こころの鼓動
…百年の、恋だから……。
私にとってただ一つの真実。ただ一つの想い。
ただひとつだけの、恋。
私はずっと見ていました。貴方が生まれ、そして死んでゆくのを。
ただ見ていただけ。時がただ静かに流れてゆく中で。
貴方を。貴方だけを、見ていました。
これが、恋というものだと気付かずに。
指先が触れた瞬間に、こころが震えた。
「…芙蓉……」
貴方の声は、優しい。その事に自分が気付いたのは何時だったのだろうか?何時もぶっきらぼうな口調の中に潜む、その優しさに。その泣きたくなるくらいの暖かい声に。
「…村雨…、どうしたのです?…」
柔らかく微笑う、貴方。その笑顔に胸が締めつけられそうになる。どうしてだろう?どうして私はこの人から目を離す事が出来ないのだろう。
「いや、何でもねー。ただ名前を呼んでみたかっただけだ」
変なの…そう言いかけて言葉を飲みこんだ。貴方の瞳がひどく真剣だったから。痛い程に、真剣だった…から。
「…芙蓉……お前…綺麗だな…」
そっと手が伸びてきて、私の髪に触れた。作り物の、髪。それでも貴方の指先にはその感触が伝わるだろうか?…伝わったら…いいなと…思った……。
「何をくだらない事を」
「綺麗だぜ、芙蓉。お前のその『心』がな」
「…私に心なんてありませんよ…」
「バカ、心が無かったらお前そんな顔しねーだろ?」
「…どんな顔…ですか?…」
「びっくり顔」
「え?」
「俺が髪に触った瞬間、すげーびっくりしただろう?」
貴方の言葉にどう答えていいのか分からなくて何も言えずにいると…貴方はひどく楽しそうに微笑った。とても、楽しそうに。私は…私はその笑顔を見ていたい……。
貴方の笑顔をずっと見ていたいと、想う。
「そんな顔すんなよ、食っちまうぞ」
冗談混じりに呟いてまた私の髪を撫でた。大きな手。少しだけ不器用ででも優しい手。私はこの手に触れられるのが、いやじゃない。
…どうして?
どうしてと思って、そして止めた。
そんな事を考えてしまうのは、おかしいから。だって私には『心』なんてないのだから。
死なない、身体。死ねない、身体。
だって私の身体に『命』はない。
心臓の鼓動も、身体を流れる血も、何もない。
ただ見ているだけ。見つめているだけ。
何重もの螺旋のように巡る時の中で。その中でただ。
ただ歴史の流れを。生まれて死んでゆく皆を。
ただ。ただ、見つめているだけ。
私と出会って、私よりも先に死んで。また出会って。
何度も何度も巡り合うのに。
誰一人、私を憶えてはいない。
何故だろう、それがとても哀しい。
哀しいと想う事自体…ありえない事なのに……。
こいつをどうしたら、喜ばせてやれるだろうか?
何時もそんな事ばかり考えていた。
どうしたらこいつを笑わせてやれるだろうかと。
…どうしたら…こいつの瞳の淋しさを消せるだろうと…
芙蓉、お前は気付いているのか?
俺に向けるその瞳の淋しさに。その瞳の哀しさに。
お前が全てを否定しても俺には、分かるから。
お前が見せるその静かで深い哀しみを。
俺は、見つけたから。だから。
…だから芙蓉…お前の瞳を笑わせたい……。
「食っちまうぞ、芙蓉」
村雨の両手が芙蓉の頬を包み込む。微かに伝わる体温が、何よりの証拠。
触れた瞬間に微かに熱を帯びた頬が、何よりの証。
「食べるって…村雨?……」
そっと顔を近づける。そっと距離を埋めてゆく。距離を埋めてゆくたびに村雨の手のひらに伝わる熱が、熱くなってゆく。それが。それが何よりも、嬉しいから。
「食ってやる」
くすっと笑って村雨は、芙蓉の唇にそっと口付けた。
こころが、震える。
そんなもの何処にも存在しない筈なのに。
それなのに、こころが。
こころが、震えた。
「…む、村雨……」
「またびっくりした顔してる。お前のその顔、可愛いよ」
「ぶ、無礼な…」
「無礼だと思うなら、俺の頬でもひっぱたきな」
芙蓉の手が伸びてきて村雨の頬を叩こうとする。けれどもそれは寸での所で、止まった。まるでぴたりと空気が止まったかのように。その手は、宙に停止した。
「どうした、芙蓉?ひっぱたかねーのか?」
「…叩けませぬ…」
「何故だ?」
「…お前が……」
「…お前がそんな瞳を、するから……」
視線が身体を貫くという事があるのだろうか?
でも私は確かに今、その視線に身体を貫かれた。
痛いほどに、貫かれた。
これは、何?この身体中を駆け巡るこの気持ちは、何?
「…叩け…ない……」
村雨の手が宙に浮いたままの芙蓉の手首を握り締めるとそのままその手を自分の胸へと当てさた。そこから伝わるのは、村雨の心臓の鼓動。生きている命の、音。
「すげーどきどきしてる、だろ?」
少しだけ照れたような口調で村雨は言った。芙蓉の手のひらに伝わるその音は、心なしか早い。
「お前に触れてんだ、だからこんなんなってる」
「…村雨…私には…私にはこの音はありません…」
俯きかげんに呟いた芙蓉の言葉に、村雨は重ねた手に指を絡めた。そしてそのままその手をそっと包み込んでやる。
「…俺の音を分けてやるよ」
「村雨?」
「ほら俺の音。幾らでもお前にやるよ」
とくん、とくんと。聞える命の音。手のひらに伝わる優しい鼓動。優しい、音。
「お前が持っていないものは俺が全部やるから。だから少しは笑ってくれよ」
「私は笑っていませんか?」
「何時も瞳が、泣いている。何がそんなに哀しいんだ?」
「私に心なんてありませんよ。だから哀しむ事なんて何もありません」
「へ、嘘ばっかり。本当は淋しいんだろ?」
…淋しい…その言葉は…その言葉は……何よりも……
「淋しいんだろう?芙蓉」
私の下に転がる無数の屍。
私よりも先に死んでゆく人達。
私だけが死ぬことも出来ずに、ただ。
ただ見ているだけ。見つめ続けるだけ。
貴方達が…貴方がまたこの地上に生を受けて。
私の前に再び現われてくれるのを。
私はずっと。ずっと待ちつづけるだけ。
でも。でも私は…誰を待っていたの?
誰を、待ちつづけていたの?
…誰を、想い続けて…いたの?……
…誰の命の音を…聴きたかったの?
本当はずっと。ずっと傍にいてほしかった。
「…俺がいてやる…ずっと…」
ずっと?ずっと?それは叶わない。だって貴方の命には限りがあるのだから。私はまた貴方が年老いて私を残して死んでゆくのを見つめづけるだけ。それしか、出来ないのだから。
…ずっとなんて…ありえない……。
「…何をバカな…お前は私よりも先に死ぬのに…」
「お前が淋しがる理由は…それか?」
「淋しがってなんか…」
それ以上の言葉を…貴方は許さなかった。その唇が再び私のそれを塞いだから。
「死んだってまた生まれ変わるから。そーして絶対にお前を見つけるから」
「見つけられないかもしれないでしょう?」
「見つける。絶対に」
その瞳の思いの外の真剣さに。その瞳の力強さに、私は…私は……。
「…見つけて、くれますか?…」
「見つけてやるよ、芙蓉。俺が絶対に見つける」
「…村雨……」
「だから少しは、俺を信じてくれ」
貴方の真剣な瞳と。その後に見せてくれた子供のような笑顔に私は。
私は貴方に『恋』をしていると。恋をしていると、初めて気がついた。
何時の間にか生まれていた、想い。私のこころ。
命の音がなくても、鼓動が聞こえなくても。
確かに私にもそれは存在している。
貴方を想う気持ち。貴方を好きなこの気持ち。
…私はずっと…ずっと貴方を見ていたのですね……
「…信じていますよ…村雨……」
ずっとずっと見ていた。貴方を、貴方だけを見ていた。
生まれそして死にゆく貴方を。ずっと、ずっと見ていた。
それが恋だと気付かずに。これが愛だと気付かずに。
「…お前…だけを…」
指を、絡めて。
そして貴方の音を聴く。
優しく刻む、命の音を。
貴方のその音を。
この指先に刻む為に。
私の全てに刻む為に。
「愛しているぜ、芙蓉」
貴方の全てを共有出来るように。
貴方の想いを重ねられるように。
…貴方の全てを…見つめていられるように……
私は貴方の言葉に小さく頷いた。
そして初めて、こころから微笑った。
もう淋しくないと、気がついたから。
End