口付けの後


どうしてこのままで。このままで、いられないのだろう。


剥き出しになった脚を撫で、そのまま足の指を口に含んだ。舌で包み込むように舐めれば、触れていた腿がびくりと震えた。
「…止めろっ…忍足っ……」
綺麗な喉元が上下しているのが分かる。見上げれば長い睫毛が微かに震えていた。それだけで、ひどく。ひどく自分は満足感を覚える。
「これが俺の気持ちや、跡部」
「ふざけんなっ!人の脚いきなり舐めといて何言ってやがんだよっ」
自分を見下ろし睨みつける目は、何時もの鋭い獣のような瞳。鋭く強いその瞳に、どれだけ自分は焦がれていたのだろうか?どれだけ焦がれ、求めたのだろうか?
何時も上から見下ろしている。誰よりも強く、誰よりもプライドの高い、しなやかな野獣。自分以外の人間を全て見下しているように、誰よりも高い場所で鮮やかに微笑っている。

何時も、思っていた。どうしたらそこからお前を引き摺り下ろせるかを。


手を伸ばして、お前を求めて。必死になってお前だけを求めて。
「お前の為なら俺は、何処までも卑屈になれるんや」
そのしなやかな身体を掴んで、引き摺り下ろして。そして。
「お前の為なら何でも、出来るんや」
そして貪り尽くしたい。血の一滴までも飲み干したいと願う。


「―――何でも出来るんや…お前を手に入れるためならば」


指の間の部分を、ぴちゃりと音を立てながら舐めた。それが嫌で引っ込めようとする足首を掴みながら。こうしてお前の前に跪き、犬のように脚を舐める。端から見たら、ひどく惨めな姿なのだろう。
けれどもそれを俺が望んでいる。俺が、望んでいる。この隙間から、この指の隙間から少しでもお前に俺を注入出来たならば。
「俺は誰のものでもねえよ。俺は俺だけのものだ」
ざらついた踵を撫でれば、微かに口から息が零れた。こんなささやかな変化ですら、自分がもたらしたものだと思えば幸福だった。こんな事ですらしあわせを感じる。きっともう何処か。何処か壊れているのだろう。
きっと、壊れている。内側から少しずつ、壊れている。けれどもそれを。それを止める術を知らない。
「そう言うと思っとったわ。そんなお前だから惚れたんや」
「…そんなセリフ…臆面もなく言うんじゃねー……」
「惚れてるんや、お前に。俺はどうしようもないほどに」
顔を上げお前を見上げた。そこに何時もの不遜な態度は影を潜め、何処か。何処か怯えたような瞳をしている。そんな瞳、お前には似合わない。けれども。けれども噛み付きたいほどに綺麗だと思う。綺麗だと、思う。
「俺が怖いんかい?」
「…こ、怖くなんかねーよ……」
「嘘や、震えとるで。お前、震えとる」
もう一度剥き出しになった脚を撫でて、そのまま立ち上がりお前を抱き寄せた。逃げられる前にきつく腕の中に閉じ込める。しなやかな身体が俺の腕の中で、微かに震えていた。
「―――怖いんか?俺の事」
「…怖くなんてねーよ…ただ…」
「…ただ?……」
視線が、絡み合う。何時もの真っ直ぐに人を射貫く視線だった。けれども何処か。何処か不安定な瞳だった。不安定な、瞳。
「…俺が…変わっちまうのが…怖えーんだ……」
手が、伸ばされる。俺の背中に伸ばされて、そのまま。そのままきつく抱きしめられた。



お前が俺の中に入ってきやがる。どんどん入ってくる。
まるで水が溢れてくるように、俺にお前が注がれてゆくのが。
そうやって俺自身が曖昧になってゆくのが。それが。
それが、怖い。怖ええんだよ。お前が俺の中に根付いて。
根付いて、そして。そして消えないのが。どうやって消えねーのが。


俺は俺なのに。俺でしかないのに。それなのに俺ですら知らない俺がいる。



柔らかな髪も、不遜な瞳も、全部。
「お前は変わらへんよ。どんなになっても」
全部、欲しい。全部、噛み付きたい。
「どんなになっても…俺には届かない人なんや」
噛み付いて、味わいたい。芯まで、食らい尽くしたい。


「――――こんなにも…俺のそばにいるのに……」


どんなに求めても。どんなに引き摺り下ろしても、きっと。
きっとお前は何も変わらない。何一つ、変わらない。
傷つくのは俺だけで。消費されてゆくのは俺だけで。
壊れてゆくのは俺だけなんだ。そうだ、歪んでゆくのは俺だけなんだ。


それでも渇望せずにはいられないのは。それでも願わずにはいられないのは。


「キス、させて。跡部…お願いや…キスさせて……」
暖かい頬。伝わるぬくもり。お前はここにいる。ここにいるのに。
「…させてえ、な…そんくらいええやろ?…」
ここにいるのに、遠い。とても遠い。一番近くにいるのに、遠い。


拒まない唇をそっと塞いだ。触れるだけのキス。重なるだけの唇。それだけなのに、苦しい。



お前が入ってくる。俺の中に入ってくる。ぬくもりが、吐息が、俺の中に。
「…好きや、跡部……」
言葉が入ってくる。胸の中に入ってくる。心の中に入ってくる。それを。
「…ほんまに…好きなんや……」
それを拒む事が出来ない。それを押し戻す事が出来ない。俺は。俺はゆっくりと。


ゆっくりとお前という存在に、侵されてゆく。浸されてゆく。



口付けの後、気がついた。ふたりは、もう戻れないのだと。戻れない場所に、辿りついてしまったのだと。

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