<現世編 4 涙の章>
零れ落ちる、涙。
こころの、涙。その雫だけが。
その雫だけが、全てを埋める。
遠い記憶も、百年の想いも。
百年の、恋を埋める。
…見つめて、いた。ずっと、ずっと。
貴方が生まれて、そして年老いて死んでいって。
そしてまた生まれ変わるのを。
ずっと、見つめていた。
貴方だけを、見つめていた。
幸せに、なれなくても?
ふたりが共に生きてゆく事が叶わなくても?
それでも。それでも。
その手を取った。その指を絡めた。
もう戻れないと、分かっていても。
「死になさい、芙蓉」
御門の一言が、その一言が。腕の中の命を消し去った。全てを消し去った。
抱きしめたてた、その柔らかい身体。揺れる胸。震える肩。
その全てが消滅した。一瞬にして何もかもがこの腕から消え去った。何もかもが。
「…芙蓉……」
何もかもが、この腕から擦り抜けてゆく。そして残されたものは。
残されたのはただの紙切れ一枚だった。ただ一枚の、紙切れ。それは。
それは、芙蓉の。芙蓉の真実の、姿。この紙切れ一枚が、お前の真実の姿。
「…ふ…よう…」
俺はそれを手に取ると、そのまま頬に重ねた。冷たい紙切れ。物も言わず命の音もしないただの紙切れ。それでも。それでも俺にとっては、何よりもかげかえのない。何よりも大切な、そして。そして何よりも愛しい唯一の。
「…愛して…いる…芙蓉……」
やっと、やっと手に入れた唯一の存在。ずっとずっと想い続け、ずっとずっと求め続けたその存在。俺の百年の、恋。
…俺の記憶の始まりは芙蓉、お前の一言なんだ……
あの瞬間、俺の全てが始まった。あの一言が俺の身体に命を吹き込んだ。
俺の記憶の始まり。お前が椿の花が好きだと言ったその一言が。俺の記憶の、全ての始まり。お前のその一言が、俺の巡りくる螺旋の記憶の入り口なんだ。
…芙蓉…俺の…俺の、かけがえの無い…魂……
零れ落ちるお前の、涙。
頬から伝うその雫。
どんな宝石よりも輝く、ただひとつのもの。
冷たい声は相変わらず頭上から降ってくる。機械のような正確さと、全てを傷つけるような鋭さで。お前は何時もそうだ。自分に触れようとするもの全てを傷つける。
「村雨、お前もバカな男です。こんな紙切れに愛を囁いてどうするというのです?」
こうして今も俺を。俺をばろばろに傷つけようとする。心を抉る鋭い言葉で。
「…紙切れ…だと…」
ああ、そうだ。紙切れだ。今俺の手の中にあるのは一枚の紙切れだ。でもな、御門。
「所詮芙蓉は式神。心など何も持ってはいない。そんな無駄な行為をしてどうするというのです」
確かにあいつの心は魂は存在しているんだ。目には見えなくても、形にはならなくても。確かに、確かに存在しているんだ。お前の瞳には絶対に映らない場所で。お前には絶対に見る事の出来ない場所で。その綺麗なこころと、魂は。
「紙切れを愛してどうするつもりですか?」
存在するんだ。俺の中で、俺の心の中で。だからこいつは紙切れなんかじゃない。紙切れなんかじゃないんだ。
「紙切れだと?」
囚われた呪縛。こいつに永遠に逆らえないと言うその呪縛。こいつに永遠に仕えると言うその呪縛。けれども。けれども、それは。
「紙切れだとっ?!!」
今、俺はその見えない鎖を引き千切った。血を流しながら透明な血を流しながら。全てを引き千切った。今まで築いてきた日々と、その信頼と。その全てを破り捨てて、今。
「ふざけるなっ!!」
今初めて。初めてこいつに逆らった。
『初めまして、村雨様』
御門の隣にひっそりと、そして艶やかに立つ一輪の華。
妖艶な程に綺麗で、そして鋭い刺を持つ一輪の華。
『…‘様’はいらねーよ…様は……』
綺麗だと、触れてみたいと思った。その刺に貫かれてみたいとも。
『それはいけませぬ。我が主の大事な方様を付けぬ訳には』
冷たい言葉。冷たい声。口調は限りなく丁寧でも、その言葉に感情はひとつもこもってはいない。ただ言葉は表面を滑ってゆくだけで。
『それでもやめてくれ』
それが無性に腹が立った。無性にムカついた。表面だけの言葉で言われるのが。だから。
『いいか、俺に様なんてつけんなよ。俺は村雨でいいんだ』
だから逆らった、お前の言葉に。お前が何か違う反応をしてほしくて。お前の表面以外の言葉が、聴きたくて。だから俺は、逆らった。
『…でも晴明様の……』
『御門なんてどーでもいいんだ。俺がそう言ってんだから。あいつは関係無い』
その言葉に。その言葉に、お前は一瞬戸惑った。それは本当に瞬きする程の時間でしかなかったけれど。確かにお前は、戸惑った表情を見せた。
それが。それが俺にはひどく嬉しくて。
『いいか、俺のことは村雨と呼べよ』
嬉しかったから。ひどく、嬉しかったから。だから、俺は。
『はい分かりました、村雨様』
自分でも信じられないくらいに自然に笑みが零れた。ごく自然に、その笑みが。
『違うっ村雨だ』
そして笑ったら、お前は一瞬ぽかんとして。そして。
『…あ、ごめんなさい…村雨……』
少しだけほんの少しだけ困ったようにそう言ったお前に。そんなお前に恋をした。
…笑えよな、芙蓉…お前は俺の初恋の相手…だったんだぜ……
我に返った時には…御門の身体は強かに壁に飛ばされていた。俺がこの拳で、こいつを殴りつけていた。この手で俺が、こいつを。
「村雨、何をするのです?」
口の端に血が、滲んでいる。けれどもその綺麗な顔は、その表情は全く崩れる事が無かった。何時もの冷徹な顔で俺を見上げている。全てを凍らせるようなその瞳で。冷たい瞳で俺を見る。
「芙蓉の何処が紙切れなんだっ?!こいつはちゃんと心を持っている…俺の前で笑うし、俺の前で泣いた…それなのに心が無いとお前は言うのかっ?!」
その冷たさがその冷酷さが俺にとって最も頼り甲斐のあるもので、最も許せないものだった。俺はお前が必要のないと言って切り捨ててきたものを、捨てる事は出来ない。
「そんなのはお前の目の錯覚ですよ」
捨てる事なんて出来ない。俺には出来ない。…俺には…出来ない……
「錯覚なもんかっ?!芙蓉は俺を好きだと言った。俺の腕の中で震えた、それを錯覚だと気のせいだとごまかせるかっ?!」
頬に落ちる、涙。綺麗な雫。お前の涙。綺麗でそして。そして、何よりも大切な宝物。
「いい加減にしなさい、村雨」
ゆっくりと御門の手が伸びてくる。それでも俺は止めることが出来なかった。心の叫びを、魂の叫びを。俺は止めることが。
「できねーよっ…俺は、俺は…芙蓉…お前だけをずっと…ずっと……」
「ずっと『愛していた』ですか?そんな事ずっと前から知っていますよ」
見上げてくる御門の瞳は残酷な程綺麗だった。そして。
「知っていますよ。村雨」
それ以上俺は、言葉にする事が出来なかった。不意に視界が霞んで、そして。
…そして俺はその場に崩れ落ちた……
蒼い涙の、運命。
君が僕に差し出した、運命。
僕が君に与えた、運命。
限りない選択肢の中から唯一ふたりが選んだもの。
唯一ふたりが、その指を絡めたもの。
…ふたりの指先が…触れ合ったもの……
君の細い肩が、揺れている。その震えを閉じ込めるようにきつく、きつく抱きしめた。
「…あっ…」
信じらないと言う風に見開かれた君の瞳を、僕は自分の全ての想いを込めて見つめ返した。そしてその震える瞳を瞼の裏に閉じ込めて。そのままそっと唇を奪う。
「…如月…さ…んっ……」
彼は一切抵抗しなかった。ただ一度だけぴくりと身体が震えて、そしてそのまま僕の唇を受け入れた。受け入れて、そして。そして途切れ途切れに僕の名を呼ぶ。
「…紅葉……」
髪を撫でながら、もう一度その唇に口付けた。そこから広がる甘い痛みが、胸に静かに浸透する。浸透して、全身を駆け巡る。
…愛している…と…そう、想った……
君を愛していると。君だけを愛していると。
こんなにもこんなにも僕は彼を求めていた。彼を欲しかった。その想いは驚くほど急激に僕の全身を支配する。こんなにも彼が愛しくて、こんなにも彼を愛している。
どうしようもない程に、どうにも出来ない程に僕は君を。
…君を…愛している……
どうして、僕は。僕はこの想いを今まで耳を塞いでいたのか?
今までどうして目を逸らしていたのか?
…違う…逸らしていたのでも、塞いでいた訳でもない。本当は、気付いていた。本当は何処かで気付いていた、この想いに。このこころよりも深い場所から溢れてくる想いに。
でも僕はそれに目を閉じた。そして耳を塞いだ。全ての優しい嘘がそれを覆って、全ての哀しい真実を閉じ込めた。こんなにも答えは手の届く場所にあったのに。
僕の飛水流の血が、それを否定した。龍麻への想いが、それを許さなかった。
彼を護らねばと言う想いが。彼だけを考えなければならないという想いが。その全部がこの想いを閉じ込めて、そして隠した。
…僕は…卑怯者だ……
真実に目を閉じ、心の声に耳を塞ぎ。嘘を積み重ねて、積み重ねるだけで。優しさが何よりも残酷だと分かっていたくせに。偽りの優しさがどれだけ他人を傷つけるのか、分かっているくせに。それなのに僕は君への想いを閉じ込めていた。こんなに君を、求めているのに。それでも、それでも僕は。
…僕は君を…愛している…君だけを…愛している……
これは、夢?
僕が見ている夢なのだろうか?
それとも、僕が見ている都合のいい幻?
ならば夢でもいい、幻でもいい。
それが夢だとしても、幻だとしても構わない。
貴方が僕を好きだと言ってくれるのなら。
貴方が好きだと、言ってくれるのならば。
これが何であっても。何であっても、構わない。
…たとえ…嘘でも…、いい……
貴方のその一言が、聴けるのならば。
蒼い涙の、運命。蒼い月の、運命。
「…きさら…ぎ…さん……」
何度も何度も降りてくる唇に、僕は眩暈すら覚えた。もうこれが夢なのか現実なのか分からなくなって。そして僕はこのまま立っている事が出来なくなって、貴方にしがみ付いた。そんな僕を貴方はそっと抱きとめてくれる。そっと抱きしめてくれる。
このまま時が止まってしまったらと、思った。このまま全てが止まってしまったらと。
全てが停止して、この静寂の時間だけが全てになったらと。
このまま時が止まって、貴方の腕の中にいられたらと。貴方の腕の中に閉じ込められたらと。それだけを思った。それだけを、願った。
「…紅葉…好きだ……」
口付けの合間に何度も囁かれるその言葉に。繰り返し繰り返し降り積もるその言葉に。その言葉に僕は、涙が零れ落ちるのを止められなかった。
雨でも隠せないほどの涙が僕の頬から零れる。冷たい雨の中で唯一暖かい雫が。雫がぽたりと零れ落ちる。
「…如月…さん…」
どうしても僕は貴方の前では泣いてしまう。貴方の前で微笑いたいのに。貴方の前では微笑っていたいのに。どうしても。どうしても泣いて、しまう。
「泣かないで、紅葉。僕は君の涙は…見たくない……」
その言葉を聴いてまた、僕は涙が零れた。貴方の言葉。遠い昔に貴方が僕に言ってくれた、言葉。貴方は何も、変わってはいない。何一つ変わってはいない。たとえ貴方が何一つ憶えていなくても。なに、ひとつ。
「…ごめんなさい…如月…さん……」
そっと背中に腕を廻して、そして貴方にしがみ付いた。すると貴方はより深く僕を抱きしめてくれた。きつく、抱きしめてくれた。その腕の強さが嬉しくて。何よりも嬉しくて。
「…ごめんな…さい…如月さん……」
「いいよ、謝らなくても。これは僕の我が侭なのだから」
髪にそっと落ちてくるその唇に、瞼にそっと落ちてくる唇に。僕の身体はまた、震えた。この人に触れられるたびに、僕はただどうしようもない程に震えてしまう。
「でも僕は、出来るなら君の笑顔が見たい」
そう言って再び唇が降りてきた。その甘い口付けに、全てを溶かされた。
…このまま雨の中ふたり、溶けてしまいたい……。
雨と一緒に。涙と一緒に。
全ての嘘と真実を洗い流して。そして。
そしてふたりだけで、そっと。そっとこの綺麗なままで。
綺麗なままで、溶けられたなら。
何もかもが失くなってもいい、と。
何もかもが消えてしまってもいい、と。
そう思った。そう、願った。
このまま永遠に、ふたりだけで。
降り続ける雨だけが、ふたりを包み込んだ。
「寒くないか?紅葉」
包み込むその手のひらが、ひどく暖かいから。
そこから伝わる体温が、心地よいから。
「如月さんこそ、寒くないですか?」
「こうして君を抱いているから、暖かいよ」
伝わる体温と、伝わる鼓動。その全てを抱きしめたい。
この腕の中に抱きしめて、そして包み込みたい。
「…僕も…貴方の腕の中は…暖かいから……」
このまま雨の中にふたり、溶けてしまおうか?
…溶けて…しまおうか?……
百年の、恋。百年の、想い。
私は貴方を探していた。本当は。
本当は探していた。ずっと、ずっと。
たとえ私の全てが晴明様のものでも。
この偽りの命も、偽りの身体も。
全てが晴明様の為だけに作られているとしても。
晴明様の為にしか生きられないとしても。それでも。
それでも私は、私のこころは。
ずっとずっと、貴方を探していた。
身体なんか、無くても。
姿なんて、無くても。私は。
私の心は、貴方だけを愛していると。
私の魂は、貴方だけを求めていると。
貴方だけを、捜していると。
百年の、恋だから。
繰り返し繰り返し巡る螺旋の中で、貴方だけが私の中で光り輝くもの。
貴方だけが、輝く。
たとえ全てのものに逆らってでも。
貴方が私を選んでくれた。私が貴方を選んだ。
今までの全てを崩して、全てを失って。
それでも。それでも選んだ。互いの手を、互いの指先を。
…ふたりで…選んだ……
歪む、景色。霞んでゆく、視界。
…俺は死ぬのか?…このまま死ぬのか?……
愛する女を護り切れずに、愛する女をこの手で護り切れずに。
…このまま死ぬ…のか?……
お前への裏切りの代償は『死』なんだな。そうだお前にはそれが一番相応しい。
何よりもお前に相応しい。お前が他人を許すなんて想像が出来ない。
たとえこの俺でも容赦無く切り捨ててゆく。それがお前、なのだからな。
…絶対的な強さと、冷たさ…それがお前…なのだから……
それでも、御門。俺は。
俺はそんなお前を何より分かっていて、それでもあいつが欲しかった。
こうなる事を心の何処かで分かっていても、それでも。
それでも俺は。俺は自分の心に逆らえなかった。自分の気持ちに逆らおうとは思わなかった。バカな男だと笑っているだろうな。それでも。
それでも俺は、自分のこころのままに生きたかった。
螺旋を駆け巡る私達の運命。
そこから零れる先の未来に光はあるのか?
この両手で抱え切れないこの運命に。
両手で掬い切れないこの運命に。
…未来は、あるの?……
「…ふ…よう……」
その名を、呼んだ。最期の意識の限りを絞って。
もしも俺と言う存在全てがこの世の何処にも失くなってしまっても。
俺が呼んだお前の名前は。お前の名前だけは。この世の何処かに。
この世界の何処かに、残っていて欲しいと祈りながら。
…それだけをただ…祈りながら……
未来は、この手で造るもの。
自分の手だけが自分の意思だけが、この未来を造る。
誰に頼るでもない自分自身でしか、それを成しえる事は出来ない。
誰のものでもない自分だけの、未来。
自分の未来は、自分の手で取り返すものだから。
貴方の声が、私を呼ぶ。その声だけが、私の全て。
生きている。私は生きている。自分の『意思』で。自分の『命』で。
私は今を、生きている。
「芙蓉、何故です?」
少しだけほんの少しだけ驚愕の表情を浮かべながら、晴明様は私を見つめ返した。晴明様の驚愕の表情など永遠に見る事など叶わないと、そう思ったのに。そう思うと少し不思議な感じだった。
「私の意思に反して人型になっている?」
何故?私にも分かりません、晴明様。私にも分からないです。ただ、何もかもが失くなって、何もかもが消え去って。その中で。その中であの人の声だけが、声だけが私の耳に届いて。私の心に届いて、私の魂に届いて。そして私は。
「…わかりませぬ…晴明様…ただ、私は」
「私は村雨を護りたかっただけ…」
晴明様の不意打ちでその場に崩れ落ちた貴方を、私は放っておけなかった。
愛する人が傷つき倒れるのを私は、放っておく事が出来なかった。
貴方を愛しているから。私は、貴方を。
…愛する、ひと。私は彼を、村雨を愛している。
貴方の声が私を呼ぶから。貴方が私の名を呼ぶから。だから私は。
私はこうして貴方の声に答えただけ。ただそれだけ。
貴方が、私を呼んだから。貴方だけが、私を呼んだから。
その声だけが、奇跡を起こした。
睫毛の先の、たったひとつの真実。
「…芙蓉……」
雨は降り続ける。静かに静かに降り続ける。全ての静寂と全ての哀しみ。
「お許しを、晴明様。私は村雨を愛してます」
大切な方です。貴方様は私にとって何よりも大切な方。天后芙蓉として全てを懸けてお守りせねばならぬ方。それでも私は。私は大切な貴方様よりも村雨を選んだ。
「お前は式神ですよ。それでも?」
大切なお方。貴方様がいなければ私の存在意義がない。それでも。それでも私は、私は。
「はい」
私は全てのものに逆らって、村雨を選びました。何もかもに逆らって。たとえそれが『式神』として許されない行為であろうとも。
「村雨は、お前よりも先に死んでゆきますよ。それでも?」
私は『芙蓉』として、村雨を選びました。
「構いません。私は待ちます。ずっと。村雨の魂が転生し続けるのを」
初めて見たお前の『意思』のある表情。人形ではないその表情。それは私の手を離れ、私の知らない生き物となる。
「次に転生した時にお前を愛するとは、限らないのに?」
村雨がお前を愛した時から気付いていましたよ、芙蓉。何時しかこの日が来る事を。それでもそれに目を閉じていたのは、私がお前を手放したくなかったから?
「…百年の恋です。私にとっては、百年間待ったのです。だからこれから先何年でも何千年でも私は待つ事が出来ます」
いや違う。手放したくなかったものは、今まで築き上げてきたもの。お前と私と村雨と三人で築き上げたもの。でもこれ以上私にはそれを縛る権利は無い。私達にはそれぞれの意思があり、それぞれの想いがある。それを否定してまでも、築き上げようとすればそれは偽りでしかなくなるのだから。
偽りのものなど私が一番望みはしないもの。一番必要としないもの。だから。
「…ならば……」
「ならば見せてみよ。お前のその百年の恋を」
「はい…晴明様…」
だから今全てを清算しましょう。私の手によって。
私の手によって全ての幕を降ろしましょう。
そして今度は違うものを築けばよい。
でもとんだ計算外ですよ、芙蓉。お前に『こころ』が宿るとはね。
式神に心など不要なのに。そんなものを持てば式神として致命傷になるのに。それでも。
それでもお前は持ってしまったのですね。それでもお前の中に宿ってしまったのですね。
ならば私には、消す事など出来ないでしょう。
お前が私の命に逆らってまで、村雨を護ると言うのならば。
私の意思の届かない場所で、それを望むのならば。
…私には、それを封じる事は出来ない……。
「さようなら、私の芙蓉」
「…晴明様……」
「お前はお前の心のままに生きるがよい」
「…はい……」
不思議と私の頬から熱いものが零れ落ちた。
どうしてだろう?どうしてなのか?
晴明様貴方のその言葉を聞いた途端、私は一筋の涙を零していた。
ただ泣きたくて。泣きたくて。
今初めて知った。説明のつかない気持ちが、涙が存在する事を。
…私は初めて、それを知った……。
「さようなら、私の芙蓉」
さようなら晴明様。
さようなら私の大切なお方。
…さよう…なら……
このまま君を奪い去ってしまいたい。
誰にも見せずに、誰にも渡さずに。
君だけを僕の腕の中に閉じ込めてしまいたい。
何時しか雨はあがっていた。けれども互いの温もりを感じていたくてふたり、抱きしめ合う腕を放さなかった。放さなかった。放したくなかった。
「…紅葉…このまま…」
壬生の髪に顔を埋めるとそこから雨の匂いがした。柔らかく優しく、そして哀しい雨の匂いが。雨の、匂いが。
「如月さん?」
その匂いが如月を包み込んで、そして。そしてゆっくりと浸透する。如月の全てに、その香りが浸透する。
「このまま君を奪い去りたい」
ずぶ濡れのままの身体で。そのままずっと、抱き合っていた。互いの温もりだけが全てだと、そう思ったから。この伝わる暖かい体温がふたりの今の全てだと。
「…奪って…ください…」
何を?何から?それすら分からない。何も分からない。けれども、このまま奪われたいと思った。何もかもから、全てを。それはきっと。きっと貴方が言った言葉だから。
「如月さん」
如月の腕の中で、壬生は微笑んだ。その笑顔は如月が何よりも見たかったものだった。何よりも、どんなものよりも。見たかった、ものだ。
「貴方の、想うままに」
…見たかったもの、だった。
未来なんて、いらない。
過去なんて、いらない。
今、ここに。ここに貴方がいればいい。
ここに、貴方がいれば。
それは夢よりも、優しい夢。
濡れた身体に浴びた熱いシャワーは、まるで自分のこころのようだった。
「……」
壬生は鏡に映る自分の身体を見つめひとつ、ため息を付いた。無数に広がる紅の跡。村雨が付けた、跡。
行為自体に後悔はなかった。あの時あのひとに抱かれなければ、自分は崩れてしまうほどにこころは壊れていた。愛のないセックスだけが自分を現実に引き止めた。
ただ溺れることだけが、自分自身を穢す事だけが、現実に引き止める手段だった。
「…こんな僕を…貴方はどう思いますか?……」
首筋に残るキスマークを指で辿りながら壬生は呟いた。こんな自分をどう思うのだろうか?弱さを隠し切れずにただ。ただ縋る事しか出来なかった自分を。
…それでも貴方は…僕を受け入れて…くれますか?
蒼い涙の運命だけが、ふたりを結ぶ。
もつれた糸をほどいた先の真実など、ただひとつしかないのに。
どうして。どうして、その真実までこんなにも遠回りをしてしまうの?
こんなにも簡単に答えはあるのに。
「…紅葉……」
名前を、呼ばれる。その声に導かれるように貴方の前に立った。
「…如月さん……」
名前を、呼んだ。その声に勇気付けられるように貴方の腕の中に縋った。
「如月さん、好き」
背中に手を廻して、その感触を手のひらで感じる。遠い昔一度だけ爪を立てた、その背中に。その広い背中に。
「僕もだよ、紅葉。愛している」
自分から、口付けた。自分から貴方に口付けた。この喉の乾きにも似た飢えは、こんなにも貴方を求めていた証拠だとそう思った。どんなに諦めようとしても、どんなに閉じ込めようとしても、溢れてしまうこの想い。貴方への想い。両手で抱えきれなくて、そして溢れ出す貴方への想い。今もこんなにも僕から零れている。
「…如月さん…僕は……」
身体を纏っていたバスタオルを自分から外した。そしてそのまま貴方の腕から離れる。
「…紅葉?…」
わざと貴方に見えるように。この紅の散らばる跡を。貴方に見えるように。
「…さっき村雨さんに…抱かれました…それでも……」
「それでも貴方は、僕を抱いてくれますか?」
君は微笑う。泣けない瞳で。
泣かない瞳で。君が哀しく、微笑う。
「紅葉、愛しているよ」
君の笑顔が見たいのに、僕はずっと君を泣かせてばかりだ。
…何時も何時も、何時も?
僕は一体何時からそんな事を思っていた?
「愛している」
もう一度、抱きしめた。力の限り、きつく。きつく抱きしめた。
ただ僕は、君に微笑って欲しかっただけだから。
君の笑顔がみたかっただけだから。
君の孤独な魂を、この腕で包み込みたかっただけだから。
ただ、それだけだから。
「君だけを愛している」
それだけが。それだけが僕の永遠の、望み。
口付けるたびに、その白い肌が紅に染まってゆく。
ほんのりと色づく君の身体が愛しかった。
自分がこの冷たい身体に体温を分け与えていると言う事が、それが何よりも嬉しかった。
「…んっ……」
舌を絡めあいながら、その身体に指を滑らせてゆく。きめ細かい肌は指先に極上の感触を与えた。
「…ふぅ…んっ…ん…」
唇を離すのが惜しくて、ずっと口付けていた。唇が痺れるまで、ずっとずっと。
「…如月…さん…はぁ…」
夜に濡れる君の瞳。綺麗で哀しい君の瞳。蒼い月の下の、君の瞳。蒼い、月?
「…あぁ…」
一面の蒼い、月。君の瞳に重なるのは蒼い月。綺麗で哀しい蒼い月。僕はそれを何処かで見ている。何処で?…何処で、見ている?……
「…紅葉…」
シーツを掴んでいる手に自らの手を重ねた。そしてそのまま引き上げると、自分の背中へと廻させる。ここが唯一の君が縋る場所だとでも言うように。
君が村雨に縋ったのは、君が彼に抱かれたのは、きっと僕のせいだ。僕が君を、追い詰めた。君が僕を。僕が飛水流に、龍麻に拘った結果が。その結果が君を追い詰めた。
「ごめんね、紅葉」
君を愛しているのに。答えはこんなにも傍にあったのに。僕の真実はこんな簡単な場所にあったのに。
「…きさらぎ…さん?……」
君の傍にあったのに。君の中にあったのに。僕はその事実に目を閉じ耳を塞いでいた。
「君をこんなも愛しているのに、僕はその事実を全て閉じ込めていた」
君の手がそっと。そっと僕の頬に触れた。綺麗な細い指だった。色素の薄い、冷たい指先だった。
「…ごめんね…紅葉…」
「…泣かないで…ください……」
頬に伝う、涙。それは快楽の為なのか?それとも?それとも?
「…泣いているのは、君の方だろう?…」
君の瞼に指先を重ねて涙の雫を拭った。零れ落ちるその涙を、拭った。綺麗なその涙を。
「…そう言うと…思いました……」
互いの頬に指先が触れている。そうして体温と想いを分け合った。全てを分け合った。
「泣かないで、くれ。僕は君の涙を見るとどうしてかひどく苦しくなる」
同じセリフを言う貴方。同じ言葉を。
あの時と同じ言葉を言う、貴方。
何も変わっていない。何一つ変わっていない。
貴方は何時も涙を流さない。こころで泣く。
こころで貴方は、泣く。泣けないひとだから。
何時も何時も強くなくてはいけないひとだから。
誰よりも強くなくてはいけないひとだから。でも。
…でも、もしも貴方が許してくれるのなら…
僕の前でだけは、泣いてほしい。
僕の前でだけは貴方の弱さを見せて欲しい。
…貴方の感じている痛みを…分け合いたい……
「…如月さん……」
指を、絡めた。永遠の約束の代わりに。その指先を、絡めた。
「…紅葉……」
互いを結ぶものがこの指先だけだとしても。これだけだとしても。
「…愛しています…ずっと…」
これだけがふたりを結ぶ唯一の絆でも。
「僕もだよ、紅葉」
それでもいい。それだけで、いい。他に何も、いらない。
君の瞳に映る真実が。
その真実が僕の真実と重なる。
そして。そしてそれが唯一のものだと。
ただひとつだけのものだと。
ふたりだけの蒼い月の運命、だと。
…ふたりだけの蒼い涙の、運命だと……
月だけが見下ろす夜の闇の中で。
ふたりで、ふたりで抱き合った。
消えない爪痕だけを残して。
その爪痕だけが幻ではない唯一の事実として。
唯一の、証として。
君の存在が、幻ではないその証として。
何時の間にか雨は、あがっていた。
まるで全てをさらっていってしまったかのように。ただ残るのは穏やかな静けさだけで。
穏やかで、優しいその静けさだけで。それだけが、ふたりを包みこんだ。
「…村雨……」
その差し込む月明かりの下で、お前が綺麗に微笑っていた。何よりも綺麗に、微笑っていた。
「…芙蓉…お前…」
まだ少し痺れの残る手でお前の頬に触れる。暖かいと、思った。暖かい頬だと。これがお前の、お前の『命』の証。
「貴方を想う気持ちが、私にこの姿をさせました」
微笑う、お前。柔らかく、そっと。そっと微笑むお前。その笑顔を俺は。俺はずっと…見たかった…。見たかった。それだけを見たかった。ずっとずっと。百年経っても転生しても俺は、俺はそれだけを望んでいた。ずっと。
…ずっとその笑顔が…見たかった……。
「…芙蓉…もっと俺に顔を見せてくれ」
見たかったから、お前に椿の花を渡した。お前が少しでも喜んでくれたらと。それだけを思って。それだけを。
「え?」
戸惑いながら聞き返すお前。こんなにもお前は色々な『表情』を見せてくれる。こんなお前の何処が人形だと言う?お前は人形なんかじゃない。お前の命は偽りなんかじゃない。
「お前の笑顔がもっと見たい」
頬に触れた指先をそのまま髪に移した。漆黒の艶やかなその髪に。その髪の毛一本一本ですら、愛しい。それが『お前』を形成しているものだから。
「…村雨…」
長い睫毛も、黒水晶の瞳も、紅い唇も。細い指も、透明な爪も、柔らかい頬も。どれもこれもが今のお前を作っているものだから。
だからこそ、そのひとつひとつを愛してゆきたい。俺の全てで護ってゆきたい。
「もっと見せてくれ」
俺の言葉に少しだけ戸惑いながらも、お前は微笑う。柔らかく、微笑う。
…その笑顔を瞼に焼き付けて、そして俺はそっとその唇を奪った……
「綺麗だぜ、芙蓉」
微笑う先に零れ落ちる涙が。
頬を伝う一筋の涙が。
何よりもどんなものよりも綺麗だから。
綺麗、だから。
「村雨、愛しています」
もうそれ以上の言葉はいらなかった。
言葉はもういらなかった。
伝わったから。全てが伝わったから。だから。
もう何も、言わなくても。
百年の、恋。今実を結んだ。
絡み合っていた紅い糸がほどけて。
ほどけて、そして。
そしてひとつに結ばれる。
百年の、恋。百年の、想い。
…今、紅い糸が……
柔らかい日差しが瞼の上を通り過ぎる。それに弾かれるように壬生は、目を開いた。
「……」
隣で眠る如月の横顔を見つめながら、そっと気付かれないように髪に指を絡めた。
貴方の安らかな眠りを妨げないように、と。
「…如月さん……」
声に出して。声にして貴方の名前を呼べる事。こうして5本の指で貴方に触れられる事。それが。それが何よりも嬉しくて。嬉しい、から。
「大好きです」
微笑った。無意識のうちに、自分が気付かないうちに。誰に言われるでもなく、誰に向けるわけでもない自然に零れた笑み。幸せだと、思った。幸せだと。
こうして綺麗な寝顔を見つめながら。貴方の眠りが護れる事が、何よりも幸せだと。
何よりも幸せだと、思った。
このままもう少し温もりを感じたくて壬生は再び瞼を閉じた。その胸にそっと頬を重ねて。重ねて、そして再び優しい眠りに落ちてゆく。
昔貴方の膝の上でまるまって眠っていた頃のように。
偽りの優しさと、真実の愛。
それがどんなに穢れたものであっても。
壊れたものであっても。それが、それが真実ならば。
幾ら偽りの優しさで包みこんでも。
何時しかそれは剥き出しになる。
多分俺は、こころの何処かで気付いていた。
気付いていてそして。
そして目を閉じていた。耳を塞いでいた。
全ての真実に目を背けて。
与えられる嘘の優しさに溺れていた。
…溺れて…いたかった……
扉を開いた瞬間、そこだけが紅の色になった。
紅い色は嫌い。
全てを連れ去ってしまう色だから。
大切なもの全てを。
全てを連れて行ってしまう色だから。
「…み…ぶ?……」
カチャリと音がして、沈んでいた意識が浮上する。壬生は習性からかとっさに起き上がると、床に落ちていた自らのワイシャツを羽織ったその瞬間だった。
重たい扉の開く音と。そして。そして、自分を見つめる空っぽの瞳が飛び込んできたのは。
「…龍麻……」
『如月、鍵をちょうだい』
『鍵?』
『お前の家の鍵。ちょうだい』
『…分かったよ…君がそれを望むのならば…』
君が望むならば、僕はその全てを叶えよう。
ひれがこの飛水流の、そしてこの血の。
僕の宿命なのだから。
只ならぬ気配で目を開けた先に、君の壊れた顔。
僕が、僕が唯一護らねばならぬ者。僕の宿命が護らなければならぬ者。
その君を、僕が壊した。
そして、それは紅の華に…なる……。
艶やかに咲く、残酷に咲き誇る華になる。
まるで、スローモーションのようだった。
龍麻の放った気が、自分に向かってきたと思った瞬間。
君が。君の身体が僕に重なって、そして。
そしてそのまま。
そのままゆっくりとその場に崩れ落ちた。
「…如月…さ…ん……」
彼の背中から血の飛沫が飛ぶ。
僕の身体に君の血が、降ってくる。
紅の血が、降ってくる。
ぽたりとひとつ、頬にかかった。
「…くれ…は?……」
一瞬だけ。一瞬だけ君は、微笑った。
その背中に紅の華を咲かせながら。
君は微笑んだ。綺麗に、そしてひどく幸福そうに。
君は僕の腕の中で、微笑った。
何故、微笑う?どうして、微笑うの?
「…嘘つき…如月の…嘘つき……」
泣きじゃくりながら、龍麻は僕に言った。
けれどもその瞳は正気のものではなかった。それは混乱と困惑とそして…そして狂気を宿らせた…瞳、だった。
空っぽの瞳が灯した色は狂気でしかなかった。それだけだった。それだけが龍麻の全てを、埋めていた。
「…た…つま……」
紅い色。全てを浚ってゆく紅の色。
その色が嫌い。大嫌い。
大切なもの全てを奪ってゆく、その色が。
「…嘘つき……翡翠……」
そしてその瞳に僕は。僕は、全てを思い出した。
嘘で固めた真実を。闇深くに沈めた事実を。
その全てを、思い出した。
「…あ…やの?……」
零れ落ちる君の、涙。
幼い頃から独りきりて泣いていた君。
そんな君を護りたくて。そんな君の涙を拭いたくて。
何時も何時も自分の後を一生懸命に君が付いて来るから。
だから僕は振り返って、振り返って君の涙を拭った。
…綾乃…大切な大切な綾乃…
でも僕は今。今全てに気付いた。
蒼い月の夜を。一夜の幻を。
そして。そして死の間際に僕が庇ったその命を。
僕はその全てを。残酷なまでに痛く、そして唯一の真実を。
今僕は思い出した。そして。
…そして僕は…自分の贖罪を…思い出した……。
End