約束
…君の本当の優しさを、どれだけの人が気付いているだろう?
何時も楽しそう、だったから。
君の淋しさに気付いてあげられなかった。
何時も幸せそう、だったから。
…ごめんね。
こんなにも大好きなのに、僕は君を泣かせてばかりだ。
重たい瞼を広げた瞬間瞳に飛び込んできたのは、自分が一番みたくないものだった。
……ごめん…そう言おうとしたが、声には出来なかった。
ただ自分の頬に落ちてくる熱い雫が、自分の言葉と声を全て奪っていった。
この痛い程に熱い、涙が。自分の心の奥底にまで染み込んで、ちくりと心臓を刺した。
「…気が、ついたか…。緋勇」
その言葉に龍麻は視線だけを声の主へと向ける。そこに岩山の姿を見つけ、初めて龍麻は自分が何処にいるのかを認識する。ここ、桜ヶ丘中央病院。そして自分はあの柳生宗崇の手によって殺されかけたのだ。…そうだあの時、刃物で何度も切りつけられて…。
「未だ意識がぼんやりとしているみたいだな」
「…いいえ…もう…大丈夫、です……」
先程は出す事の出来なかった声が、今は何故かすらりと出た。さすがに少し、掠れてはいたが。けれども肝心な時にはなにひとつ、自分の声は役に立たない。
「そうか、ならばいい。皆が本当に心配していた」
それは何時もの調子で言った言葉だったが、どこか優しかった。少しだけ胸の中に暖かいものが落ちてきた。
「……すみません………」
「謝る事はない。そこにここにいる間は私がじっくり可愛がってやるからな。それとも」
不意に岩山は言葉を切ると、後ろを振り返る。その口許には意味ありげな笑みが浮かんでいた。
「それとも、高見沢にでも可愛がってもらうかい?」
そういって自分の前に差し出された彼女の瞳は。
………乾く事が、なかった。
……僕は運命よりも、君を選ぶ。
「…ごめん……」
ふたりっきりになって、やっと言いたかった言葉が声になった。さっき、目覚めた瞬間に真っ先に伝えたかった言葉だったのに。
「…ダーリンの…バカ……」
それだけをやっとの事で言うと、舞子はぷいっと後ろを向いてしまう。こんな時に不謹慎かもしれないが、そんな彼女の動作がとても可愛いと思う。どうしようもない程可愛い。
「…舞子…凄く凄く凄く心配したんだから……」
彼女の細い肩が小刻みに揺れている。こんな時に動かない腕がもどかしい。抱きしめて、包み込んであげたいのに。
「……心配で心配で…どうしていいのか分からなくて…ダーリンは…皆の大切な人だから……」
おずおずと舞子は振り返った。やっぱりその瞳は涙でいっぱいだった。自分が一番、見たくなかったもの。……彼女の、涙。
「…舞子の…大切な人だから……」
ぽつりと一つ、雫が頬に落ちる。そして彼女の柔らかい栗色の髪も。そこから微かに香る甘い匂いが、龍麻の鼻孔を刺激する。
「好き、だよ」
「…こんな時に…ずるい……そう言えば…舞子…あなたを…怒れない……」
「ごめんね、でも好きなんだ」
「……謝って、ばかり……」
「さっきからずっと言いたかった。目が醒めた瞬間一番に言おうと思ったのに、声が全然出なかった。だから今、いっぱい言っている」
「変な、ダーリン」
「よかった、やっと笑った」
龍麻の言葉にまた、舞子は微笑った。その笑みは自分が何よりも大好きなものだった。何よりも。誰よりも。
「僕は舞子が微笑ってくれないと、どうしていいのか分からないんだ」
「でも舞子を泣かせるのは、何時もダーリンだよ」
「ごめんね」
「また謝ってる」
「言っただろう?今いっぱい言っているって」
「でもいっぱい言うなら、違う言葉がいい」
「なら、何て言ってほしい?」
龍麻の言葉に舞子はちょっとはにかんで。触れるだけの柔らかいキスを、龍麻のひとつくれる。そして。
「好きって、言ってほしい」
…龍麻が絶対に断らない望みを、告げた。
「言ってあげるよ、幾らでも」
触れるだけのキスが少しだけ、もどかしかった。暖かい唇の感触がこうして言葉を紡いでいる時にさえ纏わり付いて離れない。
「……やっぱ、一回で…いい……」
「もっと言ってあげるよ。舞子の望むだけ」
「いいの、一回で。舞子…ちゃんと分かっているから」
そう言ってまた、口許に笑みが浮かぶ。その顔だけが自分の望みだった。
彼女が微笑ってくれる事が、自分の望みの全てだった。
「ダーリンが、舞子の事好きだって」
「うん、大好きだよ。世界中で一番」
「舞子も、だよ」
舞子の指が龍麻の頬に触れる。そこには小さな傷が出来ていた。彼女はそれを優しく指で辿る。
「ダーリン、キスしてほしいでしょう?」
悪戯をする前の無邪気な子供の瞳が、龍麻を覗き込む。彼女は何時も子供みたいな真っ直ぐな瞳を自分に向けてくる。何一つ穢れていない、透明な色彩で。
「よく分かったね」
「分かるよ、舞子はダーリンだけの看護婦さんだもん」
「じゃあキスして。恋の病は医者でも治せない」
にこっと舞子は微笑うと、ゆっくりと龍麻の唇に自らのそれを重ねる。それはたちまち互いの吐息を奪う程に激しくなる。
「……なんで…こんなに…好きなんだろう……」
「………ダーリン…………」
「…自分でも、……分からない………」
互いの舌を絡めあい、根元をきつく吸い上げた。何時しか唾液が龍麻の頬を伝い、シーツの上に染みを作る。それでも口付けるのを、止められなかった。
……どうしてこんなに、好きなんだろう。
不意に襲われる衝動に龍麻は何時も答える事が出来ない。本当にどうしようもなく彼女が好きなのだ。それだけが自分が知っている唯一の事。
「…舞子……」
彼女の名前を人前で呼んだ事は一度も無い。彼女への想いを他人に告げた事も無い。誰にも打ち明けられない、秘密の恋。でも。
「何?ダーリン」
でも、それでも。僕達の気持ちは、繋がってる。それがたとえどんなに細い糸だとしても。
「…僕の運命は…多分決まっているんだ。この黄龍の器である以上…逃れられない運命があるんだ…でも……」
それを手繰り寄せて、互いの小指に結んで。離したくない。
「…でも、それでも僕は。その運命に逆らってでも、君とともにいたい」
「……ダーリン………」
「…今、分かったよ。僕は廻りに嘘を付く事で、自分の運命を無理やり受け入れようとしていた…でも…もう駄目だ……」
彼女の柔らかい栗色の髪に触れたいと、思った。その髪をそっと撫でて、指を絡めたい。そしてその甘い匂いのする髪に、口付けたい。
「死ぬんだと思った瞬間に、思い知らされた。僕はあの瞬間、君の事だけを考えていた。黄龍の器よりも両親への想いよりも何よりも君のことを…」
口付けて、そして。そして何度でも好きだと、囁きたい。好きだと。君だけを、好きだと。
「…これから僕は運命に逆らって、最後の敵と戦う…それでも…僕に付いて来てくれるかい?」
たとえどんな運命が振りかかってきても。それがどんなに残酷な道になったとしても。それでも。
「僕だけの、看護婦さんで…いてくれる?…」
彼女は、頷いた。小さく、でもはっきりと。だから。
今この腕で抱きしめる事が出来ないのが…ひどく、悔しかった……。
本当は少しだけ、不安だったの。
ダーリンは舞子の事好きだって、何時も言ってくれるけど。
でも、でもね。
美里ちゃんはダーリンにとって運命の相手だから。
舞子には、見えるの。ダーリンと美里ちゃんの後ろに。
何度も何度も転生を繰り返して、結ばれている恋人同士の姿が。
…だから、本当は怯えていたの……。
何時しか舞子よりも美里ちゃんを選ぶんじゃないかって。
本当はね、舞子…
……すごく、すごく、淋しかったの……
「…また、泣かせちゃっね……」
ぽろぽろと落ちてくる涙に、龍麻は少しだけ困ったような表情で言った。どうしても自分か彼女を泣かせてしまう。
「……ううん、これはうれし涙だもん…へへ……」
「…舞子……」
「舞子は、ダーリンだけの…看護婦さんだからね」
そう言って微笑う彼女。泣きながら一生懸命微笑む、彼女。そうだね、君を泣かせるのは僕ならば、君を微笑ませるのも僕なんだ。
「もう嘘は付かないよ。ちゃんとみんなにも言う」
「ダーリン?」
「舞子が僕の、恋人だってね」
その言葉に彼女の顔は真っ赤になった。でも、瞳は微笑んでいる。とても綺麗な、瞳で。
もう二度と。二度と、君を泣かせたりしない。
……約束、しよう。ずっとそばにいると………
End