死の、天使
『貴方の背中には、白い翼が見えるの』
夢だけで、生きられたらいいね。
優しい夢だけで。そうしたら誰も傷つく事なんてない。
誰も哀しむ事なんてない。優しい夢だけで。
夢だけで。生きてゆけたら…いいね…。
…僕はその細い指を握り締めながら…泣いていた…。
人を殺すのとセックスするのはよく似ている。
追い詰めた時の何とも言えない昂揚感と、その後に残る虚しさだけの寂寥感。後はただ深く暗い穴だけが自分の心に残るだけ。
ただ、それだけ…。
「…さよなら…」
その怖い程綺麗な笑顔を瞼に刻みながら、その男は息絶えた。残酷な程、綺麗なその顔。優しすぎる声、瞳。それはどこまでも天使のように清らかで、そして絶対的だった。
男の顔の脳裏に映し出された最後の映像は、優しく死を招く哀しい程綺麗な独りの少年だった。
その崩れゆく死体を眺める透明な瞳は、何処までも綺麗で感情がない。硝子細工の人形のようだった。
「終わったか?」
背後から声がする。振りかえる事なく頷く壬生に館長は口許だけで笑った。
「お前は、人を殺す為に生まれてきたような男だな」
「…そうかも、しれませんね…」
「顔色一つ変える訳でもない。かと言って、怯える訳でもない。何時死んでも構わないと思ってるくせに、絶対に死ねない」
「……」
「お前の鎖が母親に繋がっている間は…お前は理想通りの暗殺者だよ」
「どう言う意味、ですか?」
「…言葉通りだよ。お前の鎖がもしも…二本になった時、お前はどうするだろうね」
その言葉は、予感だったかも…しれない。
笑っている事に気付いたのは、何時だっただろうか?自分が人の命を奪うときに…確かにその口許は歪むのだ。
嬉しいからじゃない。楽しいからでもない。でも、笑ってしまう。
怖い、から?怖くは無い。死ぬのは怖くは無い。殺されるのも怖くは無い。ならば、何故?
…僕は、笑うのだろうか?
「壬生さんって、泣いているみたいに笑うんですね」
初めて出逢った時、彼女はまっすぐな瞳でそう言った。闇さえも自らの内に受け入れた強い、瞳で。彼女はそう、言った。
「僕が、泣いている?」
「こころが、泣いています。貴方の優しいこころが…あ、ごめんなさい…変な事、言って…」
そう言って俯いてしまった彼女の髪から、微かな匂いがする。それは何処か、懐かしい香りだった。だからだろうか?
「…名前は…?」
「えっ?」
「君の名前が、聴きたい」
他人なんて何一つ興味無い自分が、その名を聴いたのは。そして。
「あ、私…比良坂 紗夜っていいます」
その柔らかく微笑った顔に、泣きたい程の切なさを感じたのは。
苦しい何かが、通りすぎたのは…。
「僕は…」
「壬生 紅葉さん。素敵な名前ですね」
この深くて暗い穴から染み出した闇が、今確かにその瞳の奥に包まれた。それは彼女の持つ力のせいだろうか?それとも?
「優しい、ひとですね」
……それとも、彼女に惹かれているからだろうか?
…それは、確かな予感、だった……。
また僕は人を殺した。彼女と知り合ってから、何度目かに。何時ものように口許に笑みを浮かべながら、何時もの通り無機質に。何もかも変わらない、日常だった。何も、変わらない。
「…壬生…お前……」
館長の何時もの絶対的な支配者の瞳が、僕を映す。その瞳に僕はどんな風に映っているのだろうか?
「お前は何時か、壊れるかもしれない」
「…どうして、そんな事を言うのですか?」
「お前は優秀だ。そして理想的な暗殺者だ。だがしかし…」
それは初めて見る、館長の表情だった。何時もの無表情のヴェールを外し、何処か淋しげだった。
「それはお前が心を持たない人形だったからだ。おまえが『人』として心を持ってしまったら…お前は耐えきれずに壊れる」
「…何故そんな事を突然…言うんですか?」
「私が気付かないと思っているのか?お前を育てたのは私だ。だから分かる。お前には今、心が生まれている」
「……」
「お前自身の本当の心が全てさらけ出されたら…哀しいがお前はそれで、終わりだ…」
終わりが、来る?それはひどく甘美な響きに聞こえた。今までの自分が全てこわれてなくなってしまうのも、いいかもしれない。
そうしたら…彼女は僕から離れてゆくのだろうか?
…それだけが…唯一の今の僕のしがらみ、だった。
そして、僕は、壊れた。
貴方が哀しそうに笑うから。
私はどうしていいのか分からなかったの。
貴方の本当の笑顔が見たいのに。
貴方の本当の優しさを知りたいのに。
私は不器用で子供だったから…貴方を護る術を知らなかったの。
傍に居ることしか、出来なかったの。
その冷たい手を必死で握り締めた。
「…壬生、さん……」
名前を呼ぶのが精一杯で、私は他にどうする事も出来なかった。
「大丈夫だよ、比良坂」
そう言って貴方はまた笑う。哀しそうに。今にも泣きそうな瞳で。
「…君の手は、暖かいね…」
包み込んでくれる指先は、冷たかったけれど。私は知っている。貴方の心の中がどんなに優しくて、どんなに暖かいか。私は、知っている。
「壬生さん…泣かないで…」
そう言いながらも、泣いているのは自分だった。彼の唇が私の涙を拭ってくれるまで…私は自分が泣いているのすら分からなかった。
「…君の方が、泣いている…大丈夫だよ、僕は…こんな事には慣れている…」
そう言いながらも手術中の赤いランプを見つめる彼の瞳は、言葉とはうらはらで。それが、哀しかった。
私は彼を護りたい。彼を傷つける全てのものから、彼を護りたい。この細い腕じゃ全てを包み込む事は出来ないけれど、この華奢な身体じゃ全てから盾になる事は出来ないけれど。それでも。
……私は彼を、護りたかった………
彼女の手を握りながら、僕はぼんやりと考えていた。館長が昔言った言葉…
『鎖が二本になった時お前はどうするだろうね』
母親を捨てる事など、決して自分には出来ない。何よりも誰よりも大切な母。僕の唯一の『家族』
…でもまた、自分は彼女を捨てる事など出来はしない。小さな肩を震わせながら、必死で僕を護ろうとする彼女。僕がどんなに血塗られた手を持っていても、どんなに残酷な心を持っていても、彼女は微笑ってくれる。そして、抱きしめてくれる。
僕には、選べない。母親も、彼女も。どちらも、選べない。
何故僕は他人のぬくもりなど、求めてしまったのだろうか?
何故僕は他人の優しさを、欲しがってしまったのだろうか?
今までみたく独り死んだように生きていけば、誰も何も失うものなどないのに。
…どうして、その手をとってしまったのだろうか?…
僕は自分が許せなかった。
母親が危篤状態になってまで、ふたりを離せない…自分が。
僕は、その時確かに母親の事を忘れていた。
母の具合がここの所良くないのは分かっていた。分かっていたのに、彼女と共に居た。
彼女の柔らかい髪に、触れたくて。彼女の優しい声が、聴きたくて。病院にいなければならないのに…僕は彼女の傍にいた。
彼女は夢を、見せてくれる。とっくの昔に置き忘れた優しい夢を。甘い幻想を。僕に見せてくれる。優しさだけが互いを護る全てだと、そんな甘い嘘を信じさせてくれる。
…・・帰宅した先の留守番電話が、僕を現実へと戻した。
何時もの冷静な館長の声が、母親の危篤を告げた。そして。
『お前はどちらの道を選ぶのか?』
その一言とともに、電話は切れた。
…僕らは何も出来ない、ただの子供なのだろうか?
「…壬生さん…今、何を考えています?…」
自分でも馬鹿な質問だと思いながらも、私は聞かずにはいられなかった。そのランプを見つめる瞳が…遠くに感じられて…。
「君の事、考えていた」
「…壬生さん…」
「母親の事を今は考えなければならないのに…僕は君の事を考えていた」
また、彼は微笑った。泣かない瞳で。泣けない瞳で。泣いても…いいのに…。
「分かっていた…君を好きになった時から…分かっていたんだ。護るものがふたつになれば…きっとどちらかを傷つける」
それでも貴方は、微笑う。柔らかく、哀しく。
「…ならば、私を傷つけてください…」
「比良坂?」
「私を傷つけてください。貴方はお母さんの事だけ考えていてください。それでいいんです。私は大丈夫です」
「……」
「貴方がお母さんを、護って。私が…貴方を護るから…」
「…比良坂……」
「それじゃあ、駄目?私が傍にいる理由は?」
「違うよ、僕が君の傍にいたいんだ」
「じゃあ…泣いてください…」
「比良坂?」
「私の前でだけは…我慢しないで……。私の前でだけは…本当の貴方でいて…」
私はまた、泣いてしまった。貴方よりも先に。でも…。
「…泣いたら…壊れるよ…僕は……」
「壊れたら、私が全部拾います」
「…壊れても…いいのか?……」
「……壊れても、貴方が…好きです……」
傍に、いるから。貴方の涙を拭えるように。
触れ合った指先だけが、今自分の世界の全てでした。
僕は、生まれて初めて声を上げて泣いた。
みっともないとか、悔しいとか、そんな事は何も考えなかった。ただただ生まれたての子供のように泣いた。
泣いて泣いて、声が枯れるまで泣きつづけた。
そんな僕を。
彼女は、ずっと包み込んでくれた。
「…僕はもう、人を殺せない……」
今、初めて気がついた。僕が人を殺す時、笑うのは。
……本当は、泣きたかったからなんだ………。
『お前はどちらの道を選ぶのか』
僕が彼女の手を取った時から…それは決まっていたのかもしれない。
例え今まで築いてきた自分を全て失っても、僕は。
僕は『ひと』として生きたい。
命ある者として、こころを持った者として。
僕は人間として、生きたい。
「壬生さん」
優しい声に弾かれるように見上げると、柔らかい彼女の笑顔がそこにあった。
「壬生さんの背中に、白い翼が見える」
「え?」
「貴方はもう、死の天使じゃない。貴方は今度は自らの翼で、自分の意思で飛び立つの」
「貴方の背中には、白い翼が見えるの」
その言葉に。貴方は微笑った。嬉しそうに、楽しそうに。
それは本当の、笑顔、だった。
End