気付けば懸命に、その背中を追いかけていた。夢中になって、追いかけていた。
何時かその背中に届いて、隣りに並べる日が来るのだろうか。
何時か同じ位置に立つ日が来るのだろうか。
同じ視線で、同じものを見る事が出来るのだろうか。
「――――」
先輩、と呼ぼうとして。声に出そうとして、海堂の口は止まった。声に出す前に、その口がぎゅっと閉じられる。閉じられて、そのまま。そのままその背中を見つめて。見つめてゆっくりと視線を下に外した。
大きな、背中。広い、背中。こうして見ているとそれをひどく遠いもののように感じる。遠い、もののように。
一緒に練習している時、ダブルスを組んでいた時、その背中は自分にとって一番近い場所にあった。手の届く場所にあった。でも、今は。
今は、ひどく。ひどく、遠い場所にあるように思える。
何てことはない。移動する廊下で乾を見掛けたから声を掛けようとしただけだ。―――先輩、と短い挨拶をしようとしただけだ。けれどもその言葉はどうしても口から出す事が出来なかった。出来なかった。
笑って、いた。乾は普通に笑っていた。けれどもその顔を…海堂は知らなかった。今まで知らない顔、だった。隣りにいるクラスメートと一緒に笑っている顔。それは年相応の顔だった。自分の前で笑っている乾の顔と違う。それが。それが、何よりも。
「………」
視線を、外す。そして。そして気付かれないように、そっと。そっとその場を海堂は後にした。
『―――強くなりたいんだろう?』
何時も穏やかに微笑っていたから。何時も。
『誰よりも強く、なりたいんだろう?』
口許に静かな笑みを浮かべて、そして。
『だったらこのメニューをこなしてみないか?』
そして眼鏡の奥にある瞳も、柔らかく微笑っていた。
だから、知らない。あんな顔、しらない。あんな笑い方、俺は知らない。
教室に戻ろうとしてけれども戻る気になれずに、海堂はそのまま屋上へと向かった。もうすぐ四時間目の授業が始まる。けれども今はそんな気分になれなかった。
「…何してんだ…俺……」
誰もいない屋上で、海堂はぼそりと呟いた。さっきは名前を呼ぶ声が出なかったくせに、今は簡単にぼやきが出て来る。それが何だかひどく情けなかった。
近くにあった手すりに手を置くと、そのまま頭上を見上げた。そこにあるのは目を細めなければ見ることの出来ない太陽。きらきらと光の粒子が海堂の睫毛に降りてくる。きらきら、と。
空は嫌になるくらいに鮮やかだった。目に焼きつく程の蒼さ。それが嫌になって目を閉じても、瞼の裏の残像が消えなかった。うっすらと蒼の残像が瞼の裏に、残っている。
「…先、輩……」
今になって声を出してみて、後悔した。出てきた声がひどく切なかったから。何時から自分はこんな風に、この人を呼ぶようになってしまっていたのか。何時からこんなにも。こんなにも自分にとって強い存在になってしまったのか。
初めは、ただ追いかけた。強くなりたかったから、追いかけた。追いかけて、追いつきたくて。そして。そして、気付けば。気が付けば隣りに並びたいと…思うようになっていた。
『俺とダブルスを、組んでみないか』
あの瞬間、馬鹿みたいだけど…追いつけたと一瞬だけ思った。
隣りに並べたんだって、本当に一瞬だけ思った。
口にはしなかったけれど。言葉には、出来なかったけれど。
――――コートに立った瞬間、俺達は今同じ場所にいられるんだって。
強い風がひとつ吹いて海堂の髪を乱した。それを直す事無く、海堂の視線は空へと向かっている。蒼い空へと。
けれども瞳は空を映していても、意識はこの空にはなかった。思考は今、別の場所にある。ここではない、場所に。
「…戻るか……」
思考を巡らせても海堂にとって納得のいく答えは出てこなかった。ただ心がもやもやしているだけで。気持ちがもどかしいだけで。本当にどうしていいのか分からなかった。何をしたいのかも、分からなかった。
形だけ見上げていた空から視線を戻すと、海堂は階段へと向かった。このまま教室に戻ろうとして。戻ろうとして脚が、止まった。
君を、捜していた。ずっと、捜していた。
「見つけた、海堂」
本当は気付いていたけどわざと。わざと気付かない振りをして。
「…せ、先輩……」
君が俺に向ける視線の先にある答えを、捜していた。
名前を呼んでくれるかと思ったけれど、君は呼ばずに立ち去ってしまったから。
こうして驚愕に目が見開かれると、海堂の瞳は大きいのだと乾は改めて実感をした。普段は挑むような睨むようなきつい瞳も、こんな時に見せる表情はひどく。ひどく年相応で可愛いものだった。
「どうしてここに…いるんすか……」
はっとして言葉を出してみたものの、まだ瞳は見開かれたままだった。そんな海堂に乾は微笑う。そっと、微笑む。それは海堂が知っている何時もの乾の笑みだった。さっきクラスメートと笑っていたときとは違う…乾の笑みだった。
「海堂を捜していたんだ」
「何で…俺を…」
ゆっくりと近付いて乾は海堂と向き合う。頭一つ分、海堂よりも高い。それが今の二人の差を現しているように思えて、一瞬胸が詰まる。
「さっき声も掛けずに立ち去ったから、俺何かしたのかと思ってね」
「―――っ!…き、気付いて…いたんすか?……」
「うん、あれだけ強い視線送られれば…気が付くよ、海堂」
柔らかい笑顔と穏やかな声が、何時ものように海堂に降って来る。それは変わらなかった。初めて出逢った時から、ずっと。ずっと変わらないものだった。
「だから俺は、海堂に何かしたのかと思って気になってね」
何時もの笑顔。優しい笑顔。さっきとは違う笑顔。どうして違うのか。どうして、自分には見せてくれないのか。どうして…自分には……。
「…してないっす……何も……」
でも言えなかった。海堂には、言う事が出来なかった。そんな事を言った所で、どうなる訳ではない。ただの子供染みた我が侭でしかないのだから。そうだ、我が侭だ。
――――どんな顔でも、見たいだなんて……
何時も、微笑っている。穏やかに微笑っている。
自分の前では、ひどく優しい笑顔を向けていてくれるから。
だからそれが全てなのかと。それがこの人の全部なのかと。
そんな風に勘違いしてしまって。勘違い、して。
俺の知らないこの人がいるんだって事を。違う場所にいるんだって事を…忘れそうになってしまうから。
会話を切り替えようとしても、海堂には気の利いた言葉が浮かんでこなかった。口を開きかけて、ぎゅっと唇を閉じてしまう。そうして睨むような目で乾を見上げてきた。
「本当に何も、していない?言いたい事があるならちゃんと言ってほしい」
何も知らない人間から見ればこの海堂の瞳は、怯えや不快にしかならないだろう。けれども乾には分かっていた。今の海堂の瞳が、実はどうしていいのか分からずに困っている瞳だという事が。どんな表情をしていいのか分からずに、廻りを威嚇してしまうのだと。
「…何もして…ないです……」
そう言ったきり耐えきれずに海堂は乾から視線を外して俯いてしまった。こんな風に優しく尋ねられてしまえば、己の我が侭に益々嫌気が差してくる。本当にただの、我が侭なのだ。乾には全く非がない。それなのにこんな風に、聴いてくれるのは苦しい。
―――苦しかった。嬉しいと思う反面…物凄く、苦しかった。
「それならどうして。どうしてそんな顔を、するの?」
「…あ……」
手が、触れた。頬に、触れた。微かに暖かい手が、海堂の頬に触れる。大きくて、厚い手のひらが頬に触れる。その瞬間、海堂の頬はさああっと朱に染まった。
「…せ、先輩っ……」
頬に手を重ねたまま乾は顔を自分へと向けさせる。眼鏡の奥にある瞳が真っ直ぐに海堂を見つめてきた。その視線に耐えきれず海堂は顔を反らそうとしたが、それは叶わなかった。乾の両手に頬を包まれ、固定されてしまったので。
「俺は海堂にそんな顔をさせたくない」
耐えきれなかった。真っ直ぐに自分を見つめてくる視線に。耐えられない。心の奥まで見透かされてしまいそうで。だって何時も。何時も目の前の人は、自分よりも先回りしている。どんな時も、どんな瞬間も。だから―――
「―――俺は…海堂……」
目を、閉じた。強い視線を受け止める事が出来なくて。自分の心が見透かされるのが怖くて。だから目を、閉じた。瞼を、閉じた。
近くて遠い場所。あんたは近くて遠い人。
追いかけて、追いついて。でも引き離される。
やっと隣りになれたと思ったのは一瞬で。
気付けばあんたはずっと。ずっと先にいる。
何時しかあんたは振り返ってくれなくなるかもしれない。
もう振り返ってくれなくなるかも、しれない。それが、怖い。
『君はきっと、強くなるよ』
他人と馴染めず、誰とも馴染めず、独りでいた。他人と馴れ合う事が、出来なかった。独りでいる方が、気が楽だったから。
『うん、強くなる。楽しみだな』
廻りは皆ライバルだ。レギュラーになる為には蹴落とさなければいけない存在。強くなる為には、馴れ合いなんて無駄でしかない。
『―――頑張るんだよ、一年生』
そうだ、今。今目の前の人だって。何時しか自分が追い越してやる。その背中に追いついて…越えてやる。
追いかけていた背中。追い続けていた背中。
追い着きたくて、追い越したくて。そして。そして―――。
…振り向いて…欲しかった……
睫毛が、震えている。睫毛が、微かに震えている。
「…海堂……」
指先が触れている頬に熱を感じる。そっと、熱を。
「――――海堂……」
ねつを、かんじる。ゆびさきに、かんじる。
微かに震える睫毛を瞼の裏に焼きつけて、そのまま。そのまま唇を重ねた。
懸命に手を伸ばした先にあるものを。必死になって追いかけた先にあるものを。この手に掴もうとしたものは。掴みたかったものは。
「…せん…ぱい……」
一瞬何が起こったのか分からずに海堂は乾の顔をぼんやりと見上げる。その瞳がひどく無防備で、このまま。このままきつく抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。
「…ここで好きだと言ったら、信じてくれる?……」
「…あんた…何言って……」
「―――好きだよ、海堂。ずっとね」
眼鏡の奥の瞳が何時もの穏やかな笑みから、違うものへと変化する。それは真っ直ぐな視線。胸を抉るほどの真剣な眼差し。痛いほどの強い視線。
「…好きだよ……」
その視線に耐えきれず再び海堂は目を閉じた。その瞬間に瞼に降りてきた唇の感触に、震えた。
身体を離す事も、この場から逃げる事も出来ずに、ただ。ただ、震えた。それしか出来なかった。それしか、出来ない。
瞼に触れていた唇が鼻筋に移り、そのまま頬を滑り、そして。そして再び唇に触れる。その柔らかな感触を、そのぬくもりを、海堂は拒む事が出来なかった。
独りだけ、別の場所にいた。だから気になった。
独りだけ皆の輪から外れ、ただがむしゃらに。
がむしゃらに自分自身と戦っていた。強くなりたいと。
誰よりも強くなるんだと、無言で告げながら。
誰よりも高い場所へと必死になって向かっていた。
気付けば視界に必ず入れるようになっていた。無意識のうちに必ず視界の片隅に置くようになっていた。そして気が付けば。気が付けば、何時も。
――――何時も君を、捜していた。
力を込めて身体を引き剥がせば、逃れられるだろう。でも。でもそれが出来ない。それが、出来なかった。気付いた時には海堂の両腕は乾の背中に廻されていた。しがみ付くようにその手が。
「…せん…ぱい…俺……」
吐息を奪われるような激しいキスから解放されて、海堂はやっとの事で言葉を拾う。自分の胸に落ちてある言葉を、拾う。
「…俺は…きっと…あんたを……」
嫌ならば、逃げればいい。この身体を引き剥がせばいい。けれども今。今この両手は、背中を掴んでいる。あの背中を。ずっと追いかけていた、背中を。
今自分はこうして、この背中を捕まえている。必死に手を伸ばして、求めていたものを。
追いかけていた。ずっと追いかけていた。
隣りに並びたかった。同じ位置に立ちたかった。
同じ視線でものを見たかった。隣りに立ちたかった。
―――― 一緒に、いたかった。
唇の形だけがその言葉を伝える。声に出せない海堂の想いを。
声に出すにはどうしても出来ない海堂の気持ちを。唇の動きが、伝えた。
……好き…だ……と。
君を、捜して。君だけを、捜して。
君が見ているその先のものを。君が。
君が無意識に向けている想いの意味を。
――――ずっと、捜していた。ずっと、捜している。
俺に向ける視線。俺を見つめる瞳。真っ直ぐな視線。
「うん、好きだよ。海堂が好きだよ」
全部、俺の勘違いじゃなくて。全部、俺が欲しかったもの。
「―――本当に、好きだよ」
君が言葉に出来ないなら、俺が言葉にするから。だから。
「…そばにいてくれ…俺の……」
見つめた先の答えが。捜していたものが。
よかったね、同じもので。同じ、もので。
ふたりが捜していたものが、同じで。
同じもので、よかったね。同じ想いで、よかったね。
「…はい…先輩……」
この瞬間、気がついた。俺が先輩にそう言って、気が付いた。先輩の笑顔は俺だけに向けられていたんだって。俺だけにあの笑顔は見せていてくれたんだって。今この瞬間、気がついた。
クラスメート達に見せる笑顔とは違う顔を、俺に与えてくれていたんだって。俺だけに、見せていてくれたんだって。
捜していた。君だけを、捜していた。君だけを、ずっと。ずっと、捜している。