〜卒業〜
…生きる事に少しだけ、疲れたのかもしれない……
窓から覗くけぶった景色が、気だるい気持ちを増長させた。
犬神はつまらなそうに指先で煙草をいじりながら、その景色をぼんやりと眺めていた。
細かい雨が降り続いて、うっすらと霧に包まれた景色。窓から見える筈の桜は、この雨と霧のせいで視界を途切れさせる。
「……」
口許からひとつため息が零れて、犬神を無意識に苦笑させた。こんな事でため息を付くなど、自分がひどく情けないと感じて。
こうしてずっとこの景色を窓から見てきた。ずっと、遠い昔から。
この小さな教室の窓から覗く桜と、そして。そして生徒達。
3年間と言うほんのひとときの、時間。長い人生のほんの一瞬、この場所に立ち止まりそして旅だってゆく生徒達。
それを永遠の儀式のように繰り返しこの窓から見続けていた。
そして、今も。今もこうして見つめている。
時に笑い、時に泣き、そして。そしてかけがえのない瞬間と想い出を作る生徒達。
「ふ、羨ましいものだ」
こうしてほんのひとときの想い出を何よりも大切に出来る瞬間など、長くあまりにも長く生き過ぎた自分には…
もう無縁のものなのかもしれない。
『先生、犬神先生』
桜の下で、微笑うお前。きらきらと綺麗なものだけを閉じ込めた瞳で。
『先生桜が咲いてます』
真っ直ぐに前だけを見つめて。そして。
『綺麗ですよね、先生』
そして俺の長過ぎる時間の中で、ただひとつの光だけが包んだ瞬間。
その瞬間だけが、俺にとっての唯一の光だった。
「犬神先生っ!」
ぼんやりとした時間が突然の侵入者の声に終わりを告げた。そこには眩しい程の笑顔が飛び込んできた。
「どうした?桜井」
「どうしたじゃないよ、先生。これから皆でご飯食べに行くんだ。先生も行こうよ」
「でも俺はお前らの担任じゃないぞ」
「それでも先生にはいっぱいお世話になったんだもん。それにボク達卒業しちゃうんだよ。
可愛い生徒との最後の食事付き合ってくれてもいいじゃん」
「何が『可愛い』生徒だ」
軽くため息を付きながら答えると、小蒔は頬をぷうっと膨らませて拗ねた。
その仕草がひどく単純でそして素直で、犬神の口許に軽い笑みを浮かばせた。
喜怒哀楽を隠そうとはせずに、自分の心のままに気持ちのままに生きる事。
それはまだ稚拙な子供だからかもしれない。けれども子供だからこその強さが、ある。
傷ついても、どんなに傷ついても這い上がれる強さが。
どんなに、こころが壊れても。
「ね、だから行こ、行こ」
ぐいっと腕を引っ張りながら言う小蒔に犬神は断り切る事が出来なかった。いや、今回は断る気はなかったのかもしれない。
『先生一緒に写真取ってください』
写真は嫌いだ。想い出は、振り返る事は必要としないから。
そんなものを自分が抱えたらこの手で支え切れなくなることなど分かり切っていたのだから。それでも。
『ね、先生』
腕を絡めて眩し過ぎるほどの笑顔で微笑うお前に。俺は。
初めて想い出を振りかえってもいいかもしれないと思った。
「あ、犬神先生だ」
「げっ犬神…なんで呼ぶんだよっ」
「何か言ったか?蓬莱寺」
「い、いやその…」
生徒たち。俺の生徒たち。ほんの一瞬ともに過ごす生徒たち。
想い出は振りかえらないように心の底に埋もらせて、二度と開こうとはしなかった。
開いてもどうにもならないものだと思っていたから。けれども。
「先生、今までありがとうございます」
「緋勇」
けれども、時には想い出を開くのもいいのかもしれない。埋もれた想い出を引き出してみるのも。
「ここに来て、俺本当によかったです。皆に会えて…そして先生に会えて」
「…そうか……」
それ以上の言葉を犬神は言わなかった。いや言う必要などないと思ったから。
言葉に綴らなくても、言葉にしなくても、分かるものがあるだろうから。
「俺は一生この時間を忘れません」
きらきらと眩しいもの。眩しい光に溢れているもの。自分には眩し過ぎて、心の奥に埋めようとしている想い出。
でも時には…思い出してみるのも…いいかもしれない……。
たった一枚だけ、俺が持っている写真。
その写真に映るお前はもう何処にもいない。
けれども、俺の心の中に生き続けている。
それが『想い出』。それが『思い』。
俺が心の奥に埋めているものは、全てそんな小さな光の集合体。
それを時に開いて、振り返るのも悪くないかもしれない。
…お前の笑顔を、振りかえるのも……
「犬神何ぼーっとしてんだよっ行こうぜ」
「京一っ先生にぼーっとしてるって失礼だろっ」
相変わらずな態度の京一と小蒔に、やっぱり苦笑せずにはいられなかった。
変わってゆくもの、変わり続けるもの。そして、変わらないもの。
時が流れて、時間が経過して。そして想い出が遠ざかって。光がセピア色に変化しても。
それでも、変わらないものがある。変えられないものがある。
それが今この瞬間なのかもしれない。
「ふ、お前らは相変わらずだな」
このほんのひとときの、ほんの一瞬の。きらきらとした時間が。
『ほら、先生。これで私達の瞬間は閉じ込めました』
くすくすと笑って。幸せそうに笑って。
『私達の一番大事な時間を閉じ込めました』
1枚の写真を俺に渡す。その中に閉じ込めた光は永遠に変わらないもの。
この写真が色あせても、古びてもそれでも。
それでも、変わらないものが『ここ』にはある。
何時しか細かい雨は上がっていた。けぶっていた景色が開けてくる。
太陽の日差しが雲の隙間から零れて、雨の雫をきらきらと照らした。
そして何時しか。
何時しか自分が何に疲れていたのか…忘れていた。
時が過ぎても、時間が過ぎても、変わらないものがあるの。
変えられないものがあるの。
先生、知っている?
人は死んでも、心の中で思い続ければその人の中では生きているの。
本当に人が死ぬ時は、生きている人の心から消える事なの。
肉体が滅びても、魂が消滅しても。人の心の中にいる限り。
そのひとは決して、死なないの。だからね、先生。
ずっと、ずっと私の事を覚えていてね。
時々でいいから、私を思い出してね、先生。
貴方の中で、生き続けていたいの。
お前も…そして俺の生徒達も…ずっと生き続けている。俺の中で。
俺の、こころの中で。
End