薬指に結ばれたものは、ただひとつの。
ただひとつの、見えない指輪。
それだけが、私と貴方を繋ぐもの。
―――それだけが私の…『私自身』の想い……
ただひとつ、私の心に穢せなかったもの。
ただひとつ、私の手が穢せなかったもの。
結ばれた指先が永遠ならばと、それだけを願った。それだけを、祈った。
「…セネト……」
結ばれてはいない方の指先で貴方の頬に触れた。陶器のように白い頬。子供の頃貴方の肌白さが羨ましかった事を覚えている。ずっと、覚えている。
「―――ティーエ…もう……」
長い睫毛。傷のない顔。薄い唇と、そして。そして真っ直ぐに向けられる碧色の瞳。これだけが。これだけが、私の最期の護りたかったもの。ただひとつ、護りたかったもの。
「もうここにいてはいけない。君はリチャードと……」
貴方だけは穢せない。貴方だけは犠牲には出来ない。貴方だけは…どんな事をしても私は護りたい。
―――『私』と云う穢れた存在から……
「私はリチャードと結婚します。あの人は…レダを救ってくれるから」
「それが君の選択ならば、僕には何も言う権利はない…しあわせになってくれ」
しあわせにと云う願いは、私はとっくに捨てた。貴方を選ばなかったその日から、私は全てのものを諦めた。『私自身』がしあわせになる事を、諦めた。
「しあわせになんて、貴方の口から聴きたくは…なかった……」
それでも。それでも私自身が求めているものは。ただひとつ求めているものは。それをこの手で断ち切らなくては、前に進む事が出来ないと分かっているから。
「…ティーエ……」
繋がった指先は離さずに、貴方の頬に触れていた手をそのまま。そのまま背中に廻してぎゅっとしがみ付いた。あの頃よりもずっと逞しくなった背中。あの頃よりもずっと強くなった貴方。
「…しあわせを諦めたから…貴方から…離れるのに……」
――――誰よりも大好きな、貴方。
綺麗な、ひと。誰よりも綺麗な、ひと。
真っ直ぐで曇りなく、誰よりも精錬で。
誰よりも人に優しく、そして誰よりも自分に厳しい人。
そんな貴方が誰よりも好きで、そして。
誰よりも護りたかった、から。
だから貴方だけは犠牲に出来ない。
貴方だけは、私は穢す事は出来ない。
レダの復興の為に、全ての運命の為に。
私は貴方だけを選ぶ事は出来ない。
私が成し遂げなければならない道に。
貴方を巻き込む事が、出来ない。
私は貴方だけは、選べない。ただ独り、綺麗な貴方を。
「…子供のままで、いたかった…何も知らない子供のままで…」
「…ティーエ……」
「そうしたら私…ずっと…貴方を好きでいられた…」
「―――」
「…貴方だけを想って生きていられた……」
でもそれは許されないの。私がレダの王女である以上。
私は祖国を復興し、そして民を導かねばならないの。
そして全ての運命が望む道を選ばなければならない。
『私自身』のこころだけを、犠牲にすれば。それだけを諦めれば。
―――レダの国には、光ある未来が…待っているの……
「僕が君を好きだと言っても…それでも?」
好きだから一緒にいられると信じていた子供時間はもう終わってしまった。
「…好きだから…いられないの…セネト……」
好きな気持ちさえあれば不可能はないと信じていた時間は。
「貴方だけは、綺麗なままで」
―――もう二度と戻っては来ないの。
指を絡めてふたりで。
小さな魚のように水底で。
丸まって眠っていた頃には。
もう戻ることは、出来ないのだから。
「―――ティーエ…それでも好きだと、言ったら?」
この手を離した瞬間に。この指先が離れた瞬間に。
私達は別の道を歩く事になる。もう二度と戻れない道へ。
もう二度と交わる事のない道へと。
ふたりは、ずっと永遠に。遠い場所へと。
抱きしめ、られた。繋がった手は離さないまま。
きつく。きつく、抱きしめられた。
そして唇が触れる。そっと、触れた。
最初で最期のキスだと、ふたり分かっていたから。
――――唇を離す事が…出来なかった……
「…ティー…エ……」
「…セネト…はぁっ……」
「…好きだ……」
「…私も…セネ…ト……」
「…貴方だけが…好き……」
何度も唇を触れ合わせながら、互いの服を脱がし合った。自分たちが今どういう立場で、どう云う道を歩むのかも分かっている。それでも。それでも今は。今だけは。
「…あぁっ…セネト……」
している行為は大人なのに、私達の心は子供に戻って。あの頃の、綺麗な心に戻って。
「…ティーエ……」
「…はぁっ…あぁ…もっとぉ…あ……」
そして嫌と言う程に、こころに刻み付ける。消えない傷として。消せない傷として。もう戻れないと言う事を。あの頃には、戻れないと言う事を。
「――好きだ…ティーエ……」
もう私達は前に進むしかないと云う事を。
貴方の指が、私に触れる。
余す事無く全てに触れる。
私よりも白くて、私よりも綺麗な指。
剣を持ち戦う貴方の指が、凄く綺麗で。
それがひどく、切なかった。
「…あぁ…はぁっ…セネ…ト……」
胸が、揺れる。貴方に触れられるたびに揺れて。そして肌は朱に染まってゆく。
「…もぉ…私…もお……」
全身に触れる指と唇が私を狂わせ、私を女にしてゆく。これが。これが現実だと、これが真実だと嫌と言うほどに思い知らされる。
「…セネト…貴方が…欲しい……」
どんなに綺麗な想いで貴方を願おうとも、どんなに穢れなき想いで貴方を想おうとも。私の身体は貴方を求め、私の女の部分は貴方の前で剥き出しになる。ただひとつ穢したくない想いは、こんな風に剥き出しになって壊されてゆく。それでも。それでも、私は。
「…ティーエ……」
「…欲しい…のぉ…来て…私の…私の中に……」
貴方が、欲しくて。ただひとり、貴方が欲しくて。それは最も純粋で、最も醜い想い、だったから。
「…来て…セネト……」
――――ただひとつの、私の真実の想い…だったから……
「―――あああっ!!」
貴方の熱い塊が私の中に挿ってきて、そして。そして貴方を感じて、初めて。初めて私はただの『女』になった。
レダの王女でも、政治的立場の人間でも、運命の駒でもない、ただ独りの女になった。
「…あああっ…あああ……」
貴方を好きなただの女。貴方を愛したただの女。貴方だけを想っているただの、女。
「…セネト…セネト…あぁ…あああ……」
「…ティーエ…ティーエ……」
好きよ、セネト。貴方だけが好きなの。私の子供の綺麗な心は。ただひとつ残っている私の綺麗な想いは、貴方だけに向けられているの。そこには打算も、策略も何もない。ただ貴方を好きだという想いだけが、それだけがここにあるの。今、ここにあるの。
「…好き…貴方だけが…好き…好き…好き……」
どうして私はただの女として生まれなかったのだろうか。ただの独りの女として、運命すらにも見つからないようなちっぽけな女として。私という女に相応しい、ちっぽけな存在にしてもらえなかったのだろうか?
「ティーエ…僕も…君だけが……」
どうして、私と言う女に相応しい運命を与えてくれなかったのか?
「ああああああ―――っ!!!」
自らの欲望で、貴方を穢し。
自らの想いで、貴方を罪に陥れ。
それでも。それでも消せないものが。
それでも消せない想いが。
―――この指にそっと、結ばれる……
「…ティーエ…君がこれからどんな道を歩んでも」
「…セネト……」
「ずっと僕は見ているから……」
「………」
「見ているよ、君を」
「愛している、ティーエ」
君の苦悩を。君の想いを。
君が自らを苛んでまでも、消せない想いを。
それは僕もこの胸に持っていて、そして。
そして君が背負う傷も罪も、ここに。
今ここに。僕の胸にも刻まれる。それは。
それはふたりの間に、永遠に消えないものなのだから。
「…さようなら…セネト……」
そっと離れてゆく指先。この地上でこの指が絡まる事は永遠にないのだろう。
「…ああ、ティーエ…さようなら……」
それでも君の薬指には、見えない指輪が掛けられている。
「…さようなら……」
僕と君の永遠に追う傷と罪で出来た指輪が、その指に。
「―――さようなら…子供だった…私達……」
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