頭上を見上げたら一面、夜空に星が散らばっていた。それがあまりにも凄くて、しばらく海堂は呆然としたまま夜空を見上げていた。
「珍しいね、こんなに東京の空で星が見えるのは」
「先輩」
かさりと一つ砂を踏む音と同時に背後から聴こえてくる声に振り返れば、そこには予想通りの顔があった。何時もの、顔。厚い眼鏡に瞳は覆われていて、余り表情の読み取れない顔。口許は気付けば何時も海堂の前は薄く微笑っている。
本当に予想通りの顔。何時も自分の前ではこの顔をしているから、だから想像は一寸の狂いもなくなっている。
「…そうッスね……」
何時の間にか覚えてしまった。何時の間にか刻まれてしまった。考えようとする前に、浮かんでくる程に。
「でも、悪くないな。綺麗だ」
そしてその後自分をゆっくりと見下ろして、そして。そしてにっこりと微笑う所まで。そんな笑顔まで何時も同じように繰り返されるから。だからその笑顔も脳裏にすっかり刻まれてしまった。
隣りに立つ相手を見上げる。自分より頭一つ分背の高い相手。
その身長差がそのまま自分と相手との差のような気がした。
一つ年上だからという年令差だけじゃない。もっと違うもの。
身体の大きさとか、手足の長さとか、そんな事よりも。
もっと違う見えない差。けれども確実に二人の間にある差。
それが悔しいのか、追いつきたいのか、もっと別の感情なのかは分からない。けれどもただ。ただずっとその事だけが、頭から離れない。
空の星は相変わらずきらきらと光っていて、まるで黒い絨毯に金色の粉を零したみたいだった。
もう一度その星を見上げてから海堂は隣りにいる乾へと視線を移す。視線を移した途端に目が合った。相手の方はどうもずっと自分の方を見ていたらしい。それに気付いたら何だかひどく海堂は気恥ずかしくなった。
こんな風に海堂は自分に視線を向けられているのに慣れていない。正確にはコートの上以外でだが。
テニスをしている時は常にプレーに集中しているので他人の視線など全然気にしたりはしない。けれどもコートを出てテニスから離れると、不意に気になる時がある。それは何時も気付くと、こんな時だった。ふとした瞬間に、乾が自分を見ている時。
「な、なんスか?先輩」
もしもここが野外で夜空でなかったら、自分の頬が微かに紅くなっているのがバレただろう。視界が暗くて本当によかったと思う。そんな様子を見られたら恥ずかしくて堪らない。
「いや、海堂の目に星が映っているなと思ってね」
「―――――っ!」
今度のは視界が暗くても、自分が紅くなったのを気付かれないのは不可能だろう。でも男相手にそんなこっぱずかしいセリフを言う相手が悪い…絶対に。
「夜空の星より綺麗だなって思った」
「って、お、おいっ……」
かさりと砂を踏む音が、ひとつ。ひとつ海堂の耳に響いた。それを認識する前に乾が海堂の目の前に立つ。そしてそのまま。そのまま大きな手で海堂の頬を包み込んだ。
「わっあんた何して…離せって、おいっ!」
「冷たいな、頬。随分長い間外にいた?」
「…いたけど…だからって何でこんな所に手を…っ!」
律儀に答える海堂が可笑しくて乾は声を立てて笑った。それが気に入らなかったらしく海堂は威嚇するように乾を睨みつける。ほとんどの人間が怖がるであろう海堂の今の瞳。けれども乾は怖いなんて思った事は…一度もなかった。
鋭い眼光。強い意思を持っている瞳。真正面で射貫かれれば竦み上がるほどの、強い視線。けれども乾にとってそれは恐怖にも怯えにもならない。
「もっと海堂の瞳が見たかったから」
そんなものよりも何よりも真っ先に。真っ先に乾は思う言葉がある。海堂の瞳に思う言葉が。
――――すごく綺麗な瞳、だと。
何時も一歩自分よりも前にいる。追いつこうとしても追いつけない。
テニスで勝てた時でも、勝負に勝てた時でも。それでも何処かで思っている。
勝った瞬間でさえ、追いつけていないって。追い越せていないって。
負けたくはない。誰にも負けたくはなかった。それは常に思っている。けれども。
けれどもその『負けたくない』が、目の前の相手だけは少しだけ違っている。
誰に対してもこの感情はテニスのみに向けられているのに。どうしてだろう?
どうしてだろうか。目の前の相手にだけは、テニス以外の事ですらそう思うようになっていた。
例えば手の大きさとか。例えば考え方とか。例えばこうやって話す時とか。
何故かそんな事ですら、気になるようになっていた。ううん、気になっている。
「な、何言ってんスか?」
驚きに見開かれた瞳。それすらも乾にとっては『綺麗』なものだった。普段何時も怒ったような表情で、無愛想だと言われている彼。でも乾は知っている。彼の表情が本当はどんなに魅力敵にくるくる変わるかを。怒った顔も、照れている顔も、嬉しそうに微笑う笑顔も。ちゃんと見てきたから、知っている。
「思った事を言ったまでだよ、海堂」
乾の言葉に海堂は上目遣いに睨んできた。けれどもこれが本当は照れている為だって、きっとここまで近付かなければ分からないのだろう。ここまで心の距離を近付けなければ。
「見たいからそう言った。それ以外の他意は何もない」
「―――」
威嚇するように睨みつけてくる瞳も。不機嫌そうな仏頂面も、本当は。本当はどんな表情をしていいのか分からなくて、そうしてしまっているんだって。そんな顔をしてしまっているんだって気付けば、全然怖い相手ではない。むしろ、可愛くて仕方ないんだと思えるほどだから。
「だからもう少し、こうしていてね」
触れている手のひらが熱くなるのを乾は感じた。海堂の頬の熱で。それはどんなものよりも、愛しいものだった。
人付き合いが苦手で人の輪に入るのが苦手で、会話を続けるのが全然出来ない自分でも。
こんな自分ですらも会話を続けてくれる相手。話を続けてくれる相手。
睨みつけても、威嚇しても、絶対に微笑ってくれる相手。どんな不機嫌な顔をしても。
本当は嬉しい時でも睨みつけてしまう俺に、分かってくれたように微笑ってくれる相手。
――――…嫌われたくないと…思った…生まれて初めて嫌われたくない人だって…思った……
頬が、熱い。触れられている個所が熱い。
「ってやっぱあんた変だ」
どうしていいのか分からない。どうしたらいいのか。
「どうして?」
普通ならふざけるなって振り解けばいいのに。嫌だって振り解けば。
「普通に考えても変だろうがっ!こんな事するのはっ!」
でも、振り解けない。振り解きたく…ない。
「そうだね、変だね。でも海堂だから」
この手のぬくもりを、この指先のぬくもりを、感じていたい。
「――――きっと海堂の前だから、変になるんだ俺は」
ずっと好きだったからね、お前の事ずっと大事に思っていたからね。
可愛くてどうしようもなくて、どうにも出来なくて。馬鹿みたいに何時も。
何時もどうやったら振り向いてくれるか、どうやったら俺に懐いてくれるか。
そんな事ばかり考えていたから。
だからお前の前では俺は何処までも変になっちまうんだよ。
…変になるくらい、お前に恋をしているからね…海堂……
「だからもうちょっとだけ、変な俺に付き合ってて、ね」
海堂の瞳にはもう夜空の星は映っていなかった。けれども乾はしばらく海堂の瞳を見つめていた。星じゃなくて、その瞳を見つめていた。