月がひどく、蒼かった。空にぽっかりと浮かぶ月が、ひどく蒼くて。それを見上げていたらひどく胸がざわついた。理由のない、ざわつき。
「ち、眠れねーな」
ぽりぽりと頭を掻きながら、レイは寝床から起き上がった。そのまま隣で眠るルゥ達を起こさないように軍のテントから抜け出す。
野営が続く日々だった。慣れたとはいえ、やはりこんな長い期間だと少しストレスは堪ってくる。そんな事もあってだろうか、ひどく目が醒めていた。
「―――月…蒼いな……」
しんと静まり返った外を歩きながら、ぽっかりと浮かぶ月を見上げる。蒼い月、だった。ひどく蒼い月。それを見ていたら何故か。何故か胸が…ざわついた。
ぴちゃん、と足に水が跳ねた。それをぼんやりと見つめながらソフィーヤはまだ冷たさの残る水の中に身体を沈める。まだ残る熱と、そして自らの罪悪感を清めるために。
「…月が……」
水の中にぽっかりと月が浮かんでいた。蒼い月だった。それを手のひらで掬おうとしてら水面が揺れて、そのまま。そのまま月が歪んでゆく。
「…私…みたい……」
歪んだ月にぽたりと雫が零れた。ソフィーヤの髪に掛かった雫だった。それば広がり波紋になり、月を散り散りにさせる。ばらばらに、させる。
「…私…みたい…だね……」
このままこの身体を水の中に沈めて、永遠に眠ってしまえたらとふと思った。そうしたら芽生えたこの罪も、何もかもを消してくれるのではないかと思って。全部、消してくれるのではないかと思って。けれども。けれども、それ以上に。
「…レイ……」
呟いた名前が、ゆっくりと胸に広がってゆく。名前を呼ぶだけで…暖かくなれる。こころが、満たされてゆく。満たされて、ゆく。どんなに強がってそして隠していても、見えてくる優しさ。そっと零れて来る優しさ。不器用で口が悪くて、そして。そして何時も強気だけれども。でもそのこころは。その、こころは。
――――そっと胸の中を満たしてくれる…暖かいものだから……
見ていたいと、思った。見ているだけでいいって思った。
こうして少しだけ貴方が振り返った時。振り返った時に零れる。
零れて来る見えない優しさが、好きだったから。好き、だから。
だからずっと。ずっと、時間が許す限り貴方を見ていたいと。
…見ていたいって…思った…貴方を…ずっと……
「…レイ……」
優しい人。貴方は誰よりも優しい人。
「…私は貴方が……」
誰よりも心が綺麗な人。真っ直ぐな人。
「…貴方が…好き……」
それを気付く事が出来た私は。
「…貴方だけが…好き……」
私はきっと世界で一番、しあわせだから。
だから平気。どんな悪夢が私を襲っても。
蘇っても、耐えられる。耐えられる、から。
「――――ソフィーヤ……」
それは月が見せた、幻だったのか?
それは蒼い月が起こした気まぐれなのだろうか?
今となっては、分からない。分からない、でも。
聴こえてくる水の音に、ふと。ふと脚を進めた。別に気にしなければよかったのかもしれない。けれどもこんな時間に自分以外に誰かいるのならば。いるの、ならば。話がしたいと思った。冴えてしまった頭のまま、眠りに付く事なんて出来なかったから。だからその水音のする方向に歩いて。歩いて、小さな声を聴いて。そう、自分の名前を呼ぶ声を。そして。そして聴こえてきた言葉に堪らずに脚を進めたら……。
ぽちゃんと、音がした。その音の先に…お前がいた。何も身に付けていない白い肌そのままで。
胸の膨らみを隠そうとせずに、俺を見つめて。真っ直ぐに俺を見て。
「わっ、悪りーっ!俺…その……」
思わず視線を反らして立ち去ろうとする俺に。俺に小さな声が聴こえてきた…行かないで、と。
――――水の音が背後から聴こえてくる。その音から逃げ出したいような、聴いていたいような、不思議な気持ちのままレイはその場に立ち尽くした。
ここから立ち去ろうにも行かないでと言われて、レイは動けなくなっていた。それに。
それに先ほど微かに聴こえてきた言葉が、レイを。レイをこの場所から動かす事は出来なくなっていた。
――――貴方だけが…好きと……
「…レイ……」
声が聴こえてくる。それはすぐ近くからだった。レイは動けずに、かと言って振り返る事も出来ずに。出来ずにそのまま。そのまま立ち尽すしかなかった。
「…レイ…私……」
声が、震えているのが分かった。微かに震えているのが。そして。そしてぽたりとまた水が零れる音がする。水?それは本当に水なのか?
「…わた…し……」
ふるえる、こえ。ぽたぽた、とこぼれるみずのおと。それに堪らずに…堪らなくなって…レイは振り返った……。
夢ならば、醒めないでと思った。醒めないでと、願った。
貴方が今ここにいるのがただの夢で幻ならば。それなら。
それならば、私は。私は自分の想いを、告げられるから。
振り返って、そして。そしてレイは後悔をした。後悔を、した。何故ならば、あまりにも無防備に、泣いていたから。彼女があまりにも無防備に涙を流していたから。
それは普段無表情でろくに感情を見せない、ソフィーヤとはまるで別人のようだったから。別人のように感情のままに涙を零して。零して、華奢な剥き出しの肩が震えていて。震えて、いて。そして。そして自分はそんな彼女を抱きしめずには…いられなかったから。
「―――ソフィーヤっ……」
震える手で、その身体を抱きしめた。濡れて冷たくなっている身体を。何も身に付けていないその素肌を。きつく、抱きしめた。抱きしめればひどく自分の身体が熱くなったのが分かる。
熱くなって、そして。そして沸き上がってくるものが。身体から心から、沸き上がってくるものが。それが何なのか、何なのかレイは薄々感じながらも、それを止める事が出来なくなっていた。出来なくて、それでも抱きしめる腕を離せなくて。
「…レイ…私…私……」
震える細い肩を護ってやりたいと思った。すっぽりとこの腕に収まる華奢な身体を護ってやりたいと。けれどもまた別の想いが自分の中に沸き上がっている。そう、別の想いが。
今はっきりと自覚した。この少女に対して、自分が。自分が確かに『性』の対象として感じている事を。
「…私…貴方が…好き……」
そしてそんな自分の気持ちを今。今腕の中の少女は…答えようとしている。答えようと、している。
「…ソフィーヤ…駄目だ…そんな事言ったら…俺は……」
「…好き…なの…貴方が…私……」
戸惑いながら身体を離そうとすれば、背中に手を廻しきつく抱き付いてくる。そこから薫る微かな甘い髪の薫りが。その髪の、薫りが。
「…俺は…ソフィーヤ……」
「…レイ…私は…穢れているの…だから…貴方の光で…清めて欲しい……」
自分を見上げる瞳がひどく真剣で。涙に濡れたその瞳が。その瞳が痛いほどに、真剣で。レイは吸いこまれそうになる自分を抑えるのに必死だった。吸いこまれそうに、なるのに。
「…何を言って…お前……」
「…お願い…もう…悪夢は見たくないの……」
その瞳が瞼に閉ざされ、そして零れ落ちる涙に。ただひたすらに零れる涙に…レイは何も出来ずに。何も出来ずにソフィーヤの言葉を聴くだけだった。普段まともに喋らない彼女の…そんな彼女のこころの、声を。
ぽつり、ぽつりと、お前は語り出した。
ロイ軍に助け出される前。ナバタの里から浚われた日々を。
地下牢に閉じ込められ、男たちにさせられたことを。
「…もう…悪夢は見たくないの……私は…私は………」
泣きながら無口なお前が。必死で叫ぶ言葉に。必死で言葉を告げるお前に。
俺は。俺はただひたすらに自分の無力を感じ。そして。そしてそれ以上に。
それ以上に…俺は気が付いた。気が、付いた。
――――俺は…お前が…好きだったんだ、と……