「雨」
…ただ笑った顔が見たかっただけなんだ……。
「私は…人間ではありません…だから、そのような感情は分かりません……」
漆黒の黒髪が柔らかな雨に濡れる。それは作り物。血の通っていないもの。でも。
「分からねーか、ああ…そうか……」
指先で触れれば、その感触が指に伝わる。柔らかい艶やかな髪の感触が。
「そうだな、でも言いてーんだ、芙蓉」
「…村雨?……」
「お前が、好きだ」
ぱらぱらと落ちてくる冷たい雫と、暖かく柔らかい頬。その手で包み込めば、そこには確かに体温が、伝わるのに。
「…私は…式神ですよ、村雨……」
包み込んで、そっと自分へと向かせる。黒水晶の瞳は、まるで硝子玉のように、村雨の視線を弾く。それでも。それでも…。
「いーんだ、お前が何だって。何だって構わねーよ。人間じゃなくても、女じゃなくても…何でも、いい。俺がお前がいいって…そう思ったんだから……」
濡れて張りついた前髪をそっとかきあげて、無機質な色のその額に口付けた。その瞬間、確かに芙蓉の身体が揺れた。それを村雨は決して見逃しはしない。
「…村雨……」
「ほら、そうやって俺のキスに反応してくれる…だからそれでいーんだ」
そしてその腕でそっと、包み込んだ。今度は誰の目にも分かる程、芙蓉の身体が震えた。それを閉じ込めようとするかのように、村雨はよりいっそう深く彼女を抱きしめた。
「…無礼な…離しなさい……」
「嫌だね、離さない。離したら…お前が何処かへ行ってしまう」
「…何処へ行くというのです?……」
胸に掛かる、吐息。これの何処が作り物だと言う?腕の中にあるしなやかな、身体。これの何処が…。
「何処かへ…俺の知らない何処かへ……」
…愛してるなんて…ガラじゃねーよな……
何時も不思議と視界がその姿を捉えていた。
我が主晴明様の親友。親友と呼ぶにはあまりにもずうずうしく、あまりにも乱暴な男。でも。でも何故か、目が離せなかった。
綺麗な道の上を歩く晴明様とは違って、何時も人とは違う道を歩いていた。この世の『正しい』もの全てをひっくり返して。そしてどんな時でも自分が『正しい』と。そう言っているようで、それが嫌だった。けれども。けれども本当は少し、羨ましかった。
自分の拘っているもの全てが彼の前ではちっぽけなもののように思えた。この作り物の身体も、この作り物の命も。その不適に笑う笑顔の下では…全てが些細な事のように思えた。
…だから目が、離せなかった……。
一緒にいる間だけは、自分は皆と同じ存在だとそう思えたから。何もかもを忘れて、全ての拘りを捨てて。傍にいる時だけは…。
何もかもを忘れて、自分はただのひとつの『生命』になっていた。
「…何処にもゆきませぬ…私は晴明様の傍に永遠にいるのですから……」
「永遠、か」
永遠、それがどれだけ残酷なものなのか。永遠にこいつは『晴明』と言う鎖に縛られる。未来永劫に、式神として。『晴明』と言う存在を護る為だけに。けれども。
けれどもそれじゃあこいつ自身の心は、何処へ行く?
「それでお前は、満足か?」
こいつ自身の心は、魂は?一体何処へ行けばいいのか?
「満足も何も…それが私の存在する意味ですから」
「…でもお前は考える」
「村雨?」
「考えて、行動する。考えて、言葉を言う。それはお前の気持ちから来ているものだ…お前の心から、来ているものだ」
お前が本当にただの人形ならば、こんな俺の言葉ですら動揺はしない。こんなに瞳が揺れはしない。こんなにも…。
「それはお前に心があるからだろ?違うのか?」
「…心など…私には……」
「ならばどうして、そんな顔をする?そんなに怯えた顔で俺の腕の中にいる?」
「…怯えてなど……」
「お前に心がなければ……」
村雨はそれだけを言うと、無防備な芙蓉の唇を自らのそれで奪った。
遠くから、雨の音が聴こえる。全身にその雫は降りかかっているのに、どうして?
……どうしてこんなにも、雨の音は遠い?
「こんなことされても…何でもないだう?」
聴こえるのは、胸の鼓動。作り物の筈の胸の鼓動だけ。それだけがただ、耳の芯からどくどくと、伝わってくる。それだけが、伝わってくる。
「そうだろう?芙蓉」
降り積もるのは、雨ではなくて。零れるのは、雫ではなくて。
降り積もるのは、貴方の声。零れるのは、自分の涙。
「…むら…さ…め……」
涙。それは熱くて、苦しいもの。優しくて、切ないもの。こんなものが自分に存在するなんて…知らなかった……。
「これが証拠だ。お前の命の」
村雨の指がそっと、芙蓉の涙の雫を拭う。それはひどく不器用で、そして優しかった。優しすぎて…胸が締めつけられる。
「ほら、お前はちゃんと『生きて』いる。作り物なんかじゃねーよ」
微笑む先の瞳の、温もりが。ない筈の心を包み込む。ないはずの、心を。そして、魂を。
「…愛してる…芙蓉……」
その腕がこの身体を、心を。そして魂を全て包み込んでくれる。
その瞬間自分は『生きている』と、そう思った。
お前が不器用に笑うのを、俺は知っている。
どうすればいいのか分からない戸惑った表情を浮かべながら。それでも。
それでも、笑うんだ。気付いていないだろう。
その笑顔に俺がどれだけ…どれだけ幸せだと思ったかを。
お前は作り物なんかじゃないって、そう何度思ったかを。
「…芙蓉……」
名前を呼ばれて、そっと顔を上げた。その先にあるのは、ひどく優しいその瞳。
「何ですか?村雨」
「笑えよ」
「え?」
「俺は…お前の笑った顔が見たいんだ……」
そう言って貴方は、微笑う。今私は初めて『優しい』と言う、言葉の真実の意味を知った。
「笑ってるお前を、見たいんだ」
End