睡蓮
手のひらから零れる花びらが、そっと水面に落ちていった。
それを見つめる瞳がふと。ふと淋しく見えたのは、俺の気のせいじゃないだろう。
「…村雨?……」
ふわりと肩に掛けられたガクランに芙蓉は顔を上げた。そこにあるのは、何時もの。何時もの人を食わないような、顔。けれどもその瞳はひどく。ひどく、優しくて。
「―――風邪引くぞって…お前には無縁か……」
そう言いながらも村雨は芙蓉に掛けたガクランをそのままにした。式神にとって体温やぬくもりなど無縁のものだろう。それでも。それでも、と。
「…無縁でも……」
見上げた先のただひたすらに優しい瞳が。その瞳が、芙蓉の胸に残って消えない。こころのなかった自分にはありえない事だった。式神であり、命のない自分にはありえない筈の事だった。けれども。けれども、今は。
「そうして気遣ってくれる事が…嬉しい……」
今はこうして芽生えたものがある。心のなかった自分に、ただの入れ物だった自分に芽生えたもの。それがここに。ここに、今存在するから。
「…芙蓉……」
最後の花びらが手から擦り抜けて、芙蓉は自らの腕を村雨へと伸ばした。その腕を掴むと、そのまま。そのまま村雨は、きつく身体を抱きしめた。
ぬくもりのない身体。ひんやりと冷たい身体。
命のないお前にひとのぬくもりははない。それでも。
それでもこうして抱きしめれば。こうして抱き、しめれば。
感じるのはお前だけで。ただ独りの、お前だけで。
「…芙蓉……」
その頬に触れ、そして見つめる。綺麗なお前の瞳を。
「…何処にも行くなよ…」
漆黒の瞳に俺だけが映っているのを確認して。
「…村雨……」
それを確認して、そっと。そっと唇を塞ぐ。
――――この瞬間が、永遠ならばと…想った……
死のないお前。生すらもないお前。御門の命だけで動く人形。それでも俺のもんだ。俺の、ものだ。誰にも渡さないし、誰にも渡す気はない。例えお前が御門の為にしか動けなくても。それでも。それでも今この瞬間は、俺だけを見ているから。
「花びら、飛んでいる。お前が落とした奴が」
風がふわりと吹いて、水面に落ちた花びらを空へと飛ばした。白い花びらが、ひらひらと宙に舞いもう一度ぽたりと水へと落ちた。風が止み、その水面へと。
「綺麗だな」
「村雨がそんな事を言うとは思わなかった」
「どーしてだ?ガラじゃねー?」
「―――そうかもしれない…でも違う……」
腕が俺の背中に廻される。白い両腕が、俺の背中へと。その腕はやはり冷たくひんやりとしていたけれど。それでもこうして。こうして身体を触れ合えば、俺の体温がお前に伝わるんじゃねーかって思った。俺のぬくもりが、お前へと。そっと、お前へへと。
「…違う気がする…私には分からない…でも……」
「でも?」
「…分からない…でも……」
それ以上何も言えなくなってしまったお前の髪に、俺はそっと口付けた。柔らかい、お前の髪に。
ずっとお前を見ていたなんて、気付いてねーだろうな。
俺はずっと。ずっとお前だけを見ていた、芙蓉。
お前が人でなくても。お前が式神でも。お前が御門のモンでも。
でも俺にとってお前は『芙蓉』なんだ。ただの、お前なんだ。
それ以上の存在でも、それ以下のものでもない。ただの『芙蓉』なんだ。
そんなお前を俺は惚れた。ただそれだけ。
何も変わらない。何一つ変わらない。
ただ惚れた女が、ひとでなかっただけ。
ただそれだけの事。ただ、それだけの事だ。
「――――まあ…綺麗なんて言葉…お前以外に使わねーかんな……」
俺の言葉に弾かれたようにお前は顔を上げて、そして。そして俺を見つめた。漆黒の瞳で、俺を見つめる。そこに映っているのが俺だけだという事実が、何よりも今は嬉しかった。
「…村雨…私は……」
「ん?どーした?」
呆然としたような顔。そんな顔すらも、綺麗だ。お前のがする顔なら全てが、綺麗だ。感情がないから。無表情だから、と。そんなもので覆われていたお前。でも。でも本当は。本当はこんなにも。こんなにも色々な顔を、お前はするんだ。
「…私は…我が侭なのでしょうか?……」
「どーしてだ?」
「…貴方に…綺麗と……」
「…綺麗と言う言葉を…他に…使って欲しくないと思ったのは……」
自分の告げた言葉にお前自身が驚いていた。お前自身が、驚愕していた。自然に零した言葉の意味に、お前自身が。
「わ、私は…何を……」
驚いて俺を見つめ、そして耐えきれずに俯いたお前が。そんなお前が、俺にとっては何よりも。俺にとっては誰よりも。そんな、お前が。
「いや、いい」
そんなお前を、俺は誰よりも…愛しているんだ……。
もう一度髪に指を絡め、そっと俯く頬に手を置いて。そして顔を上げさせて、そのまま。そのまま口付けた。微かに薫る甘い匂いは、きっと。きっと零れゆく花びらの薫りだったのだろう。水の中に、そっと。そっと零れゆく花びら…だったのだろう。
お前が消えゆく花びらを静かに哀しんでいたように。
お前の中に芽生えたその感情をこの手で掬えるように。
水に落ちる睡蓮の花びらの薫りが、俺たちを無言で包み込んでゆく。
End