SILENT BLUE


押し寄せてくる波に素足を浸したら、ひどく冷たかった。けれども脚を引っ込める事無く、一瞬襲った鋭い痛みのような感覚をやり過ごすと、そのまま。そのまま跡部は水中へと進んでいった。
「跡部くん、寒いよー戻ろうよ」
背後から呼びかける千石の声をわざと無視して跡部はずんずんと進んでゆく。中途半端に上げたズボンの布が掛かる位置まで。それは丁度、膝上に当たるくらいの高さだった。
「跡部くーん」
間抜けな声で呼びかけるから益々不機嫌になる。これ以上そんな呼び方をされるのが嫌なので仕方なく振り返れば、子犬のような目で自分を見てくる相手がいる。

―――本当に今にも尻尾を振って来そうなほどの無邪気な子犬の瞳。何でこいつは無条件にこんな瞳を見せてくるのだろうか?

それは少しだけ跡部にとっては不可解な事だった。無邪気で屈託のない真っ直ぐな瞳。今時子供でもしてこないような瞳を、惜しむ事無く自分に向けてくる。それが決定的な瞬間とかならばまだしも、本当に何でもない瞬間に向けてくるのだから。
「お前、俺に惚れてんだろう?だったらここまで来いよ」
今突然零れたこのセリフも、跡部は考えて言った訳ではない。ただ思い付いたから述べただけだ。無邪気で屈託のない瞳を見ていたら、何となく。何となく困らせてみたくて、言ってみただけだ。けれども。
「跡部くんったら、そんなので俺の気持ちを確かめてるなんて…感激」
けれども困ったような素振りも表情も見せなかった。それどころか靴を脱いで冷たい水の中に入ってくる。寒い寒いと言いながらも、子犬のような瞳のままで。



自分が何も言わないから、相手が言ってくる。
何も告げないから、そっちから言ってくる。
何時もそう。何時もそうだった。
好きだよも、愛しているよも、全部。全部お前から。
キスがしたいと思った瞬間唇が塞がれて。
ぬくもりを感じたいと思った瞬間、抱きしめられる。

それがあまりにも、あまりにも心地良いから。俺は告げようとした言葉を心に置いていってしまう。


「へへへ、捕まえた」
今も。そう、今この瞬間も。
「いきなり抱きつくな、馬鹿」
感じたいと思った。お前を。
「いいじゃん、寒いんだもん」
お前のぬくもりを、感じたいと。
「―――バカ……」
お前のあたたかさを、感じたいって。


俺の方がきっと背中は広い。俺の方が背も高い。でもどうしてだろう。
こうして抱きしめられると、自分の方が包まれているような気がするのは。



ぎゅっと強く抱きしめられて跡部は呆れたような溜め息をひとつ零した。けれども観念したようにその背中に腕を廻すとそのまま肩に顔を埋めて睫毛を閉じた。
顔に千石の柔らかい髪が当たる。そこから微かなシャンプーの匂いがして、少しどきりとした。その匂いが自分と同じだったから。同じ、匂いだったから。
「―――使ってんだ……」
ぼそりと言った跡部の言葉に千石は首を傾げながら尋ねてくる。こんな仕草も子犬みたいだ。こうして見せる仕草はあどけなさすら感じるのに、時々見せてくる『雄』の顔は、自分をぞくりとさせる。そのギャップに跡部は、何時も胸を掻き乱させるのだ。嫌に、なるくらいに。
「これだよ、このバカが」
むっとした顔で跡部は千石の髪を引っ張った。その痛みに一瞬千石の顔は歪むが、すぐにそれは崩れた。彼の言葉の意味するところを知って、途端に嬉しそうな顔になる。
「当たり前でしょー、だって跡部くんのプレゼントだよ。大事に使ってます」
「…別にプレゼントなんて大げさなもんじゃねーよ、バーカ……」
にこにこと言ってくる千石に照れ隠しのためかわざとぶっきらぼうに跡部は言った。こんなに喜ばれるのに、跡部は慣れていない。こんな風に直線的な好意を向けられる事に。
「でも跡部くんがくれたもんだもん、へへ」
大した事じゃなかった。跡部の家に例によって遊びに来た時、千石がシャンプーを買い忘れたと言ったから家にあった自分の買い置きを渡しただけだ。けれどもこんな風に。こんな風に普段自分が親しんでいた香りが、千石の髪から薫るのはひどく心がざわつく。それもこんな至近距離でなければ分からない薫り故に。
「シャンプーしてる時跡部くんとずっと一緒にいるみたいで、しあわせな気分になったよ」
「この変態ヤローが」
「ひどいなあ。でもやっぱ本物には全然叶わないけれどね」
くすくすと千石は微笑うと、跡部の髪にキスをした。自分と同じ薫りのする髪に。そしてそのまま。そのままそっと唇を奪った。


冷たい水は夕日の光を反射してきらきらと輝いている。その光に目を細めながら、もう一度強く千石は腕の中の跡部を抱きしめた。髪を掻き寄せて、その薫りを感じながら。
「脚は冷たい筈なのに、君を抱きしめているから寒くない」
「………」
「でも跡部くんが風邪引いたら困るから…出よう」
千石の言葉に跡部は小さくこくりと頷いた。別にこの場所に長居したい訳でもない。ただ何となく。何となく海を見ていたら水の感触を感じたかっただけだ。それを確かめてみたかっただけだから。

そして千石に来いと言ったのも…その瞳をただ。ただ困らせてみたかっただけだから。

けれども結果千石は困りもしなかったし、迷う事無く自分の元へとやってきた。冷たくなっている自分を抱きしめて、そしてキスをしてきた。して欲しいと思った瞬間に、唇を塞いできた。
「脚、冷えてる」
陸に上がった瞬間、千石は屈みこむと跡部の足首に触れた。そのままひとつ唇を落とす。そこから広がる微かな暖かさが、そっと跡部の睫毛を震わせた。
「そんな事してねーで、とっとと靴履きやがれ」
その震えを見破られたくなくて千石の頭を脚蹴りするととっとと跡部はズボンの裾を下ろし靴を履いた。千石は頭を抱えながらしばらくそんな跡部を恨めしそうに見ていたが、諦めたように自らも靴を履くとそのまま背後から彼に抱きついた。
「こら、おめーはっ!」
「いいじゃん。寒かったからご褒美、ね」
バーカと跡部が口を開く前に、また。また唇が塞がれる。それは冷たくなった唇には蕩けるほどに甘く暖かいキスだった。互いの唇は冷たいのに、なのにこうして触れるだけで。触れるだけで熱くなるキス、だった。



「…俺を試そうとしても無意味だよ、跡部くん。試す前に俺の君への気持ちがいっぱいになっているから…だから無意味だよ」



何時も自分の思っている事を先回りして。先回りして告げてくる。
それに安堵し、けれども。けれども心の何処かで確認せずにはいられなくて。
そんな自分に彼は欲しいと思った以上のものを必ず。必ず与えてくる。


―――だからきっと。きっと、俺はふとした瞬間に、お前を試してみたくなるんだろう……


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