見上げた先にある空の星に、そっと目を細めた。
眼鏡越しに見ている星は、きっと本当の輝きとは違うものなのだろう。それでもこうして瞳に映るものは、自分にとっての『世界』だった。
「何を見ているの?手塚」
背後から聴こえてくる声が、何時しか自分にとって当たり前のように耳に馴染むようになっていた。ごく自然にこの声を認識するようになっていた。ただそれが何時からかと尋ねられたら、自分には明確な答えは出ては来なかったけれど。
けれども耳に自然と馴染む声が、空気のように自分にとっての『当たり前』になっていた。
「空を見ていた」
隣りに並ぶ相手に振り返れば何時もの穏やかな笑みがある。滅多に崩される事のない笑顔、表情。自分と同じで、そして自分にとって最も対極な存在だった。
笑う事が上手く出来ない自分と、当たり前のように笑顔を作りながら心は笑っていない相手。笑えないから不機嫌な顔をする自分と、笑えないから笑いの形を作る相手。
「今日は星が沢山出ているね」
自分と同じように顔を上げて、その瞳が空を映し出す。漆黒の闇に散らばった小さな輝きは、どういった風に映し出されているのだろうか?眼鏡越しに見ている自分とは違う、直接瞳に映している彼にとって。
「どうしたの?」
不意に気になってその瞳を覗き込んだら、不思議そうな表情をされた。確かにこんな風に自分から間近に、彼の顔を覗き込むなんて事は普段ならばしないのだから。
けれどもどうしても気になって。気になったから、目が離せなくて。離せ、なくて。
「キス、して欲しいの?」
伸ばされた腕に、髪に絡まった指先に。そして触れてくる唇に。その唇が重なる瞬間まで、瞼を閉じる事が出来なかった。
自分よりもずっと細い身体なのに、強く。強く、抱きしめられる。
「君が僕だけを見ていてくれたらいいのに」
息が出来なくなるほどに。息をするのが苦しくなるほどに。
「今みたいに、ずっと。ずっと僕だけを見てくれたらいいのに」
絡め取られる。言葉に、腕に。そして何時しか逃れられなくなって。
――――このまま…と…何処かで思っている自分がいる……
細くしなやかな指が手塚の髪をそっと撫でた。何時もこの指は、優しい。髪を撫でる瞬間は、優しい。けれども手塚は知っている。この指が優しいだけじゃないって事を。この指先が、自分をどれだけ狂わせ、そして溺れさせるのかを。
「…星が瞳に映ってたから……」
至近距離で見つめる不二の瞳はとても深かった。底が見えない漆黒の瞳。まるで闇を見ているような錯覚に陥る。そして何時も。何時も感じている。この瞳に自分が吸いこまれてゆくのを。
「くす、随分ロマンチックな事を言うんだね」
「―――可笑しいか?」
「ううん、意外だったから」
微笑う。何時もの穏やかな笑み。けれども、と思う。けれどもと思う。目の前の彼は何処まで微笑っているのだろうかと。廻りに見せる作り物の笑顔と、自分に見せる笑顔と。何処までが同じもので、何処までが違うものなのだろうかと。
何処までが本気で、何処までが嘘なのだろうかと。彼の真実は何処にあるのだろうかと。
瞳を探ってみる。奥まで探ってみる。さっきまで気になった瞳の中の星よりも、もっと。もっと気になるものを捜す為に。もっと奥を、捜す為に。
柔らかい笑顔。真実を覆い隠す笑顔。
「星以外に何か見えた?」
その先にあるものが見たくて。その先が知りたくて。
「…分からん……」
けれども知ってしまったならば。知って、しまったら。
「分からない?」
もう何処にも戻れないような気がする。何処にも、戻れない。
「――――僕が映しているのは、君だけなのにね」
ずっと見つめていたものがあって。ずっと追いかけているものがあって。それを振り向かせたくて。それを手に入れたくて。それを、自分だけのものにしたくて。
「君だけを見ているよ。ずっと僕は」
捜しているものは目の前にある。君が僕の瞳から探り出そうとしているものは、今ここに。ここに、在る。君自身という存在が何よりもの証拠なのに。
「…不二……」
どうして君は気付かないのだろう。どうしてそこまで辿り着かないのだろう。それとも。それとも認めるのが怖いのか。それとも気付くのが怖いのか。君にとっての最期の逃げ道を作っておきたいからなのだろうか。
「好きだってどれだけ言えば、君は僕の全部を信じてくれるのだろうね」
君の見ているレンズ越しの世界は、少しだけ綺麗に見えているんだろうね。少しだけ僕の闇を隠しているんだろうね。少しだけ真実を、歪めているんだろうね。
「どうしたら…信じてくれる?……」
こうやって抱きしめて。きつく、抱きしめて。そして思いの全てを込めたとしても、何処か君を遠い場所に感じるのはどうしてなのだろう。こんなに強く抱きしめているのに、どうしてなのだろう。
「…俺は…お前を…好きだと…思う……」
何時も曖昧に答える自分がいる。それを直接告げてしまったら、どうしても。どうしても何かが壊れるような気がして言えなくて。けれどももしも全てを認めて告げてしまえたら。そうしたら、この目の前にある笑顔の行方も分かるのかもしれない。
―――何処までが本物なのかを。何処までが真実なのかを。
髪に触れられる指先の優しさが、もしも全てだったならば。そうすれば、きっと。きっと何も傷つきはしなかったのに。それだけが、全てだったならば。
けれどもそれ以上のものを見つけ出して、そして心の何処かで自分が望んでいる限り。こうやって瞳の奥を探ってまでも、捜し出そうとしている限り。
笑顔の行方はもしかしたら。もしかしたら、レンズ越しじゃない自分の瞳にあるのかもしれない。