――――突然君が、子供のように微笑ったから。
気がつく事が、ある。本当にふとした瞬間に。
気がつけた事が、ある。何気ない一瞬の中で。
それが何よりも大切なんだと。それが何よりも大事な事なんだと。
大切な事は、俺が君を好きだということ。それが何よりも大事な事。けれどもそんな当たり前の事を、少しだけ俺は忘れていた。君の気持ちを知りたくて、そればかりが頭の中を支配して。一番大切な事を、少しだけ見失っていたから。
明けない夜なんて、何処にもないから。だから君が。君が微笑えるように。心から、微笑えるように。
「――――どーしてお前がココにいんだよ……」
きつく睨みつける瞳。その鋭さに普通の奴ならばきっと。きっと君の事を放って置くだろう。でもそれが。それが必死になって君が自分を強く見せているんだって分かるから。君はそうやって、ずっと。ずっと他人に『弱い部分』を見せずに生きてきたから。
「君に逢いたかったから、それだけじゃ駄目?」
「…俺はお前なんかに逢いたくねーよ……」
もう一度強い視線で俺を見て、そしてぷいっと視線を外した。こんな時まで君は強がっている。こんな時まで自尊心とプライドを捨てたりはしない。
―――そんな所が、凄く好き。そんな所が、凄く苦しい。
試合に勝って、勝負に負けた。君は確かに勝者だった。けれども。
けれどもチームは負け、一回戦で敗退をした。そして何よりも、君が。
君が手塚との勝負で自分が本当の意味で『勝った』とは思えていない。
それが何よりも。何よりも、君に。君にこんな顔をさせている。
そっと手を伸ばして君に触れようとしたら一瞬ぴくりと肩が揺れて、そのまま。そのままぴしゃりと手を跳ね除けられた。まるで全身の毛を逆立てた猫のようだった。
「俺に障るなっ…今日は帰りやがれっ!」
きつく睨みつける瞳。不機嫌な表情。誰にも弱さを見せない自尊心とプライド。でもね。でも、ね。そうやって強がる君は俺にとってはどうしようもない程、苦しいものなんだ。
強い君が好き。誰よりも上を目指す君が好き。でも、そうやって。そうやって完璧であろうとするあまりに決して弱みを見せようとしない君が、哀しかった。
「嫌だよ、だって独りになったら泣くでしょう?」
そしてそんな君を引き出せない自分が、情けなかった。そんな君の姿を曝け出せるほどの相手になれない自分が。そんな君を、捕まえる事の出来ない俺が。
「だ、誰がっ!泣くかっ!大体俺は勝ったんだかんなっ!」
「うん、試合には勝ったよね…でもチームは負けてしまった。完璧主義の君には、それは許されない事だろう?」
でも本当は君の『完璧主義』は、チーム以上に君自身の試合内容の方が比重を占めているはずだ。君の心の中には、それが一番の吐き出したいものの筈だ。
「―――うせろ…お前の顔なんて見たくねーんだよ」
「嫌だって言ったでしょう?今は君を独りにはしない」
君の手首を強く掴んだ。掴んでそのまま腕の中に抱きしめる。逃げないように、逃げられないように。強く君を、抱きしめる。
「俺は跡部くんの全部が、見たいから」
腕の中で暴れようとする君を無理矢理塞いだ唇で動きを封じた。噛み付くような、貪るような、口付け。このまま舌を噛み切られてもいいと思いながら、深く口中を弄りながら。
「…やめっ…千石…っ……」
「好きだよ、跡部くん。何時も言っているけど…本当に君が好きなんだ」
「…それとこれとは関係ねーだろうがっ……」
「関係あるよ、俺我が侭だから。我が侭だから君の全部が見たいんだ」
「――――」
唇を離して、視線を合わせた。俺の方が、背が低いから君を見上げる格好になる。綺麗な漆黒の瞳。真っ直ぐ前だけを見ていた瞳。今まではずっと。ずっと前だけを見てきたはずだ。敗北を知らない瞳は、ずっと。ずっと、前だけを。でも今は。
「君の弱い部分も、君の涙も…全部…俺は見たいんだ」
今は前だけを、見られないはずだから。自分自身を振り返って、足許を振り返って。それでもきっと。きっと君はまた上を見つめようとするから。だから。
「だから、ね。だから俺の前ではちゃんと見せてね」
だからこの瞬間を逃したくない。君を、逃したくない。今こうやって君の瞳に俺が映っている瞬間を、逃したくないから。
我が侭だと、思う。本当に、我が侭だって。
君の笑顔を見たいと言いながら。思いながら。
こうやって君の辛い顔も、哀しい思いも。
綺麗な涙も、全部。全部、欲しいなんて。
欲しいなんて。本当にただの我が侭だよね。
君が強いのは知っている。そしてそれが何よりも似合う事も。
「――――っかねーよ…バーカ……」
でもそれだけじゃない事もまた。また俺は知っているから。
「ぜってー泣いたりなんてしねーよ、バカ」
だからそれを。それを俺に見せて。見せてください。
「…しねー…からっ……」
そうしたら俺。俺の全てで、君を護るから。君の全部を。
大好きだよ。本当に大好きだから。だから俺はどうしても我が侭になってしまうんだ。
触れる、指。君の頬に触れる指先。俯いたまま絶対に顔を上げない君。けれども触れた頬から、伝わる指先から。この指先に伝わった、ものが。
「これ、俺にちょうだいね」
指先に零れた雫をひとつ舌で舐めた。しょっぱい雫を、ひとつ口に含んだ。けれどもしょっぱさよりも広がるのは、ただひたすらにもどかしいもので。言葉に出来ない、もどかしいもので。
「これも、ちょうだいね」
「…っ!……」
強引に顔を上げさせる。その途端耐えきれないのかぎゅっと閉じられた瞼に。その瞼に一つ唇を落として。落として、そっと。そっと零れ落ちる雫を舌で掬い上げた。
「全部、ちょうだいね」
髪を撫でる。優しく、撫でる。そのまま唇を重ねて、君の声を奪った。声を上げて泣くのはきっと君にとって屈辱だろうから。だから、唇を、声を、奪った。
本当は声を上げて、泣きたかった。出来る事ならそうしたかった。
でも俺はもうそんなガキでもねーし、それに。それにそんなのはみっともないから。
みっともねーよな、俺。試合には勝っても、それだけだ。それだけなんだ。
あいつの自分に向けてきた想い。テニスに対する想い。そして強さ。
全部、負けた。ただ試合に勝っただけで。それだけだったんだ。だから。
だからせめてその後はみっともねー自分は、これ以上したくなかったのに。
なのにお前は強引で。なのにお前は…俺の本音の部分を暴きやがったから。
独りだったら泣かねーよ。そんな事俺はしねーんだよ。でもお前がいたから。お前が目の前にいやがったから。そんでお前が泣いてなんて言うから…言うから…。
「…バカ…千石…お前のせいだ…っ……」
唇が離れてしばらくして君の不機嫌な声が飛ぶ。本当に不機嫌で、そして俺を睨んでいる。目を真っ赤にしながら、君が睨むから。
「うん、ごめんね。俺が悪いんだ。俺が君の泣き顔見たかったから…見せてくれたんだよね」
だからつい。つい何時もの口調で、バカな事を言った。君が益々不機嫌になって、そして殴られるのを分かっていながら。
――――突然君が、子供のように微笑った。
呆れるような視線も、脚蹴りも飛んでくる事なく。
「―――お前って本当バカだな……」
本当に子供のような。子供のような笑顔を一瞬。
「バカ千石、バーカバーカ」
いっしゅん、おれだけに。おれだけに、みせてくれた。
大切なのは俺が君を好きだという事。俺が君を好きだという気持ち。
君が俺を好きかよりも、そんな事を必死で探るよりも、もっと。もっと大事な事。
「うん、俺はバカです。バカなくらい…君が好きだから」