窓の外から覗く丸い月を、ぼんやりと悟空は見ていた。黄色くて丸い月。手を伸ばしたら届きそうで、でも決して届くことのないその月を。
「…綺麗だなぁ……」
思わず声に出して呟いてしまい、悟空はひどく気恥ずかしくなった。誰もいない部屋で呟く独り言が、妙に恥ずかしかったのだ。
ぽりぽりと照れ隠しに頭を掻いて、そのままペッドの上から降りようとした。けれどもその脚は寸での所で、止まった。
「どうした?部屋、真っ暗にして」
ドアを開けて入ってきた人物に、悟空の動きが止まる。そのままちょこんとベッドの上に座り直して、自分よりずっと背の高いその人物を見上げた。
「あ、えっと…月、見てた。三蔵」
少しだけ照れながら悟空がそう言えば、三蔵は何も言わずに目の前に立つと、その髪をくゃりとひとつ乱した。その行為に大した意味がある訳ではない。それでもこうして。こうして些細な出来事が悟空にはとても大事に思えた。
こんな小さな積み重ねが、きっと。きっと何よりも大切なのだろうから。
三蔵は悟空の隣に座ると懐から煙草を取り出して、吸い始めた。部屋は暗いままだったから、その煙草の火がひどく悟空の目に焼きついた。
「煙草って美味しいのか?」
大きな瞳のまま、悟空は三蔵を見上げて聞いた。大きな、瞳。金色の曇りのない真っ直ぐな瞳。何時も悟空はこの瞳を三蔵に向けている。何時でも、どんな時でも。
「ガキには美味くない。だからお前には美味くない」
何度か吸って三蔵は近くに置いてあった灰皿に吸殻を捨てた。悟空以外は全員煙草を吸うので、あらゆる場所に灰皿は置かれている。
「むぅ、また俺をガキ扱いするっ!」
頬を膨らまして拗ねる悟空は子供そのものだ。だからガキ扱いされるんだ…と三蔵は言おうとして、止めた。いくら言ってもこいつが不貞腐れるのは目に見えて分かっている事だから。それならば。それならば今は、それよりも。
「だったら味、試すか?」
「―――え?」
不思議そうに見上げてくる悟空の顔を瞼の裏に焼き付けて、三蔵はその無防備な唇をそっと塞いだ。
背中越しに見える月が。窓から覗く月が。
淡い光を放ちながら覗くその月が。金色の月が。
瞼の裏に焼き付けたお前の瞳にふと。
―――ふと、重なった……
ぎゅっと閉じられた唇を舌でなぞって、三蔵は悟空の口を開かせる。そしてそのまま舌を忍び込ませ、逃げ惑うそれを絡め取った。
「…んっ…ふっ……」
根元から吸い上げ、きつく絡め取る。その途端耐えきれずに悟空の手が、三蔵の服をぎゅっと掴んだ。その手の強さを感じながら、三蔵は悟空の髪に指を絡めると、そのまま自らへと引き寄せる。
「…ふぅっ…ん…はぁ……」
貪るような口付けに、悟空の意識が次第に溶かされて。何時しか握っていた手も力なく落ちていった。唇が痺れるような口付けが、悟空から力を奪ってゆく。
「…あっ……」
脳みその芯からぼーっとしてくる頃に、やっと唇が開放される。口許からは飲みきれなくなった唾液が線を作って零れ落ちた。それを三蔵の舌が、そっと掬い上げる。
「どうだ、煙草の味は?」
まだ意識がぼんやりしている所に、三蔵の声が降って来る。耳元で囁かれるその声に、意識に悟空は瞼を震わせた。ぴくり、と。
「…分からない…よ……」
それでも意識を必死に引き戻して、悟空は三蔵を見上げた。その瞳がうっすらと滲んでいて、微かに夜の色を含ませていた。多分一番悟空に似合わない、瞳。けれども一番三蔵が見たい瞳。
「…お前のキスが上手過ぎて…分かんねーよ……」
語尾の最後のほうは小さ過ぎて聴こえないほどだった。けれども三蔵にだけは、聴こえたけれども。そんな所が、ひどく。ひどく愛しかった。
「だからガキなんだよ。お前は」
そんな彼の身体をそっと抱きしめて、三蔵は再び悟空の瞼を震わせる声で耳元で囁いた。
「…ガキ…じゃねーもん……」
「ガキだろ?」
「…ガキたったら…こんな事……」
「こんな事?」
「…しねーだろ?……」
耳まで真っ赤になりながら、悟空は自分から三蔵にキスをした。
不器用でぎこちない、キス。でも。
でも何よりも想いが、気持ちが、伝わる、キス。
ただひとつの伝えたい気持ちが込められた、キスだから。
恥ずかしくて胸に顔を埋めれば、そっと声が降って来る。
「―――確かに、しねーな」
何処か優しい声が、耳元に降って来る。それは。
「こんな事は、な」
それは俺の、気のせいじゃないよな。
――――この声は…俺だけのものだって…自惚れても…いいよな……。
そっと目を開けて、悟空は三蔵を見上げた。
その途端目があって罰が悪そうに笑ってみた。
そんな彼に三蔵もひとつ、微笑って。そして。
そして額にひとつキスをした。柔らかいキスを。
もう一度悟空は後ろを向いて、窓の外の月を見つめた。届きそうで届かない金色の月を。けれども月は届くことはなくても、届かなくても。
「―――どうした?悟空」
声に振り返り、そして。そしてもう一度三蔵を見上げて、悟空は嬉しそうに微笑った。
「ううん、何でもない」
微笑って手を伸ばし、その髪に触れる。金色の髪を。月よりも綺麗なその髪を。
月よりも綺麗なものは、こうして自らの手に触れることが出来るから。
END