僕という器が空っぽになってゆく。心という中身がぽろぽろと剥がれていって、そして。そしてぽつんとひとつ、そこに在るかたまりは。そのかたまりは、僕の形をしたぬけがらだけだった。
――――痛みも快楽も、同じだった。僕にとっては同じものだった。どちらも少しずつ内側から僕を壊してゆくもの。
世界は静寂に包まれた。全ての生が奪われた。選ばれた者以外、全ての生命がただの背景になって、ただの静止画になった。音すらしない世界。命のない世界。全ての色彩が奪われて、全ての輝きが奪われて、初めて。初めて、解放された。永遠の檻の中から。永遠の苦痛という名の快楽の渦から。
「―――――」
貫かれる痛みも、突き上げられる快感も、もうどちらも自分にとって違いはなかった。自らの上に跨り腰を振る相手が醜い肉の塊に思えるようになった頃、この無限とも思える時に終わりが来た。心が壊れて内側から擦り切れて、ぷつんと糸が切れた瞬間…突然全てから解放された。
「――――音すら、しないのですね…この世界は……」
全てが静だけの世界になって、何もかもが消え去った。綺麗な生も醜い性も全てが消え去って、ぽつりと自分というぬけがらだけが放り出された。
「…クルトナーガ殿…でしたね……」
背後から掛けられた声に振り返れば、そこには頭一つ分低い少年が立っていた。いや、本当は少年ではない。自分の『母親』であるアムリタと同じ血を引く者…自分のような凡庸で平凡な人間とは違う存在。
「そんな言い方はやめてください。僕にとって貴方は甥にあたる方なのですから」
困ったようにはにかむ笑顔はあどけないほどで、ひどく眩しいもののように思えた。自分には持ちえないもの。自分にはもう何処にもないもの。
「――――甥なんて…僕は本当は……」
穢れた入れ物でしかない自分は、何よりも偽物に相応しかった。相応しい…だからこんなに穢たなくて、空っぽなのだから。
「僕はずっと貴方にお逢いしたいと思っていました、ペレアス殿。失意に落ちた姉にとって貴方だけが唯一の支えで光でした。だからお逢いしてずっとお礼を言いたいとそうそう思っていました」
向けられた笑顔はただひたすらに眩しかった。眩しすぎて、ただ。ただ痛かった。壊れて粉々になった心を掻き毟るような痛みが全身を蝕んでゆく。蝕んで、浸食して。
「…僕は…貴方にそんな風に言われる人間じゃない…それでは失礼します」
「あ、ペレアス殿っ!」
耳の奥に残る声を振り切るようにその場を立ち去った。立ち去っても全てが静止したこの世界では、隠れる場所など…何処にもなかった。
逃れられない無数の鎖が僕の身体を切り刻み、僕の心をばらばらにした。何処にも行けなくて、何処にも逃げられなくて、ただひたすらに犯され続けた日々。限界まで広げさせられ、醜い肉棒を捻じ込まれ、穴という穴を穢されて、そして欲望を注がれ続けた身体。醜く汚れた身体。
「…綺麗な…瞳だったな……」
無意識のうちに呟いた言葉に苦笑した。もう感情ですら麻痺してしまっていると思ったのに、綺麗なんて言葉が自分の口から零れた事に。
「…あんな瞳に僕を映したら…穢れてしまう…あんなに綺麗なんだから……」
僕はただの偽物でしかない。本物の『ペレアス』はこんな風にルカンの性欲処理の道具にもならずに、精霊との護符で作った印でもなくて。本物の印を持つ本物の王子様なのだから。僕みたいにこんなにも醜い欲望の匂いが染みついた存在じゃない。
「…あんなにも…綺麗なんだから……」
もう感覚すら麻痺していると思ったのに、何故か身体が寒かった。寒くて耐えられなくてきつく。きつく、自分を抱きしめた。かりそめの熱でも欲しいと願った自分はまだ少しだけ正常でいられているのだろうか?
―――――粉々になった心でも、ばらばらになった身体でも、それでも求めるものがあるとするならば。
気付けば視線がその姿を追っていた。その柔らかい髪と淋しげな瞳を。最初は姉上の子供だからと、姉上の心の支えだからと気に掛けていた筈なのに。それなのに気付けばそんな思いとは別の感情でその姿を追うようになっていた。
――――どうしてそんなに、壊れた瞳をしているの?どうしてそんなに、淋しげなの?
何度も声を掛けようとして、その唇が戸惑って止まった。その纏いつく空気が気易く声をかけることを許してはくれなくて。手を伸ばして触れたら壊れてしまいそうな、そんな儚い危うさがそこに在って。
「……ペレアス…殿……」
本当はあの時少しだけ手が震えていた。さり気なく声を掛けたつもりだったのに、手が震えるのを抑えられなかった。現に今も、今は手じゃなくて瞼が…震えている。
「…僕は…ただ……」
ただ笑顔が見たかっただけだと言ったら貴方はどう思うのだろうか?ひび割れた鏡のような瞳は、僕を捉えてくれるだろうか?
「…ただ…貴方が……」
微笑ったら、きっと。きっと綺麗だろうと思った。何よりも誰よりも綺麗なのだろうと思った。だから、その笑顔が見たいと。見て、みたいと。
「…微笑ったらきっと……」
その先の言葉を声にする前に飲み込んだ。声にしてしまったらひどくもったいないような気がして。この心の奥に芽生えた思いを容易く声にしてしまうのは。この想いを、言葉にしてしまうのは。
けれどもまた心のどこかで思っていた。言葉にして伝えたいと。声に出して告げたいと。そうしたら、その瞳が真っ直ぐに僕を捉えてくれるのかもしれないから。その瞳が僕を映しだしてくれるかもしれないから。そう思ったら、止められなくなった。止められなくて、堪らなくなって、僕は。僕は再びあの人の姿を捜した。
――――壊れた瞳の奥底にただ一粒の光があった。煤けて灰を被っていたけれど、それは確かに光、だった。
手を伸ばしたら届くような気がした。この手を真っ直ぐに伸ばしたら、この手で掴めるような気がしたから。
「あのっペレアス殿っ!」
剥き出しになった壁に凭れかかり、誰もいない部屋にぽつんと一人貴方がいる。ぽつんと独り、貴方が在る。
「…クルトナーガ殿…何か?……」
振り返り見つめる瞳はやっぱりどこか壊れていて、何処か歪んでいて。けれども何処か、何処かその瞳は……。
「さっきはすみません…何か貴方の気に障った事を言ったのではないかと思って……」
「特に気にも障っていません…用がないのなら僕は――――」
「待ってっ!」
気付いた瞬間には咄嗟にその手首を掴んでいた。見かけよりもずっと細いその手首を。それは僕が少しでも力を込めたら折れてしまいそうなほどに細くて。細くて、儚くて。
「…クルトナーガ殿?……」
「僕の言葉が何でもないのなら、目を逸らさないでください…ちゃんと僕を見てくださいっ!」
この手からすり抜けてしまいそうな細い手首。けれども力を込めたら壊れてしまいそうで。でもこうして掴まなければ、何処かへと行ってしまいそうで。
「…どうして?……」
何処にも行かないで。ここにいて。僕のそばにいて。僕の視界の中にいて。僕の場所にいて。僕の……。
「…そんな事を…言うの?……」
今初めて、初めてその瞳が僕を捉えたような気がした。その瞳に僕が映っているような気がした。そこにいる僕はひどく滑稽で、ひどく焦っていて。けれども、ひどく。
「…僕は…ペレアス殿…貴方が……」
ひどく幸福な顔をしていたから。ひどく満たされた顔をしていたから。貴方の瞳に捉えられて、僕は―――
――――けれどもその先の言葉を僕は告げる事が出来なかった。
悲鳴のような声と戦いの音がする。金色の敵が無数に僕たちに向ってくる。静寂は一瞬にして破られて、僕らは再び戦い渦へと巻き込まれてゆく。そして。そして、僕は知ることとなる。知りたくなかった事実を。そして何よりも知りたかった事実を。
―――――自分の足元に転がる醜い肉の塊の口からもたらされた言葉によって……