銀の砂 <中編>

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波の音しか、聴こえなかった。その名を呼んでも返事はなく、人影すら見えなかった。パーシバルは胸の傷を抑えながら海沿いを引き返した。先ほどの雑木林まで戻った所で、人影がこちらへと向かってくるのに気付く。気配からしてそれがクレインのものではないと分かると、咄嗟にパーシバルはその身を隠した。がさり草を踏む音とともに複数の足音が聴こえてくる。音からして…その人数は四人。パーシバルは痛む胸を堪え剣に手を掛けた。その時、だった。
「しかし今日はイイ獲物だったぜ。あんな真似しなきゃー連れて帰りたかったぜ」
「確かに…ありゃー男にしとくのは欲しいですぜ。アッチの具合もイイし…もう一発ぶち込んどけばよかった」
「あんなにきつく締め付けりゃー軍人じゃなくてもコッチの方でも充分やってゆけるぜ」
「ハハハハ、やっぱり連れて帰りゃーよかったかな――――!!!」
一瞬、視界が真っ暗になった。そして次の瞬間、目の前が真っ赤に染まる。血飛沫が飛び、男の断末魔が響き渡る。
「わあああああっ!!!!」
「ひぎゃあっ!!!」
油断していた男たちの背後からパーシバルはその身体を剣で貫いた。騎士たるもの背後から人を切る事はその精神に反したが、今この瞬間自分はそれすらも思考として浮かんではこなかった。

ただ浮かぶのは、ただ沸き上がるのは怒りと、そして。そして苦痛だけだった。


胸の痛みが違う痛みに摩り替わり。
視界の紅が鮮血に染まってゆく。
何度も何度も、その剣で切り刻んだ。
何時もなら心臓めがけ切り落とし、そして。
そして苦痛すら与えぬ間に、人を殺す自分が。

わざと痛みを与えるように。息が途切れてもその身体を切り裂いていた。


「…な…何だ…お前は…はがぁっ!!」
今自分がどんな顔をしているのか。今自分がどんな事をしているのか。
「――――死ね…ゲスども……」
そして今自分がどんな感情で支配されているのか。


…それすらも…分からなくなっていた……


何度も何度もその剣で肉を砕き『彼ら』だったものが、ただの塊になってやっと。やっとパーシバルはその剣を止めた。そしてその瞬間になって、止血されていた胸から血が再び零れていた事に気付く。けれどももう。もうそんな痛みも傷も今の自分には気にもならなかった。そして。
「…クレ…イン……」
名前を、呼んだ。その声は力の限り自分で呼んだつもりだったのに、ひどく声は掠れていた。声は、震えていた。まだ視界は血の色が、している。紅い血の、色が。
剣にこびり付いた血、そのままで。顔に浴びた返り血、そのままで。そのままでパーシバルは我に返ったように、その場を駆け出した。


――――捜しているものは、ただひとつ。綺麗な金色の髪と、そして紫色の瞳。


失って初めて気付く事がある。初めて、気付く事がある。
当たり前のようにあったものが、この手から零れた瞬間。
この手から失われた瞬間に、気付いた事がある。


…今気が付いた…どんなにかけがえのないものだったかを……



「クレインっ!!!」



血と、男たちの欲望と、そして泥に塗れて。
廻りには乾ききった血と精液が散らばって。
その中に傷と痣だらけの身体が、転がっていた。


何時も気付けば、そばにいた。どんな時もそばにいた。
王子を失い生きる意味すら見出せなくなった時も。
エトルリアよりも王子を選びロイ軍に身を置いた時も。
何よりも先に私を見つけ出し見上げた紫色の瞳が。


――――その瞳にどれだけ私は…救われていたのか……


冷たい身体をきつく、抱きしめた。微かに残るぬくもりを消したくなくて。強く、強く、抱きしめた。失いたくないから。決して失いたくないから。このぬくもりを、あの瞳を、私は。私は…。
「…クレイン…どうしてだ…?……」
こんなにも私は怯えている。お前を失うのではないかと言う不安に怯えている。お前が、いなくなるのではないかという不安に。
「…何故…こんな……」
怖い。怖いと、思った。この激しい喪失感は、一体なんだ?王子を失った時のあの感じとは違う。もっと違う、別の。別の苦しいほどの痛み。この想いは一体何なんだ?
「…クレイン…目を開けろ…」
抱きしめる。きつく、抱きしめる。そこから聴こえる微かな心臓の音に。微かながらに聴こえるこの音に。どうして私は震える事を止められないのか。
「…目を…開けろ…お前の瞳が…見たい……」
どうしてこんなにも。こんなにも私は…私は…苦しいのか?……



『貴方の為ならば…僕はどんな事でも出来るんです』



意識を失う瞬間に。その瞬間に哀しいほどに綺麗に微笑ったその顔が。
私に告げたその言葉の意味が。その意味が、今。今分かった。


「…私を助ける為に…こんな事をしたのか?…こんな……」


お前の綺麗な顔に男たちの欲望がこびり付いていた。口許からは血と精液が交じり合った生々しい液体が伝っている。それをそっと。そっと私は指で拭った。微かに唇から伝わるぬくもりに、泣きたくなるほどの痛みを感じながら。
「…こんな…お前は……」
そっと舌で、お前の顔に残っている欲望の痕を辿った。肌に髪に付いた精液を指と舌で拭い取った。
「…クレイン……」
名前を呼ぶだけで広がる胸の痛み。心を抉られてゆく痛み。この痛みの意味を知っているのならば、今。今その瞳を開いて、その唇で教えてくれ。このどうにも出来ない苦しさを。



何時か言える日が来たらと…思っていた。
「…目を…開けてくれ……」
貴方にこの想いを告げられる日が来たらと。
「…クレイン…お前が……」
何時か、何時か、言える日が来たらと。


「…私はお前が…いない時間を…考えられない……」


好きでした。ずっと、好きでした。
貴方だけを見つめ、貴方だけを追いかけ。
ただひたすらに僕は貴方に近付きたくて。
貴方に近付きたくて懸命になっていた。


―――少しでも貴方のそばに…いられるようにと……



気付いた事がある。失って初めて気付いた事がある。
「…お願いだ…クレイン…もう一度……」
こんなにもかけがえのないものだと。こんなにも大切なものだと。
「…もう一度…私にその瞳を見せてくれ……」
こんなにも愛しく、そしてこんなにも大事なものだと。
「…そして…言わせてくれ……」
今、気が付いた。今、分かった。全てが、分かったから。




「―――お前を……している…と……」




そうだ、分かった。今、分かった。こんなにも怯えている理由が。こんなにも…苦しい理由が。
そうだ私は何時しか。何時しかお前の事を。お前の事だけを……。


気付けば何時もそばにいた。お前がどんな時もいた。
私が絶望に苛まれた時も、何もかもを失った時も。
苦しい時も、楽しい時も、どんな時も。気付けばお前が。


――――お前が…その紫色の瞳を向けながら…そばにいた……




何もいらない。僕は要らないから。だからどうか。
「…パーシバル…将軍……」
どうか貴方の命を。このただひとつの命を護ってください。
「―――クレインっ?!」
僕の命も身体も何もいらないから。貴方が無事でいてください。



「…傷…大丈夫…ですか?……」



自らはぼろぼろになりながら、それでもお前が真っ先に言ったのは私の身体の事だった。瞳を開いた瞬間に驚いたような表情をして…そして次の瞬間泣きそうな顔でお前はそれだけを私に告げる。自分の事などどうでもいいと言うように。
「傷など…そんな事よりもお前が…っ!」
震えながら手が、伸びてきた。その手も無数の細かい傷が付けられて、そして乾いた精液がこびり付いている。それでもお前は必死に手を伸ばし、私の胸に触れた。
「…血…出血している…すみません…私の止血が上手くなくて……」
「私のことはどうでもいい!それよりもお前の方が!!」
「…すみません…貴方に傷を負わせてしまった……」
「私のことはいいと言っているっ!」
それでも私の傷に触れ、布から染み出た血に触れるお前の指を私は自らの手で握り締めた。きつく、握り締め。そして。そして……。


そしてまだ謝罪の言葉を告げようとするその唇を、塞いだ。



「…パーシバル…将軍……」
夢ならば醒めないでと、願った。
「…お前が…目を開けなかったら……」
どうか醒めないでと、願った。
「…私は…きっと……」
貴方の瞳が僕に向けられているこの瞬間を。
「…きっと……」
この瞬間のまま、閉じ込めたいと。



「…このまま…狂ってしまう所だった……」



ぽたりと零れるものが。僕の頬にひとつ、零れるものが。
そっと、零れ落ちる熱い涙が。僕の胸に、こころに。


「…パーシバル…将軍……」
貴方が、好き。貴方だけが、好き。ずっと、ずっと。
「…クレイン…私は……」
過去も今も、そして未来も。貴方だけが僕にとっての。
「…私は…いえ…僕は……」
僕にとってのただひとつの永遠だから。ただひとつの想いだから。
「…ずっと貴方の事だけを……」


「…貴方だけが…好きでした……」


これが夢ならば醒めないでと。もしも今死ぬならばこの場で死にたいと。
そう願いながら。そう、祈りながら。ただひとつの想いを僕は貴方に告げる。
今この瞬間に。一番しあわせで、切ないこの瞬間に。



感じるのはただひたすらに無力な自分。お前をこんな目に合わせてしまった自分。それでもお前は告げる。私に、告げる。
「こんな時にお前はそれを言うのだな…こんな時になって……」
震える指先を私の手に絡めながら、零れ落ちる涙を止めようとはせずに。息は途切れ途切れで苦しいはずなのに。それなのに、お前は。
「…好きです…パーシバル将軍…ずっと貴方だけ…見ていました……」
一途でそして。そして強い想いを、剥き出しの想いを私に告げる。その痛みに心を抉られ、そして沸き上がる激しいまでの愛しさが私を貫いた。
「…貴方だけが…好き……」
零れる涙を指で拭い、そして力の限り抱きしめた。ふたりが負った傷も痛みも何もかもを忘れて、ただ。ただひたすらに想いのままに。想いのままに身体を抱きしめ、そして。そして唇を重ねた。激しく、熱く重ねた。
「―――私もだ…クレイン…お前を…愛している……」
唇を離して、私が告げた言葉にお前は。お前はそっと微笑った。ひどく綺麗な顔で微笑んで、そして。そして意識を手放した。
そんなお前を私は。私は思いの丈を込めて、ひたすらに抱きしめた。



貴方の為ならば、僕はどんな事でも出来るんです。
貴方がこの地上に生きて、そして。貴方が微笑っていられるなら。
僕はどんな事だって、出来るんです。

この身体も、この命も、全部。全部、貴方のためにならば。

貴方の微笑った顔が見たくて。ずっと、見たくて。
笑う事すら忘れてしまった貴方の。そんな貴方の笑顔を。
僕はずっと、捜していた。ずっと、捜していた。


…でも今。今…やっと貴方の笑顔に…出逢えたから……


愛していると告げてくれた言葉よりも、僕は。僕は貴方が微笑ってくれた方が嬉しいんです。
貴方がそっと微笑ってくれた方が、僕は。僕は、嬉しいんです。



だから、しあわせ。僕は、誰よりも、しあわせ。