涙の痕




言葉にすれば、そっとそれは溶けていって。
ゆっくりと静かに溶けていって。そして。
そして漂う空気となり、私達を包み込んでくれた。


―――貴方が、好きだから……


何時も笑顔でその言葉を。何時も笑顔でその想いを。
ただ独り大切な人に告げる事が。それが、何よりも大切だから。



頬から零れる涙の痕を、そっと指で拭えば。そうすればそっとお前は微笑った。その笑みを多分、俺はきっとずっと忘れはしないだろう。
「…やっとホームズが…見てくれた」
見上げてくる瞳のひたむきさを、俺は気付いていながら何時も何処かで反らしていた。それはただの照れ隠しだけじゃ、ない。お前がさぁ…お前が普通の女としてさ、普通のしあわせを見つけて欲しかったから。
「―――カトリ……」
普通の女としてさ、両親に甘えて。そして今まで失っていた暖かい時間を取り戻すようにと。それには今の俺じゃあ、余計な存在だと思ったから。でも。
「やっと目、合わせてくれたね」
でもそれは間違えだったんだと、気が付いた。今になって、気がついた。こうしてお前が俺のそばにいて、そして。そして、初めて気が付いたこと。


透明な心で。綺麗過ぎる心で。
何者にも穢せない真っ白な心で。
何時も何時もお前は生きていた。
どんな人間に対しても。どんな奴に対しても。
何時もお前は真っ直ぐで、そして。
そして誰よりも優しかったから。

―――何時しかその優しさに救われていたのは俺の方だって…やっと気が付いた……


「こうしてずっと、貴方を見ていたかった」
回り道いっぱいしたな、俺達。きっと一番欲しかったものは、こんなにも近くにあったのに。手を伸ばせばそこにあったのに。
「ずっと、ホームズだけ見ていたかったの」
こうして少しだけ手を伸ばしたら…指先はそっと触れ合えるのに。ぬくもりはこうして確かめ合えるのに。どうして、その少しだけの距離を縮めようとはしなかったのか?
「こうやって、ね。ホームズを」
こんなにも簡単に確かめる事は出来たのに。どうして、戸惑ってしまったのか?どうして少しだけ先に進もうとはしなかったのか?
「…貴方を…確かめたかった……」
――― 一体俺は、何に怯えていたのか?


指先が重なって。そっと。
そっと指先が絡み合って。
そして分け合うぬくもりが。
切ないくらい優しい暖かさが。

―――バカみたいだけど俺…泣きたくなった……


「―――カトリ……」
華奢な身体をそっと抱きしめ、そしてもう一度涙の痕を拭った。けれどもそれは消える事はなかった。後から後から零れて来る暖かい雫が、その痕を消してはくれなくて。
「…わりー…俺…きっとさ……」
泣かせたくねーと思っていたのに、やっぱり泣かせてしまう自分。大切だと思っても、護りたいと思っても、その思いが何時も何処か違ってしまう自分。だから、俺は。
「…きっと…怖かったんだ…」

「…お前…壊しちまうんじゃねーかと…思って……」


こんなに細い手で、必死に俺を護る。
こんなに細い肩で、必死で俺の盾になる。

俺が気付かない場所で。俺が見えない場所で。

何時も何時もお前は、こうやって。
こうやってずっと、俺を護っていてくれた。


「バカだな、俺…お前護りたいってあんなに思ったのによ…でもどっかで怖かったんだ…お前、小さいし…華奢だしよ…俺…乱暴者だし…」
「くすくす、そうだね。ホームズ乱暴者で意地悪だもん」
「…お前なぁ…何だよさっきまで泣いてたくせに、急に笑いやがって」
「だって、ホームズが」
「―――ちっ、どーせ俺は意地悪で乱暴者だよっ!」
「あー拗ねてる」
「拗ねてねーよ」
「嘘、拗ねてる。でもね、ホームズ」

「ちゃんと、知っているよ。ホームズが誰よりも…優しいって事は……」



言葉にしなくても、伝わるものはある。
言葉にしなければ、伝わらないものもある。

貴方の優しさは言葉にしなくても伝わって。
貴方の想いは言葉にしなければ伝わらなかった。
でもどちらも。どちらも、大切なもので。
何よりも大切なものだから。


――――何よりも、大切な想いだから。



「…好き…ホームズ……」
そっと言葉にして、そして。そしてゆっくりと降り積もってゆく。静かに落ちてゆく。
「…あ、ああ……」
ゆっくりと、ふたりに。ふたりの間に降って来る。優しくて暖かいかけがえのないものが。ふたりの間に、そっと。そっと。
「…俺も……」



「―――好きだぜ…カトリ……」



手、繋いだまま。繋いだまま、キスをした。ひどく不器用なキスを。ひどく精一杯なキスを。でもそれが今の。今の『ふたり』の想い、だから。

だから不器用でもいい。だから精一杯でいい。

だって大事なのは、今ここにある。ここにあるたったひとつの。たったひとつの綺麗で純粋な想い、だから。




腕の中のお前を見下ろせば、ひどく無邪気な顔で微笑って。そして。


―――そして何時しか頬に掛かる涙の痕は…消えていた。

 

 


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