―――水面に揺れる、下弦の月。


貴方だけが、全て。貴方がこの地上で息をして、そして。そしてこの大地に脚を下ろし、生きていてくれれば私はそれだけで…よかった。
「シエラ、こんな所にいたのか？」
降り返った先には、貴方の笑顔。優しい笑顔。私はただ。ただその笑顔をずっと見ていたかっただけ。ただずっと。ずっと、貴方の笑顔を。
「シゲン」
貴方の背中に下弦の月。淡く降り注ぐ月の光。柔らかく包み込むその光は、何処か貴方に似ている。本当は誰よりも優しい貴方に。
「少し風に当たりたかったの」
「…ふっ、そうか……」
それだけを言うと貴方はそっと私の髪に指を絡めた。昔から…始めて逢った時から貴方はこうして私の髪に指を絡めてくれていた。ゾーア人として火あぶりにされそうになって、助けられた時。泣き出しそうだった私の髪を撫でてくれたあの瞬間から。

―――こうして指を絡めることが…私達を繋ぐ優しい絆になっていた……


生きていてと、ただそれだけが願いだった。
裏切り者だと罵りながらも、それでも私は。
私はずっと、願っていた。生きていて、と。

どんなになろうとも、どんなになっても。
貴方が誰でも、貴方が何者であろうとも。

私は貴方がこの地上に生きてさえいてくれれば。
私が貴方がしあわせでいてさえくれれば。


それだけで、しあわせ。それだけで、うれしい。



愛の名のもとに、ただひとつの祈りを私はずっと捧げていた。



「お前が、一瞬」
「…シゲン？……」
「この夜に溶けてゆくんじゃないかと思った」
「…どうして？……」
「分からない、でもふと思った」
「………」
「…もう何処にも…行くな……」


髪を撫でていた手が、そのまま。そのまま私をそっと抱きしめる。優しく、抱きしめる。それだけで。それだけで、私は何も望まない。何も、いらない。
こうして再び貴方が私を抱きしめてくれるだけで、充分なのに。ううん…こんな日がまた来るなんて思わなかったのに…それなのに、貴方は。
「俺のそばにいてくれ」
見上げた先に貴方の瞳。この瞳にもう一度、私が映ってもいいの？貴方をあれだけ罵倒した私が、映っていてもいいの？
「―――お前だけが…きっと本当の俺を分かってくれる…から……」
背中に腕を廻し、そのままきつく抱き付いた。広い、背中。優しい、背中。この背中が何時でもどんな時でも、私を護ってくれた。ずっと。ずっと、ずっと。
「…シゲン…私は……」
柔らかい蒼い髪。何処かひだまりの匂いのする髪。あの絶望の闇のような世界の中で、貴方だけがただひとつの光。ただひとつの、私の愛。
「…私は…貴方が…しあわせならば何もいらない……」
眩しいほどの光をずっと貴方に感じていた。全てを包み込む優しい光をずっと貴方に感じていた。貴方の優しさはゾーア人だけじゃない、全ての人に注がれる深い愛。その中に。その中に少しでも私が含まれていた事が、何よりものしあわせだったのに。それなのに貴方は、それ以上の。それ以上の愛を、私に与えてくれたから。
「何もいらないわ、シゲン。だから生きてね、しあわせになってね」
「ふっ、バカだなお前は」
そっと貴方の手が私の頬に掛かる。そして次の言葉を紡ぐ前に、そっと。そっと私は唇を塞がれた。貴方のその、唇で。
「しあわせになるには」

「―――お前が…必要なのに……」


零れてゆく、月の光。
頭上に浮かぶ下弦の月。
雲に隠れ途切れ途切れになりながらも。
それでも優しく私達を見護る月。
そっと、みまもる、つき。


今思えば、貴方はずっと。
ずっと私を見護ってくれていた。
離れても、どんなに私が貴方を拒否しても。
遠くへと去っていっても。
それでも貴方はずっと。ずっと、私を。


――――みまもっていてくれた………



「そろそろ俺も、人並みの小さな幸せが欲しい…だからそばにいてくれ」
「…シゲン……」
「ちっぽけだけど何よりも大切なものだから、お前と二人で作りたい」
「…私で…いいの？…」
「ふっ、他に誰がいる？」
「…私で…いい…の？………」


ぽたりと、頬からひとつ雫が零れ落ちる。
それはゆっくりと地面に消えて行った。
月が、闇がそっと。そっとそれを隠してくれた。


けれども貴方の瞳には映っている。
私の涙は、映っている。



「―――お前がいい…お前だけが、いい」



貴方の手がそっと私の頬に落ちる涙を拭った。優しい手が。優しすぎる、手が。思えばずっとこの手が。この手が私の涙を拭っていてくれた。辛い時も、哀しい時も、嬉しい時も、幸せな時も。全部、この手が。



「…はい…シゲン…ずっと一緒に……」



―――下弦の月は、ゆっくりとふたりの間に淡い光を落としてくれた……。

　

　

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