桜の、森・6


<現世編 3 雨の章>


お前の命の、鼓動。生きている証。
作り物ではないと。決して偽りの命ではないと。
…伝える、たったひとつの命の音……

頬に一筋の零れ落ちた涙が。その涙の暖かさが。
…俺に、伝えた。
これがお前の生きている、あかしだと。
お前の命の、あかしだと。

細かく降り積もる雨は、止む事はなかった。雨音だけが、ふたりの静寂を埋めた。
「…芙蓉……」
その髪に顔を埋めると微かに椿の香りが、した。その甘い匂いに全てを忘れてしまいたくなる。全てを忘れてただ。ただお前と俺だけになれればと。
何もかも全ての物が消えて、この世に二人だけになれたらと。ただ、ふたりだけに。
「…芙蓉…俺は…」
髪を撫でながらそっと。そっと自分の方へと顔を向けさせてそのままもう一度口付けた。お前は俺を、拒まなかった。拒まずに俺を受け入れた。ただ微かにその瞼を震わせて。震わせて、俺を見つめて。硝子細工の瞳が、俺だけを映して。
「村雨…もしも私に…『心』があるのなら……」
真っ直ぐに、真っ直ぐに俺だけを。他の誰でもない、この俺だけを。俺だけを…
「芙蓉?」
尋ねた先の瞳が、柔らかく微笑う。お前の瞳にこころの色が、感情の色彩が灯る。それはずっと。ずっとずっと俺が、見たかったもの。見付けたかった、もの。

「心だけは、貴方のものです」

柔らかい、雨。
ふたりの静寂を包み込む雨。
その音に包まれて。
ふたりは、手に入れる。
百年の、恋の真実を。

この身体も私の意思も、何もかもが晴明様のものでも。この心だけは、この想いだけは。
…村雨…貴方の全てで埋められている……
貴方への想いで、埋められている。ずっと。ずっと、遠い昔から。
そう、あの日から。
貴方が私に椿をくれたその日から。
私の中に何かが生まれた。今までの私とは何かが違う、違うものが生まれた。
晴明様の意思ですら届かない場所で。教えられたもの全てが効力を発揮しない所で。私の中にありえるはずのないものが生まれた。
苦しいとか、切ないとか、哀しいとか、嬉しいとか。知らないはずのものが、貴方に逢って貴方と言葉を交わしてそして生まれた。だから。
この新たに生まれた私の『心』は全て、貴方だけのものだから。
…貴方だけの、ものだから……

「芙蓉…俺は、お前を手にしてもいいのか?…」
震える、指先。自分でもバカみたいだと思った。他人に触れるなんて数え切れないほどしている行為なのに。なのにお前に触れるだけで俺の指先は震えてしまう。
「…貴方は覚えていた…私が椿の花を好きな事を……」
震える、声。自分でも驚かずにはいられなかった。何時でも正確に物事を伝えるように出来ている筈の声が。その声が貴方に告げようとするだけで震えてしまう。
「…芙蓉…俺は…ずっと…」
頬に、触れる。それは微かに暖かかった。命の温もりだった。俺が、俺が与えた。俺がお前に与えた温もりだと、そう信じてもいいか?
「…私はそれが…何よりも…嬉しかった…」
貴方の、手。大きな手。全てを包み込んでくれるその手。大きくて暖かくて、優しい手。貴方だけが。貴方だけが私に、その温もりを与えてくれた。貴方、だけが。
「…芙蓉?……」
頬に触れた指先が、濡れた。暖かいその液体で。その、雫で。それは。それは…
「…むら…さめ……」
私の瞳から、あり得る筈のない雫が一筋零れ落ちた。作り物の身体、そして作り物の命。そんな私の瞳から、涙が零れ落ちた。一粒の、涙が。私は…

…私は、生きている…と、思った……

暖かい、雫。暖かい、涙。
俺はそれをそっと舌で辿った。そっと、壊れ物に触れるように。
お前が生きている証。お前の心が存在する証。
そのかけがえのない大切なものに今、俺は触れた。
その瞬間バカみたいに緊張した。バカみたいに心が震えた。
何よりも大切な宝物に今、俺は触れた。

「芙蓉、俺でいいのか?」
戻れないと、思った。もう何処へも、戻れないと。
「はい」
戻りたくないと、思った。もう何処にも、戻りたくないと。
「御門じゃなくて、俺でいいのか?」
百年の、恋。百年の、想い。それが今全てを壊した。今まで築き上げてきたものを。今まで閉じ込めてきたものを、全て。
「…貴方が…いいです……」
百年の、愛。百年の、漂流。それが今全て溢れ出した。今まで護ってきたものを。今まで見て見ぬ振りをしてきたものを、全て。
…今、全てを壊して…全てが溢れ出した……

それ以上何も言わなくなったお前を、俺は力の限り抱きしめた。
もうこれで戻れないと、分かっていても。戻る事が出来ないと、分かっていても。
それでも。俺達はもう、何処にも戻れないと…分かっていても…。
「…芙蓉……」
このまま何処にも行けなくても、何処にも帰れなくても、いい。
愛する女とふたり、落ちて行く場所が地獄でも。この女を腕の中に抱けるのなら。
抱きしめられるのなら、どうなっても構わないと思った。
どうなろうとも、構わないとそう思った。

…百年の、恋だ。百年間の俺の想いだ。それでも俺達を引き離せるか?御門……。

このまま雨にうたれて、全てを流してしまえたら。
貴方への想いも。貴方への未練も。
その全てを失くしてしまえたら。失くしてしまえたら、楽になれる?
…楽になんて、なれる訳が無い……
例え貴方が誰のものでも。例え貴方が誰を見つめていても。
僕は貴方の笑顔が見たくて。僕は貴方が幸せになれるのを祈って。
その為だけに、生まれてきたのだから。その為だけに、生きているのだから。
貴方の優しい笑顔が好き。貴方の大きな手が好き。貴方の強い瞳が好き。
それを、それを見ているだけで幸せ。それを見つめていられるだけで幸せ。
今僕には貴方に言葉を伝える手段がある。貴方を護る腕も身体もある。
貴方と同じ位置で、同じ視線で見つめられる瞳がある。
これ以上望んだらそれこそ贅沢だから。これ以上望んだら。
…だから今だけ…この雨と一緒に零れる涙を洗い流してほしい……

雨に濡れながら独り、彼はその場に立ち尽くしていた。
何をする訳でもない。ただ。ただ独りそこに立っていた。まるで一枚の絵のように。
『…紅葉……』
その名を呟きかけて、そして口を噤んだ。今名前を呼んでしまったらこの静けさが破られてしまうのではないかと…そう思えて。この静寂が。だからその名を呼ぶのを止めた。
儚いと、思った。そう想う事自体が彼に失礼なのだろうか?けれども、けれどもそう思った。儚い程に綺麗で。そして幻のようだと。まるで一夜の、幻だと。
…幻…その言葉が胸に突き刺さる。彼は確かに自分の目の前にいる。そして自分の視界にいる。それなのに。
…今手を差し出したら…消えてしまいそうで……。
どうして僕はそんな事を考えてしまうのだろう。そんな事を思ってしまうのだろう。
…どうして彼を…想ってしまうのだろう……

雨は、降り続ける。まるでふたりを遮るように。
そしてふたりを結ぶ唯一のもののように。
降り、続ける雨。
どこまでも、どこまでも。
このまま。このまま全てを止めてしまえたら。
全ての静寂のままに閉じ込めてしまえたら。
それは幸せなのか?それとも不幸なのか?

胸に手を、あてる。とくんとくんと自分の命の音が、響いている。
『…如月さん……』
声に出さずに、貴方の名を呼ぶ。こころの中で。こころの中で、そっと。
それが唯一の言葉であるかのように。それだけが全てだと言うように。
この命の鼓動が全て、全て貴方と言う名の元に動いている。
『…如月…さん……』
あのまま壊れてしまえたらよかった?
あのひとの腕に抱かれながら、快楽の波に溺れながら。
全て、全て壊れてしまえたら。
…誰も…傷つける事は…ない?……

飛水の血が、龍麻を護らねばと告げている。全てを懸けて護らねば、と。そして。
そして僕自身の意思も彼を大切だと思っている。何よりも、大切だと。何よりも、優先しなければならないものだと。それなのに。それなのに。
それとは別の意思が、彼を追い駆けている…追い駆けて、いる?……
どうして僕は、彼を自分の視界に何時もとどめているのか?どうして僕は、彼から目を離せないでいるのか?どうして?
…どうして僕の瞳は何時も君を捜してしまう?……
君の纏っている淋しげな空気が、独りだと無言で訴えている瞳がただ哀しくて。哀しい程に、綺麗で。僕はどうしても君から目を離せない。
その淋しさを埋めてあげたいと思った。独りじゃないと伝えたかった。
…君の孤独を、この腕で抱きしめたいと…想った……
龍麻に対する想いとは明らかに違う。明かに、違う。
君に対する想いは使命感でも、血の宿命とも違う。僕自身の意思ともまた違う。もっと、もっと別の場所からそれは沸き上がってくる。こころの奥底から。魂の一番深い場所から。
…君を…護りたい…と。
護りたいと、思った。君を傷つける全てのものから。君を孤独にする全てのものから。僕の全てで。それは、それは龍麻に対する思いとは…明らかに違う。
護らねばと、ただそれだけを思って。飛水流の意思で僕自身の意思で、そう思うのとは違う。
それはあまりにも自然に湧き上がってくる、想い。
あまりにもすんなりと僕のこころにある、想い。
あまりにも、あまりにも自然で。それが当たり前だと思ってしまうような。そんな感覚。

『もみじ、お前だけはずっと僕の傍にいてくれるかい?』
あのひとが貴方の前から消えて、そっと僕に呟いた言葉。
(…ずっと…ずっと貴方の傍にいます……)
言葉に出来ない想いで、貴方に伝えた。言葉じゃないもので、貴方に伝えた。
『駄目だね、僕は。僕は結局独りでは何も出来ない臆病者なんだ』
貴方の頬を舌で舐めた。何時ものように。この気持ちが貴方に伝わるように。つたわる、ように。
(貴方は臆病なんじゃない…決して貴方は…)
人は決して独りでなんて生きられない。誰かに手を差し伸べながら、そして差し伸べられながら、生きてゆくものだから。
『お前には何時も僕はみっともない所ばかり見せているね。こんな飼い主を呆れるかい?』
貴方は何時も、何時も『強く』なければならないのだから。綾乃さんの前で、誰よりも強い男でいなければならないのだから。飛水流の末裔として。そして綾乃さんを護るべき人として。貴方は誰よりも。けれども。
(…そんな事絶対にありません…)
けれども貴方だってひとりの人間だから。辛い時も弱くなる時もあるのだから。そんな貴方を見ているのは、僕は嫌いじゃない。そんな人間らしい貴方を見ているのは。
『お前だけには…僕の本当の姿を…見られているね……』
…そんな貴方を、見ているのは……
僕の前でだけはムリをしないでください。僕の前でだけは強がらないでください。
僕の前でだけは本当の貴方で、いてください。
貴方が少しでもこころを安らげるように。貴方のこころが癒せるように。
…貴方の背中の翼が…休める…ように……

降り続ける、雨。煙る景色。
全てがぼんやりと霧がかって、ふたりを隠した。
全てのものから、ふたりを閉じ込めた。

細い、肩。翼をもぎ取られた後姿。
その全てを。その全てを僕は、抱きしめたくて。
この腕に、この腕の中に包み込みたくて。

「…紅葉……」

何かに追いたてられるかのように、僕はその名を声にした。堪らなく、堪らなく苦しくなって。そしてひどく切なくなって。胸が引き千切られそうな、そんな感覚に陥って。
君を。君を幻だと思いたくなくて。君が今ここから消えてしまわないようにと。
その名を、呼んだ。呼ばずにはいられなかった。
その途端僕の心の奥がちくりと、痛んだ。心よりももっと奥底の一番深い部分をちくりと鋭い針が突き刺した。
…この痛みは…この想いは……?

「…如月…さん?……」

そしてその声に振り返った先の、その君の瞳に。漆黒のその瞳に。
僕は全てを奪われていた。全てを、奪われた。
今まで考えてきた思考の全てを。今まで築き上げてきた自分を。
その哀しい程綺麗な瞳に。その瞳に全てを、奪われた。
…もう何も、考えられなくなる程に……

霧に包まれて何もかもが曇った景色の中で。その中で、貴方の輪郭だけが鮮やかに視界に映った。鮮やかに、貴方だけが。
「…どう、して?…」
振り返った先に映し出されたその姿に、自分は幻を見ているのかと思った。自分の思いが作り出した都合のいい幻を。都合のいい、幻を。
「…どうして?……」
その幻を確かめようと手を、差し伸べた。その指先が幻ではない貴方に触れる。
本物の貴方の頬に触れる。僕の、指先が。

…全てを封印しても…閉じ込められない想いが…ある……
全てを巧みに隠しても。全てを奥深くに眠らせても。
全てを消し去っても。それでも。
それでも消えないものがある。消せないものがある。
消してしまえる程の想いならば、初めから抱えたりはしなかった。

その程度の想いならば、初めから愛したりはしなかった。

雨が降っていてよかったと、思った。もしも僕が泣いてしまっても貴方に涙を気付かれる事がないから。この雨が全てを隠してくれるから。
…優しい貴方に、余計な心配を…掛けたくないから…。
「…紅葉…」
もう一度貴方は僕の名前を呼んだ。そのやさしい響きに、泣きたくなる程の幸せを感じる。この人にその名前を呼んでもらえて。呼んで、もらえて。
「如月、さん」
何時も何時も心で呼んでいたその名前。言葉にする事は出来なかったけど。声にする事は出来なかったけれど。何時も呼んでいた。言葉以外の想いで。言葉ではないもので。
何時も何時も僕は貴方の名前を、貴方の名前だけを呼んでいた。
「如月さん」
声にして貴方の名前を、呼ぶ。呼べる事が、幸せ。ずっとずっとそう呼びたいと思っていたから。こうして声にして、そして。
そして真っ直ぐに貴方を見つめられる事が。貴方と同じ位置で視線を交わせる事が。
…泣きたいくらい、幸せだから……
「…君は…どうして…」
その先を聞きたくて、そして聞きたくなくて。僕は貴方の瞳を見つめ返した。こうして貴方と対等な位置で、視線を見つめ返せる事が来るなんて思わなかったら。
こうして真っ直ぐに貴方の綺麗な瞳を見返せることが。真実だけを映し出す、何よりも強い貴方の瞳を。その瞳にこうして向き合える事が。凄く、凄く嬉しい。
「どうして、そんな瞳で僕を見る?」
どうして?だって僕はずっと貴方だけを見てきたから。貴方だけを見つめてきたから。
貴方以外何も見てはいなかった。ずっと、ずっと。貴方は知らなくても。貴方は何も憶えていなくても。僕はずっと、貴方だけを見つめていた。
「僕は、ずっと」
何も望まない。僕は貴方だけを見つめていたい。そして貴方だけを護りたい。
僕には今、貴方を護れる腕も手も身体もあるのだから。
貴方の心が龍麻のものでも。貴方の全てが龍麻のものでも。それでも、いい。
貴方と同じ位置に立って、そして。そして貴方と言葉を、視線を交わせる。こうして。
「ずっと如月さんを、見ていました」
こうして貴方を見つめて、貴方に言葉を伝える事が出来るのなら。
「…迷惑…ですか?…」
貴方に触れた指先が熱い。貴方の頬に触れた、指先が熱い。そして。そして僕の頬も。
「……紅葉…僕は………」
僕の頬も、熱い。瞳から零れ落ちた雫のせいで。

手を、差し出した。君の存在が、君の涙が幻ではないと確認する為に。
指先が君の涙に、触れた。それは暖かい雫、だった。
…あたたかい…涙、だった……

「泣かないで、くれ。僕は君の涙を見るとどうしてかひどく苦しくなる」

その言葉を僕は以前君に言わなかっただろうか?君に告げなかっただろうか?
こうして君の熱い涙を指先で拭いながら。僕は、君に…
…僕は君の事を、ずっと前から知っていなかっただろうか?……
「…ごめんなさい……」
睫毛の先から雫がぱらりと落ちる。雨に溶けながら、その雫は頬を滑る。頬を滑る、君の涙。僕はそれが哀しくて指先でそれを受け止める。
「ごめんなさい、如月さん。僕はやはり貴方の近くにいるべき人間ではないのですね」
そう言って俯いてしまった彼を抱きしめたいと、思った。その細い肩を。華奢な身体を。その全てを。その全てを抱きしめたい、と。
抱きしめて、そして。そしてその身体を自分だけの腕の中に閉じ込めてしまいたいと。
「…違う、紅葉。僕は…」
こんな想いを僕は知らない。こんなに激しい想いを。こんなにも心が揺らいで、、激しく揺らいで、そして。そしてこんなにも自分が求めている事に。
こんなにも苦しくて切なくてもどかしくて。ただただどうしようもなくなって。どうにも出来なくて。自分を抑える術すら分からなくて。ただ、求めている。どうしようもない程に、求めている。
…僕は今確かに目の前の彼を…求めている………。
「僕は、君が…」
そう言いかけて、僕は言葉を止めた。今、僕は何を言おうとしていた?その先を僕は。僕はどう言うつもりだったのか?何を君に告げるつもりだった?

閉じ込められた想い。封印された記憶。
全ての罪悪感が、全ての贖罪が、僕の記憶を閉じ込める。
全ての真実を塗りつぶして、優しい嘘を積み重ねる。
けれども。けれどもそれすらも手の届かない場所で。
誰にも手を触れる事の出来ない場所で。
その想いは、僕の前に剥き出しに晒された。
自分ではどうする事も出来ない想いが。
自分ではどうにも出来ない想いが。
剥き出しの僕の魂に、浸透する。

『飛水流の末裔ではない、お前の意思は今何処にあるの?』

…君が…好きだ……
その一言を僕は飲み込んでいた。そうだ、僕は。
僕の意思は。如月翡翠の意思は。
君を、求めている。君を、欲しいと。
君だけを、想っていると。

…僕は…君が…好き、なんだ……

この飛水流の血よりも、龍麻よりも、僕は。
僕は君だけを求めている。
この血の宿命すらも逆らう程の。この運命の呪縛すらも絶ち切る程の。
強い、強い想い。
それが何処から生まれて何処へ行くのか分からない。でも。でも今確かに僕は。
…僕の心は君を…君の存在で…埋められている……

「…好きなんだ…紅葉…僕は、君が…」

改めて声にして。声にしてそして。そしてその身体を抱きしめた。
見掛けよりもずっと細くて、そして小さな身体を。力の限り僕は、抱きしめた。
抱きしめた。このまま全てがどうなっても構わないとそう思いながら。

このまま何処にも戻れなくても構わないと、思いながら。

降り続ける、雨。
ふたりを包む静寂の雨。
このまま、このまま。
誰も触れる事の無いたったふたりだけの。
ふたりだけの透明な時に。
この透明な時間のまま、閉じ込めてしまいたい。

百年の、恋だから。
私の中に芽生えた想いは。
ゆっくりとけれども確実に私の中に浸透した。
透明な水のように。
私の足元から這い上がる、この想い。
何時しか全身を埋めて、私の全てになる。

例え全てが私達を、引き裂いたとしても。
芽生えた想いは消せはしない。

頭上から降る声に、俺は自分でも驚くほど冷静に聴いていた。こうなる事は、分かっていた。ずっとずっと。こいつを愛した時から。こいつを欲しいと思った時から。
何時しかこういう日が、来ると。
「こう言う事でしたか…芙蓉…」
御門は相変わらず無表情のままで、俺達を見つめた。冷たい瞳。こいつには本当に感情が無い。何時も何も映し出さない瞳で、俺を見つめる。機械のような瞳で。
「…晴明様…私は……」
腕の中のお前の身体が震えるのが、俺には分かった。お前が震えて、いる。俺の腕の中で。俺に縋っている。俺を頼っている。俺を…
「来なさい、芙蓉。お前は私の式神です」
その言葉に俺は抱きしめる腕の力を強めた。その震えを閉じ込めるように。力強く、抱きしめた。誰にも、渡さないと。
…御門にも…誰にもこいつを渡したくは無い。誰にも…。
「…村雨…」
支配者の声。こいつはずっと俺の、俺達の支配者だった。俺達はこいつには逆らえない。逆らおうとも思わなかった。秋月家を護り続け、そして俺達を勝利に導いてきたこいつを。
俺はお前が好きだ。その気持ちに嘘はない。お前だからこそ俺は忠誠を誓った。お前だからこそ俺は人に仕えるなんて真似をした。お前だからこそ。でも。でも、今は。
「わりーが、御門。芙蓉は俺が貰った。てめーには返さない」
今はそれすらも無にした。今まで築き上げてきた二人の信頼も絆も、崩して。崩して俺はこの女を選んだ。今まで日々を全て、無にして。
「何をたわ言を…さあ芙蓉こちらへ来なさい」
それでもお前は『絶対者』の声で言う。その強いカリスマが俺を従わせ、そして俺を裏切らせた。お前が、俺が従いたいと思える程の男でなかったら、こんな事にはならなかった。
俺はとっとと芙蓉をお前から奪っていた。初めから絆など築き上げようとはしなかった。
…初めから…この想いに縛られる事も…なかった……
「…お許しを…晴明様……」
永遠の呪縛。こいつに架けられていた。永遠に御門のものだと言う…御門の式神だと言う…その強い呪縛。
そして俺にも架けられていた。お前に逆らえないという呪縛。それは絆と信頼の上から成り立った、強い強い呪縛。
それでも、それでもこいつは俺を選んだ。そして俺も。俺もこいつを選んだ。今までの全ての日々に背を向けて。今までの日々を裏切って。
その呪縛を解き放って、俺を選んでくれた。そして俺もその呪縛を解き放って、こいつを選んだ。それだけだ。それだけ、なんだ。それでも。
「分かりました…ならば…」
それでもお前は許さないのか?御門……
「死になさい、芙蓉」

…世界が、紅に染まった……
一面の紅に。一面の紅の華に。
全てが紅になって、そして。
そして『無』が訪れる。
怖い程の静寂が、訪れる。

「…芙蓉?……」

実際に紅になどは染まらない。一面の紅は幻でしかない。
こいつの身体には血は、流れていないのだから。生暖かい血は、命の血脈は、こいつの身体には。
けれども。けれども俺の視界は一面の、紅の海の幻を見た。
ただその幻の紅だけが、俺を埋める。

「…ふ…よう…?…」

腕の中の身体が。暖かい、身体が。
命の鼓動が。生命の音が。
その全てが、今。
この腕から一瞬にして消え去った。

「私に逆らう式神など、私には必要ありませんから」

冷たい、声。支配者の、声。
機械のように正確で、そして残酷な声。
でもそれはお前にとっては必要なものだ。お前は支配者なのだから。
情も愛も必要ない。お前はただ勝利を、秋月家を護ることだけを考えて生きているのだから。でも。でも、でも。

「芙蓉っ!!!」

俺には、必要なんだ。
お前が見下して、必要としないものでも。
この俺には。俺には必要なんだ。
…俺には…必要…なんだ……

静寂の、雨。
降り続ける、雨。全てを隠す雨。
けれども。けれどもこの叫びを。
この叫びを消すことは、出来ない。
こころの叫びを、消すことは。

…この雨ですらも、消し去る事は出来ない……





End

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