キスの意味

 唇が離れた瞬間に訪れるどうにも出来ないもどかしさが、今はひどく苦しい。


何でこんな事をしているんだろうと、考える前に背中に腕を廻していた。そう言えば何時も。何時もこんなだったような気がする。
「―――千石……」
不機嫌な顔でその名を呼んでも、呼ばれた相手は微笑っている。薄く口許を開きながら、何時もの食えない表情を。でもその顔を跡部は…嫌いじゃなかった。
「何?跡部くん。もっとして欲しいの?」
「…お、お前はっ……」
しれっと言ってのける千石に跡部はきつく睨みつけた。けれども今は。今はそんな表情ですら、千石には愛しいものになっていた。どんなに強く睨まれても、どんなにきつく視線を向けられても。
それが照れ隠しである為だって、気がついたから。
「して欲しそうな顔しているけれど、嫌?」
「――――」
首を傾げながらわざと耳に息を吹きかけるように尋ねた。そうすればぴくりと跡部の肩がひとつ震える。そんな所も可愛くて仕方ないのだが、それを口に出すと殴られるのを分かっているから千石は言わなかった。その代わりに頬に手を当てて、もう一度。もう一度、キスをした。

そんな千石を、跡部は拒む事なく、受け入れた。


きっかけは何だったんだろうか?何時からこんな事になったんだろうか?
そうやって記憶を辿ってみても跡部には何故か思い出せなかった。思い出せなかった。
それは物凄く肝心な事のようで、けれどももしかしたら些細な事なのかもしれない。
でも初めてキスした後の瞬間は嫌になるほどに憶えている。鮮やかに、憶えている。
重なった唇の暖かさと、柔らかい感触と、そして。そして離れた瞬間に訪れた思い。
説明出来ない、思い。言葉で上手く言い表せない、思い。胸がひどく。ひどく、痛くて。
そしてどうにも出来ない切なさだけが、全身を支配して言葉を失っていた。


視界の片隅には何時も入れていた。コートで見つけた時は必ず。だからと言ってそれはただ彼が自分らのチームにとって脅威になりうる存在だからだ。他校の強い選手という認識からだ。
特別に意識していた訳ではない。自分にとって彼は手塚等を意識しているのと同等な理由だった筈だ。なのにどうして。どうして、こんな事をしているのだろう?どうして?
「―――キス、上手くなったね…跡部くん」
絡め合った舌が、離れる。名残惜しげに銀色の糸を互いの唇で結びながら。跡部の口許から零れる唾液を千石は指で拭いながら、目を細めながら囁いた。その言葉に反撃をしたくても、口付けで痺れた唇は上手く跡部に言葉を紡がせてはくれなかった。
「…そんな顔で俺を見ると…またやっちゃうよ」
くすくすと笑って千石は再び跡部の唇を塞いだ。それは触れるだけの、キス。痺れた唇を労わるためのキス。それでも。それでも跡部は溶かされてゆく。ただ触れただけの唇でも、溶かされてゆく。
「…千石…どうして……」
「はい?」
「…どうして俺に…キス…なんかするんだ?……」
今更何を言っているんだろうと、跡部は思った。けれども思った事は口にせずにはいられない性分だった。自分にとって『解決しない事』は何よりも嫌だった。自分にとって理解の出来ない事、自分にとって分からない事、それがあるのが嫌だった。
だから今も気に入らなかった。相手の心が読めないのが、自分の気持ちが分からないのが。
「どうしてって?跡部くんが可愛いから」
「…お、お前は…どーしてそう……」
「いいじゃん。俺は正直者だから、嘘は付けないんだもん。だから可愛い―――大好き」
ぎゅっと抱きしめられて、跡部は一瞬呆けたような表情をした。本当にそれは一瞬だったけれど。どんな時でも隙を見せたくない彼にとっては一瞬でも結構な痛手なのだが。けれども今はそれよりも。そんな事よりも。
「君が大好き」
もう一度言われた言葉に。その言葉に跡部はまじまじと千石の顔を見つめて。見つめて、そして。
「―――バーカ…今更何言ってんだよ……」
微かに頬を染めながらぷいっと視線を外して、そのまま。そのまま黙り込んでしまった。


きっかけはやっぱり思い出せない。でもキスした時の気持ちは覚えている。それから先の事も嫌になるくらいに鮮やかに憶えている。抵抗せずに呆然としていた俺に。そんな俺にお前はにっこりと子供みたいに微笑って。微笑って、そして。そして言った。


――――好きだよ、跡部くんって……


信じていなかった。あの時の言葉はずっと冗談だと思っていた。
「好きだよ、本当に。大好きだよ」
それから一度も言われる事がなかったから。だから冗談だって。
「君が大好き」
確かめる事も、確認する事もしなかった。してしまったら、気付いてしまうから。
「大好きだよ、跡部くん」
唇が離れた時に感じたあの思いの意味を。あの時のもどかしさの意味を。
「―――これで、信じてくれる?」
自分の思いに、気が付いてしまうから。気が付いて、しまうから。


本当は心の何処かで気付いていた。本当は心の何処かで分かっていた。だって何時も。何時も理由を取って付けていたから。他の誰を見てもただ『見ている』だけだったのに。お前だけは何時も。何時も視界にいれている時、俺は何か必ず『理由』や『いい訳』を自分に言い聞かせていたから。
「…お前なんて…知らねーよ……」
苦しかったのは、切なかったのは。痛かったのは、哀しかったのは。惨めな気持ちになったのは、全部。全部自分だけがこんなにも。こんなにもお前を気にしていたのかと思ったから。
だから必死になって考えないようにしていた。自分の気持ちに気付かないようにしていた。でも。
「やだ、俺はもっと跡部くんの事知りたいもん」
でもそうやって思えば思うほどに、苦しさがこみ上げてきて。そしてどうにも出来なくなって。どうにも出来なかったから、だから。だから何も言えなかった。言えなかった。
「ってもしかして怒ってる?」
「当たり前だっ!」
「どうして?」
どうしてと聴かれて素直に言えないこの性格が恨めしい。けれどもやっぱり言えない。今更、言えない。――――本当はその言葉だけがずっと。ずっと聴きたかったんだって。
「うるせー、自分で考えやがれ、バカ」
何時も笑っているから。どんな時でもへらへらと笑って嫌がるから。だから分かんねーんだよ。分かんなかったんだよ。お前は誰にでもすぐ懐くし、誰にでも簡単に好意を見せてくるから。


…だから分かんなかったんだ…キスだって…キスだって…ただの遊びじゃねーかって…思ってたんだ…



「…ホントに…手ごわいな、君は…でも好きになっちゃったから…しょうがないよね」

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