めた。
「こんな雨の日に出陣なんて、ついていないな」
如月は苦笑混じりに呟くと、目の前に立つもみじをそっと抱き上げた。柔らかいその感触が、ひどく如月を落ちつかせる。指に馴染むその、感触が。
「…にゃあ……」
…不思議と眠れない夜が、無くなった。前まではよく綾乃の夢を見て夜中目覚めると言う事があったのに。ある日突然それが、無くなった。
綾乃の夢を見なくなった。綾乃を思い出してひどく胸が痛む事も。ひどく苦しくなる事も。どうしてだろう?どうしてなのか?そう考えても、答えは思いつかない。ただ。ただ、何かが自分の心の奥底に染み込んで、それが自分の足りない何かを埋めた。けれども。けれども、自分にはそれが何なのか分からない。考えようとすると思考が霧のようなものに包まれて、拡散していってしまう。そして永遠に、答えが出ないのだ。
…こんなにも自然にそして、胸の奥までも染み込んでいるものなのに。
「…行って来るよ…もみじ……」
ただひとつだけ、気付いたことがある。この小さな生き物の漆黒の瞳。哀しい程に綺麗なその瞳。これを見つめると何故か、何故かひどく苦しくなるのだ。
理由など分からない…ただ、ただ苦しくて切なくなる。胸を、掻き毟られる程に。
…これは一体…何処から来るのか?……

ささやかな願いの代償は、『死』。
それでも僕の身体は滅びなかった。
あの夜は一期一会の幻だったのに。僕の肉体は滅びなかった。
『人間として生きようとすれば、死が待っているだけ。こんな風に』
そう言って何よりも強く何よりも綺麗に僕に告げたそのひとの顔を思い出した。
それでも僕はまだ、生きている。
貴方への想いがそうさせるのか?貴方への未練が僕を死なせないのか?
…貴方への…この愛が……

貴方がここへ帰ってくるまで、僕は生きていられるのでしょうか?
もしも僕が死んだら、少しは貴方は哀しんでくれるでしょうか?
少しは、哀しんでくれますか?
…僕は間違っていたの、かな?……
このまま貴方の飼い猫のままで、ずっと貴方の傍にいれば。
少なくとも貴方を独りには、させなかった。
けれども。けれども、僕は。
僕はどんなになっても…貴方の笑顔が見たかったから…。
何時ものように優しく微笑って、僕を抱き上げてくれれば。
そっと頭を撫でてくれれば。それだけで、幸せだったから。
…如月、さん……

猫が人間に恋したなんて…バカげた話ですよね……

雨は止む事は、無かった。まるで天が泣いているように降り続ける、雨。
「戦ですか?村雨様」
雨に煙る、景色。全てが歪んでいる。でもそれは今のふたりには何よりもお似合いなのかもしれない。歪んで煙る景色が。
「ああ、俺も所詮は主のコマさ。命令があれば戦わねばならんだろうが」
「気をつけて、いってらっしゃいませ」
当たり前の会話。夫婦の会話。でもその中にどれだけの真実が含まれている?どれだけの想いが、含まれている?
「その言葉、本気か?綾乃」
「本気ですよ、だってその戦には緋勇家も関わっていますもの」
「…ふん、緋勇家ね…お前の惚れてる男が出陣でもするのか?…」
「はい、だから貴方様は死なないでください」
ふたりを結ぶ絆は、綺麗なものでは決して無い。それは『愛』と言う名の美しいものではない。それでも。それでも互いの絆は結ばれている。深い場所で、ひっそりと闇に包まれて。
「死んで欲しくないのは俺ではなくてその男だろう?」
村雨の言葉に、綾乃は無表情のままその唇を塞いだ。抱いている時ですら、この女はあまり表情を崩さない。何時も人形のように同じ冷たい顔をしている。その燃えるような瞳以外は。焼け付く程に熱い、その瞳以外は。
「…行ってらっしゃい、村雨様……」
それでいい、と思う。自分が生涯を添い遂げる女ならば。それがいい。互いに愛せないのならば、それぞれが心の思うままに生きればいい。互いの心の求めるままに。
愛なんて優しい偽りのものに身を、預けるよりも。例え穢れた絆であろうとも、それが真実ならば。
「行ってくるぜ、綾乃。お前の為に生きてやるよ」

お前が自分の心のままに、生きてゆく為に。
そして俺が、俺が自分の心のままに生きる為に。
互いの穢れた絆を、護る為に。

私はこの男が好きだった。愛ではない。愛とは違う。けれども好きだった。
互いに求めるものが違う。互いに愛する者は違う。
それでも。それでも私達には確かに絆が存在していた。冷たくて強固な一本の絆が。
穢れた闇色に染められた、真実の絆が。
…その絆が、ふたりを結んで離さなかった……

振り続ける雨が、椿の花びらを散らして行く。ひらひらと。一面に咲いていた椿の花びらを。むせかえる程の甘い匂いのするこの庭が花びらの屍骸で埋もれてゆく。
「何を見ているのです、芙蓉?」
まるで戦で死んでゆく人々のように、それは無数に降り積もってゆく。ひらひらと、ひらひらと。
「…晴明様……」
御門の手によって乱された着物を整えながら、芙蓉は感情のない瞳でそう答えた。血も命もない作り物の身体。けれどもこの腕で抱いてやれば、その唇からは快楽の吐息を零す。冷たい身体に、熱が灯る。
「外を、見ていました」
見上げた先には自分の絶対の支配者。逆らう事の出来ない…いや逆らうと言う言葉を知らない。自分には必要の無いものだったから。
「まだ雨が降っているのであろう?」
御門は後ろから芙蓉の身体を抱き寄せると、先ほどまで指を滑らせていた肌に再び触れる。その度に色のない芙蓉の肌が、少しだけ紅く染まる。
「…あっ…晴明様…もう…行かねばなりませぬ……」
少しだけ息を乱しながら言う芙蓉に、御門はそっと身体を離した。その瞬間、廻りを包んでいた甘い空気が一瞬にして何処かへと飛び去る。そして。そして何時もの冷たい支配者の顔へと摩り替わって、芙蓉を見下ろした。支配する者とされる者へと。そして。
「ああ。いくぞ芙蓉」
「…御意に……」
そして芙蓉も、ただの式神へとその表情を戻した。
御門に仕える、御門を護る為だけに存在する偽りの命に。偽りの身体に魂を宿らせて。

このまま椿の花は、なくなってしまうのだろうか?
雨に討たれて、何もかもが…無くなって…しまうのだろうか?
そっと、手に取った。一輪の花を。唯一雨に打たれて散らなかったその椿の花を。
たったひとつ、残ったその小さな命を。
『…椿の花が、好きです……』
お前の一言一言が、俺には今現在の言葉だから。だから俺は。
お前にこの花を。この椿を、やりたい。

…そうしたらお前は、微笑ってくれるか?……

貴方を、捜した。貴方の後を、追った。
もう多分僕はもうじき死ぬだろう。それならば。
それならばせめて、貴方の姿を最期に瞳に焼き付けたいから。
僕の瞳に映る最期の映像が貴方の姿でいてほしいから。だから。
だから貴方を、捜した。一生懸命に貴方を、追いかけた。
この瞳に貴方を、焼き付けたくて。

「…何だてめーは……」
自分の後ろを付いて来る一匹の猫に、村雨はめんどくさそうに振り返った。この雨にずぶ濡れになりながら、途中で何度も雨に足を捕らわれながら。それでも小さな黒猫は、自分の後を付いて来ている。まるで意思があるかのように、自分の後を。
「餌でも恵んで欲しいのか?」
仕方なく懐から食料を取り出して差し出したが、その猫は見向きもしなかった。ただ黒い瞳を見上げて。その漆黒の瞳で村雨を捕らえて。視線を一瞬でも外そうとはせずに。じいっと自分を見上げている。
「…戦いの場所に…行きてーのか?そこにお前の飼い主がいるのか?」
馬鹿みたいな質問をしていた。猫に通じる訳が無いのに。でもその真っ直ぐな瞳が何故か村雨にその言葉を言わせた。そして。
「にゃあ」
そして村雨の質問にその猫は答えるように、ひとつ鳴いた。もしかしたら本当に自分の言葉が通じているのかもしれないと…そんなバカげた考えが脳裏に浮かんだ。だから。
「…来るか?…」
手を差し出して、その猫を抱き上げた。すんなりと腕の中にその小さな物体は収まる。そして。その言葉に頷くようにまた、猫はひとつ鳴いた。

あの人は今、何処で何をしているのだろう?
…翡翠……
その名を呼んでも、もう貴方は遠い。遠すぎてこの声は届かない。貴方が、遠すぎて…。
独りでいるのがこんなにも辛いとは思わなかった。
独りでいるとあの人の事ばかり考えてしまう。そんな自分がいやだから。いやだから、考えないように。考えないように。
…考え…無いように……
それでも浮かんでくるのは貴方の顔ばかり。幼い日、あの紅の夕日の下で指を絡めた、絡めたあの日の貴方の真っ直ぐな笑顔ばかりが。
「…翡翠……」
雨は止みそうにない。何処までも何処までもけぶる景色。あのひとの、雨。水はあのひと、だから。
「私達随分と遠いところまで、来てしまいましたね…」
幼い日の約束は、指を絡めてした約束は。何処へ行ってしまったのか?何処へ消えてしまったのか?
あの夕日の中を無邪気に駆け抜けた日々は。何時も貴方の後だけを付いて行った日々は。貴方の背中だけを無心に追いかけていた日々は?
「あの頃は私、貴方が傍にいない日が来るなんて考えもしなかった」
夕日は永遠に紅と信じ、太陽は何時までも私の後を付いて来てくれると。そう、信じていた。この世界に終わりが来るなんて、考えもしなかった。世界の終わりが、来る事を。
「…貴方が…いない時間なんて……」
ここには、貴方がいない。貴方がいない場所など私のいるべき場所じゃない。
ここは、私のいるべき場所ではない。
…気付いた時には、私は駆け出していた。雨に濡れるのも構わずに。ずぶ濡れになるのも構わずに。貴方を、捜して。自分の居場所を、捜して。
今私が今いるべき場所はここではないと。私がいるべき場所は、ここじゃない。ここではない場所へ、ここではない何処かへ。
…ここではない何処かへ、ゆきたくて……

血の海の中に咲く、椿の花。
俺は全てを忘れてその花を掴んだ。
腕から零れてしまった最期の花を取り返す為に。
血の海の中を渡って。渡ってそして拾い上げる。
お前に渡す為に。
椿の花が好きだと言ったお前に、渡す為に。

俺がその場に辿り付いた時、あの猫の姿が消えていた。その時になってこの前思った事が事実なんだと、悟った。飼い主を捜す為だけに、自分の後を付いて来た事に。
誰かに話したら、バカげてると言われるかもしれない。それでも確かにあの猫はこの戦場に飼い主を捜しに来たのだ。
「村雨…遅かったな」
そんな考えを絶ち切るかのように、声が降って来た。絶対的な支配者の声で、この男は言った。俺にとって永遠の螺旋の想いの片翼を担う男。俺の迷い込んだ森は、お前に支配されている。
「…すまねーな、御門…」
相変わらず御門は無表情だった。感情のない男。けれどもこいつは我が主秋月家を守護する陰陽師御門家の当主。その力は、秋月様の絶対の信頼を得ている。そして。そして…。
「こんばんは、村雨」
何時も必ず御門の傍に寄りそう女。いや正確には女ではない。お前には血も命もないのだから。御門の式神。御門を護る為だけに存在する命。そして。そして俺の運命の片翼の持ち主。巡りめくるこの想いは全て。全てお前に通じている。この螺旋の想いは。全てお前に通じている。
「芙蓉」
俺は知っている。お前がそっと微笑うのを。本当に静かに、はにかむように微笑むのを。俺は知っている。…俺は…知っている……
「やるよ、お前に」
そう言って無理やり手を取って、その上に椿の花をひとつ置いた。雨にさらわれなかった最期の一輪をお前に。血の海から救い出したその一輪の花を。お前に。お前に、やりたかったから。
「…村雨…これは……」
少しだけ、ほんの少しだけお前の顔が変化する。こんな些細な変化ですら、俺には大切なものだった。俺には何よりもかけがえのないものだった。
俺にとって、永遠に手に入る事の出来ない女。想いを告げられない女。
…誰よりも近くにいて、そして誰よりも遠い女。
俺が唯一、欲しかったもの。それはお前だ、芙蓉。俺はお前だけが欲しかった。
「ありがとう、村雨」
そんな顔を、しないでくれ。そんな風に、微笑まないでくれ。
何よりも見たかったはずのお前の笑顔が、何よりも今は辛い。お前が御門のものだと言う事実が、その事実が胸を抉る。その事実が俺の全てを、壊す。
「…いや礼を言うよーなモンでもねーよ……」
それでも…それでも俺は、この笑顔が見たかった。お前の本当の顔を。お前のその優しい笑顔を。お前に心があると実証するその瞬間を。
「…ありがとう……」
お前が未来永劫俺のものにならなくても。それでも俺はお前を愛している。

冷たい雨が、この心にはひどく心地よかった。剥き出しのこころには、この冷たい雨が。
このまま雨に打たれて、死んでしまうのもいいのかもしれない。私の居るべき場所が見つからないのなら、このまま死んでしまっても構わないと思った。
そんな風に思ってしまう私は、やっぱり弱くなっているのだろうか?
「…翡翠……」
…貴方の居ない時間に慣れてしまった事が…貴方が傍にいない事が当たり前になってしまった事が…その事実を受け入れてしまっている私が。
そんな私がいやだった。そんな私は殺して、しまいたかった。
子供の頃の、あの約束だけを信じていた私に戻りたかった。あのままの無邪気なままの私に。時を止めて。時を遡って。
雨の音が、雨の音が聞こえる。遠くから、近くから…小波のように。そして。そして…
…その中から聞こえる…泣き、声?
私はその聞き覚えのある声の元へと無意識に駆け出していた。

幼い子供の私を、捜して。
紅の夕日の下、貴方と交わした約束だけを信じていた。
綺麗な未来だけを夢見ていた、あの頃の私を。
桜の森の下に置いてきた私を。私を捜す。
けれどもあの森は、あの桜の森はあまりにも遠すぎる。
もう何処にも、戻れない。幼い私は何処に、いるの?

その姿を見つけた瞬間、全ての器官が凍り付いた。ぞくりと背筋から沸き上がるどうしようもない程の不安と、消失感。
「…京一…何故…これは?……」
雨に打たれながら、その小さな身体はすっかり血の気無くしていた。身体中痣まみれで、そして無数の傷が彼の身体中に散らばっている。
「京一っ?」
名前を呼んで、みる。けれども彼は答えない。あの時の無邪気ででも意志の強い瞳を自分へとは向けてくれない。太陽の日差しのようなあの瞳を。
「京一?!」
身体を揺すってみる。けれども反応はなかった。ただ、ただ胸の鼓動が微かに聴こえるのがそれだけが。それだけが唯一の命のしるし。それだけが唯一の。
「…京一…っ」
その冷たい身体を抱きしめて、私は無我夢中になって駆け出していた。
さっきまでは死のうかなと思っていたくせに。さっきまで死んでもいいと、思っていたくせに。
私はこの腕の中の命を救いたくて必死になっていた。この子を救いたいとそれだけを思っていた。この子を…護りたいと…
護りたいと、護りたいと…ただそれだけを…思っていた……

駆け出す、私。貴方を追いかけていた時のように。
無我夢中で。必死になって。
そして気付いた。私は『ここ』にいると。
捜していた子供の私は今、今ここにいると。
幼い京一の命を救いたくて必死に駆け出している私は。
紛れも無くあの桜の森に埋めてきた私だった。

…血の、海。そこに貴方が、いた。
僕は迷うことなく、貴方と共に死のうと。
…そう思った……

積み重なってゆく無数の屍。むせかえる程に匂い立つ血の海。死は自分達の後ろに、背中合わせに存在する。隙を見せればすぐにそれは口を開けて襲ってくるだろう。
「…死か……」
呟いてみた声の予想外の冷たさに、自分が死を恐れていない事に気付いた。死ぬ事は怖い事なのか?そう自問自答してみて、首を横に振った。
死が怖いのは自分自身の存在がこの世から消滅してしまうからだ。自分自身が消えて無くなってしまうからだ。けれども。けれども、僕は。
自分の存在が消えてしまう事を怖いとは思わない。それどころか、それどころかそれを心の何処かで望んでいる気さえしている。
僕の存在自体が消えたなら、綾乃…君を縛るものは何も無くなる。
僕との幼い日の約束も。僕の君への想いも。その全てが消滅する。そうしたら。そうしたら君は、自由になれる?
もしかしたら、二人を結ぶ約束は。逆にふたりを縛り付けていたのかもしれない。
僕達はもっと違うものになれたかもしれないのに。
僕は君との約束に拘り過ぎて時を止めてしまった。そして君は僕との約束だけを信じて他のものに目を向けようとはしなかった。
…もしかしたら君との約束が…互いを不幸にしていたのかも…しれない……。

好きと言う気持ちだけでは、どうにもならないと分かっていても。
それでも、それでも。
貴方が、好きだから。大好きだから。
そのさらさらの髪も、優しい瞳も。柔らかい眼差しも。暖かい腕も。
その全てが何よりも大好きだから。
何よりも、大好きだから。貴方が、大好きだから。

何処にいても、僕は君を見逃したりはしない。

無数の矢が自分達の方向に降り注ぐ。それを必死で掻い潜って岩場の影に隠れた。
「敵も…やりますね」
「ああ」
形成有利と見て一気に流れに乗ろうとしているのか。そんな事を考えながら如月は部下の言葉に生返事で答えた。
この戦いに勝たねばならぬのに。生きて帰る事だけを考えなければならないのに。自分は違う事を考えてしまう。これではいけない。生きて帰る事だけを、考えなければ。生きて、帰る事だけを…。
…その時、だった。その瞬間、だった。
如月の視界に小さな黒い物体が飛び込んできたのは。間違えよう筈の無い、小さな。小さなその命が。そして。

「もみじっ?!」

そして如月は部下の制止の声も聞かずに、その場を飛び出した。
何も、何も考えられなかった。自分が生きなければならない事も、死にたいと思った事も。
何も何も思考からは消えて。ただ。
ただその場から駆け出した。その小さな命に向かって。

むせかえる血の海の中で、貴方を見つけた。
何処にいてもどんな所にいても。
僕は貴方を見つけ出すから。貴方を捜し出すから。
綺麗な真っ直ぐな背中。何時も前だけを見つめている視線。
貴方は何時でも何時でも、痛いほどに真っ直ぐだから。

その視線の先に貴方が、何を見つめていても。

声は風にかき消される。雨に降り落される。
無数の矢の雨が、ふたりを遮る。
差し伸べる手が、差し出した手が。
ふたりを結ぶその前に。
矢の雨が、ふたりを遮断した。

僕が人間だったら…もしも僕に貴方を護る腕や足や身体があったなら。
僕の全てで貴方を護るのに。
貴方を貫く身体の矢を全て僕が受け止めるのに。
僕が貴方の痛みを全部…受け止めるのに…
神様どうして僕は、猫なんですか?
どうしてこんなちっぽけな身体しかないんですか?
これじゃあ…貴方を…護れない。貴方を…護れない…
神様もう一度だけ、もう一度だけ僕を人間にしてください。
もう一度だけ、僕に力をください。

「…如月さんっ!……」

ぼろぼろの、身体。命が在るのが不思議なくらいの。
声が出るのが不思議なくらいの身体。それでも今僕には手がある。足がある。だから。
だから僕は貴方の盾になる為にその身体に抱き付いた。
最期の、僕の命の炎を貴方に。貴方に捧げたくて。

「…くれ…は?……」

腕の中に飛び込んできたその存在に、自分は迷わずにひとつの名を呟いた。
何も知らないはずなのに。何も分からないはずなのに。その名前は。
その名前はひどく自然に口許から零れ落ちた。そして。
そして、気が付いた。自分にとって、自分にとってこの腕の中の存在が。その存在がどんなに愛しいものかと。だから、僕は。
僕は君の小さな身体を包み込んで、降り注ぐ矢の雨を全て受け止めた。
君の、この腕の中の小さな命を護る為に。この腕の中の、命を。
…今…気がついた…約束に縛られていたのは、自分の方…だったのだと……。
あの紅の夕日の下で、交わした約束に縛られていたのは。他でもない僕自身だったんだ。

…飛水流でない僕の意思は…今ここにあったのだと……

不思議と恐怖はなかった。ただ静かに訪れる『死』への瞬間を待っているだけだった。
視界が霞む。意識がぼんやりとしてゆく。痛みを痛みと感じなくなる。
…ああ僕は…僕は死ぬんだと…思った……。
このままこの大地の土になるのだと。このままこの地に溶けてゆくのだと。人は何時か死ぬ。それがたまたまこの戦場だっただけだ。
「…あや…の……」
腕の中の命の鼓動を感じながら、僕は違う者の名を呼んだ。瞼の裏に浮かんできたその泣き顔に対して、心の中で詫びながら。
…さよなら…綾乃……
死の間際になって浮かぶのは、君の泣き顔だ。小さな君の、君の泣き顔。
幼い頃紅い夕日の下で、夕日が怖いと泣いた君のその顔が。
僕の死ぬ瞬間の最期の映像なのかと思うと、それが僕の贖罪なのだと思った。
君が好きで、君が大事で、君を護りたくて。それだけの為に生きてきた。それたけの為に自分は存在した。そう、信じていた。それだけが僕の生きる意味だと。でも。
…でも…本当は……
綾乃僕は、君を愛せなかった。
君が望むように君の想いを受け入れられなかった。そうだ僕は、君を愛せない。
こんなに大事なのに何よりも誰よりも大切なのに…僕は君を愛せなかった。君よりも護りたいものなど、君よりも大事なものは他にないのに。
…君の愛を僕は受け入れられなかった……
独りの女として君を愛してさえいれば、こんな事にはならなかった。君が泣く事も。僕らがこうして離れ離れになる事も。僕が君を愛してさえいれば。
だからこれは僕の贖罪だ。僕の罪だ。僕の…君を苦しめた僕の……
「…あ…やの……」
霞む意識の中、君に謝りたくてその名を呼んだ。けれどもそれ以上自分は言葉を発する事が出来なかった。

僕が約束に縛られていなかったなら。
僕が心の時計の針を進めていたのなら。
ふたりはもっと。もっと違うものになっていた。
君が泣くこともなかったかもしれない。
…君が、泣く事が……

やはり貴方は、最期までその名を呼ぶのですね。
分かっていた事だけれども、やはり少し胸が痛い。
僕では駄目な事は分かっている。
貴方の心は綾乃さんだけを求めているから。
それでも、僕は…
ごめんなさい、綾乃さん。
僕はそれでもこのひとの傍にいたいのです。
最期の時までこのひとの。
…このひとの傍に…いたいんです……

如月の頬に雫がひとつ、零れた。

また、君は泣いている。
最期の最期まで君は泣いているんだね。
泣くな、僕は君のそんな顔を見たくはない。
見たくは、ない。

『…紅葉……』

自然と零れるその響き。頬に零れる暖かい涙。その全てが。
その全てが僕の空洞を、こころの隙間を埋めてゆく。
そして全てを満たして。溢れ返る程に、僕のこころを満たして。
…君が…君が…僕の全てを埋めてくれた……

…今…分かった……。
僕が綾乃、君を愛せなかったのは。愛せなかったのは…。

最期の最期になって、僕は真実を手に入れた。
今まで霞みのように掴めなかったぼんやりとした記憶が。その記憶が。
死という代償と引き換えに僕はそれを手に入れた。

何時も僕を見つめていた瞳。僕だけを見つめていた瞳。
言葉などなくても伝わるその気持ち。
何時も何時も僕のそばで…僕だけを…見ていてくれた……

…もみじ…お前が…『紅葉』なんだね……

この腕の中にいる小さな命を護れた事が。自分の全てで護れた事が。
こんなにも僕を満たしてゆく。ああ、僕は君を愛している。
こんなにもこんなにも、愛している。このかけがえの無い命が。この命の鼓動が。
僕にとっての唯一の…たったひとつの真実だったんだ……。

「…あ…や…の………」

すまない…すまない…僕は死の最期の瞬間に…紅葉…君の瞳を思い浮かべている…
その綺麗で哀しい漆黒の瞳を。
…紅葉…君の…その泣き顔を思い浮かべている……

君の哀しい程に、綺麗な瞳を。その瞳、だけを。

僕の飛水流の鎖を解いてくれたのは他でもない君だった。
君だけが、君の瞳だけが。
僕を自由にしてくれた。僕を『僕自身』にしてくれた。
ありがとう、紅葉。
そして、愛している。

…君だけを…愛して…い…る……

「…如月さんっ?!」
抱きしめてくれた腕がずるりと、落ちた。
暖かかった身体が、ひんやりと冷たくなる。
そして。そして、もう。
貴方の鼓動は、聴こえない。

『…あ…や…の………』

それが貴方の最期の言葉、だった。
最期まで、貴方は綾乃さんの名前を呼びつづけた。
僕だけが聴いた、貴方の最期の言葉。
「…如月さん…どうして…どうして僕を庇ったのですか?……」
ぽたぽたと貴方の頬に僕の涙が零れ落ちる。僕は一度も貴方の前では微笑えなかった。何時も何時も泣いてばかりいた。
「…どうして…貴方には綾乃さんが…いるのに……」
貴方の全身にこびり付いた血が哀しくて、僕はその全てを舌で辿った。こんな事をしてもどうにもなるものではなかったけど。けれども僕にはこれしか出来ないから。
「…如月さん…今度生まれ変わったら…」
そして冷たい唇にそっと口付けた。冷たくても貴方の唇、だから。
「平和な時代に生まれて…そして貴方と綾乃さんが幸せになれるのを…祈っています…だから……」
貴方との、口付けだから。
「…だからその時が来たら…僕は貴方を護れるくらいに強い人間に生まれ変わりたい…。そして、そして…」

「…ほんの少しでいいから…貴方にとって必要な存在になりたい……」

…如月さん…そのくらいの我が侭…
貴方は許してくれますか?

…許して、くれると…いいな……。

何度も、何度も口付けた。
何時しか自分が猫の姿に戻っても。それでも。
少しでも暖かな温もりを与えたくて。
与えたいから、何度も。
何度もその唇に、口付けた。

…如月…さ…ん……貴方だけを…ずっと…ずっと…僕は……

柔らかい陽だまりの中で、貴方が微笑う。
心地よい風と、萌える緑の中で。
僕を膝の上に乗せて、頭を撫でながら。
穏やかに、優しく流れる時。
誰にも穢せない、誰にも触れさせない。
ふたりだけの、透明な時間。
何よりも、幸せだったあの瞬間。

あのまま全てを、閉じ込められたらよかった。

目覚めた瞬間、ぽたりと生暖かい雫が俺の頬に落ちた。その暖かさが俺の意識を覚醒させる。そして。
「…あ…やの?……」
そして視界に真っ先に飛び込んできた、その名を呼んだ。まるで子供みたいな顔で俺を見つめるその顔に。俺はその泣き顔が堪らなくなって、痛みに歪む身体を無理に起こした。
「良かった京一…よかった……」
その途端子供のように泣きじゃくりながら、俺を力の限り抱きしめた。少しだけ、痛かった。痛かったけれども、それ以上に。それ以上に嬉し、かった。
「何だよ…綾乃…子供みたいに泣いて…子供は俺の方だぞ」
子供みたいに泣きじゃくるお前が。無防備に泣くお前が。初めて逢った時からは想像も出来ない程に、喜怒哀楽を剥き出しにする綾乃に。
「バカ死ぬんじゃないかって私は…ばかばかばかっ!!」
本当に子供みたいに俺の胸を叩き付けた。まるで同じ年の女の子を相手にしいてるようなそんな感じだった。
「いてーよっ綾乃っ痛いってっ!!」
「バカバカバカっ京一のバカっ!!!」
と言って綾乃はまた泣き出すから、俺はしかたなくそのまま動くことが出来なかった。
子供みたいなお前の我が侭を、受け止める為に。

私は、子供みたいに泣いていた。子供みたいに泣きじゃくっていた。
声をあげて泣いていた。こんな風に泣くのは…幼い頃以来だった。
…私は何時から声をあげて泣けなくなったのだろう?
何時から私は涙を零せなくなったのだろう?
何時しか翡翠…貴方の前ですら、声をあげて泣く事が出来なくなっていた。
それなのに何故貴方の前では…こんなにも私は素直に泣いてしまうの?
こんなにも無防備に涙を見せているの?こんなにも簡単に?
「しゃーねーな。よしよし」
まだ幼い手が私の頭を撫でる。その手だけが大人びていた。表情や仕草は、全然子供なのに。その顔は生まれたての太陽みたいに、眩しい。
眩しい、太陽。強い日差し。私の闇に埋もれた心に差す唯一の光。唯一の、光。
「へへっでも綾乃って泣き顔も綺麗だなー」
貴方がいなければ私は、私はきっと闇に侵されていた。何もかもに絶望し、ただ生ける屍となって。ただ時を無意味に過ごしてゆくだけで。
「何バカな事を言っているのよ。それよりもどうしたの?その身体の傷は」
無数に受けた傷にそっと触れながら、私は尋ねた。その途端、貴方の表情が翳る。まるで雲に隠された太陽のように。
「…叔父さんと叔母さんにやられた…お前みたいな無駄飯ぐらいは出て行けって…」
ぽつりと呟くその言葉が。搾り出すようにするその告白が。私にとっては、とても辛い。
「京一、お父さんやお母さんは?」
とても辛い。貴方の顔が曇るのが。貴方の笑顔が消えるのが。貴方の無邪気な笑みを見られないのが。
「…戦で…死んだ…だから俺は叔父さんと叔母さん所に引き取られたけれど…でも…俺…」
…とても、辛い…まるで自分が受けた傷のように……
「…俺は…貰われっ子だから…だから働かなきゃいけなかった…けれども…」
何時しか私は貴方の身体をそっと抱きしめていた。まるで母親が自分の子供にするように。貴方を、抱きしめていた。この小さな、身体を。
「…けれども…俺…不器用だから…剣を振るうのな得意だけど…俺…だから何時もしかられてばっかりで…そして…昨日…」
途端に込み上げてくるどうしようもない程の愛しさ。ああ私は貴方を護りたいんだなと思った。まるで母親が子供にするように。この小さな命を。
「もういい、京一。もういいわ」
伝わる、心臓の鼓動が。とくんとくんと伝わる命の音が。何よりもかけがえのない音に聴こえる。
「俺…すげードジして…そしてついに出て行けって言われて…殴られた……いっぱい……」
私にとって貴方が、かけがえのないものになってゆく。
「…もう、いいから……」
何時しか京一が私の腕で震え出す。それでも泣かないようにと、必死で堪える姿がいじらしかった。
貴方は私に、訴える。私があの森に埋めてきたもの全てを、こうして暴き出す。
無垢な心で穢れのひとつないその真っ直ぐな心で。私の全てを暴いていく。
私がこころの何処かで捜していたものを。こころの何処かで求めていたものを。
…貴方はいとも簡単に私にそれを差し出した。私に剥き出しにさせた。
…愛しい…と、想った。貴方がひどく愛しいと……
そして、気付いた。私は。
私は無意識に貴方に、心を救われていたと。
私の闇に閉ざされた心を光ある場所へと導いたのは、貴方の無邪気な笑顔。
剥き出しの嘘偽りないその瞳。
…その瞳だけが…私のこころを救ってくれた……

椿の花びらが、その屍の上に落ちた。ひらひらと、その屍に花を飾る。
「…芙蓉?……」
蒼い月の下、お前はひとつの屍に俺の上げた椿の花びらを落としていた。ひらひらと花びらが、舞う。ひらひらと。
「村雨…この子が可愛そうだと…私は思いました……」
「この子?」
お前の言葉に俺はその屍に視線を巡らせた。そこには…あの猫が骨と皮だけになってその屍の横に眠っていた。
「こいつ…生きているのか?……」
「ええ、多分。でももう死ぬのでしょう。自らの主のもとで」
消えかけているその小さな命。でも俺には救えない。生きようと意思がないものを、救う事は誰にも出来ないのだ。
「可愛そうだと…想いました…」
ひらひら、ひらひらと。椿の花びらが降り積もる。柔らかく、そして哀しく。
降り、積もる。屍の上に、猫の上に。
「…猫…お前の形見代わりに…これ貰ってくぜ」
俺はそれだけを言うと、その屍が握り締めていた忍者刀を奪った。猫の飼い主が忍者とは、少しだけ妙だと思った。けれども。
けれどもだからこそ。だからこそこの猫はこんなにも主に忠実なのかもしれない。
「村雨…私は何処かおかしいのでしょうか?」
花びらを全て降らせて、そしてお前は振り返った。蒼い月の下でも硝子細工のように輝くその瞳。真実だけを映し出す、ただ映し出すだけのその瞳。
「…どうして?……」
その瞳に命の色を、感情の色彩を灯らせたくて。その瞳に、俺は。
「…いいえ…何でもありません…」
お前は一度だけ何か言いたそうに俺を見つめて。そして。そしてそっと目をそらした。

私はおかしいのでしょうか?
貴方を見た瞬間に…その胸に飛び込みたいと思ったのは……。
独りでいたくなくて。独りが怖くて。
…貴方のその腕の中に……。
そんな事ありえるはずがないのに。そんな風に思う事はありえる筈がないのに。それなのに。それなのに私はそんな事を思ってしまった。それとも。
それともこの猫の残留意思が、私をそうさせるのでしょうか?

…分からない…でも今は…貴方が傍にいてほしい……
貴方にそばにいて、欲しい。
他でもない貴方に。貴方にいてほしい。
…貴方がそばに…いてほしい……

ひらひらと、椿の花びらが風に舞う。
それは魂の鎮魂歌。
誰に聴こえるわけではない。誰に聴かせるわけではない。
それでも今ここでそっと、その旋律は流れ落ちている。

ひらひらと。ひらひらと。

最期に僕は甘い花の香りに包まれた。
柔らかく包み込む、花の香りに。
この香りに包まれながら、魂が。
魂が貴方の傍を漂えればと、思った。

…貴方の傍を…漂えたらな…と……

風が、吹く。椿の花びらがひとつ、風に舞った。
ひらひらと。ひらひらと。
それは最期の花の、鎮魂歌だった。





End

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