Rain


―――人間が生きてゆく為に必要なものとは、一体何だろうか?

「お前は、賢いな」
くすりと一つ牧は微笑うと、手元のグラスに口を付けた。琥珀色の液体が、牧の口の中へと吸い込まれてゆく。
「何で?」
ベッドの上に無造作に座りながら、藤真はゆっくりと目の前に立つ男を見上げた。筋肉質な身体と、褐色の肌。どれもこれもが野性的で、ひどく『雄』を感じさせるものだった。
いや、牧は生まれながらの野獣だ。何時も刃物のような視線で相手を貫いて、そして狙った獲物を決して逃しはしない。それはコートの上でも、そして…ベッドの上でも……。
「自分にとって都合のいい相手としか、寝ない」
「随分な言い方だな。でも、当たっている」
藤真は牧の言葉に楽しそうに微笑うと、自らのワイシャツのボタンに手を掛けると、それを無造作に外し始めた。
「そうだよ。俺、面倒な事嫌いだもん」
「面倒な事?」
サイドテーブルに牧はグラスを置くと、ゆっくりと藤真に近づいた。そして強引に顔を自分へと向けさせると、噛みつくように口付ける。
「…お前みたいな奴がいい………」
ボタンを外していた藤真の手が何時しか、牧の背中へと廻される。それを受け止めながら牧は藤真の髪に指を忍び込ませて、尚も唇を奪った。
「…お前は何も言わないし…何も聞かない……」
「それが『面倒な事』か」
口づけのせいで赤く濡れた藤真の唇が、ひどく艶っぽかった。その唇にもう一度牧は口づけると、藤真の瞼が揺れるのが分かった。
「…そうだよ……俺には、そんな感情なんてめんどくさい……」
藤真の言葉に牧は、口だけで微笑った。そう、藤真とこうして抱き合うのに『恋愛』なんて感情は必要ない。愛なんて、要らない。
「―――お前、らしい……」
牧はそう言うと先程から媚びるように自分を見つめる藤真を満足させる為に、彼の肢体をゆっくりとベッドへと押し倒した……。


―――どうして人は、独りでは生きられないのだろうか?
どうして人は、誰かを愛さずにはいられないのだろう?
どうして人は、誰かに愛されたいと願うのだろう?
―――そして、どうして?
人は傷つくと分かっていても『恋愛』を止められないのだろう?

「…はぁっ……」
胸元の小さな飾りを口に含まれて、藤真は甘い息を洩らした。その反応を確かめるかのように、牧は執拗にそこを攻め立てた。
「…あ…ぁ……」
胸に舌を這わせながらも、牧は器用に藤真の衣服を脱がしてゆく。慣れた男の手付きが、藤真の身体の上を滑ってゆく。
「…ま…き……」
藤真は自らの手を延ばすと焦れたように、牧の上着のボタンを性急に外してゆく。けれどもその手は牧の与える愛撫のせいで、思うようには進まなかったけれども。
「…あ…んっ…」
薄暗い室内の中で藤真の白い素肌が、ほんのりと浮かび上がる。その色素の薄い象牙のような肌は、藤真をスポーツマンには見せなかった。そしてその細い身体付きも。
藤真はバスケの選手にしては、ひどく身体の線が細かった。スポーツ選手として理想的な身体を持つ牧とは、正反対だった。身体だけじゃない。プレーも、性格も。でも、だからこそ。
「…あぁ…」
二人は『ライバル』だったのかもしれない。何も彼も正反対だったからこそ。だから。
「…本当に、お前は快楽に忠実だな……」
だから、こんなにも。こんなにも互いを理解出来るのかも知れない。駆け引きも、偽りも要らない関係。でも。
「…だから…お前と…セックスするんだ……」
ふたりの間には決して『恋愛』は存在しない。そんなもの、必要ないのだから。


「分からないな、お前は」
何よりも自分を分かってくれると信じていた幼なじみは、淋しそうな瞳を一瞬だけ見せてそう言った。
「―――分からないか?」
何時も、傍にいてくれた。何時も、一緒に居てくれた。それが、ごく当たり前の事だった。二人にとって、それは。でも。
「俺は、変わってはいない。ずっと、お前に出逢った時から何一つ」
でもそれは、永遠じゃない。どんなにそれが当たり前でも、どんなにそれが居心地良くても、永遠じゃない。ふたりがこれ以上、違う所へ行けない限り。何時しか、必ず『別れ』が来る。
「だから分かると思った。他の誰が分からなくても、お前だけは」
「―――藤真……」
肉親よりも、自分を理解してくれた。どんな我が儘も、願いも全部聞き入れてくれた。自分の好きな事を、何でもさせてくれた。
「…だって、一志は……俺を抱かないだろう?………」
そんな自分の言葉に、一志はひどく切なそうな瞳をした。そして静かに一つ微笑うと、そっと藤真を抱きしめた。その腕はただただ優しくて。
「ごめん、藤真」
ぽつりと一志はそれだけを言うと、藤真の髪を撫でてやる。その手の感触に藤真はひどく安心感を覚えて、瞼を閉じた。
―――何よりも、誰よりも大切な幼なじみ。他の誰にも代わりなんて、出来はしない。
でも。けれども。ずっと一緒にはいられない。
「…一志の事が…一番好きだよ…でも……」
でも、これは『恋愛』じゃない。幾ら一志が好きでも、大切でも、ふたりの間に愛情以外のものが存在しない限り。
「でも俺たちは、幼なじみ以外の何にもなれない。他の何にもなれない」
だから決めた、一志との別離を。そして自分が一志と言う人間から、自立する事を。例えその手段がどんなもので有ろうとも、そうしなくてはならないのだから。
「……ああ、そうだな……でも、藤真………」
―――無理だけは、するなよ、と。一志は何よりも優しい声で、そう言ってくれた。


「――ああっ……」
微かに立ち上がった自身を口に含まれて、藤真は嬌声を上げた。それを煽るように、牧は藤真のそれに舌を絡める。
「…あっ…あ……」
快楽が藤真のこめかみを、熱くさせる。そこから熱が全体に伝って、思考を拡散させた。
「…あぁ…あ…」
藤真はより深い快楽を求めて、無意識に牧に足を絡める。そんな藤真の動作に牧は苦笑を一つ浮かべると、それに答える代わりに尚もそこに深い愛撫を送ってやる。
「…あっ…まき…もぉ……」
藤真の目尻から快楽の涙が一筋伝って、自らの限界を知らせる。牧はゆっくりと顔を上げてそんな藤真の表情を見つめると、汗で濡れた前髪を掻き上げてやった。そして。
「……もう、どうした?………」
そっと耳元に唇を寄せて、息を吹き掛けるように尋ねた。その低くくて胸の奥まで響く声が、藤真の瞼を震えさせた。
「…我慢…できな…」
耐えられないように藤真は身体を小刻みに揺らすと、自らの手を牧のそれに重ねた。そしてそのままその手を、限界まで膨れ上がった自分自身へと導いた。
「…ま…き…」
夜に濡れた瞳が、媚びるように牧を見つめる。藤真がこんな瞳を見せるのは、セックスの時だけだ。それ以外の彼は決してこんな瞳はしない。藤真は何時だって、他人よりも上に居るのだから。そしてそれが、何よりも似合う事も又知っている。
藤真は天性の支配者だ。彼に敗北は似合わない。けれども、それ以上に。
「―――分かった」
藤真を抱く男は、支配者だった。そして勝利者だった。藤真が負けた唯一の男、それが牧だった。だから。
「――――ああっ!!」
安心するのかも、しれない。この男に抱かれる時、他のどんな男よりも安心出来るのは、そのせいかもしれない。

「何を、考えていた?藤真」
開放された身体は、けれどもその先を知っていた。その先にある、もっと深い快楽を……。
「…何も……それよりも、牧………」
藤真の手が延ばされて、牧の背中に絡みつく。その手が何を意図するか牧には充分に分かっていたけれども、牧は敢えて質問を続けた。
「答えろ、藤真」
静かだけれども鋭い視線が、藤真の全身を貫く。この視線から逃れられない事を、藤真は知っていた。この、獣のような視線を。
「…昔の事…だよ……」
観念したように藤真はぽつりと呟くと、牧の視線に耐えられないのか、ぷいっと視線を外してしまった。そんな藤真に牧は苦笑を口元に引いて、尚も尋ねる。
「昔の事?」
「そうだよ、お前とこんな関係になる前の」
藤真の瞳に一瞬、遠い光が過ぎてゆく。その光を決して、牧は見逃さなかった。けれども。
「・・・・そうか」
それは聞いてはいけない事だと、牧には分かっていたから。ただの身体だけの関係に、互いの過去も今も未来も、必要無いのだから。だから。
「けれども俺に抱かれている時は、俺だけの事を考えていろ」

―――初めて男に抱かれた時、自分の中で一番大切なものを代償にした。

「…くぅっ……」
狭い器官を貫かれた痛みが一瞬、藤真の感覚を支配する。けれども慣れた身体は、すぐにそれを快楽へと擦り代えていったけれども。
「…はぁ…あ…」
藤真の指が牧の広い背中に廻り、そこに爪を立てる。その小さな痛みに牧は苦笑を浮かべると、ゆっくりと藤真を揺さぶり始めた。
「…あっ…ああ……」
激しい刺激が藤真の肢体を支配する。もう何も、考えられない。後はただ、与えられた快楽を追うのみで。もう、それだけしか。
「…あぁ…ぁぁ…」
繋がった部分から熱が溶け出して、全身を駆け巡る。このまま身体が溶けてしまいそうだ。このまま、何もかもが。
「……藤真………」
「…あっ…あぁ…ん…」
牧の自分を呼ぶ声ですら、藤真にとっては快楽を煽るものでしかなくて。もうその呼び掛けにすら、答える事は出来なくて。
「……本当に…お前は………」
くすりと一つ、牧は微笑うと。最期の瞬間を迎える為に、最奥まで藤真を貫いた。


遠くから雨音が聞こえてくる。藤真は気だるい身体を持て余しながらも、その音に耳を傾けていた。
「今日は、泊まっていくか?」
腕の中の藤真の髪をそっと撫でながら、牧は尋ねた。牧の言葉に藤真はゆっくりと顔を上げる。そして。
「…そのつもりで…来た……」
それだけを言うと、堪えきれないとでも言うように瞼を閉じた。相当眠たかったのだろう。牧が藤真の返答をする間も無く、彼は眠りの淵へと旅立ってしまった。
「しょうがないな」
くすりと一つ牧は微笑うと、肩まで藤真に布団を掛けてやる。そしてゆっくりと牧はベッドから起き上がった。
「―――本格的に降り出したな」
近くにあったガウンを羽織ると、牧はベッドサイドに置いてあった煙草に手を掛けた。それを一本抜き出すと、牧は静かに窓へと視線を巡らせた。
――――藤真を初めて抱いた時も、こんな雨が降っていた。
まるで捨てられた子猫のような瞳で、ずぶ濡れのまま街を歩いていた藤真を呼び止めて。そして。そして、そのまま……。
印象的な瞳、だった。コートの上では何時も前だけを見つめている、強気な藤真。けれどもあの時の瞳は、本当に淋しそうな瞳だった。
「…何があった…なんて聞くのは…契約違反だな……」
最初から割り切った関係だった。多分藤真にとって相手など誰でも良かったのだろう。現に彼は、自分と寝た時から既にこういう行為に慣れていた。
身体だけの関係。ただそれだけだった。それ以上でも、それ以下でも無い。本当にそれだけの関係だったのに。
でも時々、無性に聞きたくなる事がある。あの時の瞳の訳を。それがこの関係にとって、タブーだと分かっていても……。
――――外の雨は未だ、止みそうにはなかった。


もしかしたら自分はずっと、飢えていたのかもしれない。
愛される事に。そして、愛する事に。

初めて男と寝たのは、中二の夏だった。あの時はただ好奇心で、誘われるままに抱かれた。それから先は余り覚えていない。誘われるままに、誰とでも寝ていたから。
一度だけで別れた奴もいたし、一年くらい付き合っていた奴もいた。でもどれもこれもが同じに思えて、誰一人印象に残っている奴なんていなかった。
誰でも良かった。誰でも構わなかった。胸にぽっかりと空いた、この空虚を忘れさせてくれるならば。―――でも、どうしてだろう?
他人に抱かれる度に、胸の空虚が広がっていくのは。


「―――少し、控えた方がいいぞ。藤真」
相変わらずの変わらない優しさで、一志はそう忠告してくれた。それがひどく胸に、痛い。
「何だかお前、自暴自棄になってる」
ふわりと一つ、一志は藤真の髪を撫でた。その手は何時も代わらない優しさを、藤真にくれる。優しさを、くれる。
「そんな事ないよ。俺は楽しいからやっているんだ。男とセックスするのは」
「なら何で、そんな瞳をする?」
「―――そんな、瞳?」
不思議そうな表情で見上げてくる藤真に、一志はひどく哀しそうに微笑って。そして。
「そんな捨てられた子供のような、傷ついた瞳を」
―――それだけを藤真に、告げた。


――――貴方を探す為に、この夜の海を渡った。


「……帰る、俺………」
ぽつりと藤真は呟くと、脱ぎ散らかされた衣服に手を取った。未だ身体は気だるかったけれども、余りここに長居する気にもなれなかった。
「泊まっていくんじゃ、なかったのか?」
「―――気が変わった」
尋ねる牧の顔を見ようともせずに、どんどん藤真は着替えを済ませてゆく。そんな藤真に苦笑しながら、牧は飲んでいたワイングラスを指で弄ぶ。
「相変わらず気まぐれだな、お姫様は」
藤真のこうした気まぐれは今更の事だった。彼は本能のままに生きている。自分のしたい事をしたい時にして、自分勝手に生きている。相手の都合など、お構いなしに。
けれども人徳とでも言うのだろうか、大抵の者はその藤真の我が儘に付き合ってしまう。
いや、藤真の我が儘に逆らえる者などいやしない。そんな人間は最初から、藤真の傍に居る資格が無いのだから。
「嫌な夢ばかり見る。ここは相性が悪いんだ」
藤真の我が儘も気まぐれも、自分勝手も全て。全てひっくるめてそれが『藤真』なのだから。
「お前でも悪い夢は、見るんだな」
「どういう意味だよ、それは」
牧の皮肉混じりの言葉に、やっと藤真は振り返る。けれどもその顔は牧の予想通り、拗ねた表情を見せていたけれども。
「いや、お前みたいな奴は悪い夢なんて見ないと思っていた」
強かで賢くて、そして相手を手玉に取るのが巧みで。何時でも平気で他人を傷つけるのに、決して自分は傷つかない藤真。でもそれは、傷つけられる方が馬鹿なのだ。
「何言ってんだよ。お前の方が数倍も悪人のくせに」
遊びだと割り切れない、偽りと本気の区別の付かない男が馬鹿なのだ。
「―――確かに、当たっている」
口元だけで微笑う牧に、藤真は共犯者の笑みで返した。牧に藤真を傷つける事は出来ない。そして、藤真も。決して牧を傷つける事など出来はしない。
「でもお前の方が、質が悪い。お前は無意識でそれをやるのだからな」
藤真は無意識のうちに、知っている。自分がどんな表情をすれば、どんな仕種をすれば、男が靡くのか。それを無意識で、藤真は実に効果的にやってみせる。だから、騙される。馬鹿な男どもは。
「そうかもね。俺の方が数倍も質が悪いかもしれない」
でも決して藤真は、そんな男どもの手になんて落ちはしない。彼は誰よりも強かなのだから。


雨は未だ強かに地上に降り注いでいた。けれどもそんな雨に構わずに藤真は、その中を歩き始めた。
タクシーを呼んで貰うのを断って、傘すら持たずに藤真は彼のマンションを後にした。
何となく、雨に濡れたい気分だった。この雨に濡れて、何も彼も洗い流して欲しい気分だった。
「……気持ちいい………」
時々ふと、思う。この雨に溶けてしまえたらいいと。このまま身体が液体となりそして気体になって、この地上から消えてしまえたらいいと。
―――別に、不満がある訳じゃなかった。別に、嫌な事がある訳じゃなかった。ただ何となく。何となく時々、時々無性に死にたいと思う事がある。例えば今、みたいに。
「―――死んじゃおっかなー……」
もしも今自分が死んだら、一体どれだけの人が哀しんでくれるだろうか?


「お前が最初に、抱いてくれれば良かった」
「―――藤真……」
藤真の言葉に、一志にしては珍しい程驚いた表情を見せた。けれども次の瞬間には何時もの、穏やかな表情に戻って。
「どうした?何かあったのか?」
と、ひどく優しく尋ねた。藤真の柔かい髪をそっと、撫でてやりながら。
「何も無いよ、ただ」
「…ただ?……」
「・・・・自分が嫌なだけだ」
一志から離れようと思ったのに、気付くと一志の優しさを求めてしまう自分が嫌、だった。恋人にはなれないくせに、一志に愛情を求めてしまう自分が。そんな自分が。
「……藤真………」
好きだ。誰よりも、一志の事が。一志だけは自分に何の見返りも求めない。無条件に愛情をくれる。それはまるで時には肉親の愛情のようなものであり、そして何よりも深い友情でもあった。
そして藤真にとって、それは何よりもかけがえのものだから。だからこそ、決めたのに。その手に甘えていてはいけないと、決めたのに。なのに。
「お前はもっと自分を好きになってもいいと思う」
なのにどうしても、自分は一志の手を離せない。未だに自分はこの無償の愛情を求めてしまう。
「無論、俺もお前を好きだ」
――――この優しさを、求めてしまう……。


アスファルトの上に線になった雨が強かに打ちつける。その線が、藤真の肢体を貫いた。
夜の街に人影は殆ど見当たらなかった。おまけにこの雨では、あまり夜遊びと言う気にもなれないだろう。
藤真は誰もいない車道に飛び出すと、そのままその場に寝転がった。水が身体に浸透してゆく。それが何故かとても気持ち良かった。
「このまま車に轢かれて死ぬってのも、中々情け無い人生かもな」
藤真はゆっくりと瞼を閉じる。本当にこうしたら自分はこの路上と一体になれて、コンクリートの塊になれる気がして。でももしもそうなったら、それはそれで虚しいかもしれないけれど。でも、何だか。何だか凄く、自分には似合っている気がした。
―――遠くからタイヤの軋む音が聞こえてくる。けれども藤真は、動かなかった。
もう、何もかもが。どうでも良かった……。


―――誰かを、愛したかった。
誰かに、愛されたかった。
駆け引きも嘘も偽りも、何一ついらない。
何一ついらない、たった一つの想いが。
ただ互いを想い合うだけの、ただ互いを愛し合うだけの。

―――たった一つの純粋な想いが、ほしかった。


―――貴方に出逢う為に、この夜の海を泳いだ。

身体は、液体にはならなかった。コンクリートの塊にも。醜い肉の破片も散らばらなかったし、黒い血も流れなかった。ただ。
―――広くて大きな腕が、自分の肢体を包み込んだ……。


「何馬鹿やってんだよっ!」
クラクションを派手に鳴らした車を尻目に、その男はいきなり藤真に怒鳴り散らした。藤真は、ひどくぼんやりとした表情で彼を見上げた。180cm近くある自分よりも遙かに高い彼は、こうして見上げなければ視線を合わせる事が出来なくて。
「おいっ、聞いてるのか?!」
藤真の反応に苛々したように、彼は半ば怒鳴りつけた。けれども何故かそれを藤真は不快に感じなかった。何時もなら『馬鹿ヤロー』とでも、怒鳴りつけてやるのに。何故だか、不思議と…嬉しかった……。
「うん、聞いている」
ひどく素直に返された反応に、逆に彼の方が困ってしまったようだ。何と言っていいのか分からずに、戸惑っている。何故か、それが凄く。
「聞いているよ」
凄く、嬉しかった。多分それは自分の傍に、こういった反応を示す人がいなかったからかもしれない。それともいい加減、上辺だけの駆け引きゲームに飽きていたからかもしれない。けれども。
「だからもっと、怒鳴っていいよ」
一つだけ、気付いた事がある。―――彼は真っ直ぐに、自分を見つめていると……。


「―――風邪引くぞ」
今更の事だったが彼は律儀にそう言うと、藤真を軒下まで導いた。そして自分の上着を脱ぐと、それで藤真の身体を拭き始める。
自分だってびしょ濡れになっているのだから、それは全く無駄な行為でしかなかったけれども。でも彼は一生懸命に、自分の身体を拭ってくれるから。
「…ありがとう……」
身体は冷たかったけれども、心はとても暖かくて。それは、自分が遠い昔に失くしてしまったものを思い出させるようで。そう、遠い昔に失ってしまったもの。
「―――うん…」
不器用に返事をするその声と、照れ隠しの為の不貞腐れたような表情。どれを取っても、それは自分が知らなかったもので。だから。
「お前も、風邪引いちゃう」
藤真はひどく楽しそうに微笑うと、お返しとばかりに自分も上着を脱ぐと彼を拭き始めた。それが無駄な行為でしかないと、分かっていても。でも。
「俺は平気だよ、丈夫だから」
―――どうしても、そうしたかったから。
「俺だって、丈夫だよ」
お互いにムダだと分かっていても、拭き続ける。そして。そして目が合って……

……可笑しくなって、笑い出した……


こんな風に声を上げて。
大きな声を上げて。
心の底から笑ったのは。
笑ったのは、何年振りだろう?
―――いや、俺は。
こんな風に笑う事すら、知らなかった。


「…名前、教えて……」
不思議だった。自分でもよく分からなかった。他人など自分にとってどうでもいいものの筈なのに。もう二度と逢う事がない人間なのかもしれないのに。それなのに、俺は。
「花形 透。お前は?」
どうして、お前の名前を聴いたのか?どうして、お前の名前を知りたいと思ったのか?
「…藤真…藤真 健司……」
どうしてこんなにも、お前を知りたいと思ったのか?


――――遠くから、雨の音が聴こえた。

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