<前世編 4 森の章>
…紅葉……
もしももう一度、君に逢えたなら。
今度は君を。
君をこんなふうに泣かせたりはしない。
こんな風に、独りで。独りで、君を。
だから、君と。
君ともう一度、出逢いたい。
君と出逢って。そして何も持たない僕自身だけで。
運命も宿命もそれすらも届かない所で。
何一つ、届かない場所で。僕のこころだけで。
…君だけを…愛したい……
全ての偽りと嘘とそして、真実を。
真実をこの腕に、抱きしめて。
蒼い月の下、お前は泣く。泣かない瞳で、泣けない瞳で。
誰も見る事の叶わない、透明な涙を零す。俺だけが気付いた、その涙を。涙を零す。
「…芙蓉……」
何時しか風が花びら全てを浚っていった。魂の鎮魂歌とともに。全てをさらってゆく。
「…村雨…この猫が人間に見えるのは、私の気のせいでしょうか?」
蒼い月の、下。そっと照らし出されるその死体。ただ綺麗だと、思った。
血と雨でぐしゃぐしゃになりながらも、その横たわる死体の横顔はひどく綺麗だった。そんなものでは穢す事など出来ないとでも言うように。そんなもので、穢す事なんて。
「お前が見えるのなら、そーだろうよ」
その死体に寄り添うように死んでいった小さなひとつの命。ただ一心に自分の飼い主を捜しつづけ、そして後を追うように消えていった小さな命。
きっとあの猫は人間の言葉を理解したのだろう。俺の言葉もそして。そしてこの飼い主の言葉も。死んでしまった今となってはその事実は分からないけれども。けれども。
「…埋めてあげてください…一緒に…」
けれども…お前が言うのなら…芙蓉…これは猫ではないのかもしれない。
姿形が猫であろうとも、伝わるものがあったのかもしれない。このふたりの間には飼い主と猫以外の絆があったのかもしれない。
「芙蓉?」
お前の見えない涙の雫のように。誰にも気付かない場所で。誰にも知らない所で。
言葉ではないもので、言葉ではない何かで、ふたりはきっと繋がっていた。
「せめてこの世で一緒になれないのなら、魂は傍に」
芙蓉、お前がそう見えるのならば俺もそう見える。お前の映し出す真実が、俺にとっての全ての真実なのだから。俺にとっての、唯一の。
「まるで恋人同士だったみたいな事を言うな」
お前の見つめた先に俺の全ての答えが、ある。お前の瞳が俺にとって、俺にとっての答え。
「私にはそう、見えました。だから村雨…」
そっと閉じられる睫毛。隠される、瞳。けれども俺には、分かるから。お前は、誰よりも。
「…ああ…」
誰よりも優しい女だ。優しい、女だ。お前は女、だ。独りの、女…だ……。
「ああ、芙蓉。せめてあの世で一緒にさせてやろう」
お前が言うのなら、それが全て真実だ。誰がなんと言おうとも、それが俺にとっての真実だ。芙蓉、お前が俺にとっての真実だ。
蒼い月の下で。
ふたりで、眠る。ふたりだけの世界で。
誰にも邪魔されずに。誰にも触れられずに。
きっと。きっと、これが。
ふたりが一番望んでいたものだったのだろう。
誰にも知られずに、ふたりだけで静かに閉じ込められる事が。
人と、人以外のものは愛し合えないのだろうか?
ふとそんな事を考えた自分が不思議だった。人と、人以外。このふたりのように。肉体ではなく心で、こころで通じ合えるもの。こころで、結び付くもの。人と、人以外を結びつけるもの。私と貴方にも、あるのだろうか?…私と…貴方にも……
そう思う事自体が間違えなのに。そう思ってしまう事自体が。
私は晴明様の式神。晴明様の為だけに存在する偽りの命。その為だけに作り出された偽りの肉体。他に何も。何も考えては行けないのに。晴明様以外。けれども。
けれども、私は。
「…命あるものは…生まれ変われます……」
このふたりはきっとまた生まれ変われる。違うものに生まれ変わって、そして。そしてまた出逢えるかもしれない。今度は互いを愛せる肉体を持って。
「芙蓉?」
互いの結び付きが強ければ。強ければまた、ひとは必ず惹かれあうものだから。魂さえあれば。命さえ、あれば。
「たとえどんな事が起きても、何度でも生まれ変われます。何時しかこのふたりも結ばれる事もあるでしょう」
命さえあれば…幾らでも、幾らでも生まれ変われる。今の『自分』以外のものになれる。違うものに生まれ変わって、違う人生を選べる。けれども。
「それを私は永遠に…見つづけてゆくのでしょうね」
けれども命の無い私には生まれ変わる事すら出来ない。貴方の隣に立てるような人間に生まれ変わる事が出来ない。貴方を愛する資格のある人間には。私は。
私は、永遠に見ているだけ。貴方が生まれて、死んでゆくのを。貴方が年老いてまた、生まれ変わるのを。永遠に巡り来る輪廻の輪を、ただ。ただ見つめ続けるだけ。
「…永遠に…ならば少しでも、俺のことを覚えておいてくれや」
貴方がこれから先誰かを愛して、そして愛されて。その繰り返しを、この手に触れる事の出来ない貴方の運命の輪を。私は、ずっと。
「…村雨…」
ずっと、見つめているだけ。この手を擦り抜けてゆく、貴方の命を。けれども。
「村雨 祇孔って言うバカな男の事を…少しでいい、覚えておいてくれ……」
けれども貴方がそれを望むのなら。望んで、くれるのならば。私は。
「…ええ……」
ならば覚えておきましょう、貴方の事を。何百年でも何千年でも。
私の記憶する全てで。
貴方の瞳を、貴方の声を、貴方の優しさを。
私の全てで。私の全てで記憶しましょう。
…貴方のこと…だけを……
迷い込んだら二度と出られないその森に、私の心は迷い込んだ。
貴方を探して。貴方だけを、探して。
深いその森に迷い込んだ。
何処に行けば、何処に行けば。私はここから出られるの?
どうすれば、この迷路から抜け出せるの?
私の迷い込んだこころは、何処へ辿り着くの?
ただ木々の隙間から零れる太陽以外、私を救う事は出来ないの。
深い闇と、そしてあの紅の森。あの桜の、森。
遠い場所。遠い時間。綺麗な私だけを閉じ込めた、あの森。
嘘も偽りも偽善も何も無い。ただの『私』だけがいる場所。
剥き出しの何も持っていないただの私がいる場所。
…子供の私が…いる場所……
「お帰りなさいませ」
相変わらずの、表情でお前は俺を迎えた。けれども。けれども何故か少しだけ、少しだけお前が変わって見えたのは俺の気のせいだろうか?
何処がとは、言えない。何処だとは、答えられない。ただ、微妙に。微妙にお前の顔に『感情』の色が取り戻されていた。お前のその瞳に、光が見えた。それは。
「ただいま」
それは前の中に『こころ』が帰ってきた、そんな感じだった。お前が失くしてきたものが、その手の中に少しづつ。少しづつ戻って。戻って、そして。
…そして…還ってきた…俺の知らない間に……
抜けられない、永遠の森。
その中から差し込む日差しが。
なにものにも遮る事の出来ない、その強い光が。
私を、何時しか導いてくれた。
この永遠の迷路から、導かれる唯一の光。
貴方の瞳だけが、私を助けてくれた。
今のお前を見つめながら、俺は思った。もしかしたら俺は今、こいつにとって一番突き付けてはいけない事実を見せようとしているのではないかと。
不意にお前が見せた『人間』らしい感情。それが。それが何から来たものか、俺には分からなかったけれども。でも今確かにお前にそれが戻ってきている。そして。そしてそんなお前にこれを突き付けるのは、もしかしたら何よりも残酷なのかもしれないと。
…何よりも…酷いことのなかも…しれないと……
「綾乃、お前に見せたいものがある」
これは予感。確かな確証など何一つ無い。けれども。けれども俺はこれを見た時に何故か、お前を思い出した。そして、確信した。これが緋勇家ゆかりのものだと、気付いた時点で。
「村雨様?」
前に一度だけお前は言った。自分の愛している男は私を受け入れなかったと。私よりも血の宿命を選んだのだと。でも俺は、俺は違う答えを導き出した。
馬鹿みたいな答えを導き出した。けれども。けれどもそれが真実ならば。
俺はそれをお前に突き付けねばならない。お前の夫として。そして。そして共に穢れた絆で結ばれている同士として。
『せめてこの世で一緒になれないのなら、魂は傍に』
椿の花の下で蒼い月の下で眠るふたつの屍。
そこに全ての真実と、そして答えがある。
貴方の背中に紅の夕日が見える。あの日と同じ、夕日が見える。
遠いあの日の。指を絡めて約束した、あの日の。あの日の、紅の夕日。
「…村雨様…その忍者刀は?……」
紅の、夕日。怖くて逃げ出したくなったあの、夕日。そして。そして貴方の優しい手。
全ての恐怖を消し去ってくれる、貴方の大きくて優しい手。
「形見さ。猫のな」
泣きそうになると必ず私の頭を撫でてくれた手のひら。そしてそっと抱きしめてくれた優しい腕。私が怖くないように、私が淋しくないように。私が独りじゃないように。
…私が独りで、泣かないように……
「途中で奇妙な猫に逢って、な。そいつの飼い主の持ち物だったんだ」
独りにしないように。私を、独りにしないように。
…猫を飼い始めた…『もみじ』って言う名なんだ……
どうして、もみじなのです?
…紅葉の葉が綺麗だったから……
鮮やかに紅い色が、綺麗だったから。
一度だけ私はその猫を見た。
貴方の腕の中で眠るその猫を。
そして優しくその頭を撫でる貴方が。
貴方が何処か遠い人に思えて。
何処か私の知らない人に思えて、私は声を掛けるのを躊躇った。
まるでそこだけが透明な空間に閉じ込められているみたいで。
貴方の穏やかな笑みを、私は知らない。
こんなに穏やかな笑みを。
私の前で微笑う、貴方の笑顔と。
今ここで見せる貴方の笑みは違う。違う、から。
だから私は声を、掛けられなかった。
「…ひ…すい……」
私は紅の色が、嫌い。
私の大切なものを全て、奪っていってしまうから。
私の大切なものを奪って…しまうから……
腕の中を、擦り抜けてゆく。
全てのものが、擦り抜けてゆく。
私が、私が最期まで。
最期まで大切に、大切に護ってきたもの。
桜の森に埋めた最期の…私の最期の『子供』……
ああ、やはりあいつは。
あの綺麗な男は、お前の。お前の唯一愛した男。
それを分かっていながら、差し出した俺は。俺は残酷なのか?
それでも、俺は事実をお前に見せなければいけない。
お前に、真実を。それが、それだけが。
俺がお前の『夫』として唯一してやれる事。
「…綾乃?…」
名前を呼んでも、お前は答えなかった。うつろな瞳を、俺に見せるだけで。
いや、お前の瞳は何も映してはいない。何も映しはしなかった。
あの燃えるような炎さえも、その瞳から消えて。消えて。ただ硝子玉のような瞳で。
「綾乃?」
もう一度、その名を呼んだ。けれども何も答えない。答えずに、お前は。お前は、微笑った。何よりも綺麗な顔で。何よりも艶やかに、そして鮮やかに。壮絶にお前は微笑った。
「うそつきね、お兄ちゃん。ずっと傍にいるって約束したのに」
白い腕が絡み付き、そして俺の唇を塞ぐ。その口付けは今までしてきたお前との口付けの中で、何よりも生々しかった。
「うそつきね」
唇が離れてまた、微笑った。そして。そして俺をあざ笑うかのように、俺の前を擦り抜けて行く。そして。
そしてお前は紅の夕日に消えていった。
…この血のような…紅の夕日の中へと……
紅、一面の紅。
血の色。一面の血の色。
何処をさ迷っても、何処へ逃げても。
夕日の紅は後を付いて来る。
隠れても、隠れても。
紅の血は追いかけてくる。
たとえ目を閉じ、耳を塞いでも。
…俺は追い駆けなかった……
本当は追い駆けねばならなかったのだろう。追い駆けなければならなかったのだろう。でも。でも俺は追い駆けなかった。追い駆け、なかった。
偽りの愛と同情を与えても。そんなものをお前は欲しがらない。そんなものでお前の心は埋められはしない。決してお前は救われはしない。
俺には分かる、お前は俺の鏡だから。俺達の穢れた絆は、こんな所でしか共鳴出来ない。
そんな偽りのものでお前が救われる訳が無いと。そんなものでお前の心を埋められる訳がないと。そしてお前がそんなものを欲しがらないと、分かっている。何よりも俺が一番、一番分かっている。だから。
だから俺ではお前を救う事が出来ない。
俺が手を差し伸べても、お前は救われない。俺が抱きしめても、お前は戻っては来ない。
お前の瞳に光を差す事は俺には出来ない。
お前が『感情』を俺に見せた時、俺にそれを向けた時に分かった。
俺以外の誰かがそれを、それを引き出したのだと。
誰かがお前にそれを、還したのだと。ならば。
ならばお前を救うのはお前を戻すのは、そいつしかいないのだと。
…俺じゃ、ない。俺では出来ない……俺はお前を愛せない……
お前を救うのは、偽りではない真実の愛だけだ。
…本当の…こころ…だけだ……
何時しか紅の夕日は、消えていた。
血の海も何もかもが消えて。
そして。そして怖い程の静寂が。蒼い闇が。
そして蒼い月が、微笑う。
抜けられない、森。
永遠の、森。桜の、森。
でもここには桜はないの。桜の花びらは。
ここにはないの。私が埋めた『子供』の心は。
…何処にも…ないの……
どうして、太陽は空にないの?
どうして蒼い闇が全てを包み込んでいるの?
ねえ、太陽の光は何処にあるの?何処へ行けば見つかるの?
この永遠の迷路から抜け出す、唯一の光。
太陽の破片。何物にも遮る事のない強い強い光。
私に光を返して。私に太陽を返して。
…私の『子供』を、還して……
月明かりの下で微笑う、お前は。
怖い程に綺麗だった。哀しい程に綺麗だった。
これは夢ではないかと思える程に。これは幻ではないかと思える程に。
でも今お前は俺の目の前にいる。
目の前に立っている。何も映さない瞳で。何も映していない瞳で。
俺を見下ろす。空っぽのこころで。空っぽの魂で。
それが嫌で俺は叫んだ。お前の名前を、力の限り。俺の全てで、その名を。
「綾乃っ!!!」
光、眩しい光。
この蒼い闇の中で。
私には、私には眩し過ぎる光。眩し過ぎる、光。
眩し過ぎる、太陽の破片。
「…翡翠?……」
微笑う、お前。その唇だけが血のように紅い。
これは夢なのか?お前が見ている。お前が見せている。
お前の中の、心の夢なのか?
手が差し伸べられる。白い剥き出しの腕が。
それはこの蒼い闇の中で白く浮かび上がる。
これはお前が見ている、哀しい夢なのか?
「…綾…乃?……」
俺はもう一度その名を呼んだ。何も映し出さないその瞳に。何も見ていないその瞳に。
「…どこ?……」
俺の言葉は擦り抜けてゆく。お前の耳を心を魂を、滑り落ちてゆく。
「綾乃?」
俺の声は、お前には届かないのか?俺の心はお前に届かないのか?こんなにも、こんなにも懸命に呼んでも。呼んでも、届かない?
「…何処に…いるの?…翡翠……」
綾乃の手が伸びてきて俺の頬に触れた。そしてそのまま俺の頬を撫でる。ひんやりと冷たい指先だった。ひんやりと。その冷たさがぞくりと背筋を震わせた。瞼を、震わせた。
「…翡翠…お兄ちゃん…」
お前の口から零れる言葉がひどく、幼かった。俺よりも、俺よりも幼い女の子の声で、その名を呼んだ。幼い、声。子供のお前。
「違う、綾乃」
子供のお前。俺と同じ。今お前は俺と同じ位置にいる。同じ場所に、同じ時間に立っている。子供のお前と、子供の俺。だから。
「お兄ちゃん、綾乃ね。綾乃お兄ちゃんが大好き」
だから俺は。俺はお前に『俺』の名を呼んでほしい。他の誰でもない俺の名を、子供の。子供のお前に。お前に呼んでほしい。
「違う、俺は京一だ」
けれどもお前に俺の言葉は届かない。こんなにも、こんなにも呼んでいるのに。俺の言葉は、届かない。
「大好きお兄ちゃん、だから綾乃をお嫁さんにしてね」
幼い顔で、微笑った。それがきっとお前の本当の顔なんだろう。でもそれを、それを俺の手で与えられなかった事が何よりも悔しい。悔しい、自分の無力さが何よりも。
「違う俺は…っ!」
俺の叫びはお前の唇によって閉じ込められた。そのまま俺は綾乃に口付けられた。柔らかい、唇。他人の唇。他人と口付けをするなんて当然俺は初めてだった。
母親ですらそんな事をしてくれる前に、死んでしまったのだから。俺に無条件の愛を与えてくれる人は、気付いた時にはもう何処にもいなかったのだから。
「…んっ…あや…」
息苦しくてその唇から逃れた。けれども綾乃は再び俺の唇を塞ぐ。まるで何かに執り付かれたように、執拗に俺の唇を求める。
「…翡翠…私…もう大人になったのよ…」
綾乃の腕が俺の着物に掛かる。そしてそれをそのまま脱がしてゆく。そして。
「…大人になった…私を見て…翡翠…」
そして俺はのしかかってきた綾乃の身体を支えきれずに、縺れるようにその場に崩れ落ちた。絡み合うように、その場から崩れ落ちた。
そこから広がる雨上がりの草の匂いだけが。
その匂いだけが、現実感を伴った唯一のものだった。
…白い、肌……
透明な程白い、肌。ぬけるように白い、肌。
そして…ほのかに甘い匂いが…
…俺の全身を支配した……
「…ああっ!…」
喉をのけ反らしながら、綾乃は喘いだ。
その白い喉が。白過ぎる喉元だけが。
この蒼い月夜に照らし出される。
突き抜ける快感と、込み上げる快楽。
混沌とした意識と、繰り返される波。
全てが幻で、全てが現実だった。
幼い顔で笑い、大人の顔で微笑む。
「…綾乃…」
それでも、それでも俺は名前を呼んだ。
今の俺にはそれしか出来ないから。それ以外に何も出来ないから。
だからその名を、呼んだ。
お前がここへ戻ってくるように。お前の瞳が俺を映すように。
俺はその名を、呼ぶ。繰り返し繰り返し。
その名を、呼ぶ。お前をこの世界に還したくて、ただ。
ただそれだけの、為に。
「…あや…の……」
それでも。それでもこの波は俺を呑み込んでゆく。
呑みこんで何処かへ連れ去ってゆく。
そして繋ぎとめていた意識も何処かへと飛ばされた。
後は、ただ。ただ憶えているのは。
…覚えているのは、その甘い香りだけで……
膝を抱えて、私は泣いていた。
この永遠に抜けられない森の中で。
この深い、深い森の中で。
私は独りで泣いている。
『…綾乃……』
誰かが私の名を呼んでいる。
私はその声に導かれるように顔を上げた。
その途端に一面の光。眩しい、光。
私は目を開けていられなくて咄嗟に瞼を閉じた。
そしてゆっくりと瞼を開く。ゆっくりと、開く。
…翡翠、お兄ちゃん?……
逆光で判別できない顔をけれども疑う事なく私はその名を呼んだ。
そして手を差し出そうとして、けれども私の手は宙に止まる。
…お兄ちゃん…じゃ…ない……
強い強い、光。太陽よりも眩しいその光。真っ直ぐに一点の曇りもない、強い強いその光。
それを私は知っている。私は、知っている。
この森に迷い込んだ時からずっと。ずっと私が道しるべにしていたもの。ずっと私を照らしていてくれたその光。きらきらと眩しい太陽の破片。それは。それは…
…きょう…い…ち……
貴方だった。私の闇を救ったのは。
私の子供の心をこの手に戻したのは。
他の誰でもない貴方だった。
貴方のその純粋なこころだけが。
私をこの永遠の迷路から救い出してくれた。
「…京一……」
ああ、私は。
私は貴方がこんなにも。こんなにも大事。
こんなにも、大切。
生まれて初めて、私は知った。
護りたいという気持ちを。私の全てで護りたいという気持ちを。
私はこの命を、この輝きを、護りたい。
私の全てで、護りたい。
だから私は貴方を穢すものを許せない。たとえそれが自分自身であろうとも。
気づいた時には、私は全裸のままで横たわっていた。何も身に纏ってはいなかった。
私は咄嗟に手元にあった着物を羽織る。そして。そして…私は…
「…きょう…いち?……」
隣に横たわる幼い身体を見つけ。見つけて私は、気付いた。気が、付いた。自分が犯した罪に。自分が犯した贖罪に。私は。
私は…貴方に何をした?
この幼い子供に、私は何をした?
自分が救われたくて、自分が助かりたくて。自分が…自分が…
…自分が……癒され…たくて……
誰よりも何よりも護りたいと。どんなものからも護りたいと。
決してその光を穢したくないと思った、思った唯一の存在。
それなのに私は。私は自ら、貴方を穢した。
「…京一…私は…私は……」
…私が…貴方を…穢した……
「いやぁぁぁぁぁぁーーーっ!!」
無垢なこころ、無垢な魂。
傷ひとつない綺麗な、こころ。
何物にも穢ていない、魂。
その全てを。その全てを私が。
私がこの手で、壊した。
張り裂けんばかりの悲鳴に。その悲鳴に意識が一気に覚醒した。まるで大地を揺るがすようなその、嘆きに。
「綾乃?」
起き上がった先に泣きじゃくる綾乃の姿があった。手元の草をむしりながら、悲鳴を上げる綾乃。それはまるで狂女のようだった。
「いやいやいやいやぁぁーーっ!!!」
狂ったように首を振る綾乃の身体にしがみ付く。それでも俺の身体では、綾乃の全てを抑えきれない。暴れまわる綾乃の爪が、俺の頬を傷つけた。
「綾乃っ!!」
それでも俺は必死になって綾乃にしがみ付いた。傷ついた頬から血が零れる。その血が、綾乃の瞳の色を変化させた。
「ああああああ…ああああああ……」
散々暴れまわっていた綾乃はその血を見た途端、その場に泣き崩れた。ぴたりと抵抗を止めて、大声で泣いた。
まるで生まれたての赤ん坊のような声で、悲鳴を上げながら泣き続けた。
「…綾乃……」
その無防備に泣き続ける綾乃が…赤子のような綾乃が…俺には…俺には。
「…あ、やの……」
「ううううううう…うううう……」
そっと髪を、撫でた。俺は何でこんなに手のひらが小さいのかと、悔やみながら。何でこんなに身体が小さいのかと、嘆きながら。
「綾乃…泣くなよ…」
どうして俺は、子供なんだ?どうして俺はただの無力な子供なんだ?
もしもこの腕が大きかったら、綾乃を抱きしめられるのに。
もしもこの身体が大きかったら、綾乃を護ってやれるのに。
…俺が…大人だったら…
「…綾乃……」
俺が綾乃を、護るのに。俺の全てで、護るのに。
…俺が、お前を…護るのに……
永遠に抜けられない、抜けられない深い森。
唯一の光を。太陽の破片を。
自ら穢した。自ら壊した。
だから、もう。もう二度と。
私はこの森から抜けられない。
…永遠に…この深い森から……
私は自らを、閉じ込めた。この森に。この森の中に永遠に。
End