Femme Fatal ・18


ACT/69


足元から、伝わる水。
静かに浸透する水。
ゆるやかに、僕の全身を埋めてゆく水。

抱いてくれたら、いいのに。
全てが終わるその前に一度だけ。
一度だけ、ぎゅっと。
ぎゅっと抱きしめてくれたならば。

―――抱いてくれたら、きっと淋しくない……


求め合って、貪り合って。
そして果てる事のない欲望に身を埋める。
このまま溶けて。溶けてぐちゃぐちゃになってしまったら。
交じり合ってひとつの液体になってしまえたら。
それもまた、しあわせなのかもしれない。
けれども僕らには肉体がある。腕がある、足がある。
こうやって、互いを抱きしめあう身体がある。だから。
だからこうやって。こうやって、力の限り。
―――力の限り、抱きしめあう。


「子供の頃、僕は一度だけ泣いた事があった…子猫を死なせてしまった時だ…」
腕の中にあった小さな命が消滅した瞬間、僕は初めて泣いた。それが後にも先にも僕が記憶する限りの涙だった。
「…如月さん……」
君の手が僕の頬に掛かる。白くて蒼い血管が浮き出ている手。それでも、そんな手でも。こうやって命の暖かさが伝わるから。命の、暖かさが……。
「それ以来僕は泣けない子供になっていた。泣きたいと思った事がなかったからだ。何を失おうとも、僕の前から消えてゆこうとも…それは僕にとって何時しか『どうでもいいもの』になっていた」
何時からだろうか?全ての事に無関心になったのは。空が蒼いとか、萌える緑が綺麗だとか。そんな些細な事すらも、遠い昔に置き去りにして。
「全ての事が僕にとって他人事だった。生きている意味すら見出せず、かと言って死ぬ労力すらも惜しんで、ただ時が過ぎ行くのを見ているだけだった」
考える事すら放棄していた。何もかもに関心がなかった。そしてその中で一番関心がなかったのが自分自身。自分自身がどうなろうとも、僕はどうでもよくなっていた。
「僕は君の事を想い出せない。君とどういう風に過ごしたのかも…想い出せない…けれども、僕は」

「僕は君が生きている事が…僕にとって生きる意味だと…そう気がついた」

「死ぬ事は出来ないと、初めて思った。君の事を思い出すまでは死ねないと。確かにこのままではいられない。君の言うように僕らは本来あるべき場所に帰らなければならない。それでも。それでも僕は」
君を想うから僕は自分自身に関心がある。僕の中にある筈の内側の物語に。僕はその物語を探り続けることになる。この先、ずっと。
「例え離れても…君を…想っている……」
その言葉に君は、微笑った。なによりも綺麗な顔で、微笑った。僕は。僕はきっと、この笑顔を見る為に、生きていたいと思ったんだ。


如月、さん。その言葉を聴けただけで。
貴方のその言葉を聴く事が出来ただけで。
僕は、しあわせです。
世界中の誰よりも、しあわせです。

―――これから先、その言葉を道しるべに僕は生きてゆく……


ひとを、愛する事。
ひとを愛すると言う事。
それは特別なものじゃない。
誰の胸にもあるもの。
誰もが持ってるもの。
ただ相手にしあわせになってほしいと。
ただ相手の笑顔が見たいと。
そんな小さな想いの積み重ね。
純粋な、見返りのない想い。
ただ相手のことだけを、願う事。

貴方を、愛する事。
貴方を愛すると言う事。
それは。それは、如月さん。
僕にとって唯一。
唯一子供に戻れる時間なんです。


これから先。
僕らが最期の制服を脱ぎ捨てて。
優しい夢から醒めて。
世界の終わりと始まりをくぐり抜けて。
辿り着いた場所で。
大人になったその場所で。
その瞬間だけ、子供に戻れる場所。
それは。それはただひとつの想い。

貴方を愛しているという、想い。

貴方を思う瞬間。
僕の世界は優しい夢の中で。
ただひとつの純粋な想いだけが支配して。
誰にも手を触れられない場所で。
そっと。そっと、輝くもの。

―――ただひとつだけ、輝くもの……


「…如月さん……」
「…紅葉……」
「…僕達は…いっぱい傷つけ合いました…でもそれ以上に…」

「…かけがえのないものを、手に入れたんです……」

「…そうだね…紅葉…」
胸に降るこの優しく愛しい想いは。
「…そうだね……」
君が僕に与えてくれたもの。
「…君が僕に…」
君だけが僕に与えてくれたもの。
「…君だけが僕に、教えてくれたんだ」

――ありがとう、紅葉。
君に出逢えてよかった。君と語り合えてよかった。
例え記憶が全て抹殺されても。
僕が君を何ひとつ知らなくても。
それでも、分かる。僕には分かる。
君が僕に与えてくれたものは。
そんな記憶ぐらいでは奪えないものなんだ。
そんなものでは奪う事が出来ないものなんだ。
君が僕に。僕に与えてくれたものは。

もう誰にも奪う事が、出来ないんだ。


「…如月さん…生きていてください…」
「…紅葉…それは僕のセリフだよ…」
「…生きてさえいれば…きっと僕らは…」
「……もう一度、出逢えるね………」
「…はい…出逢えます…」
「そうだね、紅葉。ならば見せつけてやろう」

「どんなに僕らを引き裂いても、必ず僕らは出逢えると言う事を」


貴方の言葉に僕は微笑って、もう一度キスをした。触れ合うだけのキス。そしてさよならのキス。その瞬間貴方の身体ががくりと崩れそして僕の腕に落ちてゆく。それが、今の僕らの、最期の瞬間だった。


―――本当に、これでよいのか?
もう何度も聴かれたその言葉。僕はそのたびに首を縦に振った。これで、いい。これで、いいのだと。
「いいんです、これで…これでいいんです…時間を戻してください…」
―――しかし時を全て遡る事は出来ない…それでもよいか?
僕が望んだ最期の事。全てを元に戻す事。僕らが出逢う前の瞬間へと、戻す事。
僕が拳武館の暗殺者で、貴方が飛水流の末裔だと決められた…正確な時間軸へと僕らの運命を戻す事。
―――零れた水が元に戻らないように、死んだ人間は還ってはこない。完全に元に戻す事は出来ない…それでもよいな。
「完全に元に戻す事は出来ません…だってこの気持ちは持ってゆきますから…きっと如月さんも…持ってゆくと…信じています……」
―――それに懸けるのか…汝らはそれに懸けるのだな…
「馬鹿だと思われるかもしれませんね。でも僕らはまた出逢えます。絶対に出逢えます」
―――我は汝ほど愚かな人間を知らぬ。そして汝ほど健気な人間を知らぬ。その哀しい程の純粋さが…我の禍禍しき気を全て弾くのであろうな。まあよい…我は汝の命ずるままにするだけ…我は時を遡るだけ…
「…ありがとう……」
―――その言葉を汝の口から聴くのは、何度目だろうか?
「…そうですね…僕は貴方を頼ってばかりだ……」
―――汝は我の真の主。頼るのは道理だ…気に病む事はない…ただし…
「…ただし?……」
―――時を遡れば…汝の記憶も失われる…それでもよいのだな……
「……思い出します……。僕は全てを持ってゆくと決めたから…どんな事になっても思い出します」
―――…分かった……ならば我は汝に…ひとつ…術を掛けよう。
「―――え?……」
―――今は分からない。もしかしたら二度と気付かないかもしれん…そんな術だ…案ずるな害はない。
「…分かりました…僕は貴方を信じます」
―――我は…汝のその心は…嫌いではないぞ……
それが。それが頭に響いてきた最期の声、だった。


一面の、蒼い空。
本物の、空。
灰色の空間じゃない、真実の蒼。
本当の、空の色。
その空の下に、僕がいる。そして貴方がいる。
本物の空を探して、そして見つけ出したふたり。
―――辿り着いたふたり。
もしかしたらここが。ここが僕らの、世界の本当の終わりなのかもしれませんね……


―――空か…汝は…空を願うか…空を夢見るか……
汝よ。これが我に出来るただひとつの方法だ。
今その場所に汝の記憶を埋めた。そこに汝の記憶がある。
―――捜すのだ……
もしも汝が全てを知りたいと願うのならば、その空を探すのだ。
それが我に唯一出来る方法。汝の願いを叶える方法。
ただそれを思うかは…汝次第だがな……一生気付かなければ、それまでだ……。


ゆっくりと、意識が拡散してゆく。
空は形をなくして、ただの蒼になる。
そして僕らも。僕らも形をなくしてゆく。
輪郭がゆっくりと滲んできて。
そしてぼやけて、消えて。この蒼に混ざり合ってゆく。
僕が、貴方が、消えてゆく。

―――如月さん……

次に目が醒めた瞬間、僕は貴方を憶えていない。
貴方のいない世界で再び生きる事になる。
けれども僕の胸には。僕の心には。
貴方からくれた、ただひとつの想いがあるから。
だから、怖くはない。こわく、ない。

―――きさらぎ…さ…ん………

さようなら。
さようなら、如月さん。
もう一度、出逢う為に。
もう一度貴方に出逢うまで。
さようなら、如月さん。

…さよう…な…ら………


頬にひとつ零れ落ちた涙は、そっと。そっと蒼い空へと運ばれていった……。


ACT/70


―――空を、探して。

東京には本物の空がないね。
何処にいけば見つかるのだろう?
何処まで探せば。
本当の空に、出逢えるのだろうか?


僕は如月翡翠。飛水流の末裔。そして、如月家の跡取。僕の身体の中には、古代から受け継がれている玄武の血が流れている。この血が、僕を縛りつける。この血の呪縛が僕を何処にも行かせないでいる。
―――僕は何処にも、いけない。
僕が生きる意味はただひとつ。ただひとつ、黄龍の器を護る事。護り続けること。僕にとってそれが唯一の生きる意味。けれども。けれども時々…思う事がある……。
この呪縛すら解き放つほどに愛する人間がもしも出来たとしたら、僕はどうなるのだろうか、と。
そんな事を考えてしまう自分が可笑しかった。今まで本気で誰かを好きになった事など一度もなかったくせに。他人を想った事など一度もないくせに、何故僕はそんな事を思うのか?―――ひどく、不自然な感覚だった。


空が、見たい。
本物の空を。
本当の色をした空を。

―――空が、見たい……


「始めまして、如月翡翠」
現われた細身の男は、鮮やかに僕の前で微笑う。人を惹き付けずにはいられない強い視線。そして綺麗な顔。綺麗な、瞳?
「俺は緋勇龍麻。よろしく」
差し出された手を握り返す。細い手だと思った。けれども強い手だと。その瞬間すぐに分かった。彼が『黄龍の器』だと。僕が護るべき者だとすぐに。
「ああ、よろしく」
綺麗な瞳が僕を見上げて来る。真っ直ぐで揺るぎ無い瞳。けれども。けれどもその瞳が一瞬。一瞬だけ、不安定になる。―――不安定に、なる……
綺麗な、瞳。不安定な、瞳。そして哀しい、瞳。それを僕は知っている。何処かで、それを知っている?
「お前みたいなのが『仲間』になってくれて、嬉しいよ」
それは本当に一瞬の事だった。君の瞳はすぐにさっきの強い光を放つ瞳に戻っていたし、向けられた笑顔もひどく他人を惹き付ける強いものだった。
「嬉しいよ」
それとも、もしかして。もしかして君の瞳を一瞬知っていると思ったのは…この玄武の記憶なのかもしれない。君を護り続けたこの血が、僕にその懐かしさの破片を零したのかも、しれない。

僕の生きる意味。
生きる意味。生まれてきた意味。
それは、君を『黄龍の器』を護る事。
それが僕にとっての全て。
――全て?
不意に沸き上がった疑問を否定して、そして出来なかった自分がいた。


―――僕は、人殺しです。
館長の命令に従って、ただ人を殺すだけの。
殺すだけの人形です。
人を殺すたびに胸に小さな痛みが芽生えます。
けれども僕はそれを打ち消しました。
そうしなければ。
そうしなければ、生きてはいけないから。

「君には、辛い運命を課せているのかもしれないね」
館長の言葉に僕は首を横に振った。僕はそうしなければ生きてはいけないのだから。気の狂った母を病院に入れるだけの費用も、僕がこうして学校で勉強する事も。僕が人を殺さなければ成り立たないものだから。
―――それに…館長…いえ…鳴滝さんには…言い尽くせない程の感謝をしているから……
僕は前の館長の玩具だった。幼い頃この場所へと引き取られ、意味も分からないままに犯された。そしてそれは目の前の貴方が現われるまで終わる事なく続けられた。性の暴力。僕は館長の…そして拳武館の、幹部達の公衆便所でしかなかった。
そんな僕を救ってくれたのは、鳴滝さんだった。この半年の間に前体制を崩壊させ、今の拳武館を作り上げた。そうやって僕は玩具である事から、開放された。
だから僕はひとを殺し続ける。貴方の手となり足となり人形となって。小さな胸の痛みを見逃しながら、僕は人を殺し続けるのです。
「でも今は…耐えてくれ…まだ…私は君を手放す事が出来ないんだ…」
「いいえ、僕は。僕は館長に着いてゆきます…僕にはここしか居場所がないのですから」
一度だけ僕は貴方に殴られた事があった。それはただ一度だけ。助けてくれた貴方に何も返せなかった自分が…自分がこの身体を貴方に差し出した時。貴方は僕の頬を、一度だけ殴った。
『私は君にそんな事をさせる為に…こうしたんじゃない』
その一言が。その一言で僕は。僕は貴方に着いてゆくと決めた。どんなに胸が痛もうが、どんなにひとを殺す事に罪悪感があろうとも。僕はここにいると、決めたのだから。
「―――いや…本当は……」
貴方の手が僕の頬にかかる。大きな手。大きくて優しい手。もしも僕に父親がいたならば、こんな大きな手をしていただろうか?こんな風に暖かい手をしていただろうか?
「…君にはもっと別な場所があるんだ……」
「いいえ…僕には何処にも行く所なんて…ないです……」
「――いやあるんだ…君には本当にいるべき場所が…何時しか…何時しか必ず君をその場所へと戻すから…それまで私の戯言に付き合ってくれ」
僕には館長の言葉の真意は分からなかった。生まれてこの方ずっと独りだった僕。これから先も独りでしかいられない僕。そんな僕には気の狂った母と、貴方しかいない。
「それまで…許してくれ……」
頭を下げて僕に詫びる貴方を見ているのが苦しくて、僕は首を必死に横に振る事しか出来なかった。


私は、鳴滝冬吾。現拳武館の館長で、そして壬生紅葉の飼い主だ。飼い主と言う言葉には語弊があるかもしれない。けれどもそれは事実だ。私に植え付けられた事実だ。
―――私には、消す事の出来ない罪がある。消える事のない罪がある。
それを私に剥き出しにしたのは、あの一本の刀だ。呪われし刀、妖刀村正。
その刀は私に告げた。運命の歯車は元通りになったと。玄武は玄武として生き、そしてもう一人の黄龍の器はあるべき場所へと戻るのだと。私の望み通りになったのだと。
そう、全ては私の望み通りだ。弦麻、君との約束通りに。君との約束の為になら、私はどんな悪魔にでもなると。君の為にならどんな修羅にでも落ちようと。私は誓っていた。
そんな私の罪。そんな私の大罪。それはこの『記憶』だった。正しい運命に戻すために、擦りかえられた記憶。その記憶が私の永遠に消えない罪。
―――私が『館長』を殺し、君を救ったと言う事……
そして私の中にだけあの刀は記憶を残した。正しい歯車の中で飲み込まれ、消された記憶が。その全てが私の中にある。
君が…君達が…愛し合ってそして傷ついた記憶が……。
それはどんな罰よりも辛く苦しいものだった。あの刀が私に見せたものは、嘘偽りないふたりの想い。純粋過ぎて哀しいふたりの想い。
苦しかった、切なかった。この年になってこんなモノを見せ付けられるとは思わなかった。
それは以前私が弦麻に誓ったあの純粋さそのものだった。ただ純粋に相手の事だけを想い、それだけの為に存在する『想い』。大人になってゆっくりと風化して、想い出へと擦りかえられてゆくもの。
―――そんな剥き出しの想いが、私の中に流れてきた。
そして私はその記憶を持ち続けたまま、その想いを身体に宿しながら、君の『救いの主』を演じる。こして私は罪を犯してゆく。それが。それが彼らの想いを犠牲にしてまで運命を正そうとした私への代償。消える事のない、大罪。
――――私は、永遠に許されないだろう。けれども後悔は何一つない。私にとって弦麻との約束は…君達の想い以上にただひとつのかけがえのないものなんだ。


ひとは、弱い生き物だから。
ひとは弱く哀しい生き物だから。
だから、手を取る。
ひとりで生きるには弱過ぎるから。
だから、愛するひとを探して。
探して、そして手を取る。
その瞬間、ひとは。
ひとは何よりも強い生き物になるのだから。


僕らは生きていた。
懸命に生きていた。
この時代を、この時を。
一生懸命に生きていた。
それはどんなに不器用でも。
どんなに不恰好でも。
それでも僕らは精一杯。
精一杯に生きていたんだ。

ただ想いを護るために。
自分の大切なものを護るために。
大切なものを、護るために。
僕らは懸命に、生きていた。


しあわせに、なろう。
ふたりで、しあわせに。
しあわせに、なろう。


空っぽの僕の部屋にある唯一のものは、一冊の絵本だった。どんなものにも執着しない自分が唯一執着しているもの。これがこの一冊の古い本だった。
いや実際にはそんなに古くはないのかもしれない。けれども何度も何度も読んでしまってぼろぼろになっているせいで、ひどく古く見えるだけなのだが。
何時から僕がこの絵本を持っていたのかは、覚えていない。それは遠い昔だったような気がするし、近い未来だったような気がする。ただ気付いた時、僕の傍にはこの絵本があった。当たり前のようにそこにあった。
その時はもっと綺麗な絵本だった。まだ買って間もない新しい紙の匂いがした。けれどもそれはただ単に見ていなかっただけなのかもしれないし、それとも本当に新品だったのかもしれない。それは僕には分からなかったけれども。
けれども僕はこの本の話に何時しか夢中になっていた。自分でも分からなかった。この話を読むたびに理由のない切なさと暖かさが込み上げて来るのが。そして、そして読んだ後どうしてかひどく泣きたくなるのか。
―――分からない…けれどもこの胸に押し寄せるこの想いは?
この本を読んでいる時だけ、僕は何故か『人間』になれるような気がした。その瞬間だけは人殺しでも館長の人形でもない、ただの一人の人間に。人間になれるような気がしたから。だから僕は夢中になって、この本を繰り返し読んでいた。
ぼろぼろになるまで…ぼろぼろになっても…。
同じ本をもう一冊買えばいいのだろうが、ダメだった。この本でなければならなかった。同じ内容の同じ本を読んでも、こんな気持ちにはならない。この本でなければダメだった。どうしてか分からない。分からないけれども、僕は。
―――僕はこの本を見ている時だけ、ひどく子供のような気持ちになれた……


如月は、不意に足を公園へと向けた。寄り道など無駄な行為を何よりも嫌いな筈の自分が、何故こんな寄り道をしようと思ったのか。何故足を向けたのかは、分からなかった。ただ。ただ空がひどく蒼くて、本物の空の色に近かったせいなのかもしれない……。


不意に、空が見たいと思った。
蒼い空が見たいと。本当の空が見たいと。
本当の蒼い空が、見たいなと。

公園のベンチに腰掛け、本を開く。―――100万回生きた猫。繰り返し読み続け、ページを捲らなくても何処に何が書かれているのか、記憶してしまった本。その中に描かれている蒼い海のページが、その蒼い色がひどく自分は好きだった。それは。それは自分が探したかった、空の色に似ているせいかも…しれない。本物の蒼い空の色に……。

廻りを見渡せば子供たちの笑顔。無垢で純粋で、そして何よりも残酷な笑顔。その真っ直ぐ過ぎる心は、穢れている自分には眩し過ぎる。眩し過ぎて、永遠に届かないもの。永遠に自分が得られないもの。それでも、願うもの……。

僕は手を、伸ばした。そのきらきらしたものに、触れたくて。触れたくて、一生懸命に手を伸ばした。その瞬間、膝から本が落ちた…。


それは、偶然だったのか?
「落としたよ、本」
それとも、運命だったのか?
「…100万回生きた猫、か……」
『正しく』埋め込まれた歯車の中で。それは。それは…。
「僕もこの話好きだよ」
見上げた先にあった顔は。見上げた先に光が結んだその顔は。
―――僕が触れたくて手を伸ばした、ものだった……。


どんな事になろうとも。
どんな事になっても。
僕らは必ず出逢えるから。
どんな運命が僕らを引き裂こうとも。
どんな運命が僕らを、切り離そうとも。

―――この想いは、決して消す事は出来ないから……。


「でもこの話は、哀しいね」
「…哀しい、ですか?…」
「それでも幸せなのかな?最期に愛する人と出逢えて」
「僕は、羨ましいです」
「死なない事が?それとも?」
「…愛する人に、出逢える事が……」

「…そうだね、僕も羨ましいよ…。本当に愛する人に出逢いたいね……」


どんな、事になろうとも……





Femme Fatal・END To Be Contenued 優しい、空。



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