桜の、森・9


<前世編 5 嘘の章>


『さくらが、みたいね』
無邪気に微笑って。子供みたいに微笑って。
お前が言うから。お前が連れて行ってとねだるから。だから。
『ああ、春になったらみにいこうぜ』
指を絡めて、約束した。眩しい程光る太陽の下で。
きらきらと輝く、日差しの下で。

太陽の日差し。強い日差し。
目を開けていられない程の強い日差し。
でもその日差しが見たかったから。
その強い光が、見たかったから。
勇気を出して瞼を開いた。

「…ゆう…ひ……」
爪を噛みながら、ぽつりとお前が言った。空っぽの瞳で。ぺたりと床に座りこみながら、そう言う仕草はまるで生まれたての子供みたいだった。
「…夕日…怖いの……」
屋敷に戻ってきた綾乃は、壊れていた。全ての俗世と全ての現実を置き去りにしていた。お前は『こころ』を埋めてしまった。そして自分だけの世界に閉じ込められる。自分だけの世界。そこは誰も、誰もお前を傷つけない。誰一人お前を。
「怖いのか、夕日が」
まるで生まれたての赤ん坊のように。何も知らず何も気付かず、何もかも。何もかもを置き去りにして。愛も想いも喜びを哀しみを、その全てを。
「怖くなんかねーよ。夕日なんか」
「…京一……」
そして綾乃を連れてきたガキ。一体お前は何者だ?そう聞こうとして、俺は口を閉じた。
…お前を追い駆けなかった俺に、それを聞く権利は無い。
真実の愛をやれない俺に、お前の真実を聞く事は出来ない。お前の心の底を見つめる事は出来ない。そしてお前はそれを決して望みはしない。
「怖くねーよ。俺がいるから」
「うん、京一。怖くない。綾乃怖くない」
子供のこころで喋る綾乃。子供のままの無垢なこころで。そしてそれに答えるのも、無垢な子供。ああ、そうか。
…お前を救うとしたらそれは…それは純粋なこころだけなのかもしれない…
何者にも染まっていない駆け引きも打算も何もない、ただの純粋な気持ちだけが。その魂だけが、綾乃。お前の心に届くんだな。

愛する男の死が、こいつを真っ白にした。
愛する男が存在しない世界を自ら作り出して。
この優しい夢の中で、永遠に。
永遠に閉じ込められる。全ての真実を置き去りにして。
その優しい幻に身を委ねる。
…お前は女だな…綾乃……
女だから、壊れたんだな。愛する男の記憶を封じ込めたんだな。
お前はただの女だから。それ以外の何者でもない。
ただ愛する男の為だけに生きているそれだけの女。
…綾乃…お前はイイ女だぜ。
俺はそんなお前に初めて、初めて愛しいと言う感情を覚えた。
何者でもないただの生身の女でしかないお前を。
そんなお前を、愛しいと思った。

そして真っ直ぐな瞳が。俺が絶対持ち得ないその瞳が、俺を見つめてきた。
太陽の光のような。闇に何一つ犯されていない瞳。眩しい光だけを閉じこめた瞳。
「ガキ…お前は何者だ?」
子供だった。目の前に立つ小さな子供。けれどもその瞳だけは、違っていた。その瞳は一人の『男』の瞳、だった。その瞳で真っ直ぐに俺を見上げてくる。強い瞳だと、思った。
強い、瞳だと。子供特有の恐れを知らない瞳とは違う。それは真の強さを持った瞳だった。
「ガキじゃねーよっ俺は京一だ。蓬莱寺 京一」
真っ直ぐな何者にも汚せない強い瞳。穢れた世界だけを見てきた俺には到底出来ない、遠い遠い昔に捨ててきた瞳。遠い、昔に置き去りにした瞳。それを目の当たりにするのはひどく不思議な気持ちだった。
「京一か。お前綾乃の何なんだ?」
子供相手に何を聞いているんだろうと思いながらも、つい聞いてみた。するとその勝気な瞳はまっすぐに俺を見据えて。真っ直ぐに視線を反らす事なく。そして。
「…俺は…俺は…綾乃を…」

「綾乃を護りたいだけだ」

その瞳の真剣さに、その瞳の光の強さに。その揺るぎ無い言葉に。
笑い飛ばす事が俺には出来なかった。冗談だと笑い飛ばす事が。
その痛いほど真剣な瞳を、冗談には出来なかった。

優しい、夢の中。
嘘で固められた夢の中。
誰も私を傷つけない。誰も私を壊さない。
誰も私を独りぼっちにしない。
優しい優しい、嘘の中。
けれども。けれどもその中でたったひとつだけ。
たったひとつだけ真実があるの。
この嘘で固められた世界の中で。貴方の瞳だけが。
貴方の瞳だけが、真実なの。

貴方の強い光だけが。

それから俺は京一を、この子供を引き取った。
壊れた綾乃に子供は望めない。俺はそんな綾乃を抱けはしない。
それならばと周りを納得させて引き取った。いや納得など誰もしないだろう。それでもいい。俺が決めた事なのだから。自分の人生を、自分で決めたそれだけだ。
愛する女を手に入れる事が出来ないのならばそれくらいの我が侭を許して欲しい。
綾乃と離縁し新たな妻を取れと言われたが、俺はその言葉を無視した。他の女を遊びとして抱く事はあっても、俺にとっての『妻』はこの女だけだ。
それはお前を初めて抱いた時から、決めていた。
俺の心が別のものを求めて、そしてお前が別のものを求めていると知った時から。
二人で作り上げた穢れた絆が。二人だけで共有した罪の時間が。俺達を結び付ける唯一のものだとしても。俺達以外の誰も理解出来ないとしても。
俺にとっての『妻』はお前だけだから。

永遠に抜けられない、抜けたくない深い森。私の『子供』を閉じこめた深い森。
「京一、京一」
綾乃がその名を呼ぶ。服の裾をぎゅっと掴みながら。まるでそれだけが自分の頼れる唯一のものだと言うように。
「どーした?綾乃」
唯一の、もの。唯一の、光。深い森を照らす唯一の。
「綾乃を独りにしないでね」
この森を抜ける為の唯一の道しるべ。ただひとつの光。ただひとつの。
「独りになんてしねーよ」
差し出した手に指を絡めて。絡めて、結んだ。この手だけが唯一のものだから。
「独りになんてしねーよ。約束するよ」
「うん、約束してね。綾乃を独りにしないってね」
眩しい光の中で指を絡めて約束をした。太陽の下で。強い光の下で。
…約束を、した……

紅の夕日を打ち消す強い光。
同じ太陽なのにこんなにも違う。
こんなにも、違う。
貴方といれば夕日ですらも色を変えてしまう。
血の色だった、紅い色が。その色が。
貴方のお蔭で違うものに見える。

一面の紅い夕日。それすらも打ち消す強い光。
「村雨、貴方は優しい人ですね」
愛する女。永遠に触れられない女。俺の前に立ち、俺の妻の様子を何時もと変わらない表情で見ている女。
「優しい?お前にそんな事を言われるとは思わなかったぜ、芙蓉」
妻を娶れと、子を残せと。御門は『上』の顔で俺に告げた。けれども俺はその申し出を断った。断る事は御門も充分承知していただろう。分かっていただろう。それでもお前は支配者として、俺に告げなければならなかった。それがどんな無駄な行為だと知っていても。
「綾乃様を永遠の伴侶として、決めたのですね」
お前の言葉に俺は首を横に振った。永遠の伴侶。永遠の運命。それは何時もお前のもとにある。芙蓉、お前だけが俺を結ぶ鎖なのだから。
「永遠は俺にとって別の場所にある」
お前のもとにある。俺の永遠は。お前自身が、俺にとっての永遠なのだから。
「村雨?」
「手の届かない場所にある。だから永遠なのかも、しれねーな」
それ以上俺は何も言わなかった。そしてお前も何も答えなかった。それ以上は多分、俺達は告げてはいけないものなのだろうから。

永遠は手の届かない場所にある。
私はその言葉を心の中で無意識に繰り返していた。手の届かない場所。
それは、それは私も同じだから。
私は限りある命がほしい。私は貴方と対等に向き合える身体が欲しい。
でもそれは。それは永遠に私には届かないもの。
届かない場所に存在するもの。永遠に、叶わないもの。
私はただの『女』になりたかった。特別なものなんて何もいらないから。
ただ平凡な何処にでもいる女になって。そして。
そして貴方の隣に立ちたいと、そう思った。

もしかしたらふたり飲み込んだ言葉の先は、同じものだったのかもしれない。

見つめる先で、お前は微笑う。子供のような笑顔で。
「京一っ!」
綾乃は、微笑う。俺の前では一度も笑ったことのなかったお前。けれどもそのガキの前では。京一の前でだけは、無邪気に子供のように微笑う。いや、今のお前は子供なんだ。時間の針を逆回転させて、そして止めてしまった。止めてしまった、憐れで幸せな子供。
「なんだよ、綾乃」
幸せそうに。本当に、幸せそうに。ああ、これは偽りの幸せだ。砂上の上の楽園だ。全てが幻と偽りの上に成り立っている、楽園。
けれども。けれどもお前は確かに微笑っている。微笑っている。
京一とともに。京一の手によって。京一の、こころによって。
全てが偽りのものでも。全てが嘘で固められたものでも。それでも。
それだけは、事実なんだ。
お前がこうして微笑っているのは、真実なんだ。それは偽りでも幻でもない。
全てが嘘の中で。全てが夢の中で。
…お前の微笑みだけは…本物なんだ……

何もかもが嘘で固められたその中で。お前が京一に向ける笑顔は。

桜が、咲く。桜が。全ての始まりと、全ての終わりを見つめている。
全ての真実を見つめ続けている、桜の花が。
「京一、これは、なに?」
ひらひらと舞い散る薄桃色の花びらを、綾乃は俺に差し出した。子供の俺よりも子供になった綾乃。時間を逆に戻して、そして止めてしまった綾乃。
「これは、桜だ」
その綺麗な手のひらに、俺は花びらを返した。真っ直ぐに俺を見つめる瞳。今俺達は同じ位置に立っている。子供の俺と、子供の綾乃。時間を遡って今、お前は俺との時間を共有している。
「さくら?」
その花びらを太陽に透かしながら、綾乃は微笑った。俺がずっと望んでいたものが今ここにある。ここに、ある。
「ああ、桜だよ。綺麗だろう、綾乃」
ひらひらとふたりの間に花びらが降ってくる。そっとそっと、降ってくる。
ふたりを包みこむように。ふたりを閉じこめるように。ひらひらと。ひらひらと。
「うん、綺麗だね。綺麗だね、京一」
桜の、森。むせかえる程の甘い香りと。そして一面の桜。俺と、綾乃と。その桜の森で。
ずっと時を止めていられたら、と。
このまま何もかもを忘却の彼方に置き去りにして、ふたりだけで。
ずっとこの、降り積もる桜の花びらの下で……

「綺麗だね、京一」

綺麗だ、綾乃。
お前の方がずっと綺麗だ。
ずっと綺麗だ、綾乃。

それは私が犯した、罪。私の犯した最大の、罪。
太陽の光が、ほしくて。自分だけのものにしたくて。
独りいじめしたくて。自分だけの手の中に。
私は許されない罪を犯した。許されない罪を。

私は貴方に、何を求めていたの?
私は貴方から、何が欲しかったの?
貴方の全てを犠牲にしてまで、私は何をしたかったの?

「京一、お前にこの家を譲ろうと思う」
俺がこの家に引き取られてから既に八年の歳月が流れていた。俺は何時しかもう十八歳になっていた。あの頃よりも随分と背が伸びた。身体は大きくなった。手も、腕も大人のものと代わりないものになっていた。そして。そして俺の心も。
「俺が?」
俺の心も、進んでいる。時を止めた綾乃を見つめながら。何時しかその背中に追い付いて、そして俺は越えて行った。時を止めた綾乃と、時を進んでいる俺。
「ああ、俺ももう若くねーしな。そろそろ余生を静かに過ごしたい」
そう言いつつも村雨はまだ三十代を半ば超えたくらいだった。これから男盛りになる年齢なのに。これからが活躍する年齢なのに。
「それにお前ももう充分にイイ男になったからな。俺ほどではねーが。だから譲ってやるよ」
笑いながら村雨はそう言うと俺の頭をぽんっと叩いた。肉親のいない俺にとって村雨は父であり兄であった。ぶっきらぼうでけれども優しい。何よりも頼れる、肉親よりも肉親らしい人だった。大事な人だった。感謝してもしきれない程に。
「後を頼むぜ」
その言葉に俺はこくりとひとつ頷いた。ここまで俺がこれたのは村雨がいたから。汚いガキだった俺を引き取ってくれたのは。そして。そして何も言わずに綾乃の傍にいさせてくれたのは。他でもない村雨だった。だから。
「それならば跡取として妻を娶ってもらう事になるぞ」
だからその申し出も、俺は断らなかった。例え心が違う場所にあったとしても。

首を縦に振った京一に、俺は予想外の驚愕を覚えた。
俺はお前は首を縦に振らないと思い込んでいた。お前は綾乃の為に振らないと。
いや、違う。それは俺のエゴだ。
俺はお前に首を縦に振って欲しくなかったんだ。
愛する女を永遠に手に入れられない立場のお前が俺に重なって。重なってそして違う場所へゆく事を。違う答えを出す事を無意識に望んでいた。
お前ならばそれすらも打ち破ってくれるのではないかと。
俺が出来なかったことを、してくれるのではないかと。無意識の内に望んでいた。
無意識の内に、俺は望んでいた。けれどもお前は首を縦に振った。
それは俺への義理の為か?それとも。それとも綾乃を俺に帰そうとしているのか?

そしてまた、桜が咲く。
ここに来て何度目かの。むせかえるほどの甘い香りと、そして淡い桃色の花吹雪。
そして。そしてそこに、変わらないお前がいる。時を止めた、お前がいる。
「綾乃」
俺が名を呼ぶと、お前は無邪気な顔で振り返った。変わらない、剥き出しの子供の笑顔。子供のまま時を止めたその、笑顔。あのままずっと。ずっと止めていた笑顔。
「京一」
時を止めたお前は、何時までも綺麗だった。何時までも何時までも綺麗だった。桜の花びらの下で、無邪気に笑うお前。何よりも、綺麗だった。
俺は大人になって分からなかった事が、知らなかった事が見えてきた。
綾乃と村雨が夫婦である事と。綾乃が愛している男が死んだ事と。そして俺が…俺が綾乃を愛している事に。この想いが、愛だと言う事に。
綾乃が時を止めてしまっても、俺の時間は進んでいた。俺の時間は確実に進んでいた。だから。だから俺の想いも。
俺の想いも、確実に変化してゆく。確実に時の流れの中で変わってゆく。
お前が子供のまま俺を無邪気に見つめても。俺はそのまま瞳を返す事が出来ない。
俺はお前を無邪気なままの想いでは見られない。
「京一今日も桜、桜綺麗だね」
「ああ、綺麗だな。綾乃」
俺はそっと手を伸ばして綾乃の髪を撫でた。俺が望む通りに大人になって綾乃を護れる程になった時。なった、時。俺は逆に綾乃を抱きしめることが出来なくなった。
大人になって全てを知った俺は…綾乃を抱きしめる事が出来なくなった。
「綺麗だね」
抱きしめてそして、全てを欲しいと思う事が。それが許されない人だと気付いたから。
幾ら望んでも、幾ら欲しくても。俺の手に入れる事が出来ない人だと気付いたから。
俺の手はお前の頬を包みこめるのに。俺の腕はお前を抱きしめる事が出来るのに。
それだけの物をこの歳月の中で手にいれたのに。いれたのに、触れられないひとだと。
あれほど望んでいたものを手に入れた時、俺はその全てを許されない立場になっていた。
「綾乃、俺結婚するよ」
お前に言った所でその意味を理解出来ない事は分かっている。けれども俺は告げた。告げずには、いられなかった。
「…けっこん?…」
案の定不思議そうに俺を見返す綾乃に、俺は笑った。けれどもそれはきっと、お前が初めて見る偽りの笑顔だろう。
「結婚して、綾乃以外の女を護る」
ぎこちない笑みだろう。だって俺は笑っていない。ただ口許を笑いの形にしているだけで、笑ってはいない。
「いやっ!!」
その言葉に綾乃は首を激しく横に振った。いやいやと、何度も繰り返す。繰り、返す。
「綾乃?」
「いやいやいやっ!!!」
急に綾乃は暴れ出して、俺の胸板を激しく叩き付けた。癇癪を起こした子供のように。いや実際、綾乃の心は子供のままなのだ。ずっとずっと子供のまま。俺だけが独り、大人になってしまった。俺だけが大人になって、お前をこうして置いて行く。現実と言う名の壁にぶつかりながら。
「いやっ綾乃を独りにしないでっ!!!」
「…綾乃…」
「…独りにしないでぇ……」
そう言って腕の中で泣き出してしまったお前を。お前を俺はただ髪を撫でて慰める事しか出来なかった。それしか、出来なかった。
綾乃は、村雨のものだ。俺が触れてはいけないひと。このそひとは俺にとって『母親』なのだから。それでも。それでもそれでも。俺は。
…俺は…綾乃…お前だけを……
「…ううう…うううう……」
あの時のように、お前が泣く。お前が狂ったあの時のように。お前が時を遡ったあの時のように。あの時のように、お前は泣いた。何時までも、何時までも、泣いていた。

何時しか、綾乃の背中越しに夕日が見えていた。
紅い、夕日が見えていた。

…ヒトリニ…シナイデ……
綾乃ヲヒトリニ…ヒトリニシナイデ…
…オ兄チャン…
…ヒスイ…翡翠オ兄チャン……

紅い色は嫌い。
全てを連れて行ってしまうから。
大切なものを。大切なものを全て。
全て連れて行ってしまうから。
だから紅い夕日は嫌い。

…大…嫌い……

「いやあああーーーっ!!」
「綾乃っ?!」
泣き止んで大人しくしていたと思った綾乃が突然暴れ出す。その正気の沙汰でない様子は、綾乃が狂ったあの日以来だった。あの日以来、だった。
「落ち付け、綾乃っ!」
でも今俺は綾乃を腕の中に閉じ込められる力も、身体もある。あの時とは違う。あの何も出来なかった時とは、違う。俺は。俺は今。
「いやいやいやいやいやーーーっ!!!!!」
綾乃を、抱きしめられる。綾乃を、護れる。こうして、こうやって。
「落ち付け、綾乃。大丈夫だから」
力の限り抱きしめて。抱きしめて、動きを閉じ込めた。お前が暴れて何処か身体を傷つけてしまわないように。俺は必死でお前を抱きしめた。

私を抱きしめる腕。
強く強く、抱きしめてくれる腕。
その腕の強さが、その腕の暖かさが。
その全てが。その全てが私にとって。
…私に…とって……

「…京…一……」

深い、森。永遠に抜けられない深い森。
差し込む日差しだけが、差し込む光だけが。
その光だけが、道しるべだった。
そのきらきらと輝く太陽の破片だけが。
この森から抜け出す唯一のシルシなの。

「…きょう…い…ち……」

貴方の腕の中。貴方の優しさの中。貴方の光の中。
何時も、何時も包まれていた。何時も傍にいてくれた。
壊れた私の傍に、何時も何時も。
何時も貴方だけが傍にいてくれた。

「……京一………」

護りたかったもの。護りたかったひと。
貴方の綺麗な心。貴方の無垢な瞳。
私が唯一護りたいと思ったもの。けれども。
けれどもそれを私が穢した。私自身が穢した。
この手で、この身体で。この私の全てで。
…私がこの子を…穢した……。

背中に腕を廻した。
広い、背中。大きな背中。
何時しか私の身長を越えて、そして。
そして私すらも越えていった。
今貴方はこの私を切り離して、切り離して。
そして旅立とうとしている。
誰か知らない女の人を妻にして。
そのひとを、その腕でその背中で護るのだろう。
私以外の誰かを。誰かを護るのだろう。
…そんなのは…そんなのは…イヤ………

「…私以外…誰も…護らないで……」

女の顔、だった。
何時もの無邪気な綾乃じゃない、綾乃じゃない。
独りの女の顔で。独りの女の表情で。
綾乃は俺に告げた。俺に、告げた。
俺は、俺は許されないと分かっていても。それでも。
それでも再び綾乃を抱きしめた。この想いが伝わるようにと。
俺が愛しているのはお前だけだと。
生涯俺が全てを捧げる相手はお前だけだと。お前だけ、だと。
言葉では伝えられない代わりに、この腕に全てを伝えた。
愛していると、その想いだけを込めて。

私の、罪。許されない私の、罪。
桜の下にそれを全て埋めてしまえたら。
全てを埋めて、しまえたら。

風が吹いて再びふたりの頭上から、無数の花びらが落ちてきた。
ふたりの全てを埋めるように、大量の花びらが。
「綺麗、だね」
腕の中にいた綾乃の白い手が俺の頬に伸びる。そして頬についた花びらを取った。
そしてそれを無邪気に眺める。きらきらと子供の、瞳で。さっきの瞳とは違う、何時もの瞳で。何時もの子供のようなその瞳で、俺を見上げる。

全てを埋めてしまえたら。
私の罪を、全て。

見上げる瞳のお前に俺は何時もの笑顔で答えた。あれは一瞬の、一瞬の紅い夕日が見せた幻。きっと、俺が見た幻。やはりお前は子供で、あのままの綾乃なんだ。
「ああ、綺麗だな。綾乃」
風がひとつ吹いて、綾乃の手から花びらを飛ばした。ふわりと、飛んでゆく花びらに。
俺達は無言でそれを見つめていた。その花びらの行方を。

このまま、ずっと俺達は。
俺達はこのままで。このままでいる事が。
全てのものに逆らっても。全ての流れに逆行しても。
…綾乃…こうしてふたりでいる事が。
俺達にとって何よりも。何よりも必要なことなのかもしれない。
このまま静かにふたり、時の狭間で流れゆく事が。

私の最大の、罪。
それは貴方の人生を縛り付けた事。
貴方の全てを犠牲にさせた事。
…それが、私の最大の…罪……

貴方は飛び去った花びらを追い駆けて、そして。
そしてそれを私の手のひらに乗せてくれた。
太陽みたいに眩しい笑顔で。真っ直ぐに私を見つめて。
ああ、私はこの笑顔を手放したくは無い。
手放したくは無い。どんなことをしても。
どんなになっても、私は。
私は貴方が傍に。傍にいてほしい。
それがどんなに罪深いことであろうとも。

「村雨、俺は一生誰も妻を娶りません」
迷いも何かもかもを吹っ切った、昔のままの待つ直な瞳でお前は俺に告げた。
「どうした?何か心境の変化でもあったのか?」
全ての迷いや悩みを捨てた男の顔は、俺にとって羨ましいほどだった。
「こんな俺ですが、それでも後継ぎにしますか?」
「当たり前だ、俺が決めた事だ。誰にも文句は言わせねー。これからお前はこの家を…綾乃を護るんだ」
「村雨?」
「お前があいつを護るんだ。分かったな」
俺の言葉に珍しく神妙な顔で、お前は頷いた。
…綾乃…これがお前に出来る『夫』としての俺の最期の義務だ。
だから残りの俺の人生があいつの事だけを想うのを。想うのを許してくれよ、綾乃。

村雨の言葉に俺は誓った。
綾乃を護ると。ずっと護り続けると。
それは俺が幼い頃から。初めて逢った日から。心に決めていた事。
例え愛する事が許されなくても。
例えこの腕に抱く事が出来なくても。
俺はずっと。ずっと綾乃の傍にいる。
お前の傍で、お前の隣で。お前の笑顔を。
お前の笑顔を護り続けるから。
だから、綾乃。
…ニ度と俺が、泣かせたりしない……

そして時は流れる。
穏やかに、優しく。
全てのものを包み込んで、そして。
全ての優しさだけが、時と共に流れた。

そして貴方は何も知らないまま、私の死を見つめている。
私が年老いて醜くなっても貴方は私の傍にいた。
私の髪が白髪だらけになっても。私の顔がシワだらけになっても。
貴方は私の傍にいた。
誰のものにもならずに、誰も愛さずに。そして。
そして二度と私に触れる事がないままずっと。ずっと傍にいてくれた。
何も知らないまま。何一つ知らないまま。
私は全てを思い出していたの。私は全てを気付いていたの。
あの日、あの瞬間に私は全てを思い出したの。それでも。
それでも私は…知らないふりをした。子供の振りをした…

貴方が傍にいてほしかった…から……

貴方の笑顔が見たかったから。
貴方に優しくしてほしかったから。
貴方に護って、ほしかったから。
だから私はずっと嘘を付いた。
ずっと狂った振りをしていたの。
他に貴方を引き止める手段が思いつかなかったから。
他に貴方が傍にいてくれる理由が思いつかなかったら。
私は貴方を失いたくなくて、貴方に傍にいてほしくて。
だから、私は狂ったふりをし続けた。

そしてそれを告げないまま死ぬ私は、誰よりも罪深い。
貴方の人生を狂わせて、貴方の全てを縛りつけて。
貴方にあったたくさんの未来の選択肢を全て潰して。潰して私の傍にいさせた。
貴方には選べる未来がたくさんあったのに。貴方には綺麗な未来が。
それを、それを全て塞いで。それでも。
それでも。それでも貴方が…

私は、貴方が好きだった。

可笑しいでしょう?貴方よりもこんなにも年上なのに。
私は貴方に恋をしたの。貴方を愛したの。
翡翠への想いを埋めてくれたのは、貴方。
貴方だけが私を独りにしなかった。貴方だけが私の約束を護ってくれた。
貴方だけが私を再び笑わせてくれた。貴方だけが私に再びこころをくれた。
…貴方だけが…私に生きることを…教えてくれた…

貴方だけが…私を…救ってくれた……

抜けられない永遠の森から救い出してくれたのは貴方。
貴方のその強い光だけが。その光だけが。
紅い夕日の色も、永遠の迷路も。
全て全て、照らしてくれた。貴方と言う名の太陽の破片だけが。
それだけが、私に手を差し伸べてくれた。

ごめんなさい、京一。
貴方の全てを私が壊した。貴方の人生を私が縛りつけた。
私の勝手な想いで、貴方を閉じ込めた。
ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい京一。
だから私は貴方への想いを、真実を告げずにゆく。
全ての真実を死とともに、桜の森へと埋めてゆく。
だから。だからもしもまた、生まれ変わって出逢えたら。

今度は私に縛られないで、貴方の為だけに生きて……

私は貴方への想いを閉じ込めて、そして死んでゆくから。
もしもまた生まれ変わって出逢っても。
貴方を苦しめないように。貴方を縛りつけないように。
…京一…私は貴方への想いをここに置いて行くから。
この一面の、桜の森の中に。
置いて、ゆくから。京一だから次に生まれ変わったなら。
幸せになってください。愛するひとを見つけて、そのひとを護ってください。
貴方の背中の翼をもう二度と折ってしまわない様に。
貴方が光の中で、太陽の下で生きられるように。それだけを、それだけを祈って。

「…京一…ごめんね……」

…それでも…許されない…私の罪は……。
許されは、しない。私の罪は。
貴方の一生を台無しにしてまで、救われたかった私は。
貴方を誰にも渡したくなかった私の想いは。
…許されるはずが…ない……。

「…綾乃……」
答えない冷たい身体を俺はそっと抱きしめた。生きている間には触れる事の許されなかった身体に、今俺は触れる。馬鹿みたいに緊張した。馬鹿みたいに手が震えた。
「…綾乃…愛してる……」
たとえしわくちゃになっても、白髪混じりの髪になっても。俺は綾乃だけを愛している。どんなになっても俺は綾乃だけを。お前だけを、愛しているから。
「…今度俺達が生まれ変わったら…俺が絶対お前を笑わせてやるからな…。お前が好きな人と結ばれるように俺が…だから…綾乃…」

「今度会った時は…本物の笑顔を見せてくれよ…」

本物の笑顔を。お前の幸福な笑顔を。
この手で。この手で護りたいから。
どんなことをしても。どんなになっても俺は。
俺はもう二度とお前にこんな想いをさせはしないから。
だからもしも生まれ変わる事があったなら。
そしてもう一度お前に出会えたならば。俺は。
俺は、この全てでお前の笑顔を護るから。
どんな事があろうとも。どんな事になっても。
俺は、その為だけに生まれ変わるから。
だからもう一度。
もう一度、お前に逢いたい。
…逢いたい…綾乃……

桜が舞う。風に乱れ散る。ひらひらと、ひらひらと。
全てを埋めてゆく。この桜の花びらが。
ふたりの真実を。ふたりの本物を。
そして嘘と言う名の花びらだけが積み重ねられてゆく。
この地上に嘘と言う花びらだけが。
けれども。けれどもまた風は吹く。そして花びらを飛ばしてゆく。
ふたりの嘘を、吹き飛ばすように。

…ふたりの真実を…剥き出しにするように……




End

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